2014年1月31日金曜日

声で演じる人


『洋画は字幕で見たい』

ずっとそう考えていました。ここでは何回か書いていますが、そのほうが“映画通”だと感じていたのです。

 外国語の台詞の意味は分からなくても、言葉の抑揚や声に含まれる息つかいなども演技だと思います。それを感じ取るためには、吹き替えではなく字幕で見るべきだと考えていました。

 

それに、映画は出来るだけ加工されない状態で見たいという思いもありました。

 僕は日本語しかわかりませんので、外国語の台詞は意味がわかりません。字幕をいえるなり、日本語で吹き替えるなり、何かしら手を加えてもらわなければならないのです。

その“手の加え方”を出来るだけ小さくして欲しい、それが“映画通”の考え方だと思っていたのです。

 吹き替えよりは、字幕のほうが手の加え方が小さいと感じます。

 

 少し前からそのような考え方が変わってきました。

 作品の内容や作風によっては、字幕より吹き替えのほうが適している場合があると思います。字幕を読んで内容を理解することに脳の働きが向けられると、映画のほかの要素に対する意識が弱くなることがあるような気がします。

そのため、映画に集中できなかったり、感情移入できなかったりしたことがあるような気がしたのです。

 

社会問題を取り上げた作品や、芸術性を求めた映画のなかには、映画の世界に入り込みにくい作風のものもあると思います。字幕を読んで理解することに脳を働かせることで、さらに入り込みにくくなることもあるような気がします。

そのような作品を見るとき、“映画通は字幕で見るものだ”という観念をわきに置いたほうが、本質的なことを感じ取りやすい場合もあるのではないかと思いました。

また宇宙戦争の背景や、海賊同士の関係や、魔法学校の設定などの説明も、字幕で読んで理解しようとしていると、映画の進み方に乗り遅れてしまうこともあるような気がします。

 

また、あまり難しいことを考えずに楽しみたいと思われせられる娯楽性の高い映画は、字幕を読んで内容を理解するという作業がないほうが、高い娯楽性を堪能できるように思います。

 そのようなことから、“映画通なら字幕でみるべし”と、肩肘張らず吹き替えで見ることも映画の楽しみ方だといえるのではないかと考えるようになったのです。

 

 ただ偉そうに書いているものの、僕は最近新作映画を映画館で観ていません。そのため字幕版と吹き替え版の両方が上映されていて、どちらかを選んで観たことがないのです。

 考えてみれば、僕はまだ一度も映画館で吹き替え版を観たことがありませんでした。それに、これから字幕と吹き替えの両方が上映される作品を観る機会があっても、余程“吹き替え向き”だと思わなければ、字幕版を選ぶような気がします。

 

その作品がテレビ放送されるときは吹き替えになることが多いと思いますし、DVDになれば字幕と吹き替えが選べることが多いと思います。せっかく映画館で観るのですから、字幕で観たいと思うような気がします。

 

 それでも吹き替えの映画は昔からよく見ています。僕が映画を好きになったのは、テレビ放送で映画をみたことがきっかけのひとつだと思います。

劇場で字幕の映画を見る随分前から、テレビで吹き替えの映画を見ていたのです。今でもテレビで放送される映画を見ます。

また、随分前にVHSビデオで録画したテレビ放送の映画も時々見ています。その中には字幕の作品もあるのですが、やはり吹き替えのほうが多いのです。

 

 その中に声優ではない芸能人が声を当てている作品があります。だいぶ前のことですが、テレビ放送される映画の吹き替えを、有名芸能人が行うことが頻繁にあったと思います。その時、録画したビデオがあるのです。

 

 近年、新作映画のコマーシャルや情報番組などを見ると、映画館で上映される吹き替え版にも、声優ではない芸能人が吹き替えをしている作品が多いようです。

 芸能界で活躍するには、総合的な表現力が求められると思います。それは芸能界で有名になるための資質の一つといえるかもしれません。

それは吹き替えでも生かされることがあると思います。

 

 そんな中、最近は声優になりたい人が多いという話が耳に入ってきます。また、声優になるのは、大変だということも聞きます。

 僕が中高生のころ、アニメ映画のパンフレットや雑誌などで声優のインタビューなどを読むと、劇団の俳優がそれだけでは収入が少ないので、アニメの吹き替えをやるようになったと書かれていた覚えがあります。それが今では、多くの人が声優を目指して日々努力しているようです。

