2015年5月31日日曜日

楽観も過ぎれば欺瞞になる

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2015年5月 31日「楽観も過ぎれば欺瞞になる」


概要
財政再建にとって経済成長は欠かせない重要な要素だと思います。増税と歳出削減だけでは、経済を停滞させ、それが税収を減らす原因になると思います。そして財政が厳しくなるという循環になってしまいかねないと思います。
景気を良くすることが出来れば税収があがりますので、国の財政にとっても好ましいことだと思います。実際リーマンショック前、過去最大の税収増があったと記憶しています。それによって財源が確保され、財務体質の改善が進んだという覚えがあります。
ただ当時、国民に好景気だという実感はなかったと思います。むしろ多くの人が、不景気の真っ只中だという印象を抱いていたと感じます。
 そのため『いざなぎ景気を超える長期経済成長だ』だと報じられても、『どこの国の話? 日本? そりゃパラレルワールドだよ』いう声が聞かれたものです
財政を健全化するには経済成長が必要だと思いますが、経済は一国の政府の思惑通りになるものではないと思います。実際、景気がよくて財政健全化が進んだ思われた矢先に、リーマンショックがおきた感があります。
日本は2020年までに、基礎的財政収支を黒字にする目標を立てています。数か月前に、その試算が公表されました。それは3%の経済成長を前提としているようです。“あり得ない”わけではないかもしれません。
ただ3%の成長を維持し続けられる可能性は低いと思います。それどころか、マイナス成長になる可能性もあると思います。
 黒字化の目標を掲げている以上、それらしい数字を示しておかなければならないという考えがあるような印象を受けます。

2015年5月30日土曜日

手段が目的化すると

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2015年5月 30日「手段が目的化すると」

概要

 大阪市長は、『大阪都構想を実現する』という“目的”のために、住民投票という“手段”を使ったのだと思います。それが反対する人に『大阪都構想の実現を阻止する』ための手段になったのだと思います。
 しかし大阪都構想は本来“目的”ではなく“手段”だったと思います。二重行政を解消するための“手段”です。それがかなり早い段階から、大阪都構想は“目的”になっていた感があります。
あくまでも個人的な印象なのですが、二重行政を解消することが“目的”ならば、大阪都構想は有効な“手段”ではないような気がします。実行する以前に、実行するかどうかを決める段階で、時間や手間やお金を費やしたのですから、早い時点で別の手段を講じていたほうが、目的達成に対して戦略的だったと思います。
大阪府知事として強い発信力を発揮し、二重行政の無駄を全国的に知らしめることで、大阪市にも変革の必要性を感じさせ、一つ一つ取り組んでいったほうが効果的だったような感があります。
自治体の首長は大統領制と同じように選挙で選ばれます。そのためか、首長のなかには、他とはちょっと変わったことをしたがる心理が窺える人がいます。 
大阪都構想にも、そんな心理が関わっていると感じます。他の人がやらないこと、大胆なこと、それをやりたいという心理です。また大都市として、東京に張り合おういう心理もあるような気がします。
それに人間は反対されることで持論に固執する傾向があると思います。大阪都構想も打ち出して早々から、多くの反対意見があったと思います。それに反撥し『何としても実現させる』と、よく言えば意気込み、悪く言えばムキなったような印象があります。しかし、そのようなことは自覚できないことも多いと思います。
 ただ大阪市民の多くは、何となくそれを感じ取っていたような気がします。

