2014年3月31日月曜日

愛という名のもとに守ろうとしているもの


“国を愛するとはどういうことだろう”

 以前、そのようなことを書いたと思います。ただ書いたという記憶はあるのですが、あまり詳しい内容は覚えていません。

しかしおそらく明確な答えなどないのだろうというようなことを書いたような気がします。

 改めて考えてみると、やはり「国を愛するとはこういうことだ」と明言することは出来ないような気がします。

 だから何度も同じ問いが浮かんでくるのかもしれません。

 “国を愛するとはどういうことだろう”

 

“愛する”それ自体、絶対的な定義はないように思います。

それも何度か同じようなことを書いているような気がしますが、“愛する”ことは、人によって、感じ方や受け止め方や表し方が違っているものだと思います。

 つまり、きわめて主観的なものであり、そのため絶対的な定義をつけることが難しいのだと思います。

 時に、法にも倫理にも背くような行為を、「愛のためだ」とか「愛するがゆえだ」など“愛”が理由になることがあるような気がします。

 法にも倫理にも背くような行為は、多くの人が“愛”を理由にすることに賛同できないものだと思います。

 そのため、その行為を行ったことを非難するとともに、“愛”を理由にすること、それ自体を否定したり非難したりすることがあると思います。

 

 しかしどんなに強く「それは愛じゃない」と言っても、また何百回も「そんな愛は間違っている」と諭しても、決して受け入れず「だれがなんと言おうが、これが私の愛だ」と言い続ける人もいると思います。

“愛するとはどういうことなのか”

他者がその答えを与えようとしても、絶対に受け付けない人がいると思います。

 もちろん、考えを変える人もいると思います。

 

 また、“愛”それ自体は人それぞれだとしても、法や倫理に反する行いをすることは間違いであり、やってはいけないことだと諭すと、それを納得する人もいると思います。

 ただ、考えを変えること、他者の声を取り入れる人、納得する人、それらも人それぞれだと思います。

 

“愛”には絶対的で明確な定義がないためか、“愛する対象”も様々だと思います。

人は、異性、肉親、家族、友人、など他者に対して“愛”を感じるものだと思います。

また、ペットなどの動物や手をかけた植物などに対しても“愛”をもつものだと思います。

世界全体や、全人類、地球、自然など、大きな事物に対して“愛”を感じる人もいると思います。

 

それに、住み慣れた家、乗りなれた車、使いなじんだもの、などに対する愛着も“愛”といえるような気がします。

また、自分が通っている学校、あるいは母校、自分が勤めている会社、自分が所属している組織、あるいはかつて所属していた組織やかつて勤めていた会社、自分が加わっている集団、自分が住んでいる地域、自分が生まれた国、自分が暮らしている国、などに対する愛着も“愛”といえるような気がします。

そして、自分自身に対する“愛”もあると思います。

 

最後に挙げたものが、他のものの土台になっていると感じるときがあります。

他者に対する愛情は、“他の何よりも、そして自分自身よりも、その人を尊重する想い”や“無償も犠牲もいとわない想い”があると思います。

ものや集団や地域などについては、“自分”が使っていた、自分が住んでいたなど、“自分”が欠かせないように思えてきます。

ただ、他者に対する“愛”にも、その想いの根っこに“自分”がある場合もあるかもしれません。

 

それにしても、ものや集団や地域は、自分が関わっているから“愛着”を持つものであるような気がします。

自分が一切かかわっていない、ものや集団や地域や国には“愛着”が湧かないことが多いと思います。それらを愛することは少ないと思います。

 

そう考えると、“国を愛する”は、自分が生まれた、自分が育った、だから愛するのだと思います。つまり“自分”の存在が不可欠だと感じます。

それは“自分を愛する”ことに通じるかもしれません。

“自分の国に対する愛”は“自分に対する愛”が形を変えたものかもしれません。

“自分に対する愛”が広がったのかもしれません。

ただその“自分に対する愛”も、絶対的で明確な定義はないような気がします。

 

