2014年10月31日金曜日

情報偏重社会

 少し前に“情報偏重社会”と書いたことがあります。
 その時は、形のない“データ”を重要視するあまり、形ある“モノ”を軽んじる傾向が強いということを言い表したかったのです。
 
人間には情報も必要ですが、物が決して不要なわけではないと思います。
 しかしあまりにも情報に依存し、情報を大切にするため、その反動といえる心理的もあいまって、物に対する意識が低くなりすぎていると感じられます。
 それは必要な物を、必要だと認識できないほどになっていると感じます。
しかも多くの人は、情報に偏重していることを自覚していないように見られます。
『物は不要だという考え方は正しい』そう思い込んでいる風潮を感じます。
 
個人的な考えですが、人間が物体として存在しているかぎり、他の物体は生きるために不可欠だと思います。
つまり人間にはモノが必要だと思うのです。
しかし今の人間はそれが見えなくなっている感があります。

現代社会に生きる人は、情報を過剰に重んじていると感じます。
過剰な状況は、過剰だと認識されないことで、過剰になることが多いと思います。
しかしそれでもやがて、『過剰だ』ということに気づくことがあると思います。

また偏重しているときは、『偏重している』と認識されないことも多いと思います。
しかし偏重には揺り戻しがあることも多いと思います。
いつになるかわかりませんが、人間はいずれモノを、あまりにも軽視し過ぎていたことに気づくような気がします。

“情報偏重”は人間とモノの関係だけではなく、人間と人間の関係にも様々な影響を及ぼしているような気がします。
 人間は誰でも自我を守ろうとするものだと思います。
 それは生物に本質的に備わっているものだと思います。
 ここでは「自我」という言葉を「自分の存在そのもの。精神面を含めた自分自身のすべて」という意味合いで使います。

 現代社会に生きる人は、情報に偏重することで自我を守る意識が強まる傾向があると感じます。
 また自我を守るために、情報を駆使している人が多いように見られます。
 そしてまた情報を偏重し、情報に対する依存を強めると感じます。
 
 現代社会に生きる人には、他者に対する攻撃性を強める心理的な傾向があるような気がします。
 自我を守るために、敵を徹底的に潰さなければならないという意識があり、そのためは強い攻撃を与えなければならないと意識していると感じます。
 
 また現代社会に生きる人は、自己の正当性を強く信じる傾向があるような気がします。
 それは、自我を守ろうとする意識の表れという気がします。
 自分の正当性を強く認めなければ、自分を守ろうという意識が強まらないと思います。
自我を守るためには、『自分は絶対に正しいのだ』と強く信じることも必要だと思います。

 また現代社会に生きる人は、小さなことにでも心理が反応する傾向が強まっていると思います。
 些細な一言で、『自分を批判している』とか『自分とは違う思想をもつ奴だ』と感じるようになっていると思います。
 またちょっとした言動で『自分が好きなものを批判された』とか『こいつは、俺が好きなもの嫌っている』と『こいつは間違った考え方をしている』などと感じる傾向が強まっていると感じます。

 同じように些細な言動で『自分に賛同している』とか『この人は私と同じものが好きなんだ』とか『この人は俺を同じ思想をもっている』と感じる傾向も強まっていると感じます。
 しかし人間は、自分とは反対の立場にいる者や、自分とは異なる観念をもつ者を、強く意識するものだと思います。
 そして現代社会に生きる人は、その傾向を強めていると感じます。

それは自我を守るには、“敵”を認識するのは早いに越したことはないからかもしれません。
『こいつは敵だ』と、早く決めつけた方が、早く攻撃することが出来ると思います。
 早く強く攻撃することは、自我を守ることになると思います。
そのため、小さな事物や些細な言動だけで『こいつは敵だ』と判定する心理が働くような気がします。

 しかし、相手にはまったくその気がない場合も少なくないように見られます。
 つまり、過剰に反応し、拡大解釈し、勝手に敵に決めつけてしまっていることも多いということです。

