2014年8月31日日曜日

世界の秩序と法

 人類の歴史の中で、国際社会が法律によって支配されていたことなど、一瞬たりともないと感じます。
 世界中の国々が受け入れる法律を作ることなど、不可能だと考えられてきたからかもしれません。
 しかし世界に秩序が必要だという認識は、多くの人が抱いてきたと思います。
そこで国連という話し合いの場を作ったような気がします。話し合いで、国際社会の秩序を守ろうとしたのだと感じます。
そしてそれは今日に至るまで続いていると見られます。
何とかそれなりに秩序が守られてきたからだと思います。

 しかしそれがこれから先も永く続くだろうかと考えると、随分と怪しいような気がします。
 人類が話し合いで解決する能力を失いつつあると感じるからです。
“交渉力の低下”という表面的なことでなく、決着を想定することが出来なくなっていると感じます。
つまり“どのようにして決着させるか”、それを思い描くことも、考えることも出来ないということです。

また人類全体に“引くことが出来ない”傾向が強まっているような気がします。
 対立している事柄で、双方が一歩も引かなければ、交渉は必ず決裂すると思います。
 しかし現代社会では、完全勝利することなど稀だと思います。
 
力が拮抗している場合、どちらかが完全勝利することは難しいと思います。
 また、対立の構図が複雑である場合、どこかの勢力が完全勝利することは難しいと思います。
 また、現代の人間の社会では、力を持つものが、力のないものを徹底的に叩き潰すことなど出来ないと思います。

 ここ70年の間、世界では武力を駆使したぶつかり合いが、各地で何度も起きていると思います。
 そのなかで、どこかが完全勝利したことがあっただろうかと考えると、一つもないような気がします。
 
“完全勝利などない”
 当事国では、その認識を持っている人は少ないと感じます。
完全勝利などないにも関わらず争いを続ければ、双方が疲弊しきってしまうと思います。
その時になって、“とにかく何らかの形で終わらせよう”という意識が湧くこともあると思います。
 そして誰も勝たないまま、争いが終わることがあると思います。
しかし争いが終わるのは“当面”ということもあるように見えます。

“完全勝利などない”それを認識することが出来なければ、“どうやって終わらせるか”など考えようとしないと思います。
 そして現代は、人類全体にその傾向が強まっていると感じるのです。
 完全勝利はなく、終わらせることを考えようとしない。それでは、ただ争うばかりになると思います。
 それは愚かしいことだと思います。
 しかし人類は愚かしさに気づかないまま、それを強めていると感じます。

 そうはいうものの、争いを終わらせる方法を考えている人がいないわけではないと思います。
 しかし現代の人間社会は、一人の人間の意思で動くほど単純ではなくなっていると感じます。
 強い権力を持っている人物であろうと、一存で物事を決められなくなっていると思います。
 権力を維持するためにも、大衆や実力者を軽んじるわけにはいかないと思います。大統領が独裁的に物事を進めているわけでないように見られます。
 
 しかしそのおかげで、ますます“終わらせ方”が考えられなくなっていると感じます。
 権力者でもあっても大衆や実力者に媚びなければならない。それは、どこの国でも同じに見えます。
 しかも権力者のなかにも、完全勝利などあり得ないことを認識できない人物もいるように見えます。
『どうすればこの争いを終わらせることが出来るんだ?』
 それをまったく考えずに、争いを続けているということです。

 完全勝利のない争いは、終わらせようという意識を持たなければ、終わることはないと思います。
 しかし権力者のなかにも、実力者のなかにも、大衆のなかにも、“争いの終わらせ方”など何も考えていない人がいるように見られます。

 頭の中の片隅には、『争いが続くことは良くないことだ』という意識がある人もいると思います。
しかし『こっちが絶対的に正しく、向こうが完全に間違っているのだ』という意識が大部分を占めている人が多いと感じます。
人々が“争いの終わらせ方”を考えられない今の状況では、争いが終わるはずがないと思います。