それでも、もう少し考えてみます。

“国を愛する”ことに“自分”が不可欠だとすれば、それは“自分を守ろうとする気持ち”に近いような気がします。

 そして“自分を守ろうとする気持ち”には、“あくまでも自分を肯定する”そんな意識が含まれやすいような気がします。

それを自覚出来ないことも多いと思います。また自覚しているつもりでも、抗えないことも多いと思います。

 

世の中には、自分がそうなら、他者もそうだということがあると感じます。この国で生まれ育った人のなかには“自分の国を愛している”人が多いと思います。ほかの国で生まれ育った人に中にも“自分の国を愛している”人が多いと思います。

2014年3月30日日曜日

ゆるやかな春


 今朝、つくしが長くなっていることに気づきました。

 少し前に、つくしの子が恥ずかしげに顔を出したのを見つけたのですが、もう随分長くなっています。

 もう春なのだと感じます。

 

 何度か書いているような気がしますが、子供のころつくしを大量に摘んで遊んだ覚えがあります。ただ、今ではその記憶も随分と薄らいでいます。

 ゴールデンウィークだったような気がするのですが、今の時期につくしがこんなに伸びているのですから、もっと早い時期だったはずです。

そう考えると春休みだったのかもしれません。その記憶がいつの間にかゴールデンウィークにすり替わったような気がします。

 

 友達と土手に行って、沢山のつくしを取ったのです。大量に摘んで、袋に詰めて家に持ち帰りました。ただそれだけのことです。

でも、とても楽しかったような気がします。だから薄らいでいるとはいえ、今でも記憶に残っているのだと思います。

 つくしやたんぽぽは食べられると聞きますが、僕はどちらも食べたことはありません。

 あの時も、多くのつくしを取って持ち帰ったものの、それを食べたわけではありませんでした。おそらく捨ててしまったのだろうと思います。

 あのころは、どこにも土がみえる地面があり、どこにも草が茂っていたと思います。家の周囲にも土の地面が多かったというか、それが当たり前だったような気がします。集めたつくしはその辺に撒いたのではないかと思います。

 

 あの日、つくしをなにか使うために、大量に集めたのではありませんでした。ただ単につくしを摘んで集めただけです。それ自体が目的であり、それ自体を楽しんでいたような気がします。

 では、なにが楽しかったのだろうかと考えてみます。袋のなかのつくしが増えていくことに心地良さのようなものを感じたのかもしれません。

 また、そこに茂っているつくしを取り尽くそうとしたのかもしれません。つくしを取った周囲を眺めて制覇したような気分になっていたのかもしれません。

 

 ただ子供のやることですので、本当に土手のつくしを取り尽くすことなどなかっただろうと思います。

 子供の感覚で大量でも、土手には取りつくせないほど無数のつくしが茂っていただろうと思います。

 また子供は、何時間もつくしを取っていたら飽きてしまったと思います。楽しい記憶となっているのですから、飽きる前に夕方になり、家に帰ったのだろうと思います。

 

 思い起こしてみると、姪がまだ幼いころ公園で遊んでいるとき、虫かごに収まりきれないほどセミを捕まえている子供と、抱えきれないほど藤の実を取っていた子供を見かけました。

 幼い子供は、何かを大量に取ることに楽しさを感じるものなのかもしれません。

 

 そんなことを思っていると、ふと今年の春はゆるやかにやってきているような気がしました。

 個人的に春という季節がきらいなのですが、今年は“春が来ている”という感覚があまり強くないような気がします。

 振り返ってみると、気温は上がってきているものの、穏やかに暖かい晴天が少ないと感じられます。

 記録などを調べたわけではありませんので、あくまでも個人的に感じていることですが、晴天の日はあるのですが何日か続くことが少ないような気がします。また、その晴天も、晴れてはいるものの、なんとなく“春らしさ”のようなものが弱いような印象があります。

