2014年6月30日月曜日

やる気があれば出来る


 野次だということは、それほど大きな問題ではないと思います。

“野次”ということが大きく取沙汰されることで、この問題の本当の大きさが感じられにくくなっているような印象を受けます。

 それは政治家にも、都民にも、国民にも、感じます。

“たかが野次で、大げさな”という感覚を持つ人も少なくないと感じるのです。

 

「産めないのか」という言葉そのものが問題だと思います。 

 また、このような言葉を女性に対して発する行為、それ自体が問題だと思います。

 それに、このような言葉が東京都議会という場で発せられることが問題だと思います。

 

 さらに問題なのは、野次を飛ばした議員が名乗り出ないことだと思います。

 名乗り出ないことも、謝罪しないことも、議員である前に人として軽蔑されることだと思います。

 また、誰が野次を飛ばしたのか知りながら黙っている議員がいることも、問題だと思います。

 政党も議会も本気で調べれば、野次を発した人物を特定することは、それほど難しいことではないと思います。

 それなのに都議会がこの件をうやむやにしてしまったことは問題だと思います。

 また、都議会に議席をおく政党が、この件をうやむやにしてしまったことは問題だと思います。

 

 そして『この辺で幕引きにしてもいいんじゃないの』という雰囲気が漂っているような気がします。

『たかが野次だろ。そんなに騒ぎ立てることもないだろ』

 そんな空気があるような気がします。

 都民が都政に対して関心が低いために、都議会議員の質が低くなり、質の低い議員ばかりなので東京都議会の質が低いのかもしれません。

 

 名乗り出た議員は、当初から疑われていたようです。しかし全面的に否定していたと聞きます。

ただこの議員が発した野次は鮮明に録音されていて、多くのメディアで繰り返し発信されていました。

それではいつまでも白を切ることが出来ないと考え、当初は全否定していたものの、一転して認めて謝罪をしたのかもしれません。

あくまでも個人的な印象ですが、逃げきれないと踏んだので観念し、名乗り出たと感じます。仮に録音データがなければ、今でも「自分ではない」「誰が言ったのかしらない」「議員辞職するべきだ」という趣旨の発言をしていたかもしれません。

 

録音された音声がなくても、軽蔑される言葉を発したという事実があるのならば、それは消えないと思います。

言った本人が名乗り出ないという事実も消えないと思います。

誰が言ったのか知りながら、黙っているという事実も消えないと思います。

その人たちが今も都議会議員であるという事実も消えないと思います。

その人たちは、これからも都議会議員でありつづけるかもしれません。

 

 先日、記者が録音していたいくつかの野次が報道されました。

そのなかに「それは先生の努力次第」という野次がありました。

「妊娠、出産に悩みを持つ女性に対してどのような対策をうっていくつもりなのか、具体的な取り組みをお願いします」という議員の発言の直後に発せられた野次です。

“東京都が行う具体的な対策の内容は、あなたの努力次第だ”

“東京都が対策をうつかどうかは、あなたの努力次第だ”

 そのような意味合いの野次だろうと思います。

 

そのあと、「不妊の原因は女性だけの問題でなく」と議員が発言した直後、「やる気があれば出来る」という野次が発せられました。

“女性にやる気があれば、不妊に悩んでいても妊娠することができる”

 そのように受け取られる言い方だと思います。そういう趣旨ならは、野次だろうと何だろうと、断じて許されるべきではないと思います。

 この言葉を発した人物は議員であるべきではないと思います。

 

ただ「やる気があれば出来る」とう野次は、「不妊の原因は女性だけの問題ではなく」という部分ではなく、「どのような対策をうっていくのか、具体的な取り組みをお願いします」に対して言われたようにも聞こえます。

 そうだとすれば“あなたにやる気があれば、不妊に対する有効な政策を実施できる”という意味合いにも取られます。

 

