2015年8月31日月曜日

言論と利害

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2015年8月 31日「言論と利害」


概要
公共放送は国民から受信料を集めて運営しているため、原則的に市場原理の影響を受けないと思います。
しかしそれはあくまでも原則であり、資本主義社会にある組織であるからには、利害関係を切り離すことは出来ないと思います。
 公共放送であっても、報道の仕方や“解説”の文章の書き方などに、『利益のため』という“本音”が窺えることがあると感じます。
まして民間企業である報道機関は、報道においても、言論においても、『利益のため』を含ませていると感じることがあります。
報道は事実を事実のままに、伝えることが原則だと思います。客観的であり中立的であり、公正であり、公平であるべきだと思います。
ただ文章の書き方や、図解の仕方や、映像の作り方や、音声の入れ方や、その抑揚の付け方などで、印象が左右されるものだと思います。
報道機関にも主義主張があり、報道にも民意を誘導しようという意図を感じることがあります。
言論は主義主張ですので、強い偏向性がなければ、中立性はそれほど重視されないと思います。報道機関にも政治思想があり、それを言論として発信するのは、社会的役割の一つだと思います。
しかし報道機関は、思想や主義ではなく『利益のため』という“本音”を、報道や言論に込めることもあると思います。
資本主義社会では、それを失くすことは出来ないような気がいます。ならばせめて報道機関は、報道と言論を明確に区別するべきだと思います。
ただ、報道機関にプライドあるなら、報道に対しても、言論に対しても真摯であるべきだと思います。

2015年8月30日日曜日

目的は銃犯罪を減らすこと

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2015年8月 30日「目的は銃犯罪を減らすこと」


概要
『銃を持つことは悪しきことではない。罪を犯すのは人である』
 アメリカで銃規制の必要性を訴える声があがると、そのような反論が発せられるようです。
『銃を持つ悪人に対抗できるのは、銃をもつ善人だけである』
 以前、銃による痛ましい事件が起きた時、そのような言葉を耳にしたことがあります。 
“善と悪”の二極が対立する構図は、ジェダイとシスの対立のように明快でわかりやすいと思います。
しかし人間はジェダイとシスのように、善人と悪人に振り分けることは出来ないと思います。
『自分の身は自分で守らなければならない。銃を持つ者が社会にいるからには、そいつに襲われることがあり得る。その時、自分で自分の身を守るには、自分も銃を持つしかない。銃の所持を法律で規制するなどありえない』
すでにアメリカには銃が溢れていると思います。そんな中で銃の所持を法律で規制したら、法律を守るものは銃を持つことが出来ず、法を破る者ばかりが銃をもつことになるかもしれません。
『銃をもった悪人が増える。しかも自分で自分の身を守れなくなる』
しかしアメリカでは、銃による犯罪が多いことは確かだと聞きます。痛ましい事件を報道で見聞きすることもあります。
銃を持つ権利と、銃規制について論じることも大事だと思います。ただ今のアメリカは『銃による犯罪を、いかにして減らすか』を、真剣に模索しなければならないと思います。
銃を使った場合、犯罪の刑を重くすることから初めてはどうかと思います。殺人、傷害、強盗など、銃を使ったほうが、銃を使わなかった場合より刑を重くするということです。

2015年8月29日土曜日

権利意識と被害者意識、怒りと憎悪、敵愾心と攻撃性

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2015年8月 29日「権利意識と被害者意識、怒りと憎悪、敵愾心と攻撃性


