2013年12月31日火曜日

どうやって決めるか



 民主主義の原則は多数決だといえるような気がします。
国という大きな集まりでは、多数決によって代表者を決め、その代表者による多数決で決める仕組みが取られているのだと思います。

代表者があまり少なくては、国民の意見をくみ上げて政治に反映させることが難しいと思います。そうなるとある程度の人数の代表者が必要だと思います。
ある程度の人数の代表者がいるとなると、全員が主張し、議論していたのでは、時間もかかりますし、なかなか話がまとまらないと思います。
そこで代表者同士で集団を作ることになると思います。

考え方が近い代表者がまとまって集団を作ることで、主張の方向性をまとめることになると思います。
議会は集団と集団の話し合いという形になると思います。話し合って最終的に多数決で決定するのだと思います。
そうなると、人数の多い集団の主張が通りやすいと思います。
一つの政党が圧倒的な議席数をもっている議会は、民主主義国家の政治としてあまり好ましい状態ではないと思います。
多数決では、その政党の主張がすべて通ることになると思います。それでは議会の意味が薄れてしまうような気がします。

そうはいうものの、民主的な選挙で一つの政党が議席を獲得したことは確かだと思います。
それにしても、選挙の時点ですべての政策を訴えていたわけではないと思います。選挙に不利になりそうなことは言いませんし、選挙のときとは情勢が変わり、主張が変わることもあると思います。
そうなると選挙結果はなにをしてもいいという”国民のお墨付き”ではないと思います。
年末年始で報道番組が目立たない時期です。また、今の経済の動きについては言いたいことが多々あるものの、景気は心理が大きく関わるため、口にすることを控えている人や、懸念を表すことを抑えている人もいるのではないかと思います。ただ、情報が溢れる現代では、数字は一瞬で大きく動くこともあると思います。

また二大政党制は、多様化し続ける現代社会に対応しきれなくなっていると感じます。大国では内政の混乱が、外的な存在感を低下させる要因になっていると見えることがあります。
この国でも国内の政治がごたごたして、外に関することに、時間と労力と神経を割くことが出来ず、存在感を一気に弱めた時期があったような気がします。
この国は20年たっても二大政党制が根付かなかったのですから、複雑になる一方の社会では、さらに適さないような気がします。

そんななか、今の政治にはやらなければならないことが多いと思います。
選挙制度改革と議員定数削減はその一つだと思います。
議員の数が勢力争いの道具となり、多数の新人が当選し、次の選挙でみな落ちるようなことが繰り返されるようでは、議員の数は減らしたほうがいいような気がします。
制度改革とは別々に取り組んでもいいと思いますが、どちらも難しいことですので、別々に取り組んでも、相当な手間と時間が掛かるような気がします。

すでに切羽詰ってきているような印象があります。
そうなると、ひっくるめて考えて、大きな改革として進めたほうがいいような気がします。小さな改革でも決めるのが大変なのですから、大きな改革をするとなると、急いで、また本気で取り掛からなければならないと思います。

選挙制度を大きく変えることは、国会のあり方を変えるかもしれませんので、非常に難しいことだと思います。そのような非常に難しいことを考えられる力をもつ政治家は多くないように感じられます。考えられる力ばかりが政治家に求められる資質ではないと思いますので、それ自体は仕方ないというかある程度は認めるべきだと思いますが、政治家だけではいくら話し合って、どれほど考えても、なかなかいい案は出ないのではないかと思います。
そのうえ、政治家にとって選挙制度は自身の有利不利に関わってきます。当然誰もが自分に有利になるような主張をすると思います。それでは、永遠に話がまとまることはないと思います。

選挙制度改革は、政治家ではない人たちによる知恵の出し合いが必要だと思います。
その人たちにも、利害や主張や持論があるでしょうし、決定するのは国会だと思います。
ただ、決めることが難しいとわかりきっているのですから、ではどうやって決めればいいのかを考えて取り組むべきだという気がします。
何もしていないようにいわれるのは、何もしていないように見えるからだと思います。何もしていないように見えるのは、何もしていないのと同じだといえる事柄があると思います。

2013年12月30日月曜日

一大政党制



「非自民」という言葉を頻繁に耳にするようになったのは、二十年ほど前だったようです。
長い間、大きな一つの政党が政権につくことが当たりまえのようになっていた感があります。
それに対する反撥や批判が強まってきたのだと思います。
一つの大きな政党に対抗するには、それ以外のいくつかの政治勢力が手を組むことが必要だったように思います。
そこで「非自民」、つまり”自民党ではない”複数の政治勢力が集まったのだったと思います。

国会に拮抗する二つの大きな政治勢力がある状態を「二大政党制」ということがあります。勢力が拮抗しているのですから、政権が変わることもあると思います。
そうなるとその大きな二つの政党は、お互いに国民から支持を得ようとするため、国の政治がよくなるという考えがあるのだと思います。