 そのように、いつくかの意味合いに取られるのは、野次の言葉の使い方がおかしいからだと思います。

「取り組みをお願いします」に対して、“あなたの努力次第”とか“あなたにやる気があれば出来る”という意味合いの言葉を投げかけても、やりとりとして成立しないと思います。

ただ議員の質問も、少し伝わりにくい言い方だと思います。

 

それにしても、どちらの野次を発した人物も、名乗り出て真意を説明するべきだと思います。

そしてたとえ真意でなかったとしても、“やる気があれば、不妊に悩む女性でも妊娠することが出来る”と受け取られるような言葉を発したことを謝罪するべきだと思います。

また「産めないのか」とか「自分が産んでから」という野次については、録音されていようといまいと、うやむやにするべきではないと思います。

2014年6月29日日曜日

録音があるかということが取りざたされる、それ自体が恥ずべきこと


 東京都議会は、議会の名において不適切な言葉を発した議員を特定して、しかるべき処分をするべきだと思います。

 それは都議会が果たすべき責任だと感じます。

 しかし都議会はそれをしないことを正式に議決したと聞きます。

 すべきことをしない議会を、このまま続けさせていくべきではないと思います。

 都民は都議会を解散させる権利をもっていると思います。

 今の東京都議会は、先進国の首都の議会とは思われないほど質が低いことを世界中に示したと感じます。

 もし、このまま世界に恥をさらしていくようなら、都民は権利を行使するべきだと思います。

 

 東京都議会に議席をおくすべての政党は、政党の名において不適切な言葉を発した議員を特定して、しかるべき処分をするべきだと思います。

 しかしそれをしないと表明した政党があるようです。

 あくまでも本人が名乗る出るべきだということは、政党としてはなにもしないと言っているように聞こえます。

政党として何もしないのですから、「これで幕引きではない」という言葉は口先だけだと解釈されるような気がします。

『何もしなければ、この程度のことは、どうせすぐに忘れられる。とにかく時間を稼いでいればいい』

 そういう思惑なのかもしれません。

 

 そういう政党に都政をまかせていいのか、都民の意思は選挙で表すことになると思います。

 しかし「つぎの選挙まで覚えておきましょう」とのんきなことを言っていられる次元ではないと感じます。

 今の東京都議会は、世界中から非難されるような言葉を発する議員がいて、しかも都議会も、最大の議席をもつ政党も、うやむやにしようとしているように見られます。

 

 録音があるかということが問題になる、それ自体が恥ずべきことだと思います。

 声紋鑑定などということをしなければならない、それ自体が今の都議会の低次元さを表していると思います。

女性に対して「産めないのか」という言葉をぶつけることは、録音があろうが、なかろうが、大きな問題だと思います。

 

当然ですが、この野次を飛ばした本人は自覚しているはずだと思います。

近くの席にいた議員も、誰が言ったのかわかっているはずだと思います。

録音されているかどうかが重要視されるということは、『証拠がなければ、黙っていればいい』と考えているということだと思います。

 

本人がそう考えていても、周囲の人間は野次を聞いているでしょうから、政党や議会が本気で調査すれば、録音などなくても人物を特定することはさほど難しいことでないと思います。

つまり、政党や都議会が本気で調査するのではあれば、録音があるかどうかは問題ではないと思います。声紋鑑定が行われることはないと思います。

そしてなによりも、本人が潔く名乗り出れば、録音があるかどうかは問題ではないと思います。声紋鑑定が行われることもないと思います。

 

 今の東京都議会には女性に対して「産めないのか」という言葉をぶつける議員がいる。その人物は自分から名乗り出ることはなく、またその人物が誰かを知りながら口をつぐんでいる議員がいる。それを追求しない政党が過半数の議席を持っている。議会はこの件を追求しないことを正式に決めた。

 都議会の解散を直接請求するに値する状況だと感じます。

 