 

 思い返すと、この辺の今冬は“冬らしさ”が強くなかったと感じられます。

全国各地では大雪による被害があったと聞きます。新潟県内でも、大雪に見舞われた地域があるようです。ただここ新潟市平野部では、雪はあまり積もりませんでした。

 また、寒さもそれなりに厳しかったのですが、もっと寒い冬を何度も経験しているような気がします。

 

 個人的に真冬や真夏は“強い季節”という印象を抱いています。

その“強い季節”終わろうとしていると感じると、そこにさみしさのような気持ちが含まれているような気がします。

寒い季節や暑い時期、体と心と頭はその寒さや暑さに対して身構えているような感があります。

頭は、寒さに耐える方法や、暑さをしのぐ手立てを自分の意思で考えているのですが、体や心は自然に寒さや暑さに耐えようとしているような気がするのです。

 

それが、寒さが緩んでくると、寒さに対して構えている体と心と頭が肩すかしをくらうように感じるのです。

冬という存在感の強い季節が終わっていくことを、頭で認識する前に、体と心が感じ取っているような気がします。

そのため、さみしさのようなものを感じるような気がします。

それが、この冬この辺りでは、冬の強さがひかえめだったような気がします。そのため春の訪れをゆるやかに感じているのかもしれません。

2014年3月29日土曜日

お手軽な言葉


 最近、「気持ち悪い」という言葉の使い方が広がってきていると感じます。

「気持ち悪い」という言葉が”便利に使われている”とか“手軽に使われている”という印象を抱くこともあるのです。

 そこで改めてこの言葉について考えてみると、手軽に使われるのは、大分以前から見られる傾向だったような気がしてきます。

 

かつて「気持ち悪い」という言葉は、体の調子を表すことが多かったと感じます。胸やけや吐き気などです。

かつて「気持ち悪い」という言葉で心の動きを表す場合、嘔吐を誘うような不快感に対して用いられることが多かったような気がします。嫌いな昆虫や動物の死骸などを目にしたときなどです。

それが不快感や悪感、嫌悪感など、好ましくない感情全般を抱いたときに「気持ち悪い」という言い方がされるようになったと感じます。

 

また、そのような好ましくない感情全般を感じる対象に対しても「気持ち悪い」という言葉が使われるようになったと感じます。

そしていつごろからか、“人間”つまり他者に対して使わることが急増したような気がします。「気持ち悪い人」の「人」が略された言い方だと感じます。

それがさらに縮められ、「キモイ」という言葉になったと感じます。

 この「気持ち悪い」や「キモイ」は、反感や嫌悪感など、あらゆる好ましくない感情が込められていて、かつてよりも意味合いが広がっているような気がします。

 しかしどれだけ意味合いが広がっても、悪い意味合いばかりだと感じます。

 

 こうして考えてみると、以前「気持ち悪い」は、どちらかというと自分の内面的な要素を言い表すことが多かったような気がします。

 それが次第に他者など、自分以外の事物に対して使われることが増えたような感があります。

 そして他者を侮蔑し、攻撃する言葉として使われることが多くなったと思います。

 

 最近「気持ち悪い」といういい方は、さらに使い方が広がっているように見られます。

 不快感や嫌悪感だけでなく、上手く言葉で言い表すことが出来ないものの、なんとなく違和感を覚える場合にも使われていると見られます。

言葉では説明しにくいのだけど、なんとなく収まりがわるいとか、明確に批判できないのだけど賛同できないとか、なんとなくしっくりこないとか、どこか不適合に感じるとか、なにか不釣合いに感じるとか、どことなくぎくしゃくしているとか、なぜか好感がもてないとか、なにかいまいち納得できないという場合などにつかわれているように見られます。