世界の中には、長い間「二大政党制」を実践している国があると聞きます。
日本もそれに倣うべきだと考える人もいるのだと思います。
今の国会は、一つの大きな政党が政権の中心になっていると見られます。その前に政権交代があったものの、それによってこの国の政治がよくなったと感じている国民は少ない印象があります。

20年も前に「非自民」という言葉が聞かれるようになったのに、実効的な二大政党制にならないということとは、二大政党制がこの国に適していないという証だと感じます。
そうこうしているうちに社会も変わっていると思います。20年も経てば変わるのは当たり前だと思います。20年前よりは、ずっと複雑になっていると感じます。小さな声も影響をもつようになり、社会は非常に多様化していると感じます。

二大政党制が根付いている国でも、それでは対応しきれなくなっていると感じるときがあります。
まして20年たっても二大政党制が根付かなかった国が、これから二大政党制を目指しても、これからの社会に適した政治体制にはならないような気がします。
それでも「二大政党制」にしがみついているのは、他の政治体制を構築することが難しく、実効的な体制を考えられないからかもしれません。

ここでは何回か書いていますが、多様化し複雑する一方の社会では、対立軸も、その構造も一対一にするには無理があると思います。
そうなると、勢力が近しい複数の政党による議会運営が必要だと思います。しかし実効的な多党制となると、制度によって作り出すことは難しいと思います。政治家から利害や権力欲などを廃することが出来ないことはその理由の一つだと思います。

しかし制度によらず、多党制的な議会運営になるような状態もありうると思います。
個人的に少しまえにそうなることを期待したことがありました。
前回の衆院選では、当時の与党が惨敗することは、多くの人が簡単に予想できたと思います。それは選挙が早まろうが、任期ぎりぎりまで遅らせようが、大して変わらなかったと思います。
ただ当時の与党に入れたくない票が流れる政党がなかったように感じます。一時「第三極」がもてはやされましたが、選挙が近づくほどに存在感を弱めたような気がします。
また、当時最大野党のリーダーの交代は、その政党の存在感を高めることになったと感じます。

そのリーダー交代の何ヶ月かまえから、「第三極」の圧倒的な勝利はまずなくなったような気がしました。当時与党の惨敗はまず間違いないと感じましたが、いくらなんでも議席一桁まで落ちることはないような気がしました。
そうなると衆院選は出来るだけ先に延ばし、「第三極」なる勢力が2~3党つくられ、それぞれに支持率を高められてから選挙を行えば、勢力の近しい3~4つの政党が出来るのではないかと思いました。

今の選挙制度は、どちらかを選ぶような選挙になると、片方に寄った結果になりやすいと思います。しかし、複数の勢力が拮抗していると、当選者の政党が分散することもあり得ると思います。
また衆参同日選ならば、両院が同じような選挙結果になる可能性が高いと思います。つまり衆院、参院ともに勢力が近い複数の政党が出来ることもあったような気がします。
そうなると連立政権をつくることになりますが、あのころから”政策ごとに連携することが必要”という声が聞かれていたと思います。
連立政権も複数の政党からなり、両院とも議席数の近しい政党がいくつかあるのなら、協調や連携しなければ国会運営は出来ないような気がします。
そうなると、現行の選挙制度のまま、実効的な多党制が出来るのではないかと考えました。

実際にはそうはなりませんでした。
ただ以前書いたことがありますが、衆院選、参院選、どちらも本当の意味で惨敗したのは「第三極」だったような気がします。さらにいえばその中心にいた人物だったような気がします。それはその人物の政治家としての資質の度合いを表しているような気がします。

2013年12月29日日曜日

首相公選制



 この国では、国のリーダーは国会議員によって選ばれます。世界には国民によって選ばれる国もあります。
日本もそうしたほうがいいのではないかという声があります。それを公約に掲げている政党もあります。

日本に限ったことではないと思いますが、選挙では当選しやすい人物像があると思います。
この国では、政治家の血縁者、有名人、若いとか顔立ちがいいなど多くの人に容姿がいいと感じられる人物は、選挙で当選しやすい傾向があると思います。
政治家の血縁者の場合、俗にいう”地盤”を引き継いでいることも多いので、それが当選しやすい大きな理由の一つだと思います。

そのため、政治家を代々の家業であるかのように感じられる家もあるような気がします。
与党を長く経験している政党は、首相や大臣を多く輩出しています。多くの政治家がその政党に属しています。その政党に属していた元政治家も多いと思います。
そうなると与党経験が長い大きな政党には、政治家の子や孫が多く、また元首相や元大臣の子や孫も多くなりやすいと思います。
実際に多いように見られます。

