2013年11月30日土曜日

ヒーローたちが与えるために


 自分の星座の黄金聖闘士が、活躍してくれるとちょっとうれしいと感じます。

黄金聖闘士は本来、全員が正義の味方のはずなので、かっこよく描かれている人物が何人かいるのですが、やはり自分の星座の聖闘士に好感をもつものだと思います。

「聖闘士 星矢」が好きな人同士、自分の星座の黄金聖闘士について言い合いになることもあります。

 

ただ正義の味方ばかりでは物語になりません。12の星座があり、黄金聖闘士も12人いるのですが、全員がかっこよく、全員が正義の味方で、全員が大活躍させたのでは、物語としては面白くなくないような気がします。黄金聖闘士にも、悪役やあまり活躍しない人物がいます。

まして「聖闘士 星矢」の主役は青銅聖闘士です。つまり、黄金聖闘士はあくまでも脇役でした。

悪役や脇役があってこそ、物語は面白くなり、面白い物語が多くの人を引き付けるものだと思います。

 

それでも、自分の星座の聖闘士が悪い奴では、すこしがっかりするものです。

”あまり活躍しないより、いっそのこと悪者としてもっと目立ってくれたほうがいいのに”と思う人もいるかもしれません。

また子供にとっては、”存在感がある悪役”より、”影が薄くてもいいもん”のほうが好ましく感じるかもしれません。

 

それにしても、黄金聖闘士の言い合いでは、悪役や目立たない役どころの星座は、常に劣勢になりやすいと思います。

それはそれで楽しいものだと思います。

それはそれで楽しむべきものだと思います。

 

マンガやアニメ、ドラマ、映画、小説など、自分と同じ名前の登場人物がいると、誰でも気になるものだと思います。

その登場人物が、いい印象を与える役どころなら、ちょっと嬉しいものですし、悪役だった場合、なんとなく嫌な気分になるものです。

 

近年、物語の作り手にもそれが意識されていると感じることがあります。登場人物の名前は、人名としてはめずらしいものが増えているような気がします。

その傾向は強まっているような印象があります。

もしかしたら物語の作り手が、実在の人物の名前にならないように気を使っているのかもしれません。

 

「この物語はフィクションです。登場人物の実在する人物、団体とは一切関わりがありません」

そう書かれていても、『でもやっぱり自分と同じ姓の登場人物が、無差別殺人事件の犯人なのは、嫌だな』と感じることもあると思います。

そう感じた人の中に『ネットでこの作品を叩いてやれ』と考える人がいるかもしれません。

 

そのようなことがおこらないように、人名には使われていない字をあてているのだろうかと、思うことがあります。ただ、様々な物語の作り手がそうすることで、せっかくめずらしい名前にしたのに、他の物語でもその名前が使われていることもあるように見られます。

そうなると、その両方の物語を見たり読んだりした人から、『盗作だ。名前を真似している』といわれることがあるのかもしれません。

そういう人のなかには、『ネットでこの作者を叩いてやれ』と考える人がいるかもしれません。

 

これほど情報が溢れている現代社会では、既存のものと一切重ならない物語を創作することはとても難しいと思います。

それは物語だけでなく、音楽や随筆、評論などでもいえることだと思います。

偶然、似てしまうことも言い訳ではなく、あり得ることだと思います。また意識しないまま、似てしまうこともあると思います。また真似るというのではなく、過去の作品の基本的な設定を取り入れることもあると思います。それは、映画などでよく見られることだと思います。

 

子供は、好きなヒーローで言い合いをすることがあると思います。それがいじめにつながっていくこともあると思います。いじめが始まるきっかけは様々だと思います。

何がきっかけでいじめがはじまるかわかりません。

それは、何でもいじめのきっかけになりうるということだと思います。

世の中にある全ての物事がいじめのきっかけになり得ると思います。

そうなると、やはりいじめをしない心を養うことが大切だと思います。

 

いじめのきっかけにならないように、全員がヒーローの物語をつくっても、それは人の心に沁みないような気がします。

気持ちを動かされる物語は情操を育てるような気がします。

胸踊り、ときに怒りを覚えたり、悲しい気持ちになったりする物語は、心を動かされると思います。

そんな物語には、悪役も脇役もいるものだと思います。
物語に触れて心を動かされることが、子供には大切なような気がします。

2013年11月29日金曜日

中心核を


 デスラーの最期は、とてもかっこいいと感じたものです。

「中心核を撃て」という言葉を残して宇宙に散っていくのです。

その言葉に従って、ヤマトは中心核にむかって波動砲を放ちます。そして白色彗星は破壊された、かと思いきや、それは星型都市の帝国を覆っていた彗星を消滅させただけでした。

