2014年5月31日土曜日

51対49

「俺様が決めたことにはだまって従え」

「我が輩は統治能力に秀でている。我が輩に勝るもなどいないのだ。皆のものは我が輩の支持に従っていればよい。我が輩に黙ってついて来れば幸せに暮らせる」

「私に高い知能がある。しかも慈悲深く、思慮深く、常に見識を深める努力を怠らない。決して独りよがりにはならないし、独断で決めることなどしない。広い視野で物事を見極め、皆の意見に耳を傾け、先のことを見据えて物事を決めているのだ。だから皆の者は私の決定に従いなさい。そうすれば間違うことはない。皆が幸せになれる」

 一人の人物により、国の意思決定をする仕組みがあると思います。
 昔は、そのような国が多かったような気がします。 絶対的な権力を持つ一人の人物によって統治される国です。
 そのような国では、統治者である一人の人物の資質の有無や人間性によって、国のあり方や国民の暮しが大きく左右されるのではないかと思います。

そのため、国民に敬われ、慕われ、感謝される統治者もいれば、嫌われ、疎まれ、蔑まれている者もいると思います。
反乱がおきることもあったと思います。それによって別の人物が統治者になることもあると思います。
一人が統治者になる仕組みそのものを、打ちこわすこともあると思います。

 今の世界では、一人の人物が統治する国は少なくなっていると感じます。
 政治に、みんなで話し合って決める仕組みを取り入れている国が多いような気がします。
“みんなで話し合って決める”
 民主主義の理念はそこにあるのかもしれません。

 ただその仕組みのなかでも、強い権力を持っている人がいるように見られます。
 みんなで話し合って決めるにしても、“国”なると“みんな”が多く、また多様だと思います。全国民で話し合うことは、物理的に不可能な場合が多いと思います。
 そこで“みんな”から代表者を選び出したり、いつくかの集団にまとめたりしているのだと思います。
 そのようなことから、強い権力をもつ少数の人物が生まれることがあると思います。

 ただその権力は、昔ほど強くない場合が多いと感じます。
今の人間社会は、昔より権力が強くなりにくいような気がします。
仕組み、社会の構造、人々の意識、などが変化しているためかもしれません。
権力には奪い合いがつきものだと思いますし、現代は情報技術の発達し、利害関係や人間関係の複雑になり、一人の人間に長い間、権力が集まる状況にはなりにくいと感じるのです。

また、今の社会は昔より意見がまとまりにくいと思います。
やはり情報があふれ、あらゆる繋がりが複雑になっているためだと感じます。社会の雰囲気や国民の意識も、昔とは変わっているような気がします。
“みんなで話し合って決める”
 それが昔より難しくなっているといえるかもしれません。
“いくら話し合っても決まらない”
そんなことばかりだという印象があります。

しかしいくら話し合っても決められないからといって、いつまでも決めないわけにはいかないものだと思います。
決めなければならない事柄があるから話し合っているのですから、いつかどこかで決定しなければならないと思います。
決め方の一つに多数決があると思います。

民主主義は原則的に多数派の意見が採用される仕組みだと思います。
しかしそれ以前に“みんなで話し合って決める”のが、民主主義の理念だという気がします。
つまり、話し合っても決まらないときの最終的な決定手段が、多数決だと思います。
そして最終的な意思決定手段であるがゆえに、その決定は厳格に守られなければならないと思います。

「51対49でも、多数派に決定する」
 すごいことを言っている印象を受けます。
 しかし意見が拮抗しているからこそ、話し合いでは決まらないようにも思います。
 話し合いでは決められないからこそ、最後の手段である多数決で決めなければならないのだと思います。
 そう考えると、“51対49”になりそうな事柄についてこそ、多数決で決めるべき事柄だといえるかもしれません。