また「産めないのか」という言葉は、野次という形でしか発せられないと思います。

質疑で発せられる類の言葉ではないと思います。

つまり、野次であることは大きく取沙汰されることではなく、「産めないのか?」という言葉そのものが問題だと思います。

それと、この言葉を女性に対してぶつけるという行為、それ自体が非難されるべきだと思います。

 

野次の是非については論じられるべきだと考えていますが、この問題は“たかが野次くらいで”という視点で語られる事柄ではないと思います。

この言葉を発した人物と、誰が野次を飛ばしたのかわかっている議員が、“知らぬ存ぜぬ”を決めこんでしまうことを許すべきではないと思います。

本気で調べれば誰が言ったのか特定できるのに、それをしない政党と議会を許すべきではないと思います。

 

出した言葉を引っ込めることは出来ないと言います。言葉を口に戻すことが出来ないのだから、それを発した人物は潔く認めて、処分や非難を受け入れるべきだと思います。

そのうえで、またやり直すことも出来ると思います。

 名乗り出ることが遅くなるほど、非難は大きくなると思います。

 それが予想できるのですから、今の本人の心理的負担も小さくないかもしれません。

 ただ、社会にいられないほどの大きな罪を犯したわけでないと思います。

 非を認めて謝罪し、非難と処分を受け入れば、いくらか時間がかかるかもしれませんが、またやり直すことも出来ると思います。
 政治に関わりたいのであれば、そうするべきだと思います。

2014年6月28日土曜日

恥ずべき


 東京都議会には、先進国の首都の議会とは思われないような“質”の低さを感じます。

東京都議会は、「産めないのか」という野次を発した議員を特定し、しかるべき処罰をするべきだと思います。

議会がそれをしないことを決定したのでは、日本の首都の議会の低次元さを世界中に示すことになっていると感じます。

 

また、東京都議会に議席をおくすべての政党は、野次を飛ばした議員を特定し、しかるべき処分を下すべきだと思います。

“この程度のことは、うやむやにしてしまえば、すぐに忘れられるだろう”

そんな雰囲気を都議会からも、政党からも、都民からも感じます。

東京都議選の投票率は低いと聞きますが、都議会議員の“質”が世界に対して恥ずかしいと感じられるほど低いのは、有権者の都政に対する関心の低さが一因なのかもしれません。

 

 出産は非常に繊細な事柄だと思います。一人の女性が子供を産むことは、周囲の人たちや、社会との関わり方などにも影響されると思います。

 男性との関係や、家との関係や、職場など、社会的な環境など、様々な事柄が出産に関わってくるような気がします。

 子供を産むことで、生活を大きく変えざるを得ない女性も多いと思います。それを望まない女性もいると思います。

 

 一人の女性が子供を産むことで、周囲も色々と影響を受けることがあると思います。その子の父親である男性、女性の両親や家族、など、色々と変わることがあると思います。

 しかしやはり子供を産む女性本人が、誰よりも大きな変化を感じるのではないかと思います。

 周囲がどんなに協力的でも、子供を産むのはその女性本人です。精神的にも、身体的にも、社会的にも色々と負うものがあるのではないかと思います。

 

 また出産したあと、どんなに周囲が協力的でも、子供を産んだ女性本人は色々と負うものがあると思います。

乳児を育てながら社会生活を送るとなると、電車にのること、買い物にいくことなど、それまで何でもないことをするのにも多くの苦労があると思います。

 

そして出産に関する考え方や感じ方は女性一人一人それぞれだと思います。

望まない出産をした女性もいると思います。望まない妊娠をして中絶をする女性もいると思います。それを何度も繰り返す女性がいるかもしれません。

望まない出産をしたあと、子育てが出来ず、子供と離れて生活している女性もいるかもしれません。

子供が欲しいと心から思っていたものの、実際に出産となると、思った以上に大変だと感じる女性がいるかもしれません。

子供が欲しいと心から願っていたものの、実際に子供を産んだあと、子育ての大変さに心が折れる女性がいるかもしれません。

 