2015年5月29日金曜日

住民投票のもつイメージ

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2015年5月 29日「住民投票のもつイメージ」

概要
 住民投票は究極の民主主義ではないと思います。民主主義の理想的な形でもないと思います。むしろ民主主義が上手く機能していない表れだと感じることがあります。
 民主主義は“偉い人”や“賢い人”の一存で全体のことを決めるのではなく、話し合いで決める仕組みだと思います。多数決を行うということは、議論で結論を出すことが出来ないということだと思います。
住民投票よりも、話し合いで多くの人から同意を得たり、少数派の意見を取り込んだりして合議するほうが、民主的だと思うのです。そして合議するには、対立する双方に譲歩や妥協が不可欠だと思います。
また、多数派が少数派の声を汲み取ったり、取り入れたりすることが必要だと思います。
住民投票ではそれは起こりにくいと思います。住民投票の結果は即ち、多数派の意見を取り入れることを全体が認めたことになるからです。つまり多数派の意見を採用するお墨付きであり、少数派を切り捨てることが許されたと認識されやすいと思います。
少数派の意見を取り入れることは、間接民主主義のほうが起こりやすいと思います。多数派を形成するために、内部の意見が多様化することが少なくないからです。
また小数派の意見を蔑ろにしたのでは、次の選挙で不利になることもあり得ると思います。傲慢な政治運営が有権者から嫌われ、それが得票数を減らす要因になることもあると思います。
ただ間接民主主義も問題が多々あると思います。世襲は民主的とは言えない制度だと思いますが、民主的な選挙によって世襲議員が生まれているのだと思います。
また民主的な選挙によって、独裁者が生まれることがあると思います。“国”には政治のリーダーを置く必要があると思います。そうなるとその人物が、自身と周辺に権力を集中させることがあると思います。
ところで今の日本の政治リーダーの立ち振る舞いは、独裁者のそれではないと思います。お山の大将のものだと思います。


2015年5月28日木曜日

議論から逃げる技術

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2015年5月 28日「議論から逃げる技術」

概要
政治家が論点をずらすことは、今も昔もよくあることだと思います。政治家の常とう手段だという気がします。テレビ番組などに出演したとき、批判的な意見を受けた時や、答えに窮する質問をされた時に、論点をずらして答えることは頻繁にあるように感じます。テレビ番組は時間の制約があり、論点をずらしていたとしても、それを追及している時間をとれない場合もある。
そして政治家は、議会での質疑に対して論点をずらして答えることがあると思います。それは議会における技術の一つだと思います。
論点をずらしていることを指摘して再び質しても、それに対しても意図的に論点をずらして返答することも多いと思います。そのようなことが、何度も繰り返されると、結局、重要な点を質すことが出来ないまま、議論は終了することがあります。
 そして「議論が噛み合わないまま、質疑が終了した」ということになると思います。
その場合、論旨に沿った議論をすることから“逃げきった”のだと思います。
何事も逃げる場合、逃げる理由があるものだと思います。議論から逃げる場合、正面から堂々と論じあったのでは、不利になる場合などです。
利害関係や人間関係が関わっており、論理的に無理がある場合、反対意見に対して論理的に反論できないことがあると思います。そのような時は、論点をずらして逃げることがあるように見られます。
また多くの人から反撥されることが予見される時も、議論から逃げることがあると思います。

そうなると追及する側は、“逃がさない議論の技術”が必要だと思います。ただ“恰好を付けよう”とするだけだと、わかりきった結末になるだけだと思います。

2015年5月26日火曜日

法に感情

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2015年5月 26日「法に感情」

概要
 生真面目で責任感が強い、それは日本の国民性だと感じます。責任を負うと、しっかりと果たさなければならないという義務感を抱き、生真面目さゆえそれが心理的負担になるため、端から責任を負うことを避ける傾向が日本人には見られると思います。日本人は、決定する権限を有することを避ける心理的傾向が強いと感じます。
 また日本人によく見られる心理的傾向として、主体性に乏しいことが挙げられます。
国によっては『他人に決められるよりも、自分で決めたほうがいい』そういう国民性が強いところもあると思います。市民活動などによって、『自分たちで決める権利』を得たということもあると思います。
 日本でもそのようなことが全くないとは思いませんが、あまり多くないと感じます。むしろ『賢い人が決めてくれ』そういう意識が強い国民性だという印象があります。ただ、だからといって黙って従うわけではなく、“決まったこと”に対して、人それぞれの意見を抱いていると感じます。その意見が批判的である場合、“決めた人”に対する批判になりやすいと感じます。
 日本人は“決定を下す立場になる”それを回避する意識が働きやすいと感じます。
 ただもしその立場になったら、しっかりと責任を果たそうとすることも、日本人の国民性だと感じます。決定を下すため、とても生真面目に取り組む心理的な傾向があると感じます。
 そんな日本人には、裁判員制度は向いていないのかもしれません。国民の大多数が制度に反対するのなら、廃止してもいいと思います。

ただ個人的な考えでは、現行の裁判員制度は、ほぼこのままでいいと思っています。その理由をあげると

2015年5月25日月曜日

犯罪者に仕立て上げること。事件をでっちあげること

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2015年5月 25日「犯罪者に仕立て上げること。事件をでっちあげること」