そして多数決は最終的意思決定手段であるのですから、決定されたからには“49”の意見は採用するべきでなく、それを受け入れなければならないと思います。
多数決は少数派を切りすてる仕組みだといえるかもしれません。
ただ少数派を切り捨てることが、社会全体にとって必ずしも良いことではないと思います。
そのため多数決をやり直すこともあると思います。
 
しかし民主主義において多数決は最後の手段であるとすれば、何度もやり直すべきではないような気がします。
少数派の意見を組み込むのなら、“みんなで話し合う”段階で行うべきだという気がします。
 つまり、話し合いにおいて少数派の意見を取り入れることが求められると思います。
 意見の対立が拮抗している場合なら、話し合いにおいて考え方の差を縮めることが求められると思います。
 つまり、妥協や譲歩が必要だということです。

「私の意見が絶対に正しい。一切妥協も譲歩もしない。仮に多数決で少数派になっても、絶対に従わない」

 民主主義の質が劣化している表れかもしれません。

2014年5月30日金曜日

いっぱい食べて大きくなるんだよ


 以前、人類が狩りを始めた頃のことを想像して、ここに書いたことがあります。
 大昔の人類は武器を使って狩猟をしていたと学校で習いました。おそらくあらゆる痕跡があるのだろうと思います。
 ただ大昔のことですので、わかっていないことも少ないと思います。それだけに素朴な疑問が浮かぶものです。それを空想するのは面白いことです。

 くわしい知識はありませんが、人類がどのようにして武器を使うようになったのか、
まだ解明されていないのだろうと思います。
以前ここに書いた空想は、人類は狩をするようになった早い段階から、投げる武器を使っていたのではないかという内容だったと思います。
もしかしたら、手で持つ武器より先に投げる武器を使っていたかもしれないと書いた覚えがあります。

人類は、まず手で持って打ち付ける武器を使うようになり、それから投げつける武器を生み出したとされています。
そこでふとした疑問が湧きました。手で持つ武器は、獲物に近づかなければ役には立たないと思います。しかし二足歩行する人類は、他の動物より走る速度が遅くなったと思います。
人類が二足で走っても、大きな動物の多くにも、小さな動物の多くにも、かなわないような気がするのです。
しかし獲物に近づかなければ、手で持って打ち付ける武器は使えないと思います。

そう考えると、まず石などを獲物に投げつけ、動きを止めたり鈍らせたりしていたのではないかと思ったのです。
そうしてから近づいて、手で持つ武器で仕留めたということです。
その武器の始まりは、自然のままの石や太い枝などをぶつけていたのかもしれません。つまり加工した武器ではなく、自然にあったものをそのまま使ったということです。
それでは仮に現在までその石が残っていたとしても、それが武器として使われたことはわからないと思います。
 
 やがて人類は自分で道具を作るようになったのだろうと思います。自然にあるものをそのまま使うのではなく、手を加えるようになったということです。
初期の加工は単純だったと思います。しかし次第に加工には手が込んできたと思います。
そして人類は石斧や石槍を生み出したのだと思います。
その斧や槍は、手で持って打ちつけたり突き刺したりするだけでなく、投げつけていたのかもしれません。
 つまり、手持ちと投擲の兼用武器だったということです。
 
もしかしたら、はじめは投げやすくするために、石に柄をつけたのかもしれません。それが手で持って打ち付けたり突き刺したりすることにも有効だったため、兼用するようになったのかもしれません。
つまり投げる武器が先に生まれたということです。

 それにしても武器を必要としたのは、人類の身体能力が他の動物より劣っていたことが理由の一つだと思います。
大きい動物にも小さい動物にも、人間は走って追いつくことは出来ず、また走って逃げきることも出来なかったと思います。
そのため、武器が必要だったのかもしれません。
 二足歩行によって人類は“手”を得て、脳を進化させたのだと思います。しかしその代償して身体能力を手放したのかもしれません。