 

映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」が公開されたのは、僕が小学生高学年のころでした。

同級生のなかには、今でいう「マニア」のように「宇宙戦艦ヤマト」が好きな生徒が何人かいました。彼らは、初めて「宇宙戦艦ヤマト」が世に出たテレビシリーズからの大ファンだったように思います。

例によって記憶だけで書きますので、勘違いや思い違いがあるかもしれませんが、「宇宙戦艦ヤマト」の映画一作目は、テレビシリーズのいわば総集編だったと思います。

 

記憶が曖昧なのですが、僕はテレビシリーズの放送が始まった当初、「宇宙戦艦ヤマト」はあまり見ていなかったような気がします。

ただ印象に残っている場面がいくつもありますし、見たような気もしますので、人気が出てから見始めたのかもしれません。

テレビシリーズの「宇宙戦艦ヤマト」は、放送が始まってしばらくしてから人気が出たような気がします。はじめは関心がなかったものの、人気が出て同級生の間で話題になってから、僕も見るようになったということです。

 

また、もしかしたら本放送は見ていないかもしれません。

見覚えがあるのは、再放送や映画版一作目がテレビ放送されたときに見た可能性もあります。

それでも僕は「宇宙戦艦ヤマト」が大好きだった時期があります。ヤマトとデスラー艦のプラモデルを持っていて、空想のなかで映画の場面を再現させたり、その二隻を戦わせたりして楽しんでいた覚えがあります。

 

こうして思い出していると、あのプラモデルは、「さらば宇宙戦艦ヤマト」を観た後で購入したような気がします。

テレビシリーズはあまり見ていなかったのですが、映画二作目の「さらば宇宙戦艦ヤマト」は劇場で見ました。そこでヤマトが大好きになったように思います。

そうなると、もしかしたらこの映画を観た後で、一作目のテレビシリーズの再放送を見たのかもしれません。

 

つまり、生粋というか熱烈な”ヤマトファン”とはいえないと思います。そのため、映画二作目以降の作品には、あまり関心が高まらなかったのかもしれません。

ただ当時は、本当に心からヤマトが大好きでした。また、僕と似たような感じの”ヤマト好き”の子が何人もいたような気がします。

つまり、映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」によって、”ヤマト”に引き付けられた子供たちです。

 

思い起こしてみると、ほとんどの同級生が”ヤマト”を好きだったような気がします。”好き”の度合いに個人差があったと思いますが、”ヤマト”に対して批判的な声を聞いた記憶がないのです。

それは映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」が多くの子供たち、また多くの若者たちの心をつかんだといえるような気がします。

 

あの作品で印象深かったのは、強大な敵である白色彗星でした。そこで冒頭に書いたのですが、これを思い出したきっかけは、アイソン彗星です。

数日前から、アイソン彗星に関する話題を見聞きしています。

そこでふと、”「彗星といえば?」そう問いかけられたとき、自分だったらなにを思い浮かべるだろう”そんなことを思いました。

そして、それをアイソン彗星について書くときの、導入部に取り入れようと思ったのです。

 

思い浮かんだのは、「白色彗星」「中心核を撃て」「ペガサス流星拳」「ほうき星」「ハレー彗星」などの言葉です。

こうして書き表してみると、我ながら『見るからに発想力が乏しい』と感じてしまいます。数も少ないですし、なんとも浅はかというか、深みもひねりも知識もないという印象を受けます。

それにしても、主題はアイソン彗星ですので、簡単に触れるつもりで「白色彗星帝国」について書きはじめました。

ところがこんなに長くなってしまいました。

 

それでもアイソン彗星について、少しでも触れておこうと思い、一応インターネットで検索してみました。数日前から話題になっていますので、記憶違いや勘違いがあると恥ずかしいと思ったからです。

すると複数のサイトで、太陽に近づいて消滅したようだと書かれていました。

2013年11月28日木曜日

使うためのもの、持っているためのもの



 日本は、人類史上最初にして今のところ最後であり、今のところ唯一の核攻撃を実戦で受けた国です。この国に暮す人の多くは、核兵器の恐ろしさと非人道性が心の深い部分に沁みこんでいると感じます。
”核兵器は非常に強力な破壊力をもつ、恐ろしい兵器である”
世界中で持たれている認識だと思います。
ただ、それが現代において、あるいは未来において、軍事的に有効な兵器かと考えると、決してそうだとはいえないような気がします。