まして過激派には、『争いを終わらせよう』という意識など、頭の片隅どころか、一切持ち合わせていない人間も多いと思います。
“完全勝利などない”という認識も、一切持ち合わせていない人間も多いと思います。
 
 このままでは、国際社会の秩序を保つことが出来なくなるのではないかと思います。
 ほんの数年前から比べると、世界は随分ときな臭くなったと感じます。
 もはや話し合いの場があるだけでは、人間の独善性や対立意識や攻撃性を収めることが難しいのかもしれません。
 そしてその傾向は、これから加速しながら強まっていくような気がします。
 そうなると、法によって国際社会に秩序を作ることが求められるような気がします。

それはとても難しいことですので、早く手をつけなければならないような気がします。

2014年8月30日土曜日

法の支配

 日本は法治国家だといわれています。
 色々な法律があり、法律があることで社会が作られているという見方が出来ると思います。
 
多くの人間が集まって生活しているからには、様々な事柄でぶつかり合いが起こるものだと思います。
 人間社会から対立がなくなることなどないと思います。
 そこで法が必要なのだと思います。

 ただ法があっても誰も守られなければ意味がないと思います。
 法が守られることで社会が成り立っているという見方が出来るような気がします。
 しかし法が守られるとは限りません。人間社会には法をやぶる者が必ずいると思います。
 そこで法の下に権限を与えられ、法を破るものを取り締まる機関が必要だと思います。
 
 こうして考えると、社会を統べるには、法とそれを守る機関が必要だという気がします。
 実際に多くの国や地域に法があり、それを守る社会に仕組みがあり、法を守る機関があるように見えます。

 ただそれは、一つの国や地域だから出来ることかもしれません。
 世界、つまり国際社会は、法によって支配されているとはいえないと思います。
殊に国と国との対立に関しては、法の支配を受けていないと思います。

国際社会に法があることは確かだと思います。 
しかし実質的に、紛争など国家間の対立を解決するための法はないと思います。
法がないのですから、それを取り締まる機関もないと思います。

今の国際社会は、法で支配することなど出来ないのかもしれません。国際社会があまりにも多様だからです。
法によって支配するには、まず法を作らなければならないと思います。
国際社会において、それは至難だと思います。

世界には多くの人間が暮らしています。その多くの人間が、多くの国や地域を作って暮らしています。
そして、すべての人に思想や価値観があると思います。
民主主義によって人々を束ねるべきだという考えもあれば、少数の統治者によって国を治めるべきと考える人もいれば、宗教の教えに従って統治をするべきだと信じる人もいると思います。
そのような考え方や思想は、国や地域によってある程度のまとまりが見られるものだと思います。

この世界には、全く違う価値観や思想をもった、国や地域が混在しているということです。
そうなると、そのすべてが受け入れられる法をつくることなど、相当に難しいと思います。
法を作っても、受け入れなければ守られませんし、守られなければ法の意味がないと思います。

そこで人類は、世界を“法の支配”によって束ねることを諦めているような気がします。
しかし法で支配することを諦めたからといって何もしなければ、国と国は争うばかりになると思います。多くの血が流れるばかりになると思います。
そこで国際社会は、話し合いをする場をつくったのだと思います。
 国連はその話し合いをする場といえるかもしれません。

 国連は国が集まって話し合い、その話し合いによって、何かしら決定を下そうという場だという気がします。
 国連がもっている権限がすごく強いというわけではなく、国連で話し合って決まったことに、ある程度の力があるのだと感じます。
 話し合って決まったことを守らないと、話し合った国々から制裁を与えられることがあるからだと思います。

 国連は話しあいの場というだけでなく、国際社会において様々な役割を果たしていると思います。
 複雑になるばかりの世界では、国連の役割は増えるばかりだと感じます。
 そしてその多くを、国連は果たしているように見られます。
 