 現代社会に生きる人は、自分の正当性を強く信じ、些細なことで他者を敵視し、敵だと決めつけた者を徹底的に攻撃しようとする心理的傾向があると感じます。
 それは、自我を守ろうとする意識が強まっていることの表れだと感じます。
 そして多くの人は、それらに対する自覚がまったくないような気がします。
 自己の正当性を信じているのですから、自覚がないのも無理はないのかもしれません。
 
このような心理の傾向は、情報に対する偏重によるところが大きいと思います。
 自己の正当性を訴えるにも、他者を敵だと決めつけるのも、敵を徹底的に叩こうとすることも、インターネットが用いられることが多いと感じます。

情報に偏重することは、その傾向を強めるように働いていると感じます。

2014年10月30日木曜日

接し方

 疫病が世界に与える影響には、情報が大きく関わっていると思います。
情報が少ないことで、その病気の危険性が多くの人が知らぬまま、感染が拡大してしまうことがあると思います。
どのようなことで感染するのか、多くの人が知らぬまま、病気が広がってしまうことがあると思います。

危険な病気が蔓延していることを知らなければ、注意することはないと思います。
危険な病気が蔓延していることを知ったとしても、どのようなことで感染するのか知らなければ、防ぐことは難しいと思います。

 また情報が少ないと、誤った伝聞が広がることがあると思います。
 人間は、知らない事柄に恐れを抱きやすい生き物だと思います。 
 生物にとって、危険であることを知らないことが、命に関わることである場合があると思います。
 そのため、“知らない”それ自体に恐怖心を抱く傾向があるような気がするのです。

また全く知らないわけではなく、危険だという程度のことを知りながら、詳しいことが分からないとなると、恐れる心理は強くなるものだと思います。
情報が少ないと、人々は過剰な恐怖心を抱くことがあると思うのです。
そして情報を強く欲すると思います。

 また人間は恐怖心を抱いていると、悪い情報を信じやすい傾向があると感じます。
 それは生物として身を守る術の一つであるような気がします。
 生物は、危険を軽んじるより重く認識しているほうが、生き残る可能性が高いと思います。
 人間も生物ですので、『危険だ』と感じている時ほど、重く認識しようとする心理があるような気がします。
それは悪い情報を信じやすい心理に繋がっているような気がします。

 そしてそれは、デマが広まることに繋がるような気がします。
デマは多くの場合、広がる過程で“不確かさ”が取さられてしまうものだと思います。
 いつの間にか“確かなことだ”として広まってしまうことも多いと思います。
 またデマは往々にして、広がりながら大きくなるものだと思います。
『危険だ』と感じている時ほど、悪い情報を信じやすい心理的傾向が関わっているような気がします。

 時に、デマが状況を悪化させることもあると思います。
 またデマによって別の問題を起こすこともあると思います。
 それが悲劇的な事態を生むことがあると思います。
 疫病の場合、間違った情報によって感染が拡大することや、感染者に対する迫害や虐待やそれに類する行為が行われることなどが、挙げられると思います。

 現在、西アフリカを中心にエボラ出血熱の感染が広がっています。
西アフリカの感染拡大は、情報がなかったことによるところが大きいと感じます。
感染が拡大したことで、ようやく情報が伝わるようになったように感じられます。
ただ、情報が正しく伝わらないことも多いように思います。
それによる問題が起きているように見られます。

欧米では、西アフリカに比べると情報があると感じます。
 ただ人は情報に対して“これで十分”と感じることは少ないような気がします。
 エボラ出血熱に関しても、知られているようで、疑問を抱えている人も少なくないような気がします。

『防護服の着脱が規定通りじゃなかったっていうけど、それだけで濃厚接触になっちゃうの? 本当は簡単に感染しちゃう病気なんじゃないの』
『医療従事者はどうすれば感染するのか知っているはずでしょ。それでも感染しちゃうなんて、やっぱりエボラは怖いよ』