 

何事も、なりたい人が多いということは競争が激しくなるのではないかと思います。なりたい人が多いと、難関が増えることもあると思います。それを乗り越えて、なりたいものになれたということは、力があるのではないかと思います。

専門的なことはわかりませんが、声優ならではの表現法や、発声法などの技術が高い次元にあるのではないかと思います。総合的な表現力ではなく、専門的な力を備えている人が多いのではないかと思います。

 そう考えると、今の日本には力のある声優が多いのではないかと思います。力のある声優が多いのであれば、せっかくですから活用したほうがいいような気がします。

 声優ではない有名芸能人が吹き替えを担当している映画が、公開前に情報番組で取り上げられているものを見ることがあります。またその作品が公開されたときの舞台挨拶の様子を目にすることがあります。それは宣伝として効果があるのだろうと思います。また有名人が舞台挨拶をすることが、観客を引き寄せることにもなると思います。

 ただ、今の日本には力のある声優が多いのなら、その人たちを起用しないのはもったいないような気がします。

2014年1月30日木曜日

名優を偲んで


「なんちゅうもろい船だ」

 アニメ映画「風の谷のナウシカ」でミトという登場人物の台詞です。

 ミトの声を当てていたのは、声優の永井一郎さんでした。永井さんは数多くのアニメや映画の登場人物の声を演じていたと聞きます。

 実際、多くの作品が思い浮かびます。

 

 永井一郎さんがアニメの中で演じた台詞を思い起こしたとき、まず浮かんだのが上に書いた台詞でした。

 ミトはそれほど目立つ役どころではなく、この台詞もそれほど重要ではないのですが、なぜか一番目に思い浮かんだのです。

そうなると、台詞そのものが強く印象に残っていたのだろうと思います。それは永井さんの声優としての働きによるのかもしれません。

 

次に思い浮かんだ台詞は「人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、すでに半世紀が過ぎた」です。

そして「おいカツオ」と続きます。

ただ、この順番はそれほど明確なものではなく、ほとんど同時というか次々に浮かびました。あえて早い順で書くとこのようになります。

 

 永井さんは「サザエさん」の“波平さん”の声優として、非常に幅広い世代に知られていると感じます。その波平さんの台詞では、「ばかもん」が多くの人の印象に残っているようです。

 いわれてみれば頻繁に耳にしているような気がします。言われてみるまで思い浮かばなかったのは、一つの台詞よりも“波平さん”のイメージが強かったからかもしれません。

 

僕も「サザエさん」は子供のころからよく見ていました。

ただ、毎週楽しみにしていたとか、決して見逃がさないようにしていたというわけではありませんでした。

家庭用ビデオがない時代、どうしても見逃したくない番組は、暮らしの中にある事柄を調整していた、つまりテレビを見ることを優先的に考えるときがありました。

子供のころ、好きなアニメを見るために、親からいいつかった用事をやらなかったことがあります。

 

「サザエさん」はそうまでして見たいという番組ではありませんでした。

 しかし毎週のように見ていました。それは僕だけはないような気がします。

「サザエさん」はそのような番組といえるのかもしれません。だからこそ、長く続いているのかもしれません。

 

 社会人になると、生活時間からアニメ「サザエさん」を見る機会が少なくなりました。振り返ってみると、もう随分長い間「サザエさん」を見ていません。

 それにしても“永井一郎さんといえば波平さんの声優”という印象が強くあります。

波平さんのイメージは強いものの、しばらく「サザエさん」を見ていなかったため、台詞を思い浮かべようとしたとき「ばかもん」ではなく、「おいカツオ」が出てきたのかもしれません。

 

波平さんの台詞より、ガンダムのナレーションが先に浮かんだのは、数か月前にインターネットテレビで「機動戦士ガンダム」を見たため記憶に残っていためかもしれません。

報道や情報番組でも取りあがられていますが、「機動戦士ガンダム」のナレーションも永井さんが担当されていました。

 また永井さんはガンダムでは、実に多くの役をこなしていました。

 

