“国を愛するとはどういうことだろう”
以前、そのようなことを書いたと思います。ただ書いたという記憶はあるのですが、あまり詳しい内容は覚えていません。
しかしおそらく明確な答えなどないのだろうというようなことを書いたような気がします。
改めて考えてみると、やはり「国を愛するとはこういうことだ」と明言することは出来ないような気がします。
だから何度も同じ問いが浮かんでくるのかもしれません。
“国を愛するとはどういうことだろう”
“愛する”それ自体、絶対的な定義はないように思います。
それも何度か同じようなことを書いているような気がしますが、“愛する”ことは、人によって、感じ方や受け止め方や表し方が違っているものだと思います。
つまり、きわめて主観的なものであり、そのため絶対的な定義をつけることが難しいのだと思います。
時に、法にも倫理にも背くような行為を、「愛のためだ」とか「愛するがゆえだ」など“愛”が理由になることがあるような気がします。
法にも倫理にも背くような行為は、多くの人が“愛”を理由にすることに賛同できないものだと思います。
そのため、その行為を行ったことを非難するとともに、“愛”を理由にすること、それ自体を否定したり非難したりすることがあると思います。
しかしどんなに強く「それは愛じゃない」と言っても、また何百回も「そんな愛は間違っている」と諭しても、決して受け入れず「だれがなんと言おうが、これが私の愛だ」と言い続ける人もいると思います。
“愛するとはどういうことなのか”
他者がその答えを与えようとしても、絶対に受け付けない人がいると思います。
もちろん、考えを変える人もいると思います。
また、“愛”それ自体は人それぞれだとしても、法や倫理に反する行いをすることは間違いであり、やってはいけないことだと諭すと、それを納得する人もいると思います。
ただ、考えを変えること、他者の声を取り入れる人、納得する人、それらも人それぞれだと思います。
“愛”には絶対的で明確な定義がないためか、“愛する対象”も様々だと思います。
人は、異性、肉親、家族、友人、など他者に対して“愛”を感じるものだと思います。
また、ペットなどの動物や手をかけた植物などに対しても“愛”をもつものだと思います。
世界全体や、全人類、地球、自然など、大きな事物に対して“愛”を感じる人もいると思います。
それに、住み慣れた家、乗りなれた車、使いなじんだもの、などに対する愛着も“愛”といえるような気がします。
また、自分が通っている学校、あるいは母校、自分が勤めている会社、自分が所属している組織、あるいはかつて所属していた組織やかつて勤めていた会社、自分が加わっている集団、自分が住んでいる地域、自分が生まれた国、自分が暮らしている国、などに対する愛着も“愛”といえるような気がします。
そして、自分自身に対する“愛”もあると思います。
最後に挙げたものが、他のものの土台になっていると感じるときがあります。
他者に対する愛情は、“他の何よりも、そして自分自身よりも、その人を尊重する想い”や“無償も犠牲もいとわない想い”があると思います。
ものや集団や地域などについては、“自分”が使っていた、自分が住んでいたなど、“自分”が欠かせないように思えてきます。
ただ、他者に対する“愛”にも、その想いの根っこに“自分”がある場合もあるかもしれません。
それにしても、ものや集団や地域は、自分が関わっているから“愛着”を持つものであるような気がします。
自分が一切かかわっていない、ものや集団や地域や国には“愛着”が湧かないことが多いと思います。それらを愛することは少ないと思います。
そう考えると、“国を愛する”は、自分が生まれた、自分が育った、だから愛するのだと思います。つまり“自分”の存在が不可欠だと感じます。
それは“自分を愛する”ことに通じるかもしれません。
“自分の国に対する愛”は“自分に対する愛”が形を変えたものかもしれません。
“自分に対する愛”が広がったのかもしれません。
ただその“自分に対する愛”も、絶対的で明確な定義はないような気がします。
それでも、もう少し考えてみます。
“国を愛する”ことに“自分”が不可欠だとすれば、それは“自分を守ろうとする気持ち”に近いような気がします。
そして“自分を守ろうとする気持ち”には、“あくまでも自分を肯定する”そんな意識が含まれやすいような気がします。
それを自覚出来ないことも多いと思います。また自覚しているつもりでも、抗えないことも多いと思います。
世の中には、自分がそうなら、他者もそうだということがあると感じます。この国で生まれ育った人のなかには“自分の国を愛している”人が多いと思います。ほかの国で生まれ育った人に中にも“自分の国を愛している”人が多いと思います。