結婚してから何年も子供が出来ず、周囲から気づかわしげな視線を感じている女性がいるかもしれません。

気づかいが人の心を痛めることがあると思います。しかしだからといって、無神経な言葉をかけるわけにはいかないと思います。周囲の人の中には、どう接すればいいのか迷いながらも、傷つけないように心がけている人がいるかもしれません。

その心遣いを重荷に感じている女性がいるかもしれません。しかし無神経に接して欲しいわけではなく、ではどのように接して欲しいのかと自問すると、なにも答え出ない女性がいるかもしれません。

 

子供が欲しいと心から願いながら、流産した経験がある女性がいるかもしれません。それを何度か繰り返した女性がいるかもしれません。

過去の流産によって、もう出産はしないほうがいいと医師から言われた女性がいるかもしれません。

子供が欲しいと心から願いながら、あきらめている女性がいるかもしれません。

 

子供が欲しいと心から願っているのに、妊娠しない女性がいるかもしれません。

妊娠しないものの、意識しすぎないほうがいいと心掛けている女性がいるかもしれません。

このまま妊娠できないのではないかという不安を募らせている女性がいるかもしれません。

なかなか妊娠しないため、不妊治療を受けることを決めた女性がいるかもしれません。

 不妊治療を受けも、なかなか妊娠出来ない女性もいるかもしれません。

 人工的な方法を使って出産することを選ぶ女性もいるかもしれません。

 それについて周囲には反対する人がいるかもしれません。

 女性本人にも、ためらいがあったかもしれません。色々な人に相談し、長い時間悩んで、その方法で出産することを決めた女性がいるかもしれません。

 

「産めないのか?」

 女性にそんな言葉をかけることは、人として恥ずべきことだと思います。もしこの言葉を投げられた女性が、妊娠や出産について悩んでいたら、ひどく傷つけることになるかもしれません。

 また女性に対してこんな言葉を発しながら、名乗り出ないのは、人として卑しいことだと思います。

 また女性に対してこんな言葉を発したのがどの議員なのか知りながら、黙っているのは人として軽蔑されるべきことだと思います。

 東京都議会はこのような野次を発した議員を許すべきではないと思います。

 政党はこのような野次を飛ばした所属議員を許すべきではないと思います。

 都民はこのような言葉を発した都議会議員を許すべきでないと思います。

 都民はこの件をうやむやにしようとしている政党を許すべきでないと思います。

 都民はこの件をうやむやにしようとしている都議会を許すべきではないと思います。

2014年6月27日金曜日

するべきことをしないのなら


個人的に、東京都議会の様子を目にすることは少ないと思います。ニュースなどで、みたことはあるような気がするのですが、具体的なことは何も思い出せません。

 それが先日、東京都議会の様子がテレビで頻繁に放送され、何度となく目にしました。

 ただニュースや報道番組の中で流されるのですから、短い時間でしたし、同じ場面ばかりだった感があります。

女性議員に対して、やじが飛ばされた場面です。

 

その様子を見ると、議員が質問を始めて間もないころだったように感じられます。ほとんどの番組はその様子を放送していました。

ただ番組によっては、女性議員が少し早口で質問している様子を映した映像が流されていました。その口調や表情から心理的な動揺が窺えた気がします。

また質問を終え、席について涙をぬぐっている様子も目にしました。

それにしても、東京都議会のほんの短い時間だけを、テレビの画面を通して目にしただけだと思います。

 

それだけでは、場の雰囲気などはわからないかもしれません。ただ、個人的に、非常に強い不快感を覚えました。

野次が女性に対する差別的な内容で、しかもそれが複数発せられ、さらにその野次に複数の議員が笑っている、そんな様子を目にすると、日本の首都の議会はこんなにも低次元なのかと、愕然とする思いがしました。

 