今のこの国のリーダーは二度目ですが、一度目を辞めた後の選挙で圧勝したことが二度目をめざす精神面での理由になったようです。
自分が支持されていると感じ、もう一度、首相と務めたいという意欲が湧いたのかもしれません。
気持ちの持ちようは、その人だけのものですので、他人がとやかくいうことではないと思います。
ただ、選挙で圧勝した理由を当事者ではない所から見ると、首相を辞めてから何年かの時間があったことは、その後の選挙結果に繋がったような気がします。つまり早く辞めたため、また短い期間で辞めたため、次の選挙までに、ほとぼりがさめる時間があったのではないかということです。それと、やはり選挙で圧勝するには地盤の強さが大きいような気がします。本人の努力もあったと思いますし、本人を支持した人も多いと思います。それでもかなり大きいのは、おじいさまやおとうさまが築いてくれたものだという気がします。

人は誰でも自分は努力していると思うものですし、自分は苦労していると思うものだと感じます。
気持ちの持ちようは、その人だけのものですので、他人がとやかくいうことではないと思います。
ただ、言動から心理的な傾向が窺えることがあるような気がします。打たれ弱いが我が強く、自意識が強い、味方ばかりをまわりに集め、受け入れられるところにばかり行きたがり、成果を過大評価する傾向があり、それを訴えたがる、一般的に”おぼっちゃん”という言葉で表現されるような人物像が浮かべる人がいるかもしれません。

これからも国会議員が国のリーダーを選ぶとなると、元首相の子や孫や、元大臣の子や孫ばかりになるかもしれません。
与党経験が長い政党には、元政治家の子や孫や、元首相の子や孫や、元大臣の子や孫がわんさかいるのですから、国のリーダーにもなりやすいのは当然だと思います。
しかしそれは、民主主義の国家において、芳しいことではないような気がします。

では、国民の投票によって国のリーダーを選んだらどうなるだろうかと考えて見ます。
今の日本では、選挙になると当選しやすい人物像があると思います。リーダーを選ぶ選挙でもそれが表れているような気がします。
そう考えると、国のリーダーを国民による選挙をしても、元首相の子や孫や、元大臣の子や孫が当選しやすいような気がします。

また、元テレビタレントや、時々テレビにも出演する著名な作家や、頻繁にテレビに出演する弁護士が、国のリーダーを決める選挙でも当選しやすいような気がします。
もしかしたら、顔立ちのいい若い女性が当選するかもしれません。
元首相の子供が顔立ちのいい若い男性であったなら、史上最年少記録を更新するかもしれません。

元首相の子や孫や、元大臣の子や孫や、元テレビタレントや、時々テレビにも出演する著名作家や、頻繁にテレビに出演する弁護士や、顔立ちのいい若い女性や、顔立ちがいい若い男性で元首相の子供にも、国のリーダーにふさわしい才覚と人間性を具えた人物もいると思います。しかし、そうではない人もいると思います。また、少なくない有権者は、このような当選しやすい人物像を持つ候補者に対して政治家としての資質の有無に目が向きにくくなるような気がします。
そう考えると、今の日本で国のリーダーを国民の投票で決めることは、個人的には反対です。

2013年12月28日土曜日

当たり前のこと?



「みんながやっているじゃないか」
「あの人もやっているじゃないか」
「だから当たり前のことなんだ」
「だからぼくもやるんだ」

僕は外国のことはわかりませんが、日本人は”他の人がやっている”、それが正当な理由になるという観念が強いと感じます。
その”他の人”が多ければ、「みんながやっているから当たりまえのことなんだ。だからぼくもやるんだ」といい、その”他の人”が一人だけだと、「あの人もやっているから、ぼくもやるんだ」という、そのような言葉を耳にすることが多いような気がします。

ときにそれは『言い訳』にもなっていると感じます。
子供はよからぬことをして怒られると、「みんなやっている」とか「あの子もやっている」ということがよくあると思います。
そんなとき、大人は「みんなはみんな」とか「あの子はあの子なの」などといって叱ることが多いと思います。
それでいて、自分が何か注意を受けるようなことをすると、「みんなやっている」とか「あの人もやっている」ということが多いと感じます。

”他者がやっている”それは、自分の行動に対する理由として必ずしも正当ではないと思います。必ずしも不当でもありませんが、行動の根拠としては弱いと思います。
その国によって状況が違っているのですから、『他の国のリーダーがやっている』ことが、『当たり前のこと』ではないと思います。
『当たり前のこと』とはいえないのなら、この国のリーダーが行った理由として成り立たないと思います。
子供の言い訳と同じように聞こえてきます。

国のリーダーが戦没者を慰霊する行為が近隣国との外交問題になっていない国と、この国とでは状況が大きく違うと思います。
状況が違うのですから、『当たり前のこと』とはいえないと思います。

個人と個人の関係でも、国と国の関係でも相手があることは難しいものだと思います。
どれだけ配慮をして誠意を示しても、誠意は数値化することが出来ません。いくらでも「誠意がない」といわれてしまいます。
些細なことに過剰ともいえる反応を示すこともあれば、全く無関係のことにもこじつけて非難してくることもあると思います。
信仰と外交は無関係だといくらいっても、そう受け取らない人がいることは事実だと思います。