概要
『犯人に違いない』と確信があっても、確たる証拠がないため、自白を強要することがあると思います。
そうではなく、警察官が『犯人ではない』とわかっていながら自白を強要することもあるかもしれません。
どちらにせよ、無実の人に社会的不利益や身体的苦痛を与えるだけでなく、真犯人の逃亡に加担することになると思います。それは大きな罪だと思います。
もし警察官が、無実の人を犯人に仕立てることで何らかの利益を得たなら、それは極めて悪質な罪だと思います。
 しかし『取り調べの違法性』を問われることはあっても、『無実の人を犯罪者に仕立て上げる』それ自体を法的に問われることはないと思います。
 また、警察官が実際にはありもしない事件をねつ造し、その犯人として無実の人を捕え、自白を強要して犯罪者に仕立て上げる、もしそんなことがあったとすれば、それは警察官である以前に、人としてあまりにも卑しい行いであると思います。“事件のでっちあげ”は罪だと思います。法治国家であるのならば、罪は刑法で裁かれるべきだと思います。
『警察官が委縮して、厳しい取り調べが出来なくなる。それによって本当の犯罪者を司法の場に送ることが出来なくなる』それは論点が違うような気がします。
罪を犯した人間にそれを認めさせるやり方と、無実の人を犯罪者に仕立て上げるやり方は、おのずと違うと思います。もし混同しているとしたら、警察は根本的に考え方を見直すべきだと思います。
警察は閉鎖的でありながら、巨大な組織だと思います。そして法的な権限を持っており、それだけに自浄能力は低いと思います。
批判されるほど、批判に対して真摯に向き合うことはなく、閉鎖性を強め自浄能力を弱めていくことになりかねないと思います。
そうなると、実効性を持つ、独立した監視機構が必要になると思います。

2015年5月24日日曜日

国際秩序を構築する必要性を認識しなければならない段階

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2015年5月 24日「国際秩序を構築する必要性を認識しなければならない段階」


概要
どんな会議でも決裂する可能性があると思います。もしその可能性がないのならば、それは会議として健全ではないといえるかもしれません。そうはいうものの決裂するばかりでは、会議が問題を解決する手段にならないと思います。
 人間社会には、様々な対立があり、時にそれが大きな問題になると思います。問題を解決する手段として、会議が使われることがあると思います。その会議が決裂するということは、問題を解決する手段にはならなかったということになると思います。
ウクライナや中東情勢を見ても、現在の国連は国際問題を解決する場として機能しなくなっていると感じます。そう考えると、国際的な秩序つくりと、それを運用する仕組みが必要だと思います。国家間の利害を超えた機関が必要だということです。
すべての国から完全に独立した機関ということになりますが、それを作ることは極めて難しいと思います。
宗教、人種、政治体制、それらを超えて国際的な秩序をつくるには、人間としての普遍的な価値観に基づかなければならない、そういえるかもしれません。しかしそもそもそれらは、宗教観や政治体制によって違っているものだと思います。
それにもし国家から独立した国際機関が出来たとしたら、それはそれで懸念もあると思います。権力が集中するおそれがあることはその一つだと思います。
しかし現在は、国際的秩序が必要だという認識すら持たれていないと感じます。今は、それを広げていく段階だという気がします。
道はながく険しいと感じます。はやく出立しなければならないと思います。

2015年5月23日土曜日

浅はかで愚かで身勝手な偽善者たち

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2015年5月 23日「浅はかで愚かで身勝手な偽善者たち」

概要
人間も地球に生まれた生物であり、それが動物を食するように生れついたということは、“人間が動物を食べる”、それ自体が地球の環境に組み込まれていると思います。人間が動物を食べなければ、地球の生物のバランスを崩してしまうと思います。
『人類がすべての動物を食べなくなったら、地球はどうなるか』科学的に想定すると、いつくかの説が出されると思います。ただ、動物を間引きしなければならないことは確実だと思います。そうしなければ地球上の生物のバランスが崩れると思います。
 人間が他の動物を捕食する生物であるのに、それを一切しなくなれば増えすぎる種があうと思います。増えすぎた種が、別の種を大量に捕食し、絶滅させてしまうことが考えられます。
 そうなると人間の手で、生息数を減らすために動物を殺さなければならなくなる可能性が高いと思います。それは食すために殺すよりも残酷だと思います。殺して破棄するだけです。人類の驕りと身勝手な思い込みによる、愚かで残酷な行為だと思います。
 しかしだからといって、人類の乱獲によって生物を絶滅させてはならないと思います。
“その種の生物が生息している”それ自体が地球環境の一つだと思います。種が絶滅するということは、地球の環境が変化したといえると思います。
 人類は地球の環境の下で生まれた、自然の生物だと思います。地球環境を守ならければ、地球環境で生まれた人類は生きていけなくなると思います。