ただ今の世界は、話し合いで国と国との対立を収めることが難しくなっていると感じます。
 それは、国連では国家間の紛争を収めることが難しくなっているということになるような気がします。

 国家間で争っているから国連で話しあうのだと思います。
しかし、その話し合いは争いの構図がそのまま持ち込まれるだけだと感じます。
 国と国が対立するのは、それぞれに求めるものがあり、主張があるためだと思います。
 国連での話し合っても、同じ対立をするだけだと感じます。
 
 また国連に加盟している国には、それぞれに他の国と繋がりをもっていると思います。
 そうなると国家間の対立では、どちら側にも味方をする国があるものだと思います。
 結局、話し合いでは割れるだけで、事態を収めることは出来ないように見られます。

 今の人類は対立を収める能力をなくしているような気がします。
互いが一歩も引かなければ、ぶつかり続けるしかないことなど、当たり前だと思います。
 しかし対立の当事者になると、たとえ半歩でも引き下がることなど出来ない、引くことが間違いだと感じるばかりに見えます。
 そうなると、『どうせ出来っこない』と諦めていた“国際社会を法の支配で束ねること”を本気で目指すべきだという気がします。
 非常に難しいことですので、法を定めるだけでも相当な時間がかかると思います。

 だからこそ、動きはじめなければならないような気がするのです。

2014年8月29日金曜日

彼らの領域で

 上半期、性犯罪で摘発や補導された中学生が138人とのことです。
 数日前にインターネットの記事で読んだのですが、100人を超えるのは、5年連続だとあります。
 これは警視庁がまとめた「少年非行情勢」による数字だそうです。ちなみに未成年者全体では298人で、ここ10年の間では二番目に多いそうです。

未成年者全体で298人、そのうち中学生が138人ということは、高校生より多いということになるようです。
高校生の人数は書かれていませんが、中学生の人数は、高校生の二倍以上のようです。
警視庁はその理由や背景はわからないそうです。
 
 この数字を目にして印象付けられることは、中学生による性犯罪が増えているということだと思います。
 ただ5年連続で100人を超えているということからすると、今年の上半期に急増したというわけではなさそうです。
 その5年間の詳細な数字は書かれていませんし、それ以前にどれだけの人数が補導や摘発されたのかわかりませんが、少しずつ増え続けいているという印象を受けます。

 ただ少子高齢化といわれて久しいのですから、中学生の総数も少なくなっているような気がします。
 統計など正確な数字を調べずに推測や印象だけで書きますので、理解不足や勘違いや思い違いや思い込みがあるかもしれません。
 仮に中学生の人口が減っているなか、性犯罪で摘発・補導されている人数が増えているとなると、事態の深刻度が少し高まるような気がします。
 高校生の数字の推移がわかりませんが、やはり人口は少なくなっているという印象があります。
 高校生も中学生も人口が減っているなかで、中学生の性犯罪による補導者や摘発者数が毎年少しずつ増えているのかもしれません。

 このインターネットの記事では、「若者のセックス体験率の推移」という「日本性教育協会」が調査した数字を取り上げています。
 それによると中学生の性体験は増えているそうです。
 ただ「11年度」の数字で、男子が3.8%、女子が4.8%とのことですので、増え続けてはいるものの、割合はそれほど高くないようです。
 
 そしてこの記事では、インターネットの影響に関する意見を載せています。
 インターネットは膨大な情報があふれており、そのなかには性に関するものも数多くあります。そのため中学生でも簡単に、性的な情報に触れることが出来るそうです。
 それだけでなく、インターネットの交流サイトが、未成年の性体験に大きな影響を及ぼしていると考えられるそうです。

 性体験をした中学生が、それを交流サイトに書き込むと、それを読んだ者はみな強く感化されるようです。
 ただでさえ若い時は性に関心があるものだと思います。ソーシャル・ネットワーキング・サービスなどない時代でも、友人が体験をしたという話は、興味津々で聞き入ったものだと思います。
 そして自分も経験したいという思いが強まったのではないかと思います。
 それに交流サイトに、性に関する個人的な映像を投稿することもあるようです。