 以前そのようなことを書いたのですが、それを思い出したのは、昨日インターネットで、ヒトの脳の進化は筋肉の退化を代償としているという記事を読んだからです。
 専門的なことはわかりませんので、記事を読んだだけでは勘違いや理解不足があるかもしれません。
どうやら、人類は脳で多くのエネルギーを消費するようになったために、筋肉が消費するエネルギーが減ったという研究結果があるようです。
それによって脳は進化したものの、筋肉は退化したと考えられるようです。

人類は、臓器によって進化の速度が違っているそうです。例えば腸は急速に進化したとのことです。またヒトにはサルから退化した臓器や部位もあるようですが、その退化の速度も臓器や部位によって違っているようです。
筋肉は、退化した速度が他の臓器に比べて突出して速いとあります。
そして脳は、進化した速度が極めて速いようです。
そのことから、脳と筋肉は同じエネルギーを消費していると考えられるようです。そうなると、脳が多くのエネルギーを消費するには、筋肉の消費するエネルギーは減らなければならなかったと考えられるようです。
すなわち脳が進化するには、筋肉が退化しなければならなかったということのようです。

また、人類の進化や文明の発展により、人間の生活が筋肉を使わなくても済むようになったため、筋肉が急速に退化したわけではないようです。生活による筋肉の衰えは、ほんのわずかだとみられるようです。

人間は強い筋肉を失って、大きな脳を得たのかもしれません。それは生物として生き延び、子孫を残すためだったのかもしれません。進化における多くの必然性と偶然性のひとつなのかもしれません。

2014年5月29日木曜日

魔球はハリケーン

“ヒトはなぜ右利きが多いのか?”
先日インターネットで、それを取り上げている記事を目にしました。どうやらインターネットの質問サイトに、そのような疑問が投稿されたようです。
僕はそのサイトは見ていませんが、この記事によると様々な仮説や推論と、反論が書き込まれたようです。

“ヒトはなぜ右利きが多いのか?”それは簡単に答えが出ることではないと思います。色々な分野の研究が必要だという気がしますし、その結果が矛盾することや、意見が対立することもあると思います。
それに仮説が立てられたとしても、それを客観的に証明することが難しい事柄だと思います。

ただそういう事柄を、素人なりに考えることは楽しいものだと思います。
科学的にはっきりさせようというのではなく、あくまで自分なりに仮説を考えるのです。それは空想することに近いものがあるような気がします。
それは面白いことだと思うのです。

僕は質問サイトを見ていないので、勘違いや理解不足があるかもしれませんが、記事に書かれていた仮説を上げてみます。
〈多数派が有利になるような進化が働いたため〉という説があるようです。道具が全て右利き用に作られているため、それに合わせて進化したということかもしれません。
〈そもそもなぜ右利き用に道具が作られたの?〉という反論があったそうです。
 これだけしか書いていないのですが、それだけで考えると、人類の祖先が道具を使い始めたころ、相対的に右利きが多かったためそれに適した道具が作られ、それを使いやすくなるために進化し、さらに右利きが多くなったということのような気がします。

〈人類の祖先が木の上で暮らしていたころ、左手で枝や幹をつかんで、右手で果実を取っていた。それば左側から転落することを防ぐため。つまり木から落ちても、心臓側が地面にたたきつけられないようにする用心であり、そのことから右利きが多くなった〉という説もあるようです。
〈心臓は体の中央にあるので、その仮説は成立しないのでは?〉という反論もあるようです。
 このやりとりについて考えると、今は心臓が体の真ん中にあるという知識がありますが、サルだったころにはそれはないと思います。
鼓動は左側で感じるので、それを守ろうとするため本能的に左手はなるべく体から離さないようにしていたかもしれません。そのため右利きが増えたのかもしれません。
 転落時、心臓の衝撃を和らげるというのもあり得ないことはないような気がします。

〈コミュニケーションを高めるため左脳が発達した。左脳は右腕の運動を司っているため、左脳の発達は、右腕の運動を活発にしたため右利きが増えた〉という説も唱えられているようです。
〈左利きの人はコミュニケーションが下手ってことになるけど〉
〈左利きの知人はコミュニケーションが下手ではありませんし、左右どちらの手を使える人も多いです。また左利きの人は、優秀な人が多いです〉
 そのようなやり取りがあったそうです。