核兵器は”もっていること”それ自体が脅しになるといわれています。つまり使うための兵器ではなく、保有することに意味があるという考え方になると思います。
世界は、いくつもの国が核兵器をもつことで、互いに脅しあうような形がつくられたように見られます。
核兵器を持っていない国は、核保有国と同盟を結んでいて、”核の抑止力”に組み込まれているという感があります。

牽制しあう図式が出来ている世界で、新たに核兵器をもつことにどれだけ意味があるのか考えてみると、政治的にも軍事的にも利点は大きくないような気がします。
核兵器を持とうとすることは、外交上制裁を与える大義名分になると思います。経済活動における制裁が多いように見られますが、それは国民生活に小さからぬ影響を与えることもあるように見られます。
それに国の財政にも打撃になると思います。

そんななかで、お金と人と時間をつぎ込んで核兵器をもつことが出来ても、それを軍事的に使うことは出来ないと思います。
核兵器を実戦で使うことは、相手国やその同盟国に核攻撃をさせる大義名分を与えることになるという見方が出来ると思います。
先に使ったほうが非難は大きいと思います。

では政治的に脅しに使えるかというと、使えないことはないと思いますが、すでに牽制しあう図式が出来上がっている世界では、それほど強い手札にならないような気がします。

核兵器を先に使うことは、より大きな核攻撃を受ける理由を生み出すことになるといえるかもしれません。
それでは、『うちらだって核兵器をもってんだぜ。使ってやろうか』といっても、脅しにはならないような気がします。

それでも核兵器を持ちたがる者は、”核の脅威”がある種の先入観になっているような気がします。それはまるで信仰のように感じることがあります。
軍事的、政治的有用性を冷静に吟味されていないような感があります。

軍事的は俗にいう”ハイテク化”のほうが、新たに核をもつよりもずっと有効であるかもしれません。
何をどのように攻撃したのかは問題があると思いますが、それはともかく無人攻撃機が実戦投入された様子を見聞きして、あわてて開発を急いでいる国もあるのではないかと思います。
しかし軍備のハイテク化には相当なお金がかかるものだと聞きます。軍事大国も、高性能の戦闘機はあまりもお金がかかるため、作られないようなことがあるようです。

そんななか核兵器を開発することにお金と人と時間をつぎ込んでいると、”ハイテク化”を遅らせるかもしれません。
大義ある経済制裁を受けている中で、核兵器を持とうとしているのですから、お金のかかるハイテク化は後回しにせざるを得ないと思います。
また、核兵器を持ちたがっている人は、核兵器の軍備としての有効性を強く信じているのですから、ハイテク化に対する意識が高まりにくいという傾向があるかもしれません。
核兵器を持ちたがることで、軍事力は強まらないといえるかもしれません。

ただ自滅を前提として核兵器を使ってしまうようなことがあると、牽制しあう図式の意味がないと思います。
テロには”核の抑止力”が意味をなさないということです。
テロリストの手に核兵器が渡ってしまうことは、現代における”核の脅威”といえるかもしれません。
また、自暴自棄に陥った独裁者が、世界を道連れにしようなどと考えて核兵器を使おうとするかもしれません。

そう考えると、この世界に核兵器は増えないようにするべきだと思います。
また核兵器が厳重に管理されなければならないのですから、それに不安がある国には核兵器を持たせないように、国際社会は手を尽くす必要があると思います。

ただ現状で国によっては、決して核兵器を持たせないようにしつつ、核兵器を持ちたがらせておくことで、むしろ軍事力が高まらないこともあるかもしれませんので、そのような交渉のすすめかたもあるような気がします。

2013年11月26日火曜日

民主主義は独裁者を生み出すことがある



 しかし民主主義で独裁者を滅ぼすことは難しいと思います。
そうなると肝心なことは、民主主義によって独裁者を生みだしてしまわないことだと思います。
そして、民主主義の力で独裁者が生まれることを防ぐことだと思います。

一言に独裁者といっても、それぞれだと思います。
有史以来この世界には、「独裁者」と呼ばれていた人物、「独裁者」と呼ばれている人物、「独裁者」だと目されている人物が何人もいると思います。
その人たちの主張や言動、権力につくまでの過程などは、その人物によってそれぞれだと思うのです。

また、一般の人が「独裁者」という言葉を聞いて思い浮かべる人物も、人それぞれだと思います。
「独裁者」という言葉の受け止め方も人それぞれだと思います。
それにしても、独裁者とされる人物に対しても、「独裁者」という言葉に対しても、あまりいい印象を持っていない人のほうが圧倒的に多いと感じられます。
ただ、独裁者に対して好意的な考えを耳にすることもあります。国の統治のあり方として、独裁的なやり方を肯定的に捉えている主張を聞くこともあります。