 ガンダムは戦争が舞台になっていますので、脇役の兵士などが何人も登場します。テレビでは、上官に報告する兵士の声などは、中心的登場人物の声を当てている声優が兼ねていることが多く、“カイさんの声だ”とか“ブライトさんの声優さんがやっているんだ”などと思ってみていたものです。

 

 ただそのような脇役の声で、圧倒的に多かったのが、“ナレーションの声”でした。ガンダムの人気が高くなったころに出版された雑誌には、永井一郎さんは作中でもっとも多くの人物を演じた声優というようなことが書かれていたと思います。

 

 ところで声優の加納悟朗さんといえば「ルパン三世」の銭形警部の声が一番目に思い出しました。報道などでも、もっとも取り上げられていたように見られます。

 僕自身、銭形警部を一番目に思いつき、次が「宇宙戦艦ヤマト」の沖田十三艦長。その次に「仮面ライダー」のショッカー首領でした。

 それぞれに印象深い台詞がたくさんあります。そのなかには決め台詞や名台詞もあるのですが、その一つ一つよりも、登場人物そのものが思い浮かびました。

 

内海賢二さんといえば、「Drスランプ アラレちゃん」の則巻千兵衛が取り上げられていたようです。

個人的に、数か月前にインターネットテレビでみたこともあって、「ガンバの冒険」のヨイショの印象が強く残っています。

それ以外にも、非常に多くのアニメや映画で内海さんの声を聞いていると思うのですが、あまりに多すぎるのか、特定の登場人物も台詞もすぐには出てきません。

ただこれから、インターネットでアニメをみたり、テレビ放送された映画を録画したビデオをみたりしたとき、“内海さんの声だ”と思うことが何度もあるような気がします。

 

塚田正昭さんも登場人物や台詞は思い出せませんが、アニメや映画では塚田さんの声を頻繁に耳にしていると思います。

脇役を演じられることが多いため、一人の登場人物やその台詞が思い浮かばないのだろうと思います。

今回、インターネットで検索して、検索結果の一番上に表示されたインターネット百科事典をみると、実に多くの作品に声優として出演していることが書かれています。

これから何度も“塚田さんの声だ”と思うことがあるような気がします。

2014年1月28日火曜日

公平な政策対決


「民主主義は数だから」

 この言葉をよく使う政治家がいるように思います。確かに民主主義は原則的に多数派の意見が採用される仕組みだと思います。

 ただそれゆえに、数が力になることがあると思います。政治の場合、議員数が権力になることがあるということです。


民主主義は、本来意思決定の仕組みだという気がします。

人間は“社会”という“集団”を作って、そこで暮らしているのですから、集団全体としての意思決定を下さなければならないと思います。

そのための方法が多数決であり、それを含んだ仕組みが民主主義といえるかもしれません。


しかしとかく政治家は、意思決定を置き去りにして権力争いに、民主主義を使うものだと思います。政策を政争の道具にしていると感じます。

それは仕方ないのかもしれません。それをなくすことは出来ないと思われます。

それにしても近年、日本の政治家が政争するばかりで、日本を良くないほうに引きずり落としたと感じることがあります。


“数が多いということは、力が強いということだ。政策に違いがあっても数を増やさなければならない。しかし集団が大きくなれば、その内部で争いが起こる。争いが起こると政策の違いが持ち出される。そしてバラバラになる。そして意思決定が出来なくなる。それが国にとって不利益を呼び込む”

近年の政治は、そのように見られました。


しかもまた同じことをしようとしているように見られます。政権交代可能な政党をつくっても、寄せ集めでは結局バラバラになったように見られます。所詮寄せ集めであるため、立て直すことも来ないように見られます。それにしても、せっかく作った一大勢力を立て直すのではなく、また別に作ろうとしているように見られます。同じようなことをしても、同じような結果になることが多いものだと思います。

なんとなく“だめだから、いっぺんチャラにしてやり直そう”という意識を感じます。それは、何度もリーダーを変えていたときの意識と重なるような印象があります。


また、選挙目あてで人気者が手を組んだものの、結局政策を理由に党を割ってもかまわないなどということになっている政党があるように見られます。

また、以前の選挙で与党が負けそうだとみるや抜け出して新党を作り、次の選挙で圧倒的な議席を獲得して与党に返り咲いたとみるや、与党にすり寄っている政治家もいるように見られます。