 若者の性に関してインターネットは大きな影響を与えていると考えられるようです。個人的にもそれは感じられます。
 そうなると考えなければならないのは、“ではどうするべきか?”ということだと思います。
 携帯電話やスマートフォンには、インターネットのサイトには、閲覧制限をかけることが出来ると聞きます。
 保護者はそれを活用するべきだと思います。

 しかし自分が若者だった頃を思い出すと、ただ目をふさぐだけでは、逆効果になりかねないような気がします。
 若いころは性的欲求がありましたし、性に対して強い興味を持っていました。
 なんとか見られるものは見ていました。なんとしても見られないものは、いつか見られる日がくることを夢見て諦めていました。
 性的欲求は時に発散し、時に抑えることで処理していたものです。

書くことが憚られるような恥ずかしいことも多々ありますが、それでも心身ともに健全な発育をしたといえる範疇に収まっていると、自分では思っています。
性的な興味を掻き立てるものを一切見ることが出来なかったら、そのほうが不健全だったような気がします。

情報が爆発的に増えている現代では、精神が間違った方向に進むと、あっという間に加速させられることもあると感じます。ひどいものは、未成年者に見せないことも必要だと思います。
ただ、妄想は上手に利用し、現実とそれを混同しないことを、若い時に自ら認識する必要があるような気がします。
強引に目をふさいだら、それが出来ないようにも思えます。

他者と性的な関係を持つことは、人間同士が深い繋がりを持つことだと思います。人間同士が深い繋がりを持つには、相手の人間性を尊重しなければならないと思います。
性的欲求が強い時に、それを学ぶことが必要だと思います。

 大人が真面目に教えることも必要だと思いますが、若者が自分たちの領域内で学び取ることも大切だと思います。

2014年8月28日木曜日

処罰感情

[設備会社に勤める男性が、作業用のバンで住宅地の市道を40kmで走行中、ハンドル操作を誤って、路側帯を走行していた自転車と衝突してしまいました。その市道の速度制限は30kmです。
男性は缶ジュースを飲みながら運転していたのですが、車にはドリンクホルダーがついていなかったので片手運転になります。
そこで男性は一気に飲んでしまおうと思いしました。しかし炭酸飲料だったため、むせてしまい、噴き出してしまいました。
あたてた拍子にハンドルを左にきってしまいました。その時、路側帯を妊娠6か月の女性が自転車で通っていました。バンは自転車を幅寄せする形で側方から衝突しました。
女性は転倒しました。たまたまそこに電柱があり、女性は頭部を強く打ちつけました。
女性は病院に搬送されましたが、亡くなりました]

これは架空の事故です。
僕は法律に関する専門知識はありませんので、理解不足だと思いますし、勘違いや思い違いや思いこみがあるかもしれません。
そのうえで、あくまでも個人的に考えてみます。
住宅街を車で通行する時、缶ジュースを飲みながら片手運転することは危険だと思います。
しかしこの場合、危険運転致死罪は適用されないと思います。
おそらく遺族もそれを求めることはないと思います。

[会社を経営する男性が、イタリア製高級スポーツカーで広域農道を時速200kmで走っていた時、脇道から飛び出してきた自転車をはねました。
その自転車に乗っていたのは小学一年生の女子児童でした。小学校に入学して三日目でした。放課後いったん帰宅してから、友達の家にあそびにいく途中でした。
女子児童は即死でした。
会社経営の男性は、起点から広域農道を走っていました。そこの広域農道の周囲は田んぼが広がっていて、全般的に見通しがよく、カーブは総じて緩やかです。
起点から5kmの地点に浄水場があります。その塀沿いに細い舗装道路があり、広域農道と交差しています。信号はありません。細い道路側に一時停止義務があります。事故はそこで起きました。女子児童は一時停止をしなかったとみられています]