独裁者が生まれる過程に、まず軍事力など目に見える”力”を得て、それを使って人びとを抑えつけることで独裁者になった人物もいると思います。
はじめから力で抑えつけるやり方といえるかもしれません。

それに対して、まず権威を得るやり方もあるように思います。
民主主義は、多くの人から支持を得られれば、権威ある地位につくことが出来る仕組みだといえるかもしれません。
そうして手にした権威を存分に振りかざすことで、より権力を強め、いずれ誰も逆らえないような状況を作りだし、独裁者が生まれるというやり方があると思います。
大勢の人から賛同され、多くの支持を受け、権威を手にし、権力を強め、独裁者になっていく、それは民主主義によって独裁者が生まれるといえるかもしれません。

その場合、当初はその人物の主張に賛同し、その人物を支持した多くの人たちも、後にその独裁者に苦しめられることもあるような気がします。
しかしどのような形であれ独裁者が生まれてしまうと、民主主義によってその人物を権力の座から降ろすことは難しいものだと思います。

そのように考えると、民主主義の仕組みにおける大きすぎる支持や、多すぎる賛同は、国にとって”よくない”ことになる可能性を潜めているといえるかもしれません。

それは、歴史のなかのことでも、外国のことでもないような気がします。そう遠くない過去、また近年のこの国にも、思い起こされることがあるような気がします。
「独裁者」は生まれなかったとしても、80%をこえる内閣支持率は、国として”異常だ”といえるかもしれません。
人間社会は多様であり、そこに対立があるものだと思います。8割の人が同じ考えに賛同することは、不自然だと感じられます。

そんな不自然な状況を作り出したのは、雰囲気だったように感じられます。
その雰囲気が広まった理由は、一人の人物の存在感によるものだと思います。
そうなると、それはある意味”非常に危険だった”といえるかもしれません。
見方によれば、「独裁的だった」といえるかもしれません。

そして近年、また少し違った流れで、少し違った雰囲気であるものの、少しきな臭い空気が漂っているような感があります。
多くの人が議会に失望し、その結果強い一人の人物が表われることを望んだ、無自覚の人もいるかもしれませんが、そんな匂いを感じることがあります。

民主的なやり方である議会では、身勝手な争いが繰り広げられるだけで意思決定が出来なくなっている、それは世界的な傾向といえるかもしれません。
そこで”強いリーダーシップ”をもつ人物を求める心理が芽生え、それがどんどん大きくなったような印象があります。

そこに自分が”強さ”をもつことを好む人物が前面に出てきたので、多くの人たちはその人物を好ましく感じ、そしてさらに持ち上げようとし、そしてその人物に”ケチ”がつかないようにしていると感じられるときがあります。
大衆は誰でもよかったのかもしれません。”強いリーダーシップを連想させられること”、それ自体を求めていたのかもしれません。
「強さ」という言葉やイメージは「力」に結びつくものだと思います。
”強い力”を志向する人物は、自分でいうほど冷静ではない傾向が見られるような気がします。
そのような傾向が見られる一人の人物に、民主主義によって権力を与えることは、国としてあまり芳しいことでなかったと、現在が歴史になったころに言われるかもしれません。

2013年11月25日月曜日

世襲議員は民主的に生まれるもの



 日本の議員は選挙で選ばれます。世襲議員も有権者が選んでいるということになると思います。
ただ選挙は、必ずしも積極的に支持している候補者に投票するわけではないと思います。『他によさそうな人がいない』とか『世襲には反対だけど、政策には賛同できるから』という理由で票を投じることもあると思います。
それに、世襲であっても落選することもあるように見られます。

ただ現時点で世襲議員が大勢いるということは確かだと思います。
政治家の子供や孫や親類などは、立候補することが多いのだと思います。
また、政治家の子供や孫や親類などは、当選しやすいのだと思います。

立候補する人が大勢でいて、当選しやすいのですから、世襲議員は増える一方だと考えられます。
いずれ、ほとんどの政治家が世襲になることも十分にあり得ると思います。
いずれこの首相は、元総理大臣の子供や孫や甥や姪が就くことが慣例になるかもしれません。
揶揄ではなく、現実としてあり得ると思います。

では、それは国にとって”いいことなのか”それとも”よくないこと”なのか考えなければならないと思います。
ここでは何回が書いていますが、個人的な考えですと、”よくないこと”だと思います。
資質や能力ではなく、家柄や血筋で政治家が選ばれるのですから、政治家全体として資質や能力が低下することが考えられます。
近年、政治家の質が低下していると、強く感じられることがあるような気がします。