 疫病が蔓延すると、まず医療従事者が感染する、人類は何度もそれを経験してきたと聞きます。
 現在、エボラ出血熱の感染が広がっている地域で、医療に関わっている方たちは、その危険を背負って治療にあたり、感染拡大を抑えるために努力しているのだと思います。
 その人たちが帰国したとき、“犯罪者のようなあつかいを受けた”と感じられる接し方をすることは間違っていると思います。

 感染する病の治療に関わった人が、一定期間隔離されるのは、やむを得ないことだと思います。
 感染拡大を防ぐためには必要なことであり、現場で治療に関わった人も、国内で対応に当たっている人も、それを認識しているべきだと思います。
 感染している人が帰国した国で動き回ったという事実がある以上、どこかで認識不足があったのだろうと思います。
 またその事例があるため、言葉使いなど応対の仕方が“まるで犯罪者あつかい”になってしまうのかもしれません。
 
 一定期間隔離することはやむを得ないと思います。ただだからこそ、丁寧な対応が必要だと思います。
感染拡大地域に赴き、危険を背負って懸命の医療活動をしてきたのですから、敬意を払い紳士的に接するべきだと思います。
隔離されている間、精神的苦痛がないように、また暮しに不便がないように、配慮してしかるべきだと思います。

 

2014年10月28日火曜日

固定観念

 報道は早く伝えられるに越したことはないと思います。
 その点において新聞は不利な媒体だと思います。それは新聞の宿命のようなもので、ずっと前から誰もが分かっていたことだと思います。
 朝刊と夕刊があるのは、即時性のなさを補う意味合いがあると思います。
 今はインターネットで報道がすぐに流れ、それを好きな時間に見たり読んだりすることが出来ます。

また最近は、テレビの画面で番組表を表示することが出来ますし、そこで番組内容の説明も見られます。
こうして考えると、朝刊を早朝に配達する利点が薄らいでいると感じます。
また朝刊と夕刊の一日に二回配達をしても、即時性のなさは他の媒体には到底かなわないような気がします。

ただ毎日一軒一軒配達すること、その仕組みが確立していること、それは新聞業界にとって大きな強みになり得ると思います。
それを生かそうと考えるものだと思います。
他の業種と連携するなどして、“毎日届けること”を付加価値にすることも出来得るような気がします。

早朝に朝刊を配る必要性が薄らいでいるなら、配達の時間帯を変え、時間帯に幅をもたせることで、提携する業種の選択肢が広がるような気がします。
ただそうはいうものの、情緒面でも実務的にも新聞の配達時間をすぐに変えることは難しいと思います。
そのため慌てることはないと思いますが、今ならまだ試行錯誤や社会実験をしている時間があるような気がします。
何事も切羽詰ってからでは、動きようがなくなるものだと思います。

新聞が売れなくなっている理由は、インターネットの普及、人口減少、世帯数の減少、少子高齢化などがあげられると思います。
いずれの理由も新聞業界の努力で、解消することは難しいと思います。
人口減少は、あらゆるものの売れる数が減る理由になると思います。
新聞は、定期的に新機種を出せるものではありませんし、新聞がなければ生きていけないというものでもありません。
そう考えると、新聞は人口減少によって売れなくなる傾向が強い商品といえるかもしれません。

そうなると、『売れなくなることを抑えるにはどうすればいいのか』を考えるとともに、『売れる数が減っても、売り続けていくにはどうすればいいのか』を考えなければならないと思います。

 新聞を軽減税率の対象にすると、増税直後に販売数が落ちることを少しは防げると思います。
ただ増税からある程度の時間が過ぎると、販売数の減少を抑える効果は随分と低くなると思います。
増税からある程度の時間が過ぎたころ、金銭的な理由で新聞購読をやめる人にとっては、消費税の数パーセントはほとんど意識されないと思います。
『売れなくなることを抑えるにはどうすればいいのか』『発行部数が減っても、売り続けていく』その対策として軽減税率の効果は、かなり小さいと思います。
 
 新聞業界は、軽減税率は新聞の発行部数減少を抑える施策だと考えている節があります。
そのために導入するべきという趣旨だと受け取られる主張を見聞きします。
しかし軽減税率は、新聞発行部数が減少している理由、つまりインターネットの普及や人口減少、世帯数の減少に働きかける策ではないと思います。