概要
権利が侵害されていること、また権利が与えられていないことを主張する際には、不利益を受けていることを訴える必要がある場合が多いと思います。『不利益を受けている』とか『被害を受けている』という訴えは、無意識に強くなりやすいものだと思います。
被害を強く訴えることで、被害者意識が強まることが多いと思います。人は自分でも気づかないまま、自分自身で被害者意識を強めると思うのです。
被害者意識は、敵愾心や憎悪を掻き立てることがあると思います。それらには怒りが抱き込まれていることが多いと思います。
この世界には『差別』が溢れていると思います。差別を受けている者は、被害者意識や敵愾心や憎悪や怒りを高ぶらせることがあると思います。 
そして被害者意識は、強まり続けていくことが多いものの、収まりにくいものだと思います。差別を受けているという意識も、簡単には消えないものだと思います。
しかしそんな被害者意識や差別を受けているという意識は、他者には理解されにくいことが多いと思います。殊に差別をしている人たちは、差別されている人たちの苦痛を過小の認識するものだと思います。
差別をしているという認識が一切ないことも稀ではないと思います。
時に、勘違いや思い込み、俗にいう被害妄想もないわけではないと思います。しかし仮に勘違いや思い違いだったとしても、人は被害者意識を持つことがあると思います。
 そしてそれはやはり怒りを抱き込み、敵愾心や憎悪と共に強まり続けるものだと思います。
そう考えると、差別によって引き起こされる悲劇をなくすには、並大抵のことでは出来ないと思います。
 本気で差別をなくすことに取り組まなければならないと思います。

2015年8月28日金曜日

無音盆踊り

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2015年8月 28日「無音盆踊り」


概要
人間は何事も、気にならない時は、まったく気にならないものの、一度気になりだすと、どんどん気になっていくものだと思います。
そうなると、気にしないように心掛けようとすればするほど、さらに気になってしまうことが多いと思います。気を紛らわすことは出来なくなると思います。
そして気になるほど、自分は被害者だという認識が強まるものだと思います。
苦情を言う場合、自分がいかに大きな被害を受けているか、自分がいかに大きな苦痛を受けているか、などを訴えるものだと思います。
その際、無意識に被害を大きめに主張していることも稀ではないと思います。苦痛が大きい方が、強く苦情をいうことが出来るからです。また被害が大きい方が、権利が侵害されていることを強く訴えることが出来るからです。
権利意識には、被害者意識が連動することが多いと思います。
ただ無意識に被害者意識が強まることで、心身の苦痛が強まることがあると思います。苦痛を大きく訴えることで、本当に苦痛が大きくなってしまうのです。しかし大抵はそれを自覚できないものだと思います。
そして体調を崩したり、病気になったりすることもあると思います。人間の身体は精神による影響が大きいと聞きます。
現代人は、権利意識が強く、それに連動して被害者意識の強める傾向があると感じます。それに、他者に対する攻撃性を強める傾向もあると感じます。
そのため最近の苦情は、執拗になる傾向があるように見られます。そのため対応が難しいと感じます。
ただ『盆踊りがうるさい』という人に権利があるように、『盆踊りをやりたい』という人にも権利があると思います。

2015年8月27日木曜日

創作者の苦労

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2015年8月 27日「創作者の苦労」

概要
せっかくいいものが出来たのに、それが他者の作品と似ていることを知って、がっかりした経験がある創作者は少なくないと思います。仕方なく一部を修正したものの、どうしても最初の案より見劣りしてしまい、結局作品を破棄したという経験がある創作者もいるのではないかと思います。
特に、出来るだけ万人に受け入れられるように、単純な造形を用いたデザインは、いくら独自性をだそうとしても似てしまうことがあると思います。
『どこかで目にした作品が、無意識に発想の下になっていたかもしれない』『絶対に目にしたことはないから、偶然同じような発想をしたのだろう』それが稀ではないことを、創作者はわかっているような気がします。
デザインに限らず創作者は、既存の作品に似ているものがないか調べて、場合によっては修正する作業を常に行っていると思います。
 それは創作者にとって仕事の一つであり、創作における苦労の一つだろうと思います。昨今はその作業の必要性が増していると思います。後になって似ていることが発覚すると、インターネットで非常に大きな非難を受けることが予見されるからです。
 また昨今はインターネットで多くの絵柄や画想を見ることができ、「フリー素材」などを使うことも増えていると思います。それを創作に取り入れることに抵抗がない人もいるような気がします。創作を任せられたスタッフの中にもそういう人もいるのかもしれません。任せた創作者は、スタッフが模倣や盗用を行っていなか、監督する責任があると思います。
過去の作品にスタッフによる模倣や盗用があったなら、それについては真摯に謝罪をし、そうではないものは丁寧に説明するしかないと思います。
ただそのような説明は事実を述べていても、言い訳めいて聞こえてしまうものだと思います。納得されない場合もあると思います。