政治家の子供や孫や甥や姪が、必ずしも資質や能力が低いとは限らないと思います。しかしその人たちが議席を占めてしまうことで、政治家と家柄や血筋の繋がりがないものの、高い志と見識と知性と道徳心と公共心と洞察力と判断力と行動力を具えた人物は政治家になりにくいと思います。

それでも政治家の子供や血縁者に票が集まるものだと感じられます。
それは親の知名度が高いことや、地盤を引き継がせたいという地元有権者の思惑があることが理由の一つだと思います。
また、親の秘書などを務めることで政治に関わっている政治家の子供も多く、それは立候補する理由の一つになるような気がします。
政治に関わる仕事をしていることで、政治に関わる人間とのつながりも親から引き継いだり、自分で築いたりしていることが、選挙では有利に働くこともあると思います。

そして政治家は金をたくさん持っていることもあると思います。
そして政治家は金をたくさん集められるということがあると思います。
それはどんなにきれいごとをいってもなくならないと思いますし、なくなれば日本がすばらしい国になるかというと、必ずしもそうだとは言い切れないと思います。
そのためか多くの人たちが、『政治家は金持ちだ。そして政治家には金が集まる。そういうものだ』という印象をもち、それを受け入れているように感じられます。

ではなぜ政治家には金が集まるのか考えてみます。一般的な見方をすれば、金を出す人がいるからだと思います。
ではなぜその人は金を出すのか考えてみます。一般的な見方をすれば、出した金より多くの金が入ってくると見込んでいるからだと思います。
ではなぜそれが連綿と続いているのか考えて見ます。一般的な見方をすれば、思惑どおりに金を得られているからだと思います。

そうなると政治家は、政治家を”家業”のようにして、代々受け継いでいこうとすると思います。
また政治家に金を出している人たちは、その政治家が引退してもその”政治家の家”が引き継いで欲しいと考えるものだと思います。
そうすれば、これからも政治家に出した金より、多くの見返りがあると期待されるものだと思います。

それは、”オイシイ思い”をする人たちは、代替わりを続けてずっと”オイシイ思い”をし続けるといえるかもしれません。
世襲議員が増えるということは、限られた人たちが”オイシイ思い”をする傾向を強めるといえるかもしれません。
それが国にとって”いいこと”なのか、”よくないこと”なのか考えると、どうしても”いいこと”だとは思われないのです。

次の国政選挙まで時間があると思われます。その間に、世襲議員が増えることが国にとって”いいこと”なのか”よくないこと”なのか、よく考えるべきだと思います。
そして次の選挙でその考えを示すべきだと思います。
世襲議員は民主的に増えることもあれば、民主的に減ることもあると思います。

2013年11月24日日曜日

大金を出すからには



 会社は懸命に儲けようとするものだと思います。儲けを増やすために会社は存在しているといえるかもしれません。

資本主義経済において、企業の存在意義は利潤の追求にあると、社会の授業で習ったような気がします。
『儲かる』ということは、『お金がたくさん入ってくることだ』といえるような気がします。
会社がやることは、すべからくお金が入ってくるためだといえるかもしれません。
でもだからといって、会社がお金を出さないわけではないと思います。会社が商売をしている場合、売り物を仕入れるために代金を払います。
何かを作っている会社は、材料や機械を買うためにお金を払います。
それに働く人に給料を払います。

そのように会社はお金を払うのですが、それは儲けを得るためだと思います。
つまり、そのお金を払うことで、より多くのお金が入ってくることを狙っているのだと思います。
ただ、必ずしもその思惑通りにいかないこともあると思います。儲かるだろうと思ってお金を使ったのに損をしたこともあると思います。
よりたくさんのお金が入ってくるはずだと考えてお金を使ったのに、少しのお金しか入ってこないこともあると思います。

それにしても会社がお金を出す理由は、より多くのお金が入ってくることを求めているものだと思います。
寄付や慈善活動など、儲けと直接かかわらないことでもお金を出すこともあると思いますが、多くの場合、それが企業の印象をよくして儲けに繋がるという考えがあるような気がします。

会社ではなく個人では、無償の善意で寄付することもあると思います。また、色々なものを買って、それを食べたり使ったりすると思います。
そのお金は、より多くのお金が入ってくるために出すわけではないと思います。

そのような慈善活動や消費活動とは別の事柄でお金を出す場合、より多くのお金が入ってくることを狙っていることもあると思います。
また組織と個人が曖昧にされている場合もあるような気がします。
そして、出すお金が大きいほど、より多くのお金が入ってくるという算段があるものだと感じられます。