 ところで、「軽減税率は大きな意味で経済対策の側面がある」という発言を耳にします。
個人的にそうとは思えません。むしろ大きく見るほど、経済対策として逆効果だと思います。
長い目で見るほど、軽減税率は景気を悪くすることに繋がる可能性が高いと思います。

軽減税率は生活必需品を対象とします。
生活必需品は、増税前に買いだめされるため、増税後は売れる数が減るものだと思います。
しかし生活必需品は、買いだめしたものを使い果たしてしまうと、買わざるを得ないと思います。
軽減税率が導入されてもされなくても、生活費需品の売れる数はあまり変わらないと思います。

軽減税率を導入するために、他の税を重くすることが考えられます。あるいは、消費税の標準税率を上げなければないと思います。
前者の場合、現役世代の税負担が重くなる可能性が高いと思います。

現役世代の税負担が重くなると、生活費需品ではないものが買い控えられると思います。
また、軽減税率を導入したため標準税率があげられても、生活必需品ではないものが買い控えられると思います。
つまり軽減税率の対象ではない商品が売れなくなるということです。
また軽減税率が導入されたからといって、生活必需品の売り上げが伸びるわけではないと思います。
経済全体でみれば、消費を冷え込ませると思います。
それは景気を悪くする要因になると思います。

今の日本に軽減税率を導入することは“大きな意味で経済対策”という側面などないと思います。
“景気を悪化させる要因になり得る”という側面があると思います。

軽減税率は、インターネットが市民の手にない時代に、人口減少など起きていない社会で考えられた制度だと思います。
それをこれからの日本に導入しても、いいことはないと思います。
インターネットはこれからも利用され続け、広がり続けると思います。
少子高齢化も人口減少も、まだ歯止めがかからないと思います。

固定観念に縛られ、思考が硬直している人間は、過去も現在も未来も見えていないことがあると思います。

しかし固定観念に縛られ、思考が凝り固まっているがゆえに、見えていないことに気づかないものだと思います。

2014年10月27日月曜日

モノの価値

「華氏451度」というSF小説は、当局によって本が燃やされる世界を描いています。
ここで物語の内容に関して書きますので、知りたくない人は“情報偏重社会”と書いた行まで飛ばしてください。
この物語の世界で禁じていることは、『考えること』『思想をもつこと』それらを『記録に残すこと』だと思います。
当局は、本というモノをなくしてしまうことで、それらを封じたのだと思います。

本は、『考えさせるモノ』であり、『思想や主張を持たせるモノ』であり、『様々な記録を残すモノ』であるということです。
作中で当局に反抗する人たちは、本というモノを用いずにそれらをやろうとします。
 人間の脳だけでやるのです。本の内容をすべて覚えてしまうのです。ただ主人公は、それに少し釈然としないものを感じているような気がします。

“情報偏重社会”
『とにかくデータさえあればいい』
 近年そのような風潮を感じます。
『重要なのは本というモノではなく、書かれた内容であり、それをデータとして保存し、必要に応じて取り出せばいい』

この風潮は、これからも続くと思います。強まり続けていくと思います。
 ただ個人的に、情報だけを重要視する風潮は少し過剰だと感じています。
人間は、手で触れられ目で見える形で記録され保存されているほうが、重さや大切さを認識できるような気がします。
また“偏重”には、揺り戻しがあることが多いと思います。
いつになるかわかりませんが、いずれ再び紙媒体というモノが、思考にとっても、思想にとっても、記録にとっても、重要視されるような気がします。

 そうなると、紙媒体を供給し続けていくことが必要だと思います。
 まだ当分はデータ偏重志向が続くと思いますので、紙媒体の需要は減っていくと思います。
 しかしそこで供給をやめてしまうと、紙媒体が見直される機会を減らしてしまうような気がします。
 またもし将来紙媒体が見直されても、その時にはもう供給されなくなっていたのでは、需要は起きないと思います。
 