世の中には、イメージや他者に声に感化されて深く考えずに『動物が可哀想だ』と訴える人達や、『イルカを殺す悪者と戦う正義の味方』気分を満喫している人達や、地球環境の保全も、野生動物も保護も方便であり、手段の一つとしている人達がいるように見えます。

2015年5月22日金曜日

生き物を食するということ

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2015年5月 22日「生き物を食するということ」


概要
捕鯨やイルカの追い込み漁は『ロビー活動の敗北』という声を耳にします。
その通りかもしれません。しかし感情に引かれた思考は、冷静な論理で覆すことは相当に難しいものだと思います。正しい情報に基づいていないとしても、また他者の思惑によって誘導されていたとしても、『イルカが可哀想』というのは感情だと思います。そういう感情は人間にとって大切だと思います。しかし感情を理由にした要求は、時に理不尽なことがあると思います。
『他の動物だって可哀想じゃないか』という主張も、あまり意味をなさないと思います。
『ほかの動物も可哀想だ』ということに同意したとしても、『イルカが可哀想だ』という感情が薄らぐわけではないと思います。むしろ、『論点をそらしている』と受け止められると逆効果になりかねないと思います。『他にも可哀想な動物がいるからといって、それでイルカの虐殺がゆるされるわけではない』
 また伝統や文化は、その国や地域にとって大切であっても、他の地の者にはなかなか理解されるものではなく、感情に駆られた人たちが伝統の重みを感じとることはないと思います。
 感情による行動を覆すことが出来るのは、より強い感情しかないのかもしれません。
偽善の中にある下劣な欺まんを、多くの人が納得できるように暴き、多くの人が信じられるように、広く発信することが出来れば効果があるかもしれません。忌むべき偽善を白日の下にさらして、欺かれていた人たちに、欺いていた偽善者に対する怒りの感情を、『可哀想だ』という感情よりも強く掻き立てることが出来れば、状況は変わるかもしれません。
テレビ番組の嘘や、映画の誇大な表現を示しただけでは、強い怒りを掻き立てることは出来ないと思います。

2015年5月21日木曜日

短文化による思考回路

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2015年5月 21日「短文化による思考回路」


概要
インターネットでは、言葉が短くなる傾向があると思います。自分の意見を発信する時も、他者とのコミュニケーションを取る時も、です。インターネットにおける短文化は、思考回路を短絡的にし、思慮を浅くし、意思伝達を不十分にしているような気がします。
 ただそのようなことは自覚できないものだと思います。
動画投稿サイトやテレビの報道番組が、インターネットを通じて募っているコメントを募っています。それは多くの人にとって、自分の意見を、その場ですぐに、簡単に、大勢に向けて、発信することが出来る場になると思います。
そんなコメントの多くは無記名であり、短時間で流れ去っていくものだと思います。それはコメントの特徴だと思いますが、発言に責任を感じられないと思います。責任を感じていない言葉が、簡単に発信されているということです。
それによって思考回路が短絡的になる傾向が、社会全体にあると感じます。短絡的な思考回路による論理は、極端になったり、独善的になったりする傾向があると感じます。固定観念を強め、主観による断定的な主張になることが多いと思うのです。
それは他者にレッテルを貼ることに繋がっていると思います。意見対立は深まるばかりだと思います。
また無料通話アプリでは、短時間で短い言葉を細かくやり取りすることが一般的になっているように見られます。文章で考えていることを表現するのは限界があると思います。ましてその文章を短くするとなると、意思伝達が不十分になりがちだと思います。
そのため近年の人間関係は、多くの他者と繋がっているものの、個々の接し方が希薄になっていると感じます。
また思考が短絡的で、思慮が浅いということは、後先考えられないということであり、それが時に凶悪犯罪を起こすことに繋がっているような気がします。

