2015年6月30日火曜日

イメージによる戦争

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 30日「イメージによる戦争」


概要
『イスラム国を壊滅させなければならない』
 今までに数え切れないほど、そのような言葉を見聞きしてきた感があります。ただ多くの人が「壊滅させなければならない」とイメージしているものの、では“壊滅した状態”とは、どのような状態なのか、具体的に思い描くことが出来ていないと感じます。
“壊滅させるべき”というイメージは、漠然としていて現実的な思考に繋がっていないような印象があります。
多くの人が抱いている“イスラム国壊滅のイメージ”は、『幹部が全員殺害すれば、組織として機能しなくなる』とか、『ほとんどの戦闘員を殺害すれば、組織の戦闘力がなくなる』などだと思います。
『それを実現することが出来るのか?』『実現できるのならば、どのような手段を用いるべきか?』『それ以前にそれで本当に壊滅したといえるのか?』
『幹部全員を殺害すること』も、『ほとんどの戦闘員を殺害すること』、もしそれが出来たとすれば、イスラム国は「壊滅した」といえるような気がします。しかし極めて難しいと思います。現実的ではないと思います。
 それにもしイスラム国が壊滅したとしても、テロがなくなるわけではなく、テロリストがいなくなるわけでもないと思います。別の過激派組織が台頭するか、残党が組織を再編することになると思います。
 そう考えると現在一般的にイメージされている“イスラム国が壊滅した状態”が現実になることは、まずないといえるような気がします。
 つまり現実的ではないイメージを、多くの人が求めているということになると思います。イラク戦争が始まった経緯には、イメージが大きく関わっていた感があります。ただそれを自覚している人は少ないと感じます。
 イスラム国も、ほかの過激派組織も、時間を掛け、多角的な手を尽くし、弱体化させていくしかないと思います。

2015年6月29日月曜日

骨を太く見せているものの中はスカスカ

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 29日「骨を太く見せているものの中はスカスカ」

概要
ギリシャは、欧州連合が求めた税制緊縮策に取りくまざるを得ない状況だと思います。選挙前から、そうだったと思います。財政緊縮策を拒否することを公約に掲げて選挙戦を行うなど、大衆迎合以外の何ものでもないと思います。
 しかも具体的な対策を示すことをせず、ただ単に“美味しい話”をしただけだと感じます。大衆がその“美味しい話”に飛びついた感がありますが、それは大衆の賢愚で語るものではないような気がします。大衆迎合は、民主主義体制の中に潜在しているものだと思うからです。だからこそ、政治家は大衆迎合に走るべきではなく、マスコミはそのことを訴えるべきだと思います。
今のギリシャは、政治家が出来もしない公約を掲げたことで、自らの縄で自らを縛った感があります。そこから逃げを打つための“手”が、国民投票だと思います。しかしここで国民投票の実施をぶち上げたことで、債務不履行が現実的となるという不安が国内外に急速に広がり、ギリシャとしても資本規制をしなければならなくなったと感じます。
ギリシャはもっと早く、財政を立て直しに着手するべきだったと思いますが、振り返ってみれば、今の日本はまさにそこにいると思います。
「経済財政運営と改革の基本方針」の素案が報じられていますが、『方針でしかない』と感じます。具体的な計画ではないということです。
『目標』といわれますが、達成する具体的な方法が提示されていないため、『希望』にすぎないという印象を受けます。
「経済成長なくして、財政再建はない」。確かに、経済が低迷している状況では歳出を抑えることが難しいと思います。
 それに景気が良くなって、税収が増えれば、それを使って財政再建に取り組むことが出来ると思います。