あくまでも短い映像だけをみた個人的な印象ですが、あの状況はいじめに通じる構造があると思います。

意図的ではなかったかもしれませんが、一人を取り囲み、大勢があざけるような笑いをぶつけている状況になっていたように見られます。

そのような状況では、一人で立たされているものは、心理的な打撃が思いのほか大きいと思います。

そして大抵の場合、大勢の側の人間は、一人の側の人間がうける精神面への打撃など、想像することすら出来ないものだと思います。

その一人が女性であり、大勢が男性である、それは性的な差別であるとともに、少数派のなかの一人を真ん中において、多数派の大勢が見下し、あざけり、責め立てる構図になっていたと感じます。

いじめでも見られる構図だと思います。

 

あくまでも短い映像だけを見た個人的な印象ですが、大勢の側の人間全員が謝罪をするべきだと思います。場の雰囲気に流されてつい笑ってしまった議員は、いじめにつながる構造の、いじめる側にいたように感じます。

いじめる側にいた人間全員が、一人の議員と、都民にあやまるべきだと思います。

また「産めないのか」という野次が発せられたそうですが、それを言った議員は辞めるべきだと思います。個人的には議員である資格はないと思います。

大勢で一人をあざける、そんないじめのような場の雰囲気のなかで、言語道断な内容の野次を発する人間は議員として不適格だと思います。この野次を発したこと自体も、自分は言っていないと嘘をついていることも、議員である前に人として恥ずべきことだといえるかもしれません。

 

また「早く結婚して欲しかった」というのは、その言葉自体女性に対しても、男性に対しても、軽々しくいっていいことでないと思います。

個人的に、まったく言い訳にならないだけでなく、この言葉を発したことも非難されるべきだと思います。これが言い訳になるという認識は間違っていると思います。

 

また、東京都議会は議会の責任において、野次を発した議員を特定し、罰するべきだと思います。

また、議会の各会派は、会派・政党の責任において徹底的に調査し、野次を発した議員を特定し、罰するべきだと思います。

それに場の雰囲気につられて笑った議員も、その場にいじめの構造をつくったのですから謝罪するべきだと思います。会派や議会は謝罪をさせるべきだと思います。

 

しかし俗にいう“幕引き”となった感があります。『すぐに、ほとぼりが冷めるさ』と思っているような印象を受けます。また『どうせこの辺で幕引きだろ』という雰囲気も感じます。個人的にとても嫌な感じがします。

都民は権利を行使したほうがいいような気がします。

名乗り出るべき議員が名乗り出ない。

謝罪をするべき議員が謝罪しない。

特定するべき会派がそれをしない。

改善するべき議会がそれをしない。

するべきことをしないのなら、選挙からやり直したほうがいいような気がします。

都民は東京議会解散の直接請求をしたほうがいいような気がします。

「この程度のことで?」という議員がいるとすれば、まさに認識不足だと思います。

 

一つの会派が多くの議席を占めていることが都議会の質を落としているのなら、選挙をすればそれが変わるかもしれません。

議員の資格ない言動をしたものが議員でいるであれば、選挙をすれば議員でなくなるかもしれません。

都議会が、議会としての責任を果たさないのならば、選挙すれが変わるかもしれません。

 あくまでも短い映像を見ただけの個人的な印象ですが、東京都議会の質の低さは「次の選挙まで覚えておきましょう」などという次元ではないような気がします。

 インターネットの呼びかけによって多くの署名が集まっていると聞きます。都議会解散の署名を集めたほうがいいような気がします。

2014年6月26日木曜日

「第三の男」 キャロル・リード監督作品

 映画「第三の男」について、ここでは何回も取り上げているような気がします。
 1965年前に製作された映画史に残る名作だと思います。
先日、映画館でこの名画を観る機会がありました。
 
「午前十時の映画祭」についても、ここでは何回か書いています。
 一年間、週替わりで名画を上映する企画です。毎日午前十時から一回、過去の名作映画を上映することから「午前十時の映画祭」と名付けられたようです。
全国のシネコンで行われ、ある程度の人気を得ていたようですが、映画館の機器がデジタルに変わったため、フィルムの名画を上映できるシネコンは少なくなったようです。