 左脳は論理的な思考をするところで、右脳は映像など感覚的に捉える役割があると聞きます。
ただ何年か前、人間の脳にはまだわかっていないことが多く、一般的に言われている右脳と左脳の役割についても、実はまだ解明されていないという話を目にしたことがあります。
 そこでその点も仮説になりますが、右利きが多いことは脳の進化に関わりがあるような気がします。

“手を動かすことで脳が進化し、脳が進化することで手はさらに複雑な動きをするようになった。そしてまた脳は進化した。その循環が人類の進化に貢献した”
 そのようなことを見聞きます。つまり、手の動きと脳の働きは密接な関係があると思われます。
 そうなると利き腕も、脳の働きや進化と深くかかわっているような気がします。
 
個人的な考えですが、役に立つ道具を考えだし、手を使ってそれを作るには、論理的な思考が必要だと思います。
 また、複数の個体が集まって社会をつくっていくために、言語や筋道立てた考え方が大切だったように思います。
 つまり左脳が活発に働くことになり、それによって右手が使われることが増え、また器用になっていったのではないかと思うのです。
 必然的に道具は右手で使うように作られるため、それに合わせて右利きの人が増えたのかもしれません。

 ただ道具を考え出すにしろ、集団生活を送るにしろ、感覚によるところも少なからずあると思います。それに左脳と右脳、どちらかだけが極端に発達するのではなく、引っ張りあうように脳全体が進化したのではないかと思います。
 また、右利きが増えたものの、左利きの人がいなくなることはなかったような気がします。
 
 左利きの人は、先天的に右脳のほうが優先して働くのかもしれませんし、左脳より発達しているのかもしれません。 
そこで右利き向けの社会に適応しなければならないため、左脳が鍛えられるのかもしれません。

そのため、あらゆる分野において高い能力を発揮する人に、左利きが多いのかもしれません。

2014年5月27日火曜日

今の世界にあふれる矛盾

今の世界では、戦争して得する国はないように思います。
 ここ数十年を振り返っても、『戦争をやってよかった』そう思える国はないような気がします。
先の大戦が終わってから70年近く経ちますが、その間この世界では何度も戦争が起きていると思います。
その戦争で何かを得た国があったのか考えると、そんな国はないような気がします。
勝ち負けさえ明確に出来ないまま、終わった戦争もいくつもあるように見えます。
終わったことさえ有耶無耶になっている戦争もあるかもしれません。

それらの戦争は国を疲弊させ、国の発展を遅らせ、国民の暮しを貧窮させ、そして何よりも多くの命を犠牲にしたと思います。
“それで国は何を得た?”
“失っただけではないのか?”
それでは犠牲に対して申し開きができないため、よかったことを無理やり見つけようとしていると感じる時があります。
 しかし見つからないため、見つけることをやめてしまったと感じることもあります。

『今の世界には、戦争して得する国はない』
そう考えている人はいると思います。今の世界で戦争をやりたがっている国はないといえるかもしれません。
 軍備を強めている国にも、戦争をやりたがっていない政治家が何人もいると思います。
 
 もちろん国には大勢の人間がいて、その一人一人が自分なりの考えを持っていると思います。
 その中には、戦争をするべきだと考える人もいると思います。戦争をすれば国が良くなると訴える人もいると思います。
『我が国の軍は以前より各段に強くなった。今なら勝てる』そう考えている政治家がいるかもしれません。
『我が国の軍は以前より格段に強くなったが、盤石を期すためにさらに強化するべきだ。それから戦争は始めればいい。そうすれば我が国は世界の覇者になれる』そう考えている軍人がいるかもしれません。