 しかし日本の政治家は、税収が増えると能天気にばらまくばかりだという印象があります。 

2015年6月28日日曜日

大衆迎合体質の愚政

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 28日「大衆迎合体質の愚政」

概要
ギリシャの政治は、かねてから大衆迎合体質が強いと聞きます。年金をばらまくなど、国民に甘い汁を吸わせることで、選挙で票を集めてきたということです。そんな体質が根付いてしまったため、ばら撒かなければ票が得られなくなっていたのだろうと思います。
しかしばらまき続けたのでは、財政が持たなくなるのは自明の理だと思います。結局、財政が破たん状態になったのだと思います。
こうなってしまうと、立て直すことは容易ではないと思います。財政緊縮は必要ですが、個人消費を冷え込ませるなど、経済を停滞させることになると思います。経済が落ち込むと税収が減ってしまうので、財政を立て直すには逆効果になることもあると思います。こうなる前に手を打たなければならなかったのだと思います。ただこうなったからには、国民の負担が重くなることは避けられないと思います。
しかし先の選挙では、欧州連合が求めている財政緊縮策の受け入れ拒否を公約に掲げた政党が多くの議席を獲得したそうです。そういう公約を掲げて選挙に臨むこと、それ自体が大衆迎合体質の表れだと思います。税制緊縮策を受け入れなければ、ギリシャの財政が立ち行かなくなることは、選挙の前から予見できたことだと思います。
案の定、財政緊縮策を受け入れざるを得ない状況になっていると思います。しかし受け入れ拒否を公約に掲げて票を集めた政治家は、そうするわけにいかないのだと思います。結局、財政緊縮策を受けいれるわけにはいかず、かといって受けいれざるを得ない状況になったのだと思います。その状況から逃げるために、国民投票をやると言いだしたように見えます。
 甘い言葉で国民を誑かしたツケを、『国民の判断にゆだねる』という名目で、国民に回しているように見えます。国民投票をやることで、債務不履行の責任の一端を国民に背負わせようとしているように見えます。
愚かな政治家による、次元の低い政治だと思います。


2015年6月27日土曜日

人種差別

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 27日「人種差別」

概要

  人間社会には多くの差別が存在していると思います。誰もが無意識の領域に“差別意識”を持っているからかもしれません。
しかし無意識の“差別意識”は、人によって強さには違いがあると思います。また、たとえ無意識の“差別意識”があったとしても、思考や行動は人それぞれだと思います。
人間に差異がある、それは当たり前のことだと思います。肌の色、瞳の色、顔立ちなどの身体的特徴は目に見えるため、違いがわかりやすいと思います。違いがわかりやすいために、括りやすいのだと思います。
そして括ることで“違っている”という感じ方が強まることがあると思います。多くの場合、それは無意識だと思います。
ただ意識の有無に関わらず、差別は差異を認識していることが前提だと思います。
 そして一般的に差別は、優位に立つものが行うものだと思います。
また人間は、自分とは違っている者が、自分にとって不利益を及ぼすのではないかという、不安や恐れが芽生えることがあるような気がするのです。
その心理は、思考よりも深いものだと思います。だからこそ、差別はなくならないのだと思います。
また差別が憎悪を掻き立て、憎悪は怒りを伴うものだと思います。それによって、差別は助長されるものだと思います。
 人間は無意識の領域に“差別意識”がありながらも、そういう意識があった上で、思考をしているものだと思います。
『白人は優秀な人種なのだ。優秀な白人が黒人を支配するのは当然だ』そう考える人もいると思います。
『肌の色の違いがなんだっていうの? 白人が優秀だという根拠などないじゃない』そう考える人もいると思います。

2015年6月26日金曜日

憎悪と差別

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 26日「憎悪と差別」


概要
人間社会には差別が溢れていると言っても過言ではないかもしれません。人種や民族に対する差別、身体的特徴に対する差別、病気に関する差別、性に関する差別、部落など出身地や居住地に関わる差別など、人間社会には実に様々な差別があると思います。
 差別とは、大勢の側の人間が、少数の側の人間に対して行うものだと思います。また権力を有する者が、権力のない者に対して行うものだと思います。また社会的に地位が上の者が、自分より社会的に地位の低い者に対して行うものだと思います。つまり、差別は優位に立つ者が、そうではない者に対して行うものだと思います。
 そして差別には、憎悪が関わっていることが多いと思います。差別されている人たちは、差別している人間を嫌ったり憎んだりしていることが多いと思います。
 また差別する側の人間も、自分たちが差別している人間を嫌っていることが多いと思います。
 そして時に、憎悪による犯罪を起こす者がいると思います。無差別に無辜の人の命が奪われることがあると思います。そしてまた憎悪が高ぶるような気がします。
 憎悪には怒りの感情が含まれていることが多いと思います。他者を憎む気持ち、他者を忌み嫌う心理、それらは怒りの感情を掻き立てるものだと思います。
 憎悪と怒りは、近しい心理で、一体になっていることも多いと思います。憎悪を強めることで怒りが高ぶり、怒りが高ぶることで憎悪が強まることが多いと思います。
ところで人間社会にある差別の多くは“差別する”ために、差異が用いられているような気がします。本質的に差異の大小や、差異の内容は、あまり問題ではないのかもしれません。差別する根拠になれば差異はなんでもいいのかもしれません。