それが「新・午前十時の映画祭 デジタルで蘇る永遠の名作」と銘打ってデジタル化した名画を上映する内容になりました。今年で「第二回 新・午前十時の映画祭」が行われています。
この企画では、一つの作品の上映期間は二週間になっています。

そこで「第三の男」が上映されたのです。
この作品は「午前十時の映画祭」の時にも取り上げられていました。押しも押されもせぬ名作映画ですので、順当というか当然だと感じたものです。
 しかしその時には映画館に足を運ぶ機会がありませんでした。
ただ「第三の男」は名作であり、「第二回 新・午前十時の映画祭」でも上映作品に加えられています。
先日、それを観る機会がありました。

その時、ふと『この作品をスクリーンで観たことがあったっけ』という思いが浮かんできました。
僕が若いころにも、名画を上映する企画がありました。「午前十時の映画祭」のような大きな規模の企画ではなかったような気がしますが、過去の名作を劇場で上映していたと思います。
 また、そのような企画ではないものの、名画を再上映することがあったような気がします。
 その時にはよく観に行っていたものです。テレビ放送で見て気に入った名画を、スクリーンで観られることを喜んでいた覚えがあります。

 そのため、「午前十時の映画祭」で取り上げられている作品のなかには、以前スクリーンで観たことがある作品もあります。
「明日に向かって撃て」は、テレビ放送でも、VHSビデオでも、映画館でも、複数回見ています。
「第三の男」はVHSビデオでは何回も見ているのですが、映画館で観たことに関して記憶が定かではないのです。
 もしかしたらVHSビデオで見ている回数があまりにも多いので、劇場で観た記憶が薄らいだのかもしれません。
 今回、久しぶりに映画館で観たのかもしれませんし、スクリーンで観るのは初めてかもしれません。
どちらにせよ、やはり映画史に残る作品だと思います。

“筋運び”という点でみるとミステリー性はそれほど強くないのですが、映像を作り込むことでその雰囲気を醸し出していると感じます。
“映像を作りこむ”ことは映画という表現法において、非常に重要なことだと思います。
 凝った映像が必ずしも映画を良くするとは限らないと思いますが、「第三の男」は映像表現の巧みさが、この映画を名画たらしめている大きな要素だと感じます。

特に夜の場面では、映画的な表現が多用されていると感じます。 
それは後の映画にも大きな影響を与えたような気がします。
また終戦後のウィーンの街や、地下下水道は立体化や奥行を感じさせ、映像で表現するにはとてもいい舞台になっている感があります。

またこの作品は音楽がとても個性的だと思います。主題曲は有名で、近ごろはビールを連想する人が多いかもしれません。
僕は音楽について全般的に詳しくないのですが、この映画ではオーケストラのように多くの楽器を使った曲はほとんどないと思います。主題曲はチターという楽器が主に使われ、その音色がとても印象的です。
BGMもそのような曲が多く、それが作品の雰囲気つくりにも貢献していると思います。

ところで「カサブランカ」をはじめてみたとき、歴史的な背景がわからなかったことで、導入部で映画に入り込めないと感じたことがあります。
説明はされているのですが、あっさりしているというか、理解できないまま映画が進んでいったと感じていたのです。
二回目にみたとき、それらがわかっているため、すぐに映画に引き込まれたような気がします。

「第三の男」は、はじめてみたときの記録がないのですが、もしかしたら同じように感じたかもしれません。
ただ歴史的背景がわからなくても、この映画は堪能できると思います。そのため、あまく詳しく説明されていないような印象を受けます。
もし、映像や雰囲気の古さや、歴史的背景がわからないことで、映画に入り込めないと感じたときは、後でもう一度みてみるといいかもしれません。一回目よりいい印象を抱くかもしれません。

それに、名画は何度みても、その度になにかを感じるものだと思います。