ただそれは多かれ少なかれ、人間であるならそのような心理はもっているものだと思います。
そういう相手であっても関係をもっていかなければならないのがこの社会だと思います。
人と人でも、国と国でもそうだと思います。
国は『お隣さんともめてばかりだから、引っ越してしまおう』というわけにはいきません。そして何よりも、いがみあっていても得はないと思います。

近隣の関係によくない影響が出るとわかっていながら個人の信仰を優先するのは、一国のリーダーのとるべき行動ではないと思います。
もし、近隣との関係によくない影響が出るとは考えていなかったのなら、それは一国のリーダーとしてはあまりにも認識不足であり、一国のリーダーの場合、認識不足は即ち能力不足という見方も出来ると思います。

政治家のなかには、別の件における他の国の対応がよくないのだから、リーダーの判断は合理的だったという意見を述べ、リーダーは吹っ切れたのではないかと推察し、それを好意的に受け止めていると発言する人物がいるようですが、その発言は政治家としての評価を一層下げることになると思います。
一国のリーダーたるものが、”吹っ切れて”個人の信仰や信念を通すことをよしとするものは、政治に携わるものとして評価されないと思います。

そしてなによりも、亡くなった人に対して本当に敬意をもっている人は、それぞれの想いを抱いて命を落とした人たちを「国のため」などと一括りにはしないものだと思います。国によって否応なしに戦場に送られて、そこで命を落とした人のなかには、他の場所でねむりたいと思っていた人がいたかもしれません。しかしその意思を残すことは許されなかったのかもしれません。もしそんな人がいたのなら、戦ったことや、命を奪われたことばかりでなく、死んだ後でさえ国によって強制されているということになるのかもしれません。
一まとめにして「国のために犠牲になった」などということは、亡くなった人に対する敬意などではなく、自己満足や自己肯定かもしれませんし、利害のために言っているのかもしれません。

2013年12月27日金曜日

なんのため



 他の国からとやかく言われることではないかもしれません。
しかし、他の国からとやかく言われる材料になっているのが現状だと思います。
外交問題にするべきではないかもしれません。
しかし、外交問題の材料になっているのが現状だと思います。
個人の信仰の問題かもしれません。
しかし、一国のリーダーであるならば、外交問題になる事柄だと認識しなければならないと思います。

外国の人たちは誤解しているかもしれません。過剰に反応しているのかもしれません。外交問題にするために感情を煽っているのかもしれません。
しかし、それが現状だと思います。
丁寧に説明するしかないのかもしれません。
しかし、それで改善できる状況ではないと思います。それが現実だと思います。一国のリーダーならば、それで改善できる事柄ではないことだということをよく認識しなければならず、その上で行動するべきだと思います。

国のリーダーは、外交における戦略性のなさを世界に示したのかもしれません。
離れた国から見れば、一国のリーダーのとるべき行動ではないと見えるかもしれません。
つき合いやすい国にばかり行き、やりやすい外交の成果ばかりを自慢し、難しい問題については、さらに難しくしていくばかりだと見えているかもしれません。
何を優先することが国のためになるのか、本当に考えていると見られないかもしれません。
一国のリーダーとして、資質の一つが低いと見ているかもしれません。

政治家から、行かなかったからといって他の国との関係がよくなるわけではないという声が聞かれます。
しかし、行けば関係はさらに悪くなることは確かだと思います。関係が悪くなる理由を増やすことになるのは確かだと思います。
国内問題だと言い切ればいいのかもしれません。
しかし、外交は相手があることですので一方が言い切ったのでは、それ自体がより関係を悪化させる材料にもなり得ると思います。

相手の態度や振る舞いが気に入らないから、配慮する必要などないという考え方は、個人と個人の関係においても、よい結果をもたらさないことが少なくないと思います。
その考え方を国と国の関係に用いる政治家は、離れた国からみれば政治家としての資質が低いと見えるかもしれません。

確かに現状では関係が改善する気配はないものの、以前よりは反感が治まりつつあった感があります。
そんな空気が感じられ時期に行くことは、外交としてみると戦略的ではないと思います。 
また配慮する必要はないなどと発言するのは、政治家としての評価をさらに下げることになるかもしれません。

亡くなった人の気持ちは、生きている人が勝手に解釈をつけることがあると思います。
明確に意思を残していることもありますが、それをせずに命を落した人は多いと思います。
明確に自分の意思を表すことがゆるされなかったこともあったと思います。

「日本のため」「国のため」まずそのような言葉が発せられています。しかしそれが祀られている人、全ての気持ちではないと思います。
大切な誰かのためだと信じて命を落とした人もいたと思います。
「生きたい」「戦いたくない」「戦争でなんて死にたくない」そう思っていたのに、国によって無理やり戦場に送られ、そこで戦死した人のなかには、「国のために命を落とした」などといわれたくないと思っていた人がいたかもしれません。
空襲で命を落とした民間人のなかには、「政治家が戦争なんてしなければ、こんなに熱くて、痛くて、苦しい思いをしながら死なずに済んだかもしれないのに。国ためなんかで死にたくないのに。もっともっと生きたいのに」と思いながら果てた人がいたかもしれません。
「国のために死んだなんて言われたくない」
そう思っていても、その意思を残すわけにはいかなかった人もいたと思います。
「国のためなんかで死にたくない」
そう思っていても、それを口に出すことが許されなかった人がいたと思います。