今の政治に対する国民の意識は、何年も混乱した政治を見せられたことによる反動だと感じることがあります。

“寄せ集めの大きな政党は、結局バラバラになる。政策を議論すれば、誰も引かずに結論がでない。結局、強い一人の人物が決めたほうが結論を下すことが出来る。むしろ、複雑になった社会では、そうでもしなければ結論が出せない”

 そのように思考しているわけでなないかもしれませんが、意識として人々の心理にあるような気がします。


 それはつまり“独裁的な政治でも安定しているほうがいい”ということになるような気がします。そのような意識は他の国でも見られるような気がします。

個人的に、思考の方向性としては安易だと思います。

 それはやはり政策が軽んじられていると思われるためです。

政策を重視し、最後には決定を下す政治体制を作るべきだという気がします。


政策を重視するとなると、政党の人数は多くならないものだと思います。政党の数が多くなるものだと思います。

しかしなかなかそうはなりません。数が多いほうが勢力は大きいのですから、結局政策を軽んじてでも人数を膨らませようとするばかりに見られます。


そんななかで、野党でも与党の政策に賛成する動きは、一見すると政策を重視しているようにもみられます。国会がねじれているときには、そういう見方が出来る場合もあると思います。

しかし、今の日本の国会では、民主主義の原則から離れることになりかねないと感じます。


連立政権を組んでいる政党が、与党の政策に反対だとしても、その政党は“連立与党”にしがみつくため、結局最後は賛成に回るかもしれません。

与党は、連立解消をちらつかせて賛成を迫ると思います。

また、大きな与党の政治家のなかに、与党案に反対している政治家がいたとしても、その政治家が“与党議員”にしがみつくため、結局賛成に回るかもしれません。

与党は、党議拘束をかけて賛成を迫ると思います。


また、与党案に賛成する野党のなかに、反対する政治家がいたとしても、バラバラの野党では、与党にすり寄る代表や、暴れるように走る高齢者に従うしかないかもしれません。

それでは、“与党の思うまま”になるかもしれません。

国会全体からみれば、“一部の政治家の思うまま”になるといえるかもしれません。

それは民主主義を掲げる国家として芳しいことではないような気がします。


政策を重視するなら、多党化するのは当然のことだと思います。しかしそれを制度化することは難しく、実際今の国会はそうではありません。

一党だけが多くの議席をもっている現状で、与党が野党に“政策重視”を呼びかけるのであれば、与党所属議員や連立する政党の拘束をなくさなければ、“政策対決”が公平にならないような気がします。

そうなると野党も党議拘束をなくすべきだと思います。

そして、与野党にかかわらず、政策の近い政治家同士が連携するべきだと思います。

今の政治体制では、そうでもしなければ民意が政治に反映していないことになりかねないような気がします。

2014年1月27日月曜日

また作るの


 この国では数年間、政治が混乱していたと思います。毎年、首相が変わっているのは、それを端的に表しているといえるかもしれません。

政治の混乱ぶりを、非常にわかりやすい形で世界中に示していたと感じられます。

 

世界には、ずっと日本から見下されていると感じていた国があるかもしれません。日本の政治が混乱し経済が低迷したとみるや、鬱積したものをぶつけてやりたくなるかもしれません。

その国で財をもつものは、商売敵を引きずりおろすことに、その鬱積を利用しようとするかもしれません。

またその国の政治家は、自分の権力のために、その鬱積を利用しようとするかもしれません。

しかし鬱積した感情は、個人の内面にしろ、国全体にしろ、思惑通りに制御し、操縦することなど出来ないと思います。

結局、国にとって利することはないようにみられます。

それでも収めることも、引っ込めることも出来なくなるばかりに感じられます。

 

 それにしても、日本の数年間の政治は、外国から“醜態”とも受け取られかねず、それが外交上非常に多くの不利益になったように感じられます。

  しかも政治家は内政にかまけて、外交に対する意識が低かったという印象があります。それが今でも尾を引いている感があります。

 