 これも架空の事故です。もしこんな事故があったら危険運転致死罪が起用されるか考えてみます。
公道を時速200kmで走ることは極めて危険なことだと思います。
しかし危険運転致死罪を用いるのは難しいような気がします。その法律には、制御できないほどのスピードを出した場合と記されているようです。
イタリア製高級スポーツカーは、そのスピードでも制御出来ないことはないと思われます。事故を起こす前、起点から5kmの間、走行していたことからも、それが窺えます。

おそらく遺族は危険運転致傷罪の適用を求めると思います。
司法担当者の判断によっては、飛び出してきた自転車を避けられなかったのだから、制御出来ていたとは言えないとして、危険運転致死罪で起訴するかもしれません。
しかしその可能性は低いような気がします。

そこでもし、事故の被害者が別の人物だった場合を考えてみます。
『設備会社の男性が起こした事故の被害者が、妊娠6か月の女性ではなく、認知症で徘徊していた高齢者だったら?』
 処罰感情は違ってくると思います。

『会社経営者の男性がイタリア製高級スポーツカーではねた被害者が、小学生ではなく、一人の女性を暴行をして殺害した犯人だったら?』
その犯人に前科前歴はなく、警察は彼にたどり着いていなかったものの、事故当時の所持品から関与が疑われ、DNA鑑定によって、事故死した人物による犯行だと判明した。また余罪はなく、仮に生前、逮捕されたとしても死刑になる可能性は低かった』
”殺人事件の被害者の遺族は、その犯人の命を奪った事故の加害者に対してどのような気持ちを抱くだろう”
 想像することは難しいと思います。
しかし処罰感情は、あまり強くならないような気がします。
 
大衆の処罰感情は、事故の被害者によって違ってくると思います。
 また、民事上の賠償は被害者によって違うものだと思います。
 では、事故の罰は被害者によって変わるべきか考えます。

交通事故には被害者個人特有の事情もあると思います。死角に入ったのは、子供の身長によるとか、認知症のためか車道に座り込んでいたなどです。
 そのような被害者個人の事情が一切関わっていない事故の場合、被害者によって罰の重さが変わるべきだろか、考えてみます。

死角から飛び出してきた男性をはねた事故があったとします。飛び出した男性がボランティア活動中だとしても、コンビニを強盗して逃げている最中だとしても、それをはねた運転手の落ち度には関わりがないと思います。
飛び出した男性が誰であろうと、事故の有様は変わらないということです。

刑事事件は、被害者や遺族の処罰感情を、刑罰に反映させる動きが高まっていると聞きます。
しかし交通事故の場合は、被害者によって罰の重さが変わるべきではないような気がします。
 そう考えると、厳しい罰を課す法律ほど、適用は慎重になるような気がします。

 ただ今の危険運転致死傷罪は、記されている内容にぴったりと当てはまるような事故は、相当に稀なのではないかと思います。
 つまり、確実にこの法律で起訴するという事故は滅多に起きないと感じるのです。
 そうなると、多くの場合司法担当者の判断にゆだねられると思います。
 しかしそうなると、その判断は慎重にならざるを得ないような気がします。
 しかしそうなると、遺族は危険運転致死傷罪での起訴を求めると思います。

 現行の危険運転致死傷罪では、これからもずっとそんなことを繰り返すような気がします。

2014年8月26日火曜日

怒りに支配された世界

 国が戦争を始める時は、多くの国民がそれを支持しているものだと思います。
 民主的な政治体制の国では、大多数の国民が反対したら、政治家が戦争を始めることは難しいと思います。
戦争に反対する声が上がりデモが行われたとしても、「大多数の国民が反対している」といえるほどではなく、戦争を始めることを賛成している国民も大勢いる場合、政治家は戦争を始められるのだと思います。
ただその場合、反対する国民が少なくないことも確かだと思います。