「国のために最後まで戦いたい」
そう考えていた人もいたと思います。
「国のために喜んで命をささげます」
心からそう言っていた人もいたと思います。
過去の戦や戦争で命を落とした人たちには、一人ひとりその人だけの想いがあると思います。
その人たちを一まとめにして、「国のためだった」としているのかもしれません。
命を奪われた人たち一人ひとりの気持ちを顧みるのではなく、「国のため」とひとつにまとめてしているように見えるかもしれません。
それは、亡くなった人の尊厳を重んじているとはいえないかもしれません。
むしろ軽んじていると感じる人がいるかもしれません。利用していると感じる人がいるかもしれません。亡くなった人に対する冒涜だと感じる人もいるかもしれません。
国のリーダーが、「国のために犠牲になった人たち」とひと括りにするのはよくないような気がします。

2013年12月26日木曜日

懲りない面々



 情報技術が発達している現代社会では、政党の支持率は一瞬で大きく変動することがあると思います。
今のこの国では与党が圧倒的な議席数を持っています。それは選挙の結果です。有権者の意思だと思います。 
ただそうとばかりは言い切れないと思います。
今の与党に票を投じた有権者の一人ひとりは、一つの政党に圧勝させたいとは考えていなかったように思います。
衆院選前の政党支持率は決して高くなかったと思います。

あの時、もっとも支持率が高かったのは「支持政党なし」だったような気がします。
そのことからして支持する政党のない人たちの多くが、今の与党政党に投票したのだと思います。
つまり今の与党を積極的に支持しているわけではないということです。
他に投票したい政党がなかったのだと思います。
『他に入れたい政党がないのだから仕方ない』

またあまりにも政治の混乱と停滞にうんざりしていた有権者が多かった感があります。『やっぱり安定した与党がないとダメだ』
それにどのような選挙制度であれ、政党の票の数をそのまま当選の数に反映させることは難しいものだと思います。
今の制度が、今の与党に有利に働いたことは、選挙後さかんに言われていました。

これらのことからも、多くの有権者が積極的に今の与党に投票したのではなかったように感じます。
有権者のひとりひとりは、この政党に圧倒的な議席を与えて、やりたい放題をさせたいという意思はなかったと思います。

前回の衆院選は、当時の最大野党が圧勝しました。
”その他の野党”がそうさせてあげたような感があります。
選挙をやれば当時の与党が惨敗することは誰にも簡単に予測できたことだと思います。その票の行き場が、最大野党にしかなかったために圧勝したと見られます。それは”その他の野党”があまりにも支持されていなかったということだと思います。

当時の最大野党は、早期解散を強く求め続けていました。
早期解散をして有利になるのは、その政党だけだったと思います。
解散を早めようが遅らせようが、当時の与党の惨敗は避けようがなかったような気がします。
しかし、解散が早まることで、”その他の野党”が有利になることはなかったと思います。
つまり”その他の野党”は、早期解散を阻止するべきだったと感じます。
それは政治的な戦略だったと思います。

「いっつそーれいとなんですよ」などと言い出したころには、まったくの手遅れだったと思います。「準備が出来ていないので、解散は求めません」などと言ったときには、完全に手遅れだったと思います。準備不足を自覚していたのなら、積極的に時間を稼ぐべきだったように思います。
それをせずに大あわてでやったことのすべてが裏目に出た感があります。それが今でも続いているように見られます。
前回の衆院選で、今の与党に政権を与えることに大きく貢献したのは、”その他の野党”だったといえるかもしれません。

しかも、衆院選が一つの政党の圧勝に終わったのですから、その時点で参院選にむけ、すぐに野党は協調する必要性があったと思います。当然、野党に転落した前与党も加わらなければならないと思います。
しかし結局なにもしないまま、参院選は今の与党にやすやすと勝たせたような印象があります。
今の一党一強という国会は、”その他の野党”がそうしてあげたように感じるのです。

それは”その他の野党”の政治家に、先見性も政治的戦略性もないといえるかもしれません。それは政治家としての資質が低いといえるかもしれません。
それにしても、政治勢力結集が難しさを表しているとも思います。
ただそれは今に始まったことでもないような気がします。
前与党には政権担当能力のなさは、党内の意思統一が出来ないことだったと思います。