2015年5月19日火曜日

短文化によって

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2015年5月 19日「短文化によって」

概要
最近のテレビでは、インターネットを使って視聴者からコメントを募り、それを今この瞬間の視聴者の声として取り上げている様子をよく目にします。
インターネットでは、随分前から投稿コメントを目にしていると感じます。そんな中、動画投稿サイト利用者の平均年齢を耳にしました。28.4歳とのことです。改めて若者が中心なのだと思ったのですが、コメントを投稿する人の平均年齢は15.4歳だそうです。中高生が圧倒的に多いようです。
 動画投稿サイトのコメントは、他愛もない一言を発したり、それを読んだりすることが楽しさを感じるのだろうと思います。
 しかし報道や社会的な記事に対するコメントを見ると、眉をひそめてしまうものが多いと感じます。内容や言葉使いなどの表現の仕方など、様々な点で好ましくないと感じることがあります。
ところで、インターネットには消して欲しいと訴えても、長い間残ることもあれば、一瞬で消えていくものもあると思います。投稿コメントは後者だと思います。一瞬で消えていく言葉には重みがないと思います。そして投稿する人の多くはそれを承知していると思います。しかも無記名ですので、通常ならコメントを投稿した人物が特定されることはないと思います。
それでは自分の言葉に責任を感じないと思います。コメントの内容も表現も深く考えられることは少ないと思います。そんな言葉の応酬は、対立を激化させると思いますし、怒りの感情を掻き立てると思います。

しかしインターネット全体の風潮として、長い文章が敬遠され、短い文章で発信されることが増えているような気がします。

2015年5月18日月曜日

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2015年5月 18日「芯」

概要

 『彼は私にレッテルを貼っている』そう訴える人は、自身もレッテルを貼る傾向が強いと感じます。『彼はレッテルを貼っているんだ』というレッテルを貼っていると感じることもあります。一方的に決めつけて批判し、攻撃し、蔑み、貶める、『レッテルを貼る』とはそういう場合が多いと感じます。
ところで攻撃は、自分を守るために行われることがあると思います。
また時に、自分の強さを感じたいがために攻撃をすることもあると思います。
そのどちらにも、“弱さの裏がえし”だと感じることがあります。
“芯が弱い”ために、自分を守ろうと他者を攻撃するということです。しかし、もしそうだとしても、多くの場合、自覚されていないと思います。
 自分の“芯の弱さ”など、誰もが見とめたくないものだと思います。
 家柄の強さの下で育った人間が、それがない一人の個人としての“芯の弱さ”を認めることは少ないと感じます。自分を一個人として顧みること自体が少ないと感じます。
 そしてそれを指摘する声に対して、『レッテルを貼っている』とか『印象誘導だ』と言うことがあると思います。自分を守るための攻撃の一種といえるかもしれません。
 ただ本人が認めなくても、また気づいてなくても、一個人として“芯が弱い者”は、“力”を欲する傾向が強いと感じます。
 思考では認識していないものの、心のどこかでは“芯の弱さ”を知っている人もいると思います。しかし目を背けている人が多いと思います。
“権力”は“力”の一つだと思います。“権力”という強い“力”を得た“芯の弱き者”はそれを存分に振りかざすものだと思います。

2015年5月17日日曜日

独裁性

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2015年5月 17日「独裁性」

概要
独裁は、民主的な選挙で生まれることもあると思います。選挙によって非常に多くの得票を集めた人物や政党が、大きな権力を得ることがあると思うのです。
民主的な体制下では、原則的に多数決によって意思決定されるものだと思います。一つの政党に多くの票が集まり、議会において多数派を占めることになると、その政党の主張が通りやすいと思います。
また大統領制など、国民による直接的な選挙で国のリーダーを決める体制では、その人物に強い権限が与えられていることが多いと感じます。
 強い権限をもつこと、それは即ち権力をもっているといえるような気がします。
 しかし大統領にしろ、政党にせよ、票が集まれば必ず独裁になるというわけではないと思います。多くの票を得た大統領でも、議会と対立するなどして、独断で政治を行うわけにはいかない状態になることがあると思います。
 また一つの政党が多くの議席を獲得した場合、党内の一人、あるいは少人数に意思決定権が集まらなければ独裁にはならないと思います。
 つまり独裁とは、権力が集中していることだといえるような気がします。今の日本の政治は、『独裁性が高い』と感じます。
迅速に意思決定が出来るなど、状況によっては独裁にも利点があると思います。しかし独裁政治最大の難点は、独裁者が“人間”だという点だと思います。どれだけ清廉な人格者であったとしても、独裁が出来るとなると心理は小さからぬ影響を受けると思います。
 またどれだけ有能であっても、一人の能力では、国を支配するには不足だと思います。