『損得ではない。世界の秩序を守るために我が国は戦うべきなのだ』
 そう考えている人がいるかもしれません。
『我が国が戦うことで世界の秩序は守られてきたのだ。我が国は戦争をしなければならないのだ。そして我が国は強くあり続けなければならないのだ』
 そう考えている人もいるかもしれません。
 
それにしても、今の世界で『我が国は戦争をするべきだと』と考える人は決して多くないと思います。
各国の国内事情や他国との関係は様々だと思います。戦争について、一概には語れないと思います。
しかし各国の事情うんぬん以前に、世界の全体のあり方が“どの国であれ戦争をしても、いいことはない”という形になっているように見えるのです。
そして、多くの人はそれを感じていたり、そう考えていたりしているような気がします。

しかし近ごろ、人々の意識に矛盾を感じる時があります。
『戦争してもいいことはない。戦争はするべきではない』そう考えたり感じたりしているものの、『国の正当性を強く主張するべきだ。他国の主張は間違っている。武力を強化するべきだ』という意識が高まっているように見られます。
 そのような強硬志向は、国家主義や国粋主義に繋がりやすいような気がします。

 しかし強硬志向が強まっているのは、世界的な傾向だと思います。
国民の意識のなかに『国は強い姿勢を示せ』という意識が強まっていると思うのです。
 政治家にも強硬志向の人間が増えていると感じます。それは国民の志向が反映されているのだと思います。選挙結果として、“国は強く出るべし”という政治家が増え、それを掲げる政党が議席を伸ばしていると感じます。

また国民から「国は強く出るべし」という声が上がるため、それに政治家が押されることもあると思います。
強い姿勢を示すと支持率があがる、そんな傾向が世界的にみられると感じます。そのため政治家は強く出るような気がします。思惑どおり支持率はあがるものの、それが本当に国にとっていいことかというと、先を見据えるほどそうとは思われないことも多いと感じます。

『戦争するべきでない』
『国は強く出るべきだ』
 その二つは必ずしも相対するわけではないかもしれませんが、やはり矛盾をはらんでいると思います。
 しかも、多くの国にこのような風潮があると、一瞬で意識が変わることもあり得るような気がします。
『戦争はするべきではないかもしれないが、仕方ない。向こうが悪いんだ』
『やはり戦争をするべきなんだ。我が国のためだ』
『戦争すべきじゃないなんて言ってんのは誰だ。それは間違いだったんだ』

『戦争するべきではない』それは思考に基づく意識であり主張だと思います。
『国は強く出るべきだ』それは感情に引かれた意識であり主張だと思います。
強硬志向は感情に流された意識による場合が多いと感じます。ただ多くの人はそれを自覚していないような気がします。

それがいつか、損失と悲劇と憎悪を生むかもしれません。

2014年5月26日月曜日

印象に媚びた先

 民衆が動くこと、その力が強くなっていること、民衆が動いたらなかなか収まらないこと、それは世界的な傾向のように感じます。人間社会の傾向といえるかもしれません。
 ただ今にはじまったことではないと思います。ずっと昔から、数え切れないほど起きてきたことだと思います。
 それなのに近年の傾向だと感じられるのは、このところ大規模なデモや暴動を目にすることが増えているからだと思います。

現代社会は、政治的な信条も、他論を否定する意識も、強まる風潮があるような気がします。
また権利や利害に対する意識も高まっていると思います。自分がそれらを得られていないと知れば、不満を覚えるものだと思いますし、得られているならば手放したくないと思うものだと感じます。
歴史の中にある民衆の動きも、現在進行しているそれも、権利と利害による場合が多いように見られます。

独裁者が国民の権利を奪っているために、民衆が“集団の力”を振るうことがあると思います。
一人あるいは一握りの政治家が、利益をむさぼっていると感じた民衆が、それに反発して行動を起こすこともあると思います。
政治家が選挙で票を得るために地方に媚びる政策をしたため、今まで得られていた利益がなくなることに反撥して都市部の民衆が行動を起こすこともあると思います。
都市部で既得権益を抱え込んでいる者がいるため、地方が貧しいままなのだと考えて地方の民衆が動くこともあると思います。