「政治家の答弁は、今までと言い回しが変わっていて、なんか気持ち悪いな」とか「当局の対応は一貫性がなくて、気持ち悪かったんだけど」とか「この論評、非難しているみたいだけど、的が絞れていないというか、なんか気持ち悪いよ」などです。

 

 また、合理的、論理的に批判できないものの、好意的な感情をもてないとき、嫌な相手だと言い表す端的な言葉として「気持ち悪い」が使われることがあると感じます。

「うっかりコピーとファックスのボタンを押し間違えただけなのに、複合機の使いかたを一から説明してくるんだよ。あの先輩、ほんとに気持ち悪いよ」

「あの客、私より商品知識があるのよ。こっちが知らないことを客が説明してくるんだもの。かなり気持ち悪いんだけど」

 

それを本人に向けると、合理的、論理的に批判できないものの、好意的な感情をもてないとき、相手を攻撃する端的な言葉になると思います。

「便座のことで、いちいち文句いうなんて、お前マジで気持ち悪い」

 

「気持ち悪い」という言葉は、あらゆるよくない事物や感情に対して、便利でお手軽に使われていると感じることがあります。

そう考えていると、「気持ち悪い」とはそういう言葉なのかもしれないという気がしてきます。

 

ここでは「感情」や「気持ち」という言葉を使うことがあります。

どちらも人間の心の動きを表す言葉として用いています。

人間はなにかと心の動きに支配されるものだと思います。

そしてそれは、自分が思っているよりも強い支配である場合もあると思います。

何度か書いていますが、自分では、冷静に客観的に、一切の感情を排除して思考し、判断しているつもりでも、実は“つもり”になっているだけだと感じることがあります。

 しかしそれを自覚していない人が多いような気がします。

 

「気持ち悪い」という言葉が、便利でお手軽に使われるのは、人々が語彙を蓄えなくなってきた表れかもしれません。

 また言語による表現力がおちているのかもしれません。

 

ただ人間の心は非常に複雑だと思います。そもそも心を言葉で言い表すことが難しいような気がします。

さらに、人間社会は複雑になる一方で、多様化し続けているように感じます。

複雑で多様なことを言葉で表現するのは難しいものだと思います。

そのため、詳細に言い表すのではなく、なんとなく感覚が伝わるような言い方が増えているのかもしれません。

その際に、「気持ち悪い」という言葉は便利なのかもしれません。

2014年3月28日金曜日

人類初の調味料


味覚は多くの生き物に備わっている感覚だと思います。

 少しまえに“味”について書きました。ゴキブリが甘味に引き寄せられなくなっているという話題を取り上げたのです。

 その話題を耳にしたとき、ゴキブリも味覚があるということに、改めて気づいたように感じました。

 考えてみれば、ゴキブリが甘味を好むことはそれほど意外ではないのですが、今まで特に考えることがなかったような気がします。

 そのため、『ゴキブリも味覚があって、しかも好き嫌いがあるんだな』と感じたのです。

 詳しいことは忘れてしまいましたが、ゴキブリは触覚で味を感知しているようです。

 

 昆虫も味覚を持っているのだと考えていると、ミツバチも花の蜜の味を感じ取っているのではないかということが浮かんできました。

ただ昆虫も味を感じると思うと、当たり前だと思いながらも、少し意外な気がします。

 人間の味覚は感情に繋がりやすい感覚だからかもしれません。“美味しい”とか“まずい”とか“好きな味”とか“嫌いな味”というのは、感情といえるような気がします。

 そして、人間は“甘い”とか“辛い”を感知すると、すぐに“美味しい”とか“まずい”という感情を抱くような気がします。

 そう考えると、味覚は感情と直結している感覚といえるかもしれません。

 

 人間の感情に直結した感覚が、昆虫にもあると聞いたため少し意外に感じたのではないかと思います。

視覚や嗅覚は、昆虫や魚類、爬虫類、哺乳類あらゆる生き物に備わっていると聞きます。味覚もその一つなのかもしれません。

“美味しい”とか“まずい”とか“好き”とか“嫌い”などと感じる前に、生き物として生き延びていくために必要な感覚なのかもしれません。

 