しかし権力者は、自分の意向に沿う人物を集めるものだと思います。自らを戒めようと自分の意に沿わない者を身近に置いたとしても、権力が強まるほどその声が聞けなくなることが多いような気がします。独裁者である前に人間であり、人間とはそういうものだと思います。

2015年5月16日土曜日

風評に科学的根拠などない

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2015年5月 16日「風評に科学的根拠などない」


概要
外国で危険度の高い原発事故が起きたとなると、科学的根拠で示されている以上に警戒するのは無理もないと思います。
単純に比較することではないと思いますが、福島第一原発事故の後、日本国内でも見られたことだと思います。被災地のがれき受け入れを強く拒否する声があったと感じます。科学的根拠によれば放射性物質による健康被害がでる可能性は相当に低かったと聞きます。しかしゼロだと言い切ることは出来ず、また後年になって健康被害があるのではないかという不安を抱えた人が多かったと感じます。
原発事故が起きたからには、風評によるマイナスがあるのは仕方ないと思います。それは原発の潜在的リスクの一つだといえるかもしれません。
科学的根拠の有無など、風評にはそれほど大きな要素ではないと思います。気持ちや感情、心理的なものが、風評を形作っているのだと思います。
そうなると時間をかけて、丁寧に、真摯に、取り組むしかないと思います。科学的根拠を説明するのも、その一つだと思います。
しかしそんななか、偽装が発覚したとなると規制が厳しくなるのは当たり前だという気がしますし、風評払拭の取り組みが、大幅に後退するのはやむを得ないと思います。
そう考えると、日本が強い姿勢を示すことは逆効果だという気がします。心理や感情、気持は強く反撥されると、さらに強く押し返そうとするものだと思います。
提訴を検討するという強硬な姿勢は、台湾の消費者の心理を逆なでするかもしれません。
そんな強硬な対応は現政権の傲慢さの表れかもしれません。大きな組織に属している人は、それだけで傲慢になるものだと思います。
傲慢になっている人は、その自覚がないことが多いと思います。

2015年5月15日金曜日

部活動強制の是非

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2015年5月 15日「部活動強制の是非」

概要
学校給食の是非を論じると、誰もが自分の経験を基にした主張をしていると感じます。偏食がなく毎日給食を楽しみにしていた人は、大人になっても学校給食に肯定的な意見を持っている場合が多いと思います。
偏食が多かったり食が細かったりした人は、給食を全部食べるまで席を立つことを許されず、昼休みに一人居残りさせられた、という人もいると聞きます。
 それはとても大きな精神的苦痛で、トラウマになっている人もいると感じます。トラウマを植え付けることは、“食”に関する教育としては、失敗だと感じます。
『昼休みに居残りさせられたおかげで偏食が直った』という話を聞いたことはないのですが、『給食はまるで地獄だった』という声は時々耳にします。
ところで中高校の部活動は、強制している学校もあれば、自由参加という学校もあると聞きます。そこで部活動を強制することの是非について論じると、やはり皆が自分の経験を基にした主張を展開していると思います。
ただ何事も、経験は当人だけのものであり、その経験を基にした意見や主張も、その人だけのものだと思います。
そうなると、部活が強制であることの是非も、人それぞれということになると思います。一概に言えることではなく、解答もないと思います。

個人的に部活は強制でいいと思います。ただ名目上は“強制”でも、実態は緩やかであってほしいと思います。あまり活動してない実質的な“帰宅部”や、“幽霊部員”を黙認している部など、強制的部活動に馴染めない生徒や、入部してみたものの部や競技や顧問や先輩と合わなかった生徒を受け入れる場がある、そんな“緩やかな強制”に、好感を持っています。実際にそんな学校もあると思います。