2015年6月25日木曜日

憎しみと怒り

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 25日「憎しみと怒り


概要
 他者を憎悪する気持ちと、怒りの感情はとても深く関連しているものだと思います。
憎悪が怒りを湧きあがらせることがあり、怒りが憎悪を掻き立てることがあると思うのです。腹立たしく感じた人物に対して、人は憎しみを抱くことがあると思います。そしてその憎しみが、次第に強まっていくことがあると思います。
憎悪と怒りは一体化して、強まることも多いと思います。ただそれは自覚することが難しいと思います。自分が怒っているのは相手が悪いためであり、自分が他者を憎んでいるのは、全てその自分物が悪いからだと認識していることが多いと思います。
そして憎しみも怒りも、反芻するたびに増幅することが多く、対立することで高ぶることが多いと思います。
「思い出すたびに、腹が立つ」その感覚は、誰もが経験したことがあるだろうと思います。同じ事柄について何度も思い出しては、怒りを高ぶらせるということは、“忘れていない”のだと思います。“忘れられない”と感じている人もいると思います。
忘れられないのは、思い返すたびに怒りが掻き立てられることが理由の一つだと思います。強い感情を伴った出来事は、なかなか忘れないものだと思います。
忘れられずに思い出し、思い出すことで再び怒りが掻き立てられ、怒りが高ぶることで忘れられなくなる、そんな循環があると思います。
 憎悪には怒りの感情が伴うことが多いと思います。憎しみを伴う記憶を思い出すと、怒りの感情が沸き上がり、それが憎しみを強めさせることがあると思います。
 そして怒りも憎しみも、表に発することで、高ぶることがあると思います。怒鳴ったり、罵ったりすることで、怒りや憎悪が高ぶることがあると思います。

2015年6月23日火曜日

正論と理屈と屁理屈

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 23日「正論と理屈と屁理屈」


概要
杓子定規だったり、理想的に過ぎたり、多様な事柄の一面だけに関する理論だったり、柔軟性に欠けたりして、現実的とは言えないような主張や意見を指して、「正論」ということが多いと思います。
正論を振りかざしている時、“正論”だと認識してない人もいれば、“正論”だと自覚していることもあると思います。
前者は、あくまでも正しいことを訴えていると信じているのだと思います。正当な主張なのだから、実践できるはずだと信じている場合もあれば、とにかく正しいことを訴えているのであって、現実的かつ具体的にどうするかということは考えていない場合もあると思います。
それに対して意図的に正論を振りかざしている人は、『論理的には正しいものの、実践するには無理がある』ことを十分に承知した上で、強く主張しているのだと思います。
“正論”だと自覚していても、いなくても、正論を振りかざす人は、独善的な心理状態になっていることがあると思います。
『自分の主張は論理的で道理にかなっているため、反論は出来ないはずだ。もし反論されたら、全て言い負かしてやる。絶対にそれが出来るはずだ』
しかしその主張の中に、身勝手なこじつけや、自己中心的な言い分があることも少なくないと感じます。
正論を振りかざすと、自分は正しい存在であるという気分になることがあると思います。
また不当に不利益を被っている被害者の気分になることがあると思います。
ただ正論はえてして自己中心的に論理が構成されていると思います。丁寧にその主張を読み解いていくと、論理的に整合しない点や、批判されるべきことが見えてくることも多いと思います。

2015年6月22日月曜日

妄信

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 22日「妄信」

概要
「事実です。絶対に間違っていません。ネットで拡散しているじゃないですか。それが事実だという証拠です」
 そんなことはないと思います。この観念は論理的ではないと思います。インターネットで不特定多数の人が同じことを書いていても、それは事実の証拠にはなりませんし、拡散していることが事実だとは限らないと思います。事実に反していることも多いと思います。
“信じる”それには人間性が強く関わっていると思います。人間は根拠が明確でなくても、強く信じることがあると思います。また論理的ではないことを信じ込んでしまうことがあると思います。
 ただ当人からすると『論理的に思考した結果、信じるにたると判断した』という場合もあると思います。
 しかし“考えること”それは自分が思っているほど冷静でなく、性格や感情が引っ張っていることが多いと思うのです。
 人間の思考は、感情や性格などの人間性や、利害関係や人間関係などの社会性が主導しているものだと思います。
おおざっぱな表現をすると、人は考える前に『信じたいこと』か『信じたくないこと』か、性格でなどで定めるのだと感じます。次に『信じたいこと』を信じ、『信じたくないこと』を信じないのだと感じます。それから思考すると思うのです。
そしてその思考は、“信じるための思考”であることが多いと思います。そのため、考えれば考えるほど、強く信じる傾向があると思います。一種の自己催眠といえるかもしれません。しかしそれを自覚している人はとても少ないと思います。
また自分が信じていることを、他者も信じるようにしむけようとすると、その行為によって自分自身が強く信じるものだと思います。