外交だけではく、内政や経済など、あのころの政治が、国にとって多くの不利益をもたらしたと思います。

それは過去を振り返っているだけでなく、当時から感じていた国民も少なくなかったと思います。

『いい加減してくれ』とか『もううんざりだ』という声は、当時から発せられていたと思います。

 

その思いが、今の政治に対する感じ方につながっていると思います。

『また、あんなダメな政治になっては困る』という思いが『やはり政権は安定してないと』という考えにつながり、与党が安定多数を占めている状態に対して、好ましい印象を抱いている人が多いように感じます。

 

 ただ個人的に、これは民主主義を掲げる国の政治のありかたとして、前進しなかったように感じます。

せっかく苦労したのに前に進まず、元に戻ったように見られるのです。

“それでいいじゃないか”という見方もあると思いますが、あの混乱と停滞は、政治のあり方を進化させる機会になりえたような気がします。

 

 社会は常に移ろい続けていると思います。そうなると、政治の形も今まで通りでは適さなくなることもあると思います。

 また、日本人はなにかにつけて、他者と同じことをすることが正しいことだと認識しやすい傾向があるような気がします。

しかし他国の議会の形が、現在と未来の社会に合っているとは限らないと思います。

真似るのではなく欧米に先んじて、よりよい政治の形を作りだす、それを目指したほうが、国の栄えのためになるように感じられます。

 

しかしそれはそれでとても難しいことだと思います。難しいことをするには、政治家に才覚が必要だと思います。

政治家に才覚があれば、そもそもあのような混乱や停滞にはならなかったのかもしれません。その政治家の主だった顔ぶれは、あまり変わっていないように見られます。

そう考えると、今の政治は安定しているという漠とした印象をもっている人も少なくないのかもしれませんが、そうとは言い切れないかもしれません。

 

そこで、数年間つづいた政治の混乱について振り返ってみます。

国会がねじれていたことや、与党に党内をまとめる能力がなかったことなどが思い出されます。

ただ、その根っこにあるのは、政治家が政争を続け、政策をその道具にしていたことがあると感じます。

それは議会政治の原則に照らすと、逆さまだという気がします。

 政策を実現するために政治家が争う、そうあるべきだと思います。

 

『政権交代可能な野党勢力を作る』いう言葉を耳いしますが、学ばないというか、懲りないというか、時代についていけてないような印象を受けます

 政権交代可能な野党勢力は過去に何度か作られているような気がします。そして政権交代も果たしたとみられます。そしてまた政権交代したように見られます。

 そんなに二大政党制がこの国に適していると考えているのなら、せっかく作った大政党を維持するべく、あらゆる手を尽くすべきだったと思います。

 

 再度、政権は変わりましたが、今でも最大野党ではあるのですから、本当に二大政党制がこの国のためになる形だと考えるのなら、その政党を中心にして野党を再編し、大きな勢力を作ろうとするほうが近道だと思います。そういう動きならまだわかるのですが、また別の大きな野党を作ろうというのでは、同じことばかり何度も繰り返していると感じられ、過去に学んでないという印象を受けます。

 

結局、政治家の利害と権力のために作った大きな政党など、政治家の争いによって瓦解する、ここ数年それを見せられたような気がします。

しかしそれでも相変わらず、本来優先さるべき政策は、政党間の争いの道具に使われるか、政党内の争いの道具に使われているだけだという印象を受けます。

そのように感じられたのでは、国民の支持は高まらないような気がします。

2014年1月26日日曜日

完全に壊れているCDプレーヤー


 高校生のころアルバイトをしたときも、社会人になってからも、ずっとラジオを流している職場で働いたことがあります。

 また、一日中音楽を流している職場もありました。

 思い起こしてみると、そのようなときに自然に耳に入ってきた曲を好きになっているような気がします。

 

 僕は積極的に音楽を聴くほうではありません。別に音楽が嫌いだというわけではありませんし、好きな曲もいろいろとあるのですが、自ら進んで音楽を聴こうとすることが少ないのです。

 思い起こしてみると、僕の音楽に対する接し方は、子供のころからそのようなものだったような気がします。

 テレビの音楽番組は好きでよくて見ていました。そこで頻繁に耳にする曲を好きになりました。しかしレコードが欲しいとは思わなかったような気がします。

 