 ただ何事も効果的なやり方があると思います。
 要求があるときは、それを通すためのやり方があると思います。
 そのやり方は何通りかあると思いますが、やはりその中から最も効果的と思しきやりかたを選ぶべきだと思います。
 しかし、どのやり方が最も効果的かという判断が分かれることもあると思います。
 そして、その正解は結果論で語るしかない場合が多いと思います。
 
 それにしても要求を通すには、それを明確にしたほうがいいと思います。
「私たちの暮しをよくしてよ」と要求されたら、「わかりました。努力します」という答えになると思います。
 それで要求が通ったと思う人もいるでしょうが、そんな言葉では納得できないという人もいると思います。後者の方がずっと多いと思います。
 
ただ、具体的な要求をしたとしても、すべてが通ることなどない場合が多いと思います。
また騒ぎが始まってから“具体的な要求”をひねり出したのでは、“とってつけた”と感じられることがありますし、“端から無理だ”と思われることもあるように見えます。
それに「まず改革をするべきだ」という要求は、「私たちの暮しをよくしてよ」と同じくらい具体性がないと思います。
 
 そしてもう一つ世界的な傾向だと感じていることがあります。
“強さ”を見せる政治家の支持が高くなる傾向があるような気がします。
“自国の正当性を強く主張する。自国の利益になることを強く主張する。強さは武力に通じ、それを用いたり強めたりする。自国を最優先する観念を強く表す”
それらは外国に対する強い姿勢になって表れるものだと思います。
それを支持される傾向が、世界で見られるような気がするのです。

政治家や国民が“自国を最優先する”のはあたり前かもしれません。ただ外国に対して強い姿勢にでることが“効果的なやりかた”とは限らないと思います。
民衆の要求は常に具体性がないものかもしれません。
国の政治に対する要求も、外国に対する要求も、外国に対する姿勢もそうかもしれません。

現代社会では、情報のなかに民衆がいるといえるかもしれません。
そして民衆は“漠とした印象”として自国を最優先し、対立する事柄がある他国に反感を持っているのかもしれません。
なかには論理的な主張もあると思います。それは思考されるかもしれませんが、“漠とした印象”にも影響するものだと思います。そして対立意識や嫌悪感を高めることもあると思います。
それを自覚していない場合もあると思います。
他国に対立意識や嫌悪感が高まると、“強さ”を見せる政治家の支持が高まりやすいような気がします。
そして政治家はさらに“強さ”を見せて、人気を高めようとすることがあると思います。

 しかしそれはあらゆる危険性を孕んでいると思います。 
民衆は“強く出る”ことの影響や、先々のことなど見据えているわけではなく、“漠とした印象”に引かれていることもあると思います。
今の世界には“強さ”見せて支持率があったものの、身動きが出来ない状況になっている政治家がいるかもしれません。

 経済の影響は思いのほか大きく、しかし引き下がるように見えたのでは支持率が下がってしまうと思われ、そこで新興国に寄りそうことでゆさぶりをかけているものの、一筋縄でいく相手ではないし、複雑化したこの世界は対立に線引きすることは出来ないと見られます。経済が落ち込むようなことになれば、自国民の反撥が高まるような気がします。大国のリーダーは、はじめから袋小路に向かっていたのかもしれません。

2014年5月25日日曜日

なにを求めるか

 歴史を紐解くと、民衆が政治を変えることが何度となく起きているように思います。
記憶に新しい出来事でも、数十年前に起きたことは歴史といえるかもしれません。
そして近年、民衆によって政治が変わることが度々起きているような気がします。
現在、その事態の最中の国があると思います。

 民衆が大きな動きを起こすことは、歴史上いく度もあるものの、近年増えていると感じます。
 そして民衆による“集団の力”が強くなっているような気がします。
 影響が大きく、また広くなっていると感じるのです。
 そしてその影響は長引くようになっているようにも感じます。
 それは、なかなか収まりつかず事態は混迷するばかりといえるかもしれません。