 考えてみれば、味覚は栄養摂取とつながっている感覚だという気がします。

 多くの生き物は、栄養を取り入れなければ生きていけないと思います。そして多くの生き物は、食べることで生きるための栄養素を取り入れていると思います。

 味覚は、生きるために必要な栄養素を判断する感覚といえるかもしれません。

 また毒を食べてしまっては生きていけません。そのため味覚は、食べてはいけないものを判断するための感覚でもあるのかもしれません。

 そう考えると、味覚は生物にとって非常に重要な感覚といえるような気がします。

 

 人間も例外ではないような気がします。味覚は本来、生物として生き延びていくため、人間に備わっている感覚だったと思います。

 それが次第に“美味しい”と“好き”などの感情を呼び起こすことを重要視するようになったのかもしれません。

 詳しい知識はありませんが、僕の知る範囲では、食べ物に自分で味をつけるのは人間だけだと思います。

 味覚が生物と生きていくために判断する感覚だとすれば、味はそのままでなければならないと思います。

 味を変えてしまったのでは、それが必要な栄養素を含んでいるのか、毒になる成分がないか、味覚で判断することはやりにくくなると思います。

 

 それでも人間は食べ物に味をつけるようになったのだと思います。

 それは味をつけて“美味しい”と感じることで、より多くの食べ物を摂取したくなるためかもしれません。つまり味付けすることで、食べたいという意欲を強めたということです。

 それならば、味付けも“生き物として生きるため”の行為といえるかもしれません。

 しかしそれよりも、味をつけることで“美味しい”という心地よい感情を抱いたことが大きいような気がします。

人間は、その心地よい感情を求めるようになったような気がします。

 

 人間の知能が発達することで、生き物として生き延びていけるようになってきたためかもしれません。

生きていくために味覚を使う必要性が低くなったということです。

それで人間は味覚を、感情を満足させることに振り向けるようになったのかもしれません。

 

人類はいつごろから、自ら味付けするようになったのかわかりませんが、こうして考えていると、ヒトという生物にとって随分大きな出来事だったような気がします。

人類が初めて作った調味料は酢だと聞いたことがあります。酒など発酵させる技術を得たことで、酢をつくり、それを調味料として使っていたようです。

そのように人間の手によって調味料を作り出すまえに、自然界に存在するもので味付けしていたのだろうと聞きます。

そうなるとそれは塩だと考えられているようです。

 

塩や酢を得ることで、人類は“味覚”という感覚の使いかたが変わりはじめたのかもしれません。

ただ、塩や酢は食べ物の保存に効果的だと聞きます。またどちらも、殺菌効果があるものです。

人類はじめての調味料は、生き物として生きていくためにも、役立ったのかもしれません。

2014年3月26日水曜日

冷静に状況を分析し判断し処理する


 昔から、あらゆる物語にロボットが描かれていると思います。

 ただ物語に描かれるロボットは、物語だから存在しうるのであって、実現するわけがない、長い間そういう観念があったような気がします。

 しかしロボットの開発は、どんどん物語に近づこうとしていると感じることがあります。

 今、ロボットに求められてきているのは“自律性”だと聞きます。

 つまり、人間が操縦するのではなく、また人間がすべての指示を出すのでもなく、ロボットが自分で判断し自ら行動するということです。

 

 それは、人間が立ち入ることが出来ないような危険な場所での作業などで有効だと考えられます。

その危険な場所が人間との通信が出来ない状況であっても、ロボットが自ら判断して行動できるなら、必要な作業をすることが出来ると思います。

また、事前にプログラムしたことだけをこなすロボットでは、人間と連絡を取り合うことが出来ない環境では、予期せぬ事態に対応できないと思います。

自律的に判断し行動するロボットでしたら、そのような状況でも対処できることがあると思います。

 