2015年5月14日木曜日

中学校給食の是非

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2015年5月 14日「中学校給食の是非」


概要
 昨年12月、新潟県三条市で学校給食に牛乳の提供を試験的に停止し、全国的に大きな話題になりました。4か月の試験期間が終わり、先月から学校給食に牛乳の提供が再開しています。ただ今回の牛乳提供再開もあくまで試験的であり、期間は9月までだそうです。それ以降のことは、6月に決定されるそうです。意向調査などは行わず、牛乳の提供を停止した時期と、再開した期間の食べ残しの量などから判断するそうです。
ところで現在小学校では、ほぼすべての学校で給食を実施しているそうです。中学校ではそれほど普及しておらず、自治体によって違っているそうです。中学校給食がないという自治体もあるようです。
給食に関する話になると、個人的な思い入れが強く反映していると感じることがあります。牛乳もそうですが、給食に対して好ましい感情を抱いている人は、懐かしい思い出話をすることが多いような印象を受けます。
それに対して『学校給食に反対』という人の主張は、強くなる傾向があると感じます。そこにはトラウマがあると感じることがあります。
給食は残すことが許されず、嫌いなものでも無理して食べなければならず、時に昼休みも一人居残りをさせられて給食を食べていた、そんな経験がある人もいるようです。
それは精神的に大きな苦痛だったと思います。後に一種のトラウマになり、『給食不用論』を強く訴える理由の一つになっているような気がします。
学校給食も教育の一環だと考えると、そんなトラウマを植え付けてしまうやり方は逆効果であり、教育としては芳しいやり方ではないような気がします。
ただ、教育という面でも、女性の社会活動という点に置いても、学校給食は自治体の財政を使う優先順位として、決して低くはないと思います。

2015年5月12日火曜日

呪縛

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2015年5月 12日「呪縛」

概要
憲法を改正するべきだという人たちから、戦後トラウマを抱いているような印象を受けます。戦後70年が過ぎ、戦後生まれの人が増えているのに、今でも戦後トラウマを感じるのは、前の世代から植え付けたように見られます。そして次の世代に戦後トラウマを植え付けようと心血を注いでいるように感じます。それによって占領下の精神構造という呪縛に囚われていると感じます。
多くの国民は、歴史として過去を学び、未来に生かそうとしていると思います。しかし力を持つ政治家のなかに、過去の人たちから植え付けられた呪縛に自覚なく囚われている人たちがいると感じます。
今、三つの事柄について憲法を改正しようという動きがあるようです。まだ詳しい改正案は聞かれませんが、いずれも憲法を改正せずとも、関係する法律や制度を整備するなり、閣議決定で憲法の一部の解釈の仕方を変えるなりすれば、想定される事態には対処できるような気がします。 
 ところで、今の日本は急いで選挙制度改革を行わなければならないと思います。“その場しのぎ”ではなく、抜本的な改革が必要だと思います。そうなると、議会のあり方から考えなければならないと思います。しかし政党や政治家はみな、自分たちに有利になるようにしようとするため、話し合いは全く進まず、いかにして“その場しのぎ”をするかについて、時々話し合っているだけだと感じます。
 選挙制度改革も議会改革も、時間がかかると思います。だからすぐにでも本気で取り組まなければならないと思います。そして議会改革には、憲法を改正する必要が生じる場合があると思います。この場合の憲法改正は“中身”が理由だと思います。
 今、憲法を変えようとしている人たちは、『中身はなんて何でもいいので、とにかく憲法を変える』それ自体を目的とし、執念を燃やしている人たちばかりに見えます。