そうなると法に任せるしかないと思います。

2015年8月25日火曜日

あさはかな偽善と下劣な欺瞞

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2015年8月 25日「あさはかな偽善と下劣な欺瞞


概要
シーシェパードの活動が、地球環境のためになっているとか、野生生物のためになっているという論理的な根拠はないような気がします。
むしろシーシェパードの活動や理念や主張は、地球環境を壊すと思います。
人間が野生の動物や海洋生物を一切殺さないということは、不可能だと思います。自然の摂理に反するからです。
地球の生物の多くは、なんらかの形で他の生物の生命を奪っていると思います。人間も他の生物の命を奪う生物として、地球に生まれてきたのだと思います。
人間が他の生物の命を奪うことも、大きな魚が小さな魚の命も奪うことも、草食動物が植物の生命を奪うことも、肉食動物が小食動物の命を奪うことも、自然の摂理であり、地球環境に組み込まれている一つの要素だと思います。
地球の生物は他の生物の命を奪っても、消し去ってしまうわけではなく、排泄し、そこから微生物が栄養を取って分解し、それを植物が栄養としとりこみ、その植物を動物が食べることで栄養を得る、そのように連鎖し循環しているのだと思います。
地球上の生物の生命が、連鎖し循環しているとなると、動物を殺してはならないが、植物は構わないという主張は論理的ではないと思います。
すべての人間が、植物だけを食べて、一切動物を食べなくなったら、それは地球環境に組み込まれた要素を壊してしまうことになると思います。
それは地球環境を破壊しているということです。シーシェパードは環境を破壊していると思います。
シーシェパードの活動は、地球のためにも、動物のためにも、自然のためにも、環境のためにも、人類のためのもならないと思います。
しかし金儲けのためにはなると思います。また、正義の味方ごっこを楽しませる場を提供することにはなると思います。

2015年8月24日月曜日

イメージ重視の議論では

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2015年8月 24日「イメージ重視の議論では」


概要
あらゆる道具にいえることですが、高度な道具は使う者を選ばないものだと思います。高い技術や十分な訓練を必要とせず、誰でも簡単に扱えて、誰でも同じ成果を出すことができるものこそ、高度な道具だと思います。
兵器もしかりで、技術が進歩すると、技術をもっていなくても、訓練をしなくても、使えるようになると思います。その方向で兵器の開発は進むと思います。人的なミスを減らすことにも繋がるからです。
しかし自律式ロボット兵器が人間を殺害するのは、いくら戦争といえども倫理的に問題だと考えられています。そこで、ロボット兵器が人を殺すこと以外のすべてを行い、最終的に『人間を殺すために引き金をひく』、その行為だけを人間にやらせるようになるかもしれません。
そうなると兵士の命が犠牲にならないため、徴兵しなければならないほど、兵士の数が減ることはないかもしれません。
 しかし敵対勢力もハイテク兵器を持っていることも十分にあり得ると思います。軍事施設を狙った精密攻撃が行われ、兵士の数が激減することもあり得ると思います。
また、自律式ロボット兵士が運用されて兵士の身の安全が高まっても、『人間を殺すために引き金をひく』それだけをやらされたのでは、精神に異常をきたす兵士が多くなるかもしれません。
そこで素人を徴兵し、くわしいことを教えずにやらせれば、精神的負担が少なくてすむ、そんな事態もあり得ると思います。
『軍事的技術が高度になっている』それは『徴兵制はあり得ない』という根拠としては、それほど強くないと思います。
ただ現在の世界の状況をみると、日本で徴兵制が取られる可能性は極めて低いと思います。

2015年8月23日日曜日

愚の発想

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2015年8月 23日「愚の発想」

概要
緊縮財政によって経済が落ち込んだのなら、いかにして経済を発展させるか考えるべきだと思います。
緊縮財政によって失業者が増えたのなら、いかにして雇用を生み出すかを