他者に信じ込ませるために“考える”、それによって持論に固執を強め、妄信を強めることがあると思います。

2015年6月21日日曜日

男女別車両

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 22日「男女別車両

概要
『疑いを晴らすことが極めて難しい』『誰でも冤罪の被害にあう可能性がある』『たとえ冤罪が認められたとしても、失うものがあまりにも大きい』そういうことを見聞きしているため、痴漢冤罪を恐れている人が多いのだろうと思います。
また痴漢は『第三者による客観的な証拠をそろえることが難しく、被害者の証言を重んじざるを得ない』『被害者が確信をもって犯人の特定を間違えることもあり得る』という性質があると思います。それは冤罪が起きやすい性質だと思います。痴漢という犯罪がある限り、冤罪もあると思います。
女性専用車両ならば、男性が女性に対して行う痴漢は極めて少ないと思います。しかし、混雑時には普通車両では身動き取れないほどの過密乗車であるのに、女性専用車両には余裕があることが少なくないと聞きます。混雑した普通車両に乗っている男性が、間尺合わないと感じるのも無理はないような気がします。
男女別車両ならば不公平感は抑えられると思います。路線ごとに乗降客の男女比を調査し、その比率に合わせて男性車両と女性車両の数を決めれば、男女の車両の混雑度は似たようなものになるとと思います。
同性に対する痴漢があるかもしれませんが、男性が女性に対して痴漢を行うことが圧倒的に多いと思います。
しかし男女別車両では『乗り継ぎの便のいい位置の車両に乗ることが出来ないかもしれない』『父と娘、母と息子、夫婦、交際中の男女などが、別々の車両に乗らなければならない』などの理由から反対する声もあるようです。
 また性同一性障害の人にとっては、精神的に別の性の車両に乗らなければならないため苦痛があるかもしれません。

 こうして考えると、痴漢を撲滅する決め手はないと改めて思わされます。しかし何事も、すべての人にとって何の不都合もない対策は稀だと思います。一つの問題を解決するには、別の不都合が生じるほうが、ずっと多いと思います。

2015年6月20日土曜日

電車内に警察官やカメラを置くと

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 20日「電車内に警察官やカメラを置くと」


概要
電車に私服警察官が乗っていることを告知したり、制服警察官が乗り込んで痴漢を警戒したりすれば、痴漢と抑止する効果があるかもしれません。しかし警察官でも満員電車で、痴漢の手を目視確認することは難しいと思います。それに警察官が見間違うこともあると思います。また痴漢犯の中には、巧妙に他人の犯行に見急かせる輩がいるかもしれません。
もし警察官が見間違えたとしても、痴漢として捕えたからには、警察官が見間違いを認めることは絶対にない、そう言い切れるような気がします。見間違った警察官の証言が、有罪の有力な証拠になることがあるような気がします。
もし電車内に監視カメラを設置しても、痴漢をしている手を撮影することは難しいと思います。ただ痴漢被害者の周囲にいた人物の顔を撮影することが出来るかもしれません。その映像によって周囲にいた人たちを特定し、痴漢行為を目撃していないかと質したり、痴漢として取り押さえた人物が痴漢行為をしたことを証言してくれないかと依頼したりすることが出来るかもしれません。
しかし監視カメラの映像から人物を特定するのは捜査機関が行うことだと思います。冤罪だった場合、冤罪被害者に不利になる可能性が高いと思います。
それに表情や仕草などが撮影されることで、それらが先入観になることがあると思います。例えば『隣の女性からの香水の匂いが強かったため、顔をしかめた』とか、『後ろに立っている人のバッグの角が脇腹にあたっていたかったので、手でかばっていた』などを、痴漢と関連づけて考えるということです。
人間は『こいつが犯人だ』と思い込んだら、どんな弁明も言い逃れのための嘘に聞こえることがあります。
警察官も例外ではなく、むしろ面子や意地や立場か、その思い込みを増幅させることがあると思います。