 憲法はそのような人たちによって、変えられてはいけないと思います。

2015年5月11日月曜日

自然の摂理? 生物の本能

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2015年5月 11日「自然の摂理? 生物の本能」


概要
ネアンデルタール人は、現生人類によって滅ぼされたという説もあります。しかし近年の研究から、現生人類とネアンデルタール人は混血が盛んだったと考えられています。
勝手な想像ですが、ネアンデルタール人は現生人類に交わることを求め、純血の子孫を残そうという意欲が薄れていったのかもしれません。
しかし現生人類には、それほど混血を求める意識がなかったのかもしれません。そのため、混血をしたいネアンデルタール人があぶれてしまったのかもしれません。そんな現生人類のなかに交わる相手を見つけられないネアンデルタール人も、純血の子孫を残そうとしなかったのかもしれません。つまり純血のネアンデルタール人同士は交わることが少なくなり、純血は少子化し、いずれ絶えたのかもしれません。
つまりネアンデルタール人は、純血の子孫を残すよりも、他の種(現生人類)に交わることを求めたのかもしれないと思うのです。
生物のなかには、子孫を残す行為が、身体的に大きな負担になるものがあるようにみられます。今の地球に棲んでいるあらゆる生物は、苦労したり負担を背負ったりしながら、子孫を残しているように感じます。
地球に生命が生まれてから30~40億年といわれます。今までに地球に生まれた生物のなかで、人間が知っているのはごく一部だと感じます。もしかしたら、負担や苦労を背負ってまで、子孫を残そうとしなくなった生物がいたかもしれません。そのように絶滅した生物がいたかもしれません。
すべての生物は、子孫を残そうとするものであり、それが自然の摂理だという考えは、人間の勝手な固定観念に過ぎないのかもしれません。

2015年5月10日日曜日

決着がつくことはない

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2015年5月 10日「決着がつくことはない」

概要
 対抗心は、表に出すことでさらに強まるものだと思います。そして一度は収まったとしても、些細なことで再燃するものだと思います。
 怒りの感情は、高ぶることでさらに高ぶるものだと思います。そして一旦は収まったとしても、ちょっとしたことで再び高ぶるものだと思います。
 対立は、対立することでさらに深まるものだと思います。そして一時は静まったとしても、何かのはずみで再開するものだと思います。
そして対抗心は、怒りに似た感情だと思います。また強い怒りが、対抗心に付随している場合もあると思います。怒りが強い対抗心ほど、掻き立てられるたびに強まっていくことが多いと思います。
ところで現代社会には、インターネットが広く普及しています。そのインターネットは、怒りの感情を掻き立て易いものだと思います。パソコンやスマートフォンなど、一人で一つの画面に集中することで、“一人の世界”に似た認識をもつと思います。その反面、画面の向こうには他者の存在を感じているものだと思います。無意識に自己を守ろうとし、それによって怒りの感情が掻き立てられやすいと感じます。
そうなると、対抗心や怒りが含まれている民族意識は、インターネットによって無意識に高まることがあると思います。
昨年スコットランドでは、英国からの分離独立を問う住民投票が行われました。反対が多数だったのですが、一回の住民投票の結果が永遠に尊重されるとは限らないと思います。再びスコットランドの独立を望む声が高まれば、再び住民投票を求める声が上がるかもしれません。

そう考えると、民族問題に決着がつくことなど、ないのかもしれません。殊にインターネットが普及した現代では、一旦は収まっても再び燃え上がることがあるような気がします。

2015年5月9日土曜日

世論調査が与えた議席

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全文はそちらで。


2015年5月 9日「世論調査が与えた議席」


概要
 今回の英国の選挙では、世論調査が間違っていたわけでないと思います。選挙前に世論調査の結果が報じられ、その影響などが論じられたことで、有権者――とりわけ誰に投票するか決めかねていた有権者――の意識が変わったのだと思います。それによって選挙結果が、世論調査とは違うものになったのだと思うのです。
 選挙前の世論調査では、史上まれに見る激戦だという結果が報じられ、保守党と労働党の二大政党のどちらも過半数を獲得することが出来ず、宙吊り議会なるだろうと論じられていました。そしてスコットランド民族党が第3勢力になることは確実視されていました。それらは連立の枠組みによる政治混乱を予感させたと思います。実際、そうなるのではないかという趣旨の論説が多かったようです。
多くの有権者には、これからの英国には難題が山積していているという認識があったと感じます。それが与党を決める段階で政争が起こるようでは、それらの問題を捌いていくことは出来ないのではないか、また回復してきた経済も、政治の混乱によって停滞するのではないか、そのような漠とした不安を感じたのではないかと思います。そこで有権者の心理は、安定した政権を望んだのではないかと思います。
またイングランドに暮らす人たちのなかには、スコットランドが独立すると、経済的な損失が小さくないと考えている人が少なくないと聞きます。スコットランド民族党が躍進し、労働党との連立政権となると、政権内と議会で何かともめるのではないかという印象を抱いた有権者が少なくなかったのではないかと思います。
そのようなことから、保守党が単独で過半数の議席を確保することが、今回の選挙では最も安定した政権になるだろう、そう考えられたのだと思われます。
選挙前の世論調査と論説が、投票に影響を及ぼしたと思います。