 ただ、今までの人生で何度か音楽に凝った時期があります。

“凝った”度合いに大小はあるのですが、数年間、積極的に音楽を聴いていた時期が何度かあるのです。

 

高校生になったころニューミュージックをよく聞いていました。あのころ「ニューミュージック」をいう言葉が使われだしたのだと思います。

高校を卒業したころ、アメリカのポップスが好きでした。あのころはそれが世界的に流行っていたのです。

 若い社会人だったころ、日本のポップスのCDをよく買っていたころがあります。あのころ『バンドブーム』と言われていました。

 中年だったころ、再びアメリカのポップスが好きになりました。数年間だったと思いますが、洋楽のCDをよく買っていました。

 

 そのころのカセットテープやCDは今でも時々聴いています。

『最近の音楽より、昔の曲のほうがいいな』

『多感な時期に聴いていた曲は、思い入れがあるんだよ』

 そういう思いもあるのですが、それよりも音楽全般にそれほど関心が高くないので、新しい音楽を聴こうという意欲がわかないため、すでに持っているカセットテープやCDばかりを聴いているのです。

 

ただ、CDプレーヤーは随分前に壊れてしまいました。ずっとそのままになっています。つまり修理をしていませんし、新しいものを買ってもいません。

故障した時点で修理するほうが高くつくような古いものだったので、これからもCDを聴くには新しいものに買い替えることが現実的だったと思います。

そうしようと思わなくはなかったのですが、なんとなく買いに行きそびれた感があります。

オーディオがなくてもCDはパソコンでも聴けるのですから、『まあ急ぐこともないかな』と思っているうちに、“CDプレーヤーがない”という環境に慣れてしまったのだと思います。

 

ここでも取り上げたことがありますが、CDが売れない時代だと耳にします。

以前、人気アイドルグループのCDについている握手券と、むかし流行った仮面ライダースナックのカードが似ていると書いたような気がします。

改めて読み返さずに記憶だけで書きますので、勘違いや思い違いがあるかもしれませんが、握手券のために何枚もCDを買う人が大勢いるため、CDが売れない時代にあっても、そのアイドルグループのものは売れているということを取り上げたような気がします。

 

僕は音楽や、それを取り巻く事柄についてよく知らないのですが、デジタル化された曲はCDを媒体としなくても、聴くことが出来るのだろうと思います。

そう考えると、CDで音楽を聴く利点が小さくなったのかもしれません。

思い起こしてみると、レコードがCDに切り替わったのは、音楽を聴くにはCDに利点があったからだと思います。

今ではそのCDの利点が、インターネットやパソコンや音楽機器の変化などによって、小さくなったのではないかと思います。

 

何度か書いていますが、CDが普及してからも、レコードに対する需要が完全になくなったわけではなかったと思います。しかし資本主義経済の下では、たとえ需要があっても、それが小さかったり、大きかったものが小さくなったりしたら、供給が止められることがあると思います。

レコードはその一つだったような気がします。

 

音楽についてよくわからないので、これからのことなど予想できませんが、いずれCDもなくなるのだろうかと思うと、やはりなんとなく寂しいと感じます。

 CDの利点が小さくなったとしても、良い面がなくなることはないと思いますし、これを好む人もいると思います。

 紙の本も、紙の雑誌も、紙のカタログも、利点があると思いますし、それを好む人がいると思います。

 

 媒体が増えたということは、選択肢が増えたということになると思います。

 そうなると、見るに値しないと思ったものは見ない、読むに値しないと思ったものは読まない、それで済むと感じることもあると思います。

まして『お金を払ってまで』となると、選択しないのでなく、積極的に選択肢から除外することもあると思います。

 媒体が少ない昔でしたら、“これはどうだろう”と思いながらも『お金を払ってまで』読んだこともあったと思います。“その姿勢はおかしい”と感じながら『お金を払ってまで』見ていたこともあったと思います。

しかし現代は媒体が多くなっているのですから、他の媒体で事足りるようになっていると感じます。

 それに、一度見ることをやめたり、読むことをやめたひとが、再び『お金を払ってまで』見ようと思ったり、読もうと思うことは少なくなっているような気がします。