 つまり紙媒体は、当面売れる数が減っても、売り続けるべきだという気がします。
 資本主義経済の下で、売れる数が減っていながら売り続けるためには、値段を上げなければならない場合が多いと思います。
 値段をあげるには、付加価値を付けるということが一つの方法だと思います。
 また付加価値が、販売数の減少を抑える可能性もあると思います。

 最近の雑誌は付録を付けることで、販売数量が増えていると聞きます。多くの人が欲しがるものを付録につけることが出来たのだと思います。
付録は付加価値の一つだと思います。この場合は、価格を上げることよりも、売れる数を増やすことに大きく貢献しているようです。
それにしても、雑誌に別の価値を上手く乗せられたと感じます。

雑誌ではなく書籍の場合、あまり奇をてらうと効果がないような気がします。
モノの価値としてみると、書籍は雑誌より高いと、多くの人に認識されていると感じます。本はモノとしての価値が、ある程度認められているような気がするのです。
そんな本に付加価値を付けるなら、本というモノの価値を高めるやり方の方がいいような気がします。
装丁などに工夫を凝らし、読みたくなる本(モノ)を作り、また所有したくなる本(モノ)を作ることは、付加価値を付け方の一つだと感じます。

新聞の場合、元来モノとして価値が、書籍や雑誌より低く認識されていると思います。
ただモノとして存在していることそれ自体が、インターネットのニュースにはない価値だと思います。
それはこれからしばらくの間、認められないと思いますが、いずれモノが見直されるような気がします。

新聞を切り抜いて綴じている人がいると聞きます。
僕は人生で一度もやったことはありませんが、過去のニュースを読み返すことで、何かを感じ何かを得ることがあるのだと思います。
また手間をかけることや、綴りがたまっていくことに、楽しみを感じるような気がします。

しかし新聞の切り抜きをしている人は、昔より減っているような気がします。
やはり面倒だと思いますし、切り抜きがたまると嵩張って邪魔になるような気がします。

ただインターネットでも、気になったニュースを保存するのは面倒なものです。
それに『過去のニュースなんて、もし必要になったらその時に検索すればいいや』、とはなから保存しておこうとは考えないものだと思います。
しかしインターネットで過去のニュースを探すのは結構大変で、時間と手間がかかってしまいます。
自分が気になったニュースをデータベースに保管し、ジャンルや年代によって検索することが簡単に出来る、そんなニュースサイトがあったらいいのにと思うことがあります。

新聞はニュースを形あるモノとして、保存することが出来ると思います。
新聞は報道媒体として、手軽さや費用面や即時性ではインターネットに到底かなわないと思います。
それならば、モノとしての良さを最大限に引き出すにはどうすればいいのか、それを考えたほうがいいような気がします。

紙面の大きさや記事のならびかたなど、既成の観念にとらわれず、ニュースごとに綴じることを前提とした紙面つくりなどは、一つの案だと思います。
また綴じやすく、整理しやすく、必要に応じて取り出しやすいファイルやキャビネットを、異業種と連携して提供することも挙げられます。
それは、保存することを供給する側が手助けすることになると思います。

情緒的にも実務的にも、紙面の大きさや構成をすぐに変えることはないと思いますが、今ならまだ、様々な案を出し合い、異業種との連携を模索し、市場調査や試行錯誤や社会実験をする時間があるような気がします。


また新聞が付加価値として利用できる大きな要素は、毎日配達していることと、その仕組みが出来上がっていることだと思います。

2014年10月26日日曜日

知られざる素通り

 僕は電子書籍を利用したことがありません。またインターネットでは、著作権の適用期間を過ぎた文学作品を無料で読めるサイトがあると聞きますが、閲覧したことがありません。
 振り返ってみると、インターネットで長い文章を読む習慣がないような気がします。
 必要がある時や、興味を引かれた記事などは、長い文章も読んでいます。
ただなんとなく、インターネット上の文章は、読む意識の集中度が低いような気がします。
そのためか、頭の中に残りにくいような気がします。