国会がねじれているのですから、与党は結束しなければならないのは明らかだと思います。しかし公然と与党内部で批判しあっているのですから、それでは”決められない政治”の後押しをしているようなものだと思います。それが国民に”いい政党だ”と見えるはずがないと思います。
しかも、それをどれだけ指摘しても、改善出来ないのですから、そんな政党に政権をまかせられるとは到底見えないような気がします。
その政党は元々”寄り合い所帯”だといわれていました。”野党勢力を結集した”という見方が出来るかもしれません。

2013年12月24日火曜日

クリスマスの夜



『クリスマスは恋人と恋愛気分を満喫する日』
日本ではそのような印象を持っている人が多いように感じます。
固定観念になっていると思うこともあります。

しかし、クリスマスに異性と交際していない人も、少なからずいると思います。
そういう場合の固定観念もあるような気がします。
『クリスマスは恋人がいない寂しさに浸る日』
『クリスマスは恋人たちを妬む日』
『クリスマスは恋人がいないことを自虐する日』
『クリスマスは恋人なんていらないと強がる日』
『クリスマスは恋人なんてできるはずがないと開き直る日』

1~2年前にみたテレビでは、クリスマスとキリスト教の関係について知らない若者がいることを話題にしていました。
街角で若い人たちに「クリスマスって何の日か知っていますか?」とマイクを向け、「カップルの日」という意味合いの答えが返ってくる様子が流されていました。

それは、近年の日本のクリスマスに対する”受け止め方”を表しているような気がします。
若者のなかには、クリスマスは「昔から恋人のイベント」だったと思っている人もいるのだろうと思います。
ただインタビューでは、そう答えながらもキリスト教に関する意味を知っている人もいたかもしれません。
知っていながらも、今の日本で多くの人が抱いているクリスマスの”受け止めかた”を答えていた若者もいたような気がします。

僕は外国のことはわかりませんが、欧米では日本ほどクリスマスと恋愛を強く関連付けている雰囲気はないと聞きます。
ただそれでもいいと思います。外国を同じようにすることもないと思います。その国なりのクリスマスの雰囲気があっていいと思うのです。

 日本のクリスマスケーキはスポンジケーキとクリームとイチゴで作られています。夕食には七面鳥ではなく鶏のから揚げを食べることが多いようです。
それは欧米のクリスマスとは違うかもしれませんが、この国ではすっかり定着していると感じます。

また今の日本では、広く浸透しているクリスマスのイメージは、恋愛が関わっているような気がします。
個人的に、今年は家族と楽しく過ごすクリスマスの様子を目にすること多いような印象があります。
あまりにも恋愛に寄り過ぎたクリスマスの印象に対する反動なのかなという気もします。
それにしても、善し悪しで語ることではないような気がします。

クリスマスには、クリスマスにしか感じられない独特の雰囲気があるような気がします。
その感じ方はそれぞれだと思います。
人それぞれでありながら、この時期にしか感じられない空気があると思うのです。
ただなんとなく、クリスマス独特の空気には、心持をよくする効力が含まれているような気がします。
誰もがそんな空気に触れて過ごすことが出来たらいいと思います。

『静かで、ひそやかで、冷ややかで、妖しく、それでいながら清らかでもある』
夜には、そんな印象があります。
個人的に夜は好きです。
しかし子供のころはそうではありませんでした。闇が怖かったのです。
夜が好きだと思うようになったのは、大人になってからです。

夜が好きだと、明確に認識していませんでしたが、学生時代、深夜放送を聞きていたころから、夜に対して好ましい感覚を抱いていたような気がします。
人びとが寝静まっている夜は静かで、そんななか起きていることは、なにか特別なことをしているように感じたのかもしれません。

また、大勢で夜通しさわぐことも、楽しいものだと思います。他人に迷惑をかけてはいけませんが、多くの人たちとにぎやかに過ごすにしても、昼間とはなにか違っているような気がします。
また、静かな夜に、二人で同じ時間を過ごすこともいいと思います。
また、夜に一人でなにかを想っていることも、いい時間を過ごしているような気がします。

クリスマスの夜は、普段の夜とは空気が少し違うと感じます。
妖しさが薄れ、清らかさが広がっているように感じます。
冷ややかさが弱まり、穏やかな温かみを感じられます。
そんな夜だから、感じられることがあるような気がします。
誰か一人のことを想ってもいいと思います。
大きなことに想いを広げてもいいと思います。
クリスマスの夜は、それらの想いをよい方向に導いてくれるような気がします。

2013年12月23日月曜日

まるいショートケーキ



 数年前まで「ショートケーキ」とは、小さいケーキ全般をさしているのだと思っていました。
基本形は丸いケーキを放射状に切った形、つまり三角柱の一面が丸みを帯びた形状ですが、モンブランなど一つずつ作られた丸いものや、ミルフィーユのような四角柱に切られたものなど、とにかく手のひらに収まるような大きさのケーキはすべて「ショートケーキ」と呼ぶのだと思っていたのです。