2015年6月18日木曜日

痴漢抑止シール

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 19日「痴漢抑止シール」

概要
 痴漢抑止シールは、『痴漢されたときにやめさせる効果』や『痴漢された時に証拠を残す効果』、『このシールが普及することが抑止力になるという効果』、などがあると思われます。『いいものだ』という受け止め方がある一方、冤罪を助長するのではないかという意見も多いそうです。
 満員電車など周囲に他者が大勢いる中で、痴漢行為を行った人物を特定することは難しいような気がします。
 また痴漢行為は犯罪であり、犯罪は取り締まりが厳しくなるほど、手口が巧妙になるものだと思います。犯罪は自分が犯人であると知られないようにするものだと思います。
痴漢の場合、周囲に大勢の無辜の人がいる場合が多いのですから、他者を犯人だと思わせることが、自分の犯行を隠す有効な手段になると思います。
 そして人間は『こいつが痴漢だ』と思いこむと、否定されるほど信じ込み『言い逃れようとしている』と感じるものだと思います。相手が無実だとしても、です。痴漢の犯人は、自分が捕まらないように巧妙なやり方で他人のすることもあると思います。
 この痴漢抑止シールについて、冤罪を助長するという声が多く上がるのは、それだけ冤罪を恐れている人が多いということだと思います。本物の痴漢犯よりも、絶対に痴漢をしない人のほうが恐れているかもしれません。
 ただ、故意に痴漢冤罪を仕立てる女性は少ないと思います。痴漢の被害に会った女性は、本心から犯人だと思ったからこそ、駅員に突き出すのだと思います。
 そして痴漢冤罪の理不尽さや悲惨さなどが報じられると、女性は痴漢の被害にあっても取り押さえることや、駅員に突き出すことにためらいが出てくるのではないかと思います。

それにしても決定的に有効な痴漢対策はないような気がします。そうなると、多少の不便や不利益があったとしても、抜本的な取り組みをするしかないような気がします。

2015年6月17日水曜日

「この人、痴漢です」

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 18日「この人、痴漢です

概要
 少し前、痴漢の被害にあった女性が、加害者の男性の顔写真をインターネットで公開したということを取り上げた記事を読みました。電車のなかで体を触られた女性がスマートフォンでその痴漢の顔を撮影したようです。その女性は、痴漢を捕えて駅員に突き出すようなことはしなかったそうですが、インターネットで『この男が痴漢です』と、顔写真を公開したようです。さらに『この人物の個人情報を特定して、その住居に痴漢だと書いた張り紙をしてやりたい』ということを書いたそうです。
 すると、この女性に対する批判が殺到したそうです。駅員に知らせて取り押さえてもらうことをせず、インターネットで顔写真を公開して私的な制裁を与えようとしたことに対する批判です。またその痴漢が冤罪だった可能性があるのではないか、という非難や批判も多かったそうです。そして、この女性の個人情報が特定され、それがインターネットで晒されたそうです。
痴漢も犯罪ですから、“私的にこらしめる”ことはせずに、法の下で裁いて罰を与えるべきだと思います。しかしだからといって、この女性を『ネット私刑』をしてはならないと思います。
それと痴漢の被害にあうことで、強い不快感を覚え、強い怒りを感じている女性が多いのではないかと思います。統計など資料を調べたわけではなく、どこかで耳にしたうろ覚えの記憶なのですが、痴漢の被害はあまり減っていないと聞いた気がします。

2015年6月16日火曜日

ネット冤罪

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 16日「ネット冤罪」

概要 
人間社会では昔から、悪しき行いをした者に対する罰として、“晒す”ことが行われていたと思います。“晒すこと”は“辱める”ことであり、それは“懲らしめる”ことになると思います。
“大勢で悪者を吊し上げる”という制裁です。それは“見せしめ”となると思います。“見せしめ”は悪事を抑えることを目的としていることがあると思います。
 しかしどのような刑罰であれ、冤罪が起こる可能性は常にあるものだと思います。“絶対に冤罪は起こり得ない”そんなことは不可能だと思います。
 大衆によって罪人を吊し上げる私刑もしかりだと思います。
『ネット私刑』は、犯罪の容疑者や事故の加害者の実名や写真を、インターネットで発信することを指すようです。いわゆる“ネット上に晒す”ことで制裁を与えるのだと思います。“大衆によって罪人を吊し上げる私刑”の一種だと思います。
 そして『ネット私刑』でも冤罪が起きる可能がゼロになることはないと思います。
捜査機関が無実の人を犯人にしたて上げた場合、その捜査機関や担当者は、『冤罪の加害者』といえるような気がします。
 裁判で無実の人が有罪とされたとなると、検察や裁判官も『冤罪の加害者』といえる状況があり得ると思います。
 しかし『ネット私刑』は、不特定多数によって行われるため、仮に冤罪だったとしても『冤罪の加害者』を特定することは相当に難しいと思います。
 それ以前に、『ネット冤罪』は、晴らすことが非常に難しいと思います。人間は一度信じ込んでしまうと、それを覆すのは容易ではないものだと思います。インターネットに書かれたことを、信じ込んでしまう人は多いと感じます。
 そして、『ネット私刑』は、誰もが『冤罪の被害者』になる可能性があると思います。