“頭のなかに残っていない”
それを自覚することは難しいような気がします。
頭の中を素通りしたことは、“素通りした”それ自体が残らないからです。
せっかく多くの情報を読んでも、自分に取り込まれることはなく、しかもそれを自覚できないということです。
多くの栄養素を含んだ食べ物も、吸収されずに、ほぼすべてを排泄していたのでは、身にならないと思います。

“多くの情報に接している”ということに満足感を覚えることはあるかもしれません。しかし、実はあまり身になっていないような気がします。でも自分では、なかなかそれに気づかないような気がします。
そこでインターネットで興味を引かれた記事があると、印刷するようにしています。
また、必要な資料がPDF形式で公開されていると、何十枚でも印刷することがあります。

 そうして感じることは、紙に印刷したほうが、読むという作業に集中しやすいということです。
 また集中して読んだ内容は、自分のなかに残りやすいということです。
 人それぞれだと思いますが、媒体や表現の仕方によって、頭への入り方が違うと思います。
 記録として残る形で表されているほうが、頭にも心にも入りやすく、残りやすいような気がするのです。
 人間は、“しっかりと記録が残る”と感じ取るもの、また“記録が長く残る”と感じ取られるものを、『重要なことだ』とか『大切なことだ』と認識するのかもしれません。

少し前、学校の授業でタブレット型端末を使用している国に関する話題を、何度か見聞しました。
 小学校で、本格的にタブレット型端末を用いた授業が行われているそうです。
日本は出遅れているという印象を受けたものです。
 それが最近、あまり効果がなく、その割に費用が掛かっていると、その国では批判の声が上がっていると聞きました。

 全生徒にタブレット型端末を誂えるため、それなりにお金が必要になるようですが、その割に、目立つほどの学力向上がないようです。
 もしかしたら、指で画面をなぞれば消える内容は、頭に残りにくいのかもしれません。
人間は簡単に消せるものを『大切なことだ』とか『重要なことだ』と、認識しにくいためかもしれません。
立体的な映像はわかりやすいものの、頭の中を素通りしやすいのかもしれません。
データが保存されていても、手で触れたり目で見たりするなど生物の感覚で捉えられないため、『大切だ』とか『重要だ』とは認識されにくいのかもしれません。

またタブレット型端末を取り入れた授業の問題点として、問題を自ら解決する能力が落ちていると指摘されているようです。
 個人的にあり得ることだと感じます。
 タブレット型端末を使って模範解答が簡単に引き出せるなら、自ら問題に向かい合う意識が高まらないような気がします。

 これは外国のことですが、日本人はインターネットが普及する前から、そのような心理が見られると感じます。
“何事にも模範回答があり、難しい問題に直面したときほど、自ら解決しようとせず模範解答を探そうとする。また、模範解答を知っている人間を探して出して教えてもらおうとする”
日本人はそんな心理的傾向が強いような気がするのです。
 また「あんたの立場なら模範解答を知っているべきじゃないか。どうして知らないんだ。あんたのせいでこっちは困ったことになったんだ。あんたの責任だからな」と詰め寄り、非難することもあるような気がします。
 そしてインターネットは、そのような心理を助長しているように感じられます。
 
 それとタブレット型端末を授業に取り入れている国では、生徒の読書量が低下しているそうです。
 紙の本だけについて言われているのか、電子書籍も含めてのことなのかわかりませんが、ただ読書量の低下は、この国の小学生に限ったことではないような気がします。
 日本でも、多くの年齢層で読書量は減っているような気がします。
 統計などを調べたわけではありませんが、紙の書籍と電子書籍を合わせても、読書量は減少傾向が続いている感があります。

 僕はタブレット型端末を使ったことがありません。パソコン自体、毎日使っていますがあまり好きになれません。そのためタブレット型端末を授業に使うことに、ことさら否定的な見方をしてしまうのだと思います。
考えてみれば、タブレットを授業に使うことそれ自体を否定ことはないと思います。
新しい技術や道具を用いることで、いい結果がでることはよくあると思います。

ただ何事もそうですが、道具や技術には効果的な使い方があると思います。