つまり、ザッハトルテもミルクレープもチーズケーキも、小さいものはみんな「ショートケーキ」の括りに属するという認識です。
それは「ショート」という言葉を、「短い」という意味の英語だと捉えていたためです。
小さいケーキに対して「短い」という言葉をあてるのは、違和感がなくはなかったのですが、「少し」を英語では「リトル」というのですから、小さいケーキを「ショートケーキ」ということもあるのかなと思っていたのです。

それが数年前、どうやらそうではないらしいと気付きました。
三角に切っていない丸い大きなケーキを「ショートケーキ」という言葉で表現しているものを目しました。
洋菓子店の店頭や、ケーキに関するウェブサイトで見たのです。
『あれ? 小さく切っていないのにショートケーキなの?』
『「ショートケーキ」は「小さいケーキ」ではないのかな?』
そう思いましたので、いくつかの洋菓子店のサイトを見てみました。

すると、小さいケーキは「カットケーキ」や「プチガトー」、大きな丸いケーキは「ホールケーキ」や「アントルメ」と書かれているサイトがありました。
また多くの場合「ショートケーキ」は、スポンジケーキで生クリームやホイップクリームをはさみ、上面にも生クリームが盛られており、その上にイチゴがのっている”小さなケーキ”を指していました。つまり、モンブランやザッハトルテは、「ショートケーキ」には属さないということです。
ただ上に書いたように、丸い大きなケーキを「ショートケーキ」を書かれているサイトもありました。大きさに関わらず、スポンジケーキ、イチゴ、生クリームかホイップクリーム、これらを使ったケーキを「ショートケーキ」という言葉で表されているのです。

それは数年前のことで、ここでも書いたかもしれません。ただ記憶が定かではありませんので、今回あらためてインターネットで調べてみました。
まず「ショートケーキ」で検索しました。検索結果の一番目は画像集でしたので、二番目の自由書き込み式百科事典を見てみました。

それによると、「ショートケーキ」という言葉に『小さい』という意味合いはないそうです。
また、アメリカには「ショートケイク」、フランスには「ショートケーキ」と呼ばれる食べ物があるそうですが、それぞれに違うものですし、日本の「ショートケーキ」とも同じものではないようです。

日本のショートケーキは、アメリカのものを元にしているようです。今回はこのサイト一つしか見ていませんが、今の日本で一般的になっている「ショートケーキ」は、あくまでも『日本のショートケーキ』ということになるようです。

「ショート」の意味合いは、『さくさくする』とか『もろい』『砕けやすい』などとのことです。アメリカのショートケイクは、そのような食感のお菓子を使っているそうです。
それをスポンジケーキに変えて作ったものが、日本では「ショートケーキ」として定着したようです。

『さくさく』ではなくなったのに、それをあらわす「ショート」という言葉が残っているのですから、面白いと思います。

つぎに「プチガトー」と「アントルメ」で検索してみました。辞書サイトで「プチガトー」を引くと、ケーキや菓子の小さいものを指すフランス語で、今の日本では、洋菓子店で売られている一人用のケーキに用いられることが一般的になっている言葉だそうです。

「アントルメ」を調べると、「西洋料理の正式な献立のひとつで、ロースト料理の後に供される甘い料理であり、デザートの一種。一般的には、食後の甘い菓子などで、プディングやパンケーキ、調理した果物など」とあります。
僕は西洋料理についてよく知らないのですが、どうやら「大きいケーキ」とか「まるいケーキ」という意味ではなさそうです。
食後、大きなケーキを食卓において、切り分けて食べるため、切っていない大きなケーキを「アントルメ」と呼ぶのかもしれません。

今回はインターネットで検索して、それぞれ一つのサイトしかみていませんが、それだけでもケーキに対しても、言葉についても、奥深さを感じました。

2013年12月22日日曜日

いつかのクリスマス



 彼女はバブルのころ、元旦に恋人と別れました。何ヶ月も前から彼との関係は、ギクシャクしていたのですが、それでもクリスマスまでは別れるわけにいかないと思っていました。
もし別れたら、クリスマスまでに新しい恋人とつきあうことなど出来ないだろうと思っていたのです。

彼に会っても腹立たしいことばかりで、もうお互いに好きでないと思うものの、それでも別れたら落ち込んでしまう、それは自分でもわかっていました。それでは新しい恋人など出来るはずがないことも。
それに『クリスマス前にあせって彼氏を作っても上手くいくはずがない。でもクリスマスに一人でいるなんて嫌だ。それにもしかしたらクリスマスをきっかけに二人の間もなにか変わるかもしれない』などと思っていました。

彼もクリスマス前に、別れ話を切り出すことはありませんでした。彼女と同じように考えていたのかもしれません。
結局、クリスマスは二人で過ごしたのですが、雰囲気は改善されませんでした。
むしろ無理して別れを引き伸ばしたのですから、彼に対する印象は悪くなる一方でした。
それでも、クリスマスイブの夜と、大晦日の夜だけは、恋人と一緒にいなければならないと、自分に言い聞かせるように付き合っていました。