 また『ネット私刑』は、誰もが『冤罪の加害者』になる可能性があると思います。

2015年6月15日月曜日

『ネット私刑』と『既存メディア私刑』

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 15日「『ネット私刑』と『既存メディア私刑』」


概要
インターネットが世に生まれる前から、加害者の個人情報が公にされることはあったと思います。『ネット私刑』と『週刊誌による実名報道』は、同じ心理によるところが大きいと思います。
週刊誌による未成年者の実名報道には、事実を報道する意義や、報道の自由を掲げていることがあると思います。しかし『社会的制裁を与えたい』という考えも、少なからずあると思います。そしてその考えを引き出すのは、怒りの感情によるところが大きいと思います。
『ネット私刑』も『週刊誌による実名報道』も、怒りの発露である場合が多いと感じます。週刊誌の内容がインターネットで公開されることがありますし、インターネットで発信された事柄を既存メディアが取り上げることもあります。つまりインターネットと既存メディアは繋がりがあり、その傾向はこれからも強まっていくと思われます。しかし今の『ネット私刑』と『メディア規制』には、やはり違いがあると思います。
インターネットで“私刑”のために、加害者や被疑者の個人情報を流すのは、“個人”が多いと思います。つまり“組織の一員”ではないということです。またいわゆる“素人”が多いと思います。つまり“報じること”や“記事を書くこと”を生業としていない人が多いということです。
それに対して、週刊誌などで実名報道の記事を書いているのは、“出版社の一員”であることがあると思います。会社に属していないフリーライターかもしれませんが、記事を書くことを生業としている“プロ”だと思います。
またインターネットの影響力は、週刊誌のそれより大きいと思います。影響力が強いこともあって、インターネットは人権を簡単に踏みにじることがあると思います。それを防ぐ手立てが必要だと思います。しかしあまりにも膨大な情報が飛び交い、技術の進歩が速いこともあって、具体的にどうすればいいのか思いつきません。

2015年6月14日日曜日

実名報道を求める者の心理

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 14日「実名報道を求める者の心理」

概要
[未成年は先が長く、更生する時間がある。過去の犯罪が広く知られると、更生の妨げになりかねない]そのような配慮から、犯罪の被疑者や、事故の加害者が未成年の場合、実名や顔写真を報じることが禁じられているのだと思います。
 ただ凶悪な犯罪では、実名で報じられることもあります。殊に近年では、『インターネットで晒されているのだから、週刊誌が伏せても意味がない』という声を聞きます。
【なぜ重大犯罪や凶悪な犯罪は、未成年の被疑者を実名で報道するべきなのか?】
『人でなしの犯人の顔を見てみたいという人が大勢いる』
『刑期をおえて社会復帰した後、再犯の恐れがないとはいえないので、実名を明かすことが市民に注意を促すことになる』
『報道は正確に真実を伝えるべきであり、実名で報じたほうが、重要性が伝わりやすかったり問題意識を喚起しやすかったりする』
『実名を晒すことで、社会的制裁をあたえるべきだ』
『法律だけでは被害者の無念が晴らされない。実名や顔を晒して社会的に制裁をあたえるべきだ』
『未成年なのだから親にも責任がある。しかし親を刑法で裁くことは出来ない。親には社会的政策をあたえるしかない』
『非人道的な犯罪をした者を、社会的に吊し上げることが抑止力になる』
『被害者の家族や遺族も苦しみ悲しんでいる。加害者の近親者も苦しみを負うべきだ』
 私刑を行う者の心理には、怒りの感情が強く関わっている場合が多いと感じます。自覚していないことも多いと思いますが、『悪者を吊し上げて懲らしめることで、怒りを発散させたい』『悪者を叩くことで、自分が正義の味方だと感じたい』という心理もあると思います。