日本では、実際にそのような状況があると思います。

福島第一原発事故では、『日本は高いロボット技術があるんじゃないの? 何かここで使えるようなロボットはないの?』何度もそんな考えが浮かんだものです。

それは今でも変わらないと思います。原発は人間が立ち入ることが出来ない場所を、一瞬で作り出すことがあるといえるかもしれません。

しかも、そんな場所を作りだすのは一瞬でも、人間が立ち入ることが出来ない状況は、非常に長い時間になるといえるかもしれません。

そうなると、自律性をもつロボットは有効だと思います。

 

人間にとって危険な場所に、戦場があげられると思います。

身だけでなく心にも危険だと思います。

人間が人間の命を奪う場所が戦場だと思います。人間に人間の命を奪う判断をさせるのが戦場だと思います。

 

『神父の格好をしているが油断は出来ない。銃を隠しもっているかもしれない』

『子供だが油断は出来ない。ここでは子供も銃を持っている』

『女だからといって油断は出来ない。爆弾を抱えているかもしれない』

 

人間の兵士だったら、神父や子供や女性がほんのわずか不審な動きをしただけで、引き金を引くかもしれません。

一瞬の判断が遅れ、神父にふんしたテロリストが爆弾を爆発させてしまうかもしれません。

それを想定しなければ兵士は務まらないかもしれません。想定出来ない兵士は、それゆえに命を落とすかもしれません。

そしてその想定には、恐怖心がくっついているものだと思います。

“本当に神父かもしれない。でも間違っても構わない。こっちが先に撃つ。そうしなければ身を守れない”

兵士にはそういう意識があるのかもしれません。

 

ロボット兵士なら、神父が確実にテロリストだと判明するまでは引きがねを引かないように設定することが出来るかもしれません。

もし判断が遅れて神父にふんしたテロリストが爆弾を爆発させたら、ロボットは壊れるでしょうが、修理できるかもしれません。修理が出来ないなら、新しくロボットを作れば済むかもしれません。

ロボットならば、“本当に神父かもしれないが、身を守るために間違っても構わないから先に撃つ”絶対にそれをしない設定にすることが出来るような気がします。

そうなると、ロボット兵士を導入することで、民間人の犠牲者を減らすことが出来るかもしれません。

 

 人間の兵士は不安に駆られて引き金を引くことがあるかもしれません。恐怖に囚われてスイッチを押すかもしれません。怒りにまかせて火をつけるかもしれません。

 そして、自らの心を病むかもしれません。

 ロボット兵士は、感情に左右されず機械的に状況を分析し、必要だと判断した場合のみ、そうするべきだと判断した人間のみを殺す、そのように設定することが出来るかもしれません。

殺戮する人数を必要最低限にすることが出来るかもしれません。

 

 しかし、それは非常に危険なことだと思います。核兵器より危険だと思います。

“必要最低限の人間を殺す”それは一見すると人道的に見えるかもしれません。しかしだからこそ歯止めが利かなくなると思います。

 人間を殺すのがロボットでは、そのロボットを生み出したのが人間だとしても、人間は罪悪感を持ちにくいような気がします。むしろ、市民の犠牲者を減らすことが出来たと誇らしく感じるかもしれません。

 そうなるとロボット兵士はどんどん増えていくかもしれません。そして“必要最低限の殺戮”がどんどん行われるかもしれません。

“機械が極めて冷静かつ客観的に判断し、必要最低限の人間を殺す”
 人間はそれを際限なく繰りかえすかもしれません。

そして、核兵器より多くの人間の命を奪ってしまうかもしれません、

ロボット兵士の本当の恐ろしさは、人命を機械的に処理することかもしれません。

それは人間の心を麻痺させるかもしれないと思えるのです。

 人間はその恐ろしさを、小さく見積もり過ぎていると感じるときがあります。