少しのお金なら払うだけでなにも見返りがなくても、あまり困らないと思いますし、あまり惜しいとは感じないような気がします。
それが大きなお金となると、払うだけで何も見返りがないのでは、多くの人は大金を出さないと思います。
大きな善意を持っている人でも、全財産を寄付する人は相当に稀だと思います。さらに借金をして他者を助ける人は本当に少ないと思います。

大きなお金を払うときほど、それよりも大きなお金が入ってくることを求めているものだと思います。
より大きなお金が入ってくるはずだと踏んだからこそ、非常に多くのお金を出すのではないかと思います。

選挙に立候補することは、会社の活動とは違うものだと思います。
つまり、儲けを追求することに繋がる活動でなないということです。
しかし随分昔からずっと、「選挙は金がかかる」という言葉を耳にします。
今の選挙制度に変えたとき、『金がかからないようにする』ことも理由の一つとしてあげられていたような気がします。

実際、かつての選挙制度に比べて今の制度は金がかかっていないのかわかりません。
ただ、『選挙は金がかかるものだ』それは当たり前のことだという観念は、今も昔も多くの人にあるような気がします。
現実が、そうとしか見られないからかもしれません。
”高い志と見識と知性と理性をもち、道徳心や公共心が強く、慈悲深く、温厚でありながら冷静である人物でも、金を集めることが出来なければ政治家にはなれない”
多くの国民はそれが当たり前のことだと受け止めていると感じます。
金を集めるということは、金を出す者がいるということだと思います。
多くの金を出すときほど、それ以上の金が入っているという腹積もりがあることが多いと思います。

政治家になるために莫大な金が使われたなら、政治家になれば、より多くの金が入ってくるのだろうと考えるのが、当たり前の見方だと思います。
政治家にさせるために莫大な金を出したのなら、その人物が政治家になれば、より多くの金が入ってくるのだろうと考えるのは、当たり前の見方だと思います。

2013年11月23日土曜日

やっぱりかっこいい



 先日ひさしぶりに「仮面ライダー」を見ました。本郷猛が変身する一号ライダーが活躍するテレビシリーズです。
再放送をVHSビデオに録画したものを見たのです。当時もCMも録画されていて、それによると1986年12月に放送されたものだと思われます。

僕はそのころ家庭用ビデオデッキをもっていませんでした。このビデオは友人が録画したものを、随分前に貰い受けたのです。
本人は保存するつもりで録画したのではく、平日の夕方など留守にしている時間帯に放送されていたために、それを見るために録っていたそうです。
そのため、全ての話数が録画されているわけではありませんし、同じテープに他のテレビ番組も録画されています。
ただ別のテレビ番組やCMにも、なつかしさを感じられます。

先日そのビデオをひさしぶりに見たのです。
すると、なつかしさを感じるとともに、”かっこいい”と本心から思いました。
そうして思い起こしてみると、「仮面ライダー」や「ウルトラマン」などヒーローものを見るときの感じ方は、それを見たときの年齢や時代によって随分違うような気がしてきます。

見方というか、”どのような意識を持って見ているか”ということが、見たときによって違っていると感じます。
思い起こしてみると、今までに何度となく、初代「仮面ライダー」など子供のころ夢中になったヒーローものの再放送を見ています。今回のようにビデオで見ることもあります。
また近年では、インターネットテレビで配信しているものを見ることもあります。
その時々によって”見方”が違うと思うのです。

本放送で「仮面ライダー」が始まったのは、僕が稚園児の時でした。そのころから小学生低学年のころまでは、本当に素直に”カッコイイ”と思っていました。
カッコイイヒーローを見たいと本心から思っていました。それをなんの抵抗感なく、周囲の子供や大人たちに話していたと思います。

それが小学生高学年になると、少し違ってきたと思います。今は大人や若者でも”ヒーローもの”見ている人が少なくないと聞きます。そのため、見ていると他者に話すことに抵抗感がないというか、ある意味堂々と見られるような印象があります。
しかし僕が小学生高学年のころは、『ヒーローものは幼い子供がみるものだ』という観念が、社会全体にあったような気がします。
つまり『小学生でも5.6年生がみるものではない』という雰囲気があったような感があるのです。

そのため、本音をいえばヒーローものを見たいのですが、少し斜に構えていたことが思い出されます。
『なんでわざわざ子供を誘拐するんだよ』
『ダムに毒を流してやるって、いちいち説明するからライダーに邪魔されるんじゃないか』
『はじめからライダーキックをすればいいのに。そうすれば簡単にけりがつくってのにさ』
『本当に、子供向けだよな』