 戦争が始まるときは、感情が大きく作用していると感じます。
 戦争を始めるのは、国にとって重大な決断だと思います。
『国にとっての一大事を決めたのだから、よくよく考えたうえでのことだろう』
“そうあるべきだ”という観念があるため、“そうなのだろう”という印象を抱く人もいるかもしれません。
 しかし、実情はそうではない場合が多いと感じます。

ただ戦争を始める決定に関わった人の中には、『国際情勢や国の損得を分析し、冷静な思考による意見を集めて決断した』と思い込んでいる者がいるかもしれません。
しかしそれは思い込みであって、本当は“戦争をはじめたい”という気持ちに引かれたのかもしれません。
その気持ちは、怒りの感情が呼び起こすことがあるような気がします。

人間の行動は感情に左右されることが多いと思います。
人間の感情はとても複雑なものだと思います。
ただその中でも、“怒り”はとても強い感情だと思います。
“怒り”は、端から強い感情であるだけでなく、さらに高ぶり易いものだと思います。
“怒り”は、高ぶり易い感情であり、静まりにくいものだと思います。
元々強い感情で、高ぶりやすく、静まりにくい、そうなると人間の行動はその感情に影響されやすいと思います。

戦争を始める政治家や、それを勧める者は、少なからず怒りの感情に流されていることがあると思います。
また戦争を始めるべきだという大衆は、怒りの感情に支配されていると感じることがあります。
そして近年、怒りが人間の行動を支配する傾向が、世界的に強まっているような気がします。
世界各地で武力のぶつかりあいが始まり、それは激しくなるばかりに見られます。
国の中枢にいる人物も、大衆も、怒りに支配されているからかもしれません。
しかし、ほとんどの人が自覚していないかもしれません。

 それにしても、『国にとっての一大事を決めたのだから、よくよく考えたうえでのことだろう』という観念を持つ人ばかりではなく、自分の頭で考えて戦争に反対する国民も、決して少なくないと思います。
 その声を拾い上げなければ、政治家は政治家である資格はないような気がします。
 国民の声を議論の場に上げなければ、国民の代表者の資格がないと思うのです。
 国民は選挙で当選した人間に、すべてお任せしたわけではないと思います。

ところで、状況が複雑になるとは、すなわち状況が悪くなるという場合があると思います。
 あらゆる事柄は、複雑になるほど解決が難しくなるものだと思います。
解決が難しくなるということは、状況は悪くなっているといえると思います。
 
内戦が始まったばかりのころだったら、大国が反体制派を宥めて引き下がらせたとしても、独裁者に与したとはいえなかったと思います。
一旦、内戦を収めてから、独裁者を叩くやり方があったと思います。むしろ独裁者を国際社会で罰するには、内戦を終わらせる必要があったような気がします。

しかし内戦にテロリストが加わり、それが強大な武装集団となった今では、大国は手の出しようがないと感じます。
テロリストを攻撃しても、内戦が収まる可能性は低いと見られます。しかもテロリストを攻撃することで、大国が独裁者の後ろ盾になってしまうこともあり得ると思います。

また、テロリストを根絶やしにすることなど不可能だと思います。
一つの組織を壊滅的な状況に追い込むことは出来るかもしれません。しかし完全に殲滅することは出来ないと思います。
そして仮に一つの組織に壊滅的な打撃を与えても、すぐに別の組織が台頭するものだと思います。

それに、独裁者に反する組織は、今でこそ共闘しているものの、仮にテロリストと独裁者が倒れたなら、必ず対立すると見られます。その対立は武力のぶつかり合いになると思います。
お互いに武器を持っているのですし、ずっと戦ってきたのですから、政治的な対立にはならないと思います。
そのような状況になると、またテロリストが入り込むと思います。

ずっと昔から、人間社会は怒りの感情に支配されていた一面があるような気がします。
近年その傾向が強まっていると感じます。情報伝達技術の発達が大きな要因の一つだと思います。

 そう遠くない将来、この世界は人間の怒りに支配され、それによって滅んでしまうかもしれません。