2015年6月13日土曜日

私刑の心理

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 13日「私刑の心理」

概要
残忍な犯罪や、痛ましい事故について見聞きすると、犯人や加害者に対する怒りの感情が湧きあがることがあると思います。
『加害者やその家族の個人情報を、インターネットで晒す』『インターネットに晒された加害者の個人情報を拡散させる』『加害者の家族に嫌がらせをする』『加害者の家族の所有物を破壊する』それは怒りを発露させているのであると共に、『悪者をやっつける』という心理が働いていると思います。自分が正義の味方になったような気分になることもあると思います。
また既存メディアが未成年の加害者の顔写真を公開する場合、『加害者に社会的制裁を受けさせる』という意図が介在していることがあるような気がします。報じている者が、その意識を自覚していないこともあると思います。
ところで日本のイルカ漁を妨害する人たちのなかには、自らを『イルカを殺す悪者をやっつける正義の味方だ』と感じている人が少なくないと思います。しかしそれを自覚している人はいないと思います。
 イルカ漁は悪事であり、イルカ漁をする人を悪者だと心から信じ、実態や真実を聞こうとしない人が多いと思います。悪者がいなければ、正義の味方にはなれないからです。
妨害行為が違法だったり、社会通念上倫理に反していたりすることもあるようです。しかし『イルカを守る』という大義の下で、ヒーローになった気分を満喫して楽しんでいる人たちは、楽しみをやめさせようとする者や取り組みを『悪』と決めつけることで、ヒーロー気分を高めているように見えます。

ネット私刑をする者と、イルカ漁を妨害する人の心理には共通するものがあるのかもしれません。

2015年6月12日金曜日

大衆私刑

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 12日「大衆私刑」

概要
「ネット私刑」という言葉を見聞きすることがあります。当然ですが、インターネットがない時代に「ネット私刑」はありませんでした。しかし既存メディアよって加害者の写真が公開されることは、かねてからあったと思います。それは「ネット私刑」と共通する心理が働いていると感じます。
また加害者の家族などに対する、嫌がらせや、破壊行為、暴力行為、社会的苦痛を与える行為も、インターネットが生まれる前からあったと思います。それらはまさに私刑だと思います。ただインターネットが用いられるようになったことで、私刑にも少なからぬ変化があると思われます。
それにしても私刑が行う心理は、「義憤」や「政治感」など一言では片づけられないほど根深く、また複雑だと思います。
そのため時代が移ろっても、その時代における手段を使った私刑が行われるのではないかと思います。
加害者本人は、法律によって身柄を拘束されることが多いと思いますので、当面私刑を受けるのは家族や身内だと思います。転居や転職を余儀なくされることなど、社会的に痛手を受けることも多いようです。嫌がらせに留まらず、所有物を破壊されたりするなど物的損害を受けることも多いと聞きます。それらが違法行為である場合も少なくないと思います。
しかし事件や重大事故の加害者の家族となると、違法行為を受けたとしても、訴えるようなことは出来ないと思います。大衆から反感をかい、私刑が激化する可能性が高いと思われます。
 犯罪者や悪質な事故を起こした者は、法律で裁かれるべきであり、一般市民が制裁を加えるようなことをしてはならないと思います。

 そう考えているのですが、『加害者やその家族が私刑を受けるのはしかたない』という思いが居すわっている気がします。頭では私刑を否定しているものの、言葉で表そうとすると説得力が弱いのは、私刑を容認する心理をなくせないからかもしれません。

2015年6月11日木曜日

「偏向だ」「レッテルだ」

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 11日『「偏向だ」「レッテルだ」』


概要
人間は、利害関係や人間関係などによって、論理的ではない主張をすることがあるものだと思います。その場合、持論が論理的ではないと自覚していることもあると思います。
ただ人間は信じたいことを信じ、理由や論理を後付けすることが多いものだと思います。その場合、持論が論理的ではないことを自覚していないこともあると思います。
自覚の有無によらず、論理的ではない主張をしていると、反対意見に対して強い反応を示しやすいと思います。反対意見が論理的であり、言いかえすことが出来ないことを恐れる心理が働くのだと思います。
利害関係によって論理的でない主張をしているのですから、それが否定されると不利益を被ることがあると思います。そのため論理的な反対意見に対して不安な気持ちを抱き、それが怒りを掻き立てることが多いと思います。
また論理的でない主張をして、それが論理的に反対されると、負けたような気持ちになるものだと思います。プライドを守るため、対抗心や怒りが湧くものだと思います。
 人間は本能的に、持論に対する反対意見に敏感になるものだと思います。些細なことで、『自分の考えとは相いれない意見だ』『自分とは反対の主張をする人物だ』と決めつけるものだと思います。「偏向だ」とか「レッテルを貼られている」と感じるのは、人間の本能的な心理の働きだと思います。それだけに、過剰反応である場合が多いと思います。
『自分は他者から決めつけられている』と訴える人ほど、他者に対して“決めつけ”ているものだと感じます。
また「偏向だ」と批判する人は、自分の考えに沿った偏向ならば、歓迎するものだと思います。自分の意に沿った偏向をさせるために、権力や財力などの“力”を使うことがあると思います。