 民衆の行動について何度か書いているような気がしますが、情報伝達技術の発展が一因だと思います。
 多くの人が同調して行動を起こすには、情報伝達が重要な役割を果たすと思います。
それに情報が氾濫することで、持論に固執する傾向が強まっていると感じます。それが対立意識を強めることにもつながっていると感じます。
持論に固執し、主張を強め、対立意識が強まり、集団が同調しやすい、情報の発展は社会をそのように変えたのかもしれません。
そしてそれによって、民衆の動きは大きくなりやすいような気がします。

そして時にその動きが、選挙によって選ばれた政治家を“集団による力”によって引きずり下ろすことにもなると思います。
選挙の結果である政治を“力づく”でひっくり返し、また選挙を行うような事態が起きているかもしれません。
選挙の結果である政治を“力づく”でひっくり返したものの、また選挙をやれば同じことになるとみて、選挙を行わない事態が起きているかもしれません。
それは選挙を否定しているといえるかもしれません。
民衆による“集団の力”は強くなり、その影響が大きくなっている表れかもしれません。
混乱が深まり長期化するのも、その表れの一つかもしれません。

また、民衆が動く理由は、常に“反撥”であると感じることあります。
それは現状を否定する意識といえるかもしれません。
そんな意識を共有する巨大な集団は、現状を壊すという方向に力が働くと思います。

しかし多くの場合、民衆には集団秩序や組織性が低いような気がします。そうなると、要求に具体性がない場合が多いと感じます。
現状を否定しそれを壊す、それが目的になっていると感じるのです。
その目的は集団の行動を起こしやすいものの、漠然としているというか、その先を具体的に描いていないように見えます。
それが混乱を大きくし、長引かせる理由になっていると感じることがあります。

昔、民衆が蜂起するとき、リーダーがいる場合があったと思います。
集団はリーダーがいると、自然に組織的な構造になるものだと思います。またリーダーが集団を組織にする場合もあると思います。
そして、リーダーや組織上層部によって要求が明確になり、集団の動きが戦略性をもつことがあると思います。

しかし組織内での権力抗争などが起こることもありますし、必ずしも統制が取れていたわけでもないと思います。
リーダーさえいえば、すべてよくなるわけではないと思います。
また現代社会は、民衆を率いる人物を受け入れない風潮が生まれやすいと思います。
しかしリーダーの存在は、このところの民衆には見られないことだと思います。
それは民衆の要求に具体性がなく、先を見据えていない理由の一つだと感じます。

ただそれは昔にも見られたことだと思います。具体的な要求はなく、民衆が勢いにまかせて動くことがあると思います。
そして“手におえない”状況になることがあると思います。
ただ現在は、昔より格段に“手におえない”と思います。
また昔より格段に“収まりがつかない”と思います。

近年は、社会的な繋がりが広く複雑になっていると思います。対立において、完全勝利という形にはなりにくいような気がします。
誰かが完全に勝利して争いが終わる、そんなことはあり得ない場合がほとんどだといえるかもしれません。

しかも争いが続くほど、損失ばかりが積もっていくと感じます。それでも人は争いを続けていると感じます。
完全勝利がない争いを終わらせるには、妥協や譲歩するしかないと思います。
しかし現在は、一切の妥協を拒否する風潮があると感じます。
権利と利害に対する意識の高まり、持論への固執、他者に対する攻撃性の高まりなどが理由なのかもしれません。
また民衆には“集団の力”があるため、妥協するべきだという声すらあげられないこともあるような気がします。

そして、妥協するにしても、譲歩するにしても、双方の要求や訴えが明確でなければならないと思います。
“今の政治はだめだ”それだけでは、妥協しようがないと思います。
民衆の要求は情緒的な場合も多いと思います。それが妥協を拒むことがあると思います。

そして争いや混乱が続くように見られます。