そして元旦の朝、彼と別れました。
次のクリスマスまでに、新しい恋人を見つけなければなりません。それには、早く別れるのに越したことはなかったのです。

しかし、彼女は恋人が出来ませんでした。過去の恋愛を引きずっているわけではなく、また特に理由や原因に心当たりはないのですが、”縁がなかった”のだと思います。男性と交際に発展しませんでした。
その年のクリスマスは、女性の友人たちと居酒屋で過ごしました。みなが独り身であることを肴にして大いに盛り上がり、楽しみました。
その翌年も彼女は同じように過ごしました。

それは何年か続きました。彼女には恋人が出来なかったのです。
それでも、女性の友人たちと恋人たちをうらやみ、独り身を自虐することも楽しいクリスマスの過ごし方だと感じていました。
ただ宴会に参加する顔ぶれは年々変わっていきました。数年後、その宴会は催されなくなりました。

彼女はクリスマスを一人で過ごすようになりました。それでも寂しいとは感じませんでした。むしろ、心地いいような気がしました。
世間の人たちとおなじように恋人と過ごしたり、みんながやっているように一人であることを自ら虐めたり、多くの人たちに倣ってあえて寂しい気分に浸ろうとしたりすることに、飽きてきたような気がしたのです。

彼女はシャンペンより日本酒が好きですし、チキンよりもイカのゲソ揚げのほうが好きでした。そこでクリスマスは一人で、それを味わいながら、夜空を眺めていました。
特にクリスマスに反撥していたわけではありません。むしろ、クリスマスだから食べたいものを食べて飲みたいものを飲んだのです。

それがなんだかとても心地よく感じられました。自分なりにクリスマスを満喫しているような気分でした。
他人がみれば”寂しい”とか”つまらない”などというでしょうが、彼女にとっては最高のクリスマスでした。
恋人と別れてから10年間、彼女は異性と付き合うことはありませんでした。

その年の元旦、彼女の部屋に電話がかかってきました。10年前にわかれた彼からでした。付き合っていた当時、携帯電話はありませんでした。二人はポケベルで連絡を取り合っていたのです。
「ひさしぶり。正月なのに部屋にいるんだな」
「なによ。いきなりどうしたの?」
「いや、どうしてんのかなって思って」

二人には共通の友人がいます。彼女は別れたとあと彼のことを聞きませんでしたが、彼の方は彼女がずっと一人でいることを、その友人から聞いているのではないかと思いました。
「よりをもどそうっていうつもり? 遅すぎでしょ。普通そういう話は一年後、長くても三年後までってところよ。10年後に電話掛けてくるなんて、あなた相変わらず私がよっぽどもてないと思ってんのね。どうせ独り身の寂しさに付入ろうって魂胆でしょう」 
「ははは。そういうリアクションが来るって思ってたよ。まあ、そういうからには、今は一人なんだな」

「そうよ。あなたと別れてから10年間誰とも付き合っていないわよ。共通の友達がいるんだから聞いてるでしょ」
「いや、そんなこと聞かないよ。つうか、あいつは気をつかってお前の話題は出さないからさ」
「じゃあ、なんで電話なんてかけてくんのよ」
「ちょっと話がしたくなってさ」

「一人で年越してあんまりにも寂しいもんだから、手ごろな話し相手を探してるってわけ? そんなことに付き合わされたじゃ、迷惑なんですけど」
「そういうんじゃなくてさ、俺たちちゃんと別れていないような気がしてさ。つうかそれ以前に、ちゃんと付き合っていなかった。そんな気がすんだよ」

「だから? 今さら電話を掛けてきて、一体なにを話そうっての?」
「あの頃、頭にきていたこと」
「はあ? 改めて喧嘩しようっての? 10年ぶりに? なんでそんなことしなきゃなんないのよ」
「喧嘩になると思う? まあ喧嘩になったら、なったで、それでもいいんじゃない? 10年も連絡取ってなかったんだから、これからずっと話さなくなっても、なにも問題ないだろ。むしろ、やっと、ちゃんと別れたって気になれて、すっきりする」

「喧嘩するために10年ぶりに電話掛けてきたってわけ? それで10年ぶりに、ちゃんと別れようって? なんでわざわざそんなことしなきゃなんないのよ」
「いや俺はさ、昔の話をしても喧嘩にならないような気がするんだよね。もう10年も過ぎてるとか、お互い大人になったってだけじゃなくてさ。あの時は恋愛じゃなかったっていうか、お互いに好きでも嫌いでもないのに、ただ一緒にいようとしていただったような気がするんだ。だから結局二人とも、なにがなんだかわかんないけど相手に腹を立ててばかりでさ。今なら、それをちゃんと振り返れるって思うんだ」
「今、あのころの話をしても、頭にこない? 私もそうなのかな?」
「試してみりゃいいじゃん。会って話そうぜ」

今年のクリスマスも、ここ数年と同じように、彼女は彼と二人の間の子供たちと過ごす予定です。