2015年6月9日火曜日

連綿と植え付けられてきたトラウマ

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 9日「連綿と植え付けられてきたトラウマ」

概要
『戦後トラウマ』『戦後レジーム』『アメリカから押し付けられた民主主義』今、それを実感している国民は決して多くないと思います。
それを批判する人の多くは、過去の人たちからトラウマを植え付けられているように感じます。そしてその人たちは、次の世代にトラウマを植え付けようとしていると感じます。
しかし戦後トラウマは主義主張の形をとっているため、植え付けられたことも、植え付けていることも自覚していない人がほとんどだと思います。
『トラウマを植え付ける行為』は、マインドコントロールに似ていると思います。前者にはその自覚がなく、後者は明確な意図を持っていることが違いなのかもしれません。
 そして共通しているのは、仕掛ける側の心理にも影響を受けるということが挙げられると思います。
 他者にマインドコントロールを仕掛けると、その行為によって自分自身のマインドコントロールを強めることになると思います。
 他者にトラウマを植え付けようとすると、それによって自分自身のトラウマを強めることになると思います。トラウマという自覚がないとしても、持論に賛同させようとすることで、持論に対する固執を強めているこということです。
 過去や経緯を知ることは大切だと思います。しかしそれは未来のためであるべきだと思います。
 戦後トラウマを植え付けられた人たちが見ているのは、過去だと感じます。彼らが未来を語るのは、素振りをしているに過ぎないと感じます。そういう人たちに憲法を変えさせてはいけないと思います。
国会改革と選挙改革は一体であり、そのために憲法改正する必要が生じることあると思います。しかし、一票の格差を解消出来ないために、憲法を変えて認めてしまうのでは、『お話にならない』といえるほど、次元の低い政治のやり方だと思います。まともな政治家だったら、恥ずかしくて口に出せないような政治のやり方だと思います。

そんなやり方をする政治家には、憲法改正を語る資格すらないと思います。

2015年6月8日月曜日

他者の主張に過剰反応する心理

エムズ日記は電子書籍で販売しています。
全文はそちらで。


2015年6月 9日「他者の主張に過剰反応する心理」

概要
 考えていることや、感じていることを言葉で表現することは難しいものです。自分でも表現できてないと思うことも多いと思います。また自分では言いたいことを表現したつもりでも、それが伝わっていないことも多いと思います。
 インターネットでは言葉による表現やコミュニケーションの言葉が、短くなる傾向が見られます。長い文章のほうが、言いたいことを表現できるというわけではありませんが、短い文章では語彙が少なく、表現の仕方も乏しくなりがちだと思います。
上手く表現できないことや、言いたいことが伝わらないことで、感情的になる傾向が強まっているのかもしれません。
そして現代の人間は、他者が発する意見や主張などに、強い反応を示すことがあるような気がします。殊に自分の考えと違っている意見や、持論に反対している主張などに対して、です。
人間は持論に対する反対意見を見聞きすると、不安に近い感情を抱くことがあると思います。特にその反対意見が理にかなっていたり、多くの賛同が得られそうだと感じたりすると、不安に似た気持ちになりやすいと思います。
不安は怒りを掻き立てやすいと思います。それは生物としての本能的なものだと思います。現代の人間は、自分の考えに反対する主張に対して、怒りの感情を抱きやすく、攻撃性を高めやすい傾向があると感じます。
そのため現代の社会にあるあらゆる対立は、激化しやすく、収まりにくくなると思います。
昔から人は、賛同されると誇らしく感じ、自負心が満たされ、心地よく感じることがあると思います。
それに対して反対されると、持論を守ろうという意識が強く働き、強く反撥することが多いと思います。近年その傾向が強まっていると感じます。

反対意見や批判を、真摯に受け止め冷静かつ客観的に検討する、人間には非常に難しいことだと思います。近年、それが出来る人間は本当に稀だと思います。