そんなことを言いながら、『別に見たいわけじゃないよ。ただあんまりにも、子供っぽくって笑えるから見ているだ』といった体で見ていたのです。
高学年が見るものではないという雰囲気があるため、周囲に対してそんな風に装っていたのだと思います。そして時に、自分自身に対する言い訳だったこともあったと思います。
ただ全面的に装っているわけでなく、少しは『こどもっぽい』と小馬鹿にしていました。
しかし、本心の大部分は楽しんでいました。

それが高校生から若い社会人になったころ、初代「仮面ライダー」などの再放送の見方が変わっていたように思います。
とにかく、なつかしさばかりを強く感じていたような気がします。
つまり、なつかしがるばかりで、物語やヒーローたちの活躍ぶりに意識を向けていなかったように思われます。

今振り返ると、”なつかしい”と感じたかったのだろうと思います。
つまり、”なつかさ”に触れることを主な目的として見ていたということです。はじめから物語の内容を楽しもうという意識は薄かった、あるいはそんな意識はなかったような気がします。

それが先日、ひさしぶりに「仮面ライダー」をみて、ライダーの活躍ぶりに胸が躍りました。
そういうと少し大袈裟ですが、気がつくと物語を楽しんでいて、ライダーを本心から”かっこいい”と感じたのでした。

2013年11月22日金曜日

いつごろだろう



 かつて、好きな映画は記憶に留めようとしていました。
まだ家庭用ビデオが世の中になかったころ、好きな映画を好きな時に見ることは出来ませんでした。
今でも時々耳にしますが、気に入った映画を何回も観るために、何回も映画館に足を運んだという話を聞くことがあります。
僕は同じ作品を何度も観たことはないのですが、「名画祭」などと銘打って名作映画が上映されると、同じような企画で観た作品を複数回鑑賞することはあります。

また、気に入った作品はパンフレットやサウンドトラックを購入していました。
パンフレットを眺めながら音楽を聴くことで、記憶に焼き付けた場面を思い返していたのです。
そうしていると、その映画をさらに好きになるような気がします。作品に対する思い入れが強くなるといえるかもしれません。

そのように好きな場面を思いかえすことも、映画の楽しみ方の一つだと思います。家庭用ビデオやDVDなどで、作品そのものを見ることとは違った”楽しさ”があると思います。
劇場で観るしかなかった映画ならではの楽しみ方といえるかもしれません。それもまた格別だと思います。

ただ、映画を形にして手元におきたいという思いは常にありました。パンフレットやサウンドトラックを買ったのは、記憶を呼び起こす道具としてというだけでなく、劇場でしか観られない映画を形あるものにして持ち続けたいという欲求があったのだと思います。

そんな映画を、劇場以外で見られるのがテレビ放送でした。ただやはり、家庭用ビデオやDVDなどと違って、テレビ局が放送してくれなければ見られません。
そのため、かねてから見たかった名画が放送されると、とても嬉しかったものです。
民放ではCMが入りますし、放送時間に合わせてカットされる場面がありますし、大抵は吹き替えですが、それほど嫌だとは思いませんでした。
”ノーカット、字幕”のほうが嬉しいと思っていましたが、見られるだけで喜んでいたように思います。

それから家庭用ビデオデッキが世の中に普及すると、映画を見ることが急速に手軽になった感があります。
販売用ビデオは高額で手が届きませんでしたが、その代わりといってはなんですが、レンタルビデオ店があちらこちらに見られました。
僕も利用しましたし、閉店するときにビデオを譲ってもらったことがあります。
また、ビデオデッキを購入してからは、テレビ放送された映画を録画しました。
販売用ビデオは高くてなかなか買えなかったため、テレビ放送を録画して映画を手元に残しておきたかったのです。
特別にノーカットで放送され、通常の放送時間より長くなっているときは、CMになるたびに録画を止めたり、途中まで3倍モードで録画したりしたものです。
実際それは今でも残っています。
そして、今でも時々見ることがあります。

そうするとそのCMにも時代を感じることがあります。思わず「なつかしい」と声に出してしまうこともあります。
そして『あの頃は、このCMが流れていたんだな』と思うのです。
しかし、その”あの頃”がいつなのか、多くの場合よくわかりません。何年も前のことだということは確かなのですが、では何年前かと考えても思い出せないことがよくあるのです。

イベントの告知CMなども録画されているのですが、月日は大きく示されているものの、大抵は何年なのかは表されていません。
ただ、時々大手メーカーの商品のCMを見て『そういえばこのカップ麺、あの頃よく食べてたな。そうなると、大体20年くらい前のCMかな』という感じで年代がわかることもあります。
しかし多くの場合、『このカップ麺よく食べていたけど、いつごろだっけ?』と考えてしまうのです。

そのように昔録画したテレビ放送のCMからでは、年代はわからないことが多いのですが、年末年始に録画したものは、それが明白です。
新年の挨拶のCMが立て続けに流れる正月は、干支と何年なのか大きく表されているものばかりです。
また年末年始でなくても、12月になると翌年のイベントを告知するCMがあります。それには年月日が明示されています。

なつかしいCMを見ながら『いつごろだっけ?』と考えることが多いため、このように年月日が明確にわかると、なにか妙にスッキリした気分になります。  

2013年11月21日木曜日

スクリーンと字幕



”映画は大きなスクリーンで観たほうがいい”
確かにそうだと思います。テレビやパソコンの画面で見るよりも、大きなスクリーンで観たほうが作品のもつ本来の魅力を、より堪能できるような気がします。
また作品によっては、スクリーンの大きさや映画館の音響による効果を存分に利用した表現法がとられていることもあります。

近年の3D映画はその一つだと思いますが、昔の名画の中にも、画面の大きさを生かした演出が見られる作品があります。
もしかしたら、昔の方がスクリーンの大きさを意識して表現されることが多かったかもしれません。
最近、映画はすぐにDVDやブルーレイディスクになって、テレビ画面の大きさで見ることが増えていると思います。そうなると、映画を作る段階で、それが考慮されることもあるかもしれません。

やはり映画は映画館で観たほうが楽しめると思っています。
ただテレビで映画を見ることも好きです。何度か書いていますが、テレビ放送された映画を見たことで、映画が好きになったからです。
だから、映画は映画館で観たほうが堪能できると思いながらも、テレビの画面の大きさで見ることにもあまり抵抗感がないのです。
映画館で映画を観ることも好きですし、テレビで放送される映画をみることも好きなのです。

また、基本的に洋画は字幕で見たいと思っています。
言葉の意味はわからなくても、演じる俳優の声質や抑揚のつけ方などから感じ得るものがあるはずだと思っているのです。
以前、映画館で上映される洋画のほとんどが”字幕版”だったと思います。”吹き替え版”は、子供向けの作品で時々見られた程度だったような気がします。
近年は、”字幕版”と”吹き替え版”の両方が上映される作品が増えているようです。

僕は日本語しか話せませんし、洋画の台詞を聞き取ることなど全く出来ません。それでも洋画は字幕で見たいのは、”出来るだけ作られたままの状態で見たい”という意識があるからです。
吹き替えは、日本で手が加えられているという印象を受けるものです。字幕をつけることも、あとから手が加えてられているのですが、それを出来るだけ最小限にしていると感じられます。

しかし、「ラストエンペラー」を劇場で観たときは、字幕を読むことが大変でした。主人公の氏名が「愛新覚羅溥儀」ですし、他にも地名や人物、歴史に残る出来事の呼び方など漢字が多かったように思います。しかも難しい漢字もありましたし、字幕の文字数も多めだったような気がします。
そのため目線は字幕を追っている時間が長く、またそこに書かれていることを理解しようと頭を働かせていたように思います。それでは、映画そのものを感じることに脳が動因されにくいような気がします。

そうはいうものの、漢字ではなくカタカナやひらがなで字幕が書かれていたとしても、それはそれで読みにくかったと思います。また、字幕にふりがなをつけても、読みにくい場合があると思います。「ラストエンペラー」のような作品では、場面によってふりがなだらけになってしまうかもしれません。
この作品は漢字の多い字幕にならざるを得ないと思います。

以前書いたことがありますが、この作品がテレビ放送されたときは吹き替えでした。
それを見たとき、『この作品は吹き替えの方が堪能できる』と思ったものです。
なんとなく”映画通なら、外国映画は字幕で観るべきだ”という観念があったのですが、少し肩の力をぬいていいような気がしたのです。
字幕を一生懸命読まなければならず、そのために映画に集中出来ないようなら、吹き替えのほうが映画の世界に導入しやすいこともあると思いました。

考えてみれば、以前映画がテレビ放送されるのは吹き替えが多かったものです。
今では字幕と吹き替えを選べるようですが、かつては吹き替えが当たり前だったと思います。そのため「世界名画劇場」のように、「ノーカット。字幕」で放送されると、なんだかとても、ありがたく感じたものです。

僕が映画を好きになったきっかけは、テレビ放送をみたことからです。その多くは吹き替えでした。
今でも、出来るだけ洋画が字幕で観たいと思っていますが、作品によってはそれがある種のやせ我慢というか、映画通を気取るために無理していると感じています。
肩肘張らず作品によっては吹き替え版を見ようかと思いながら、英語が話せるならこんな葛藤も少ないのだろうに、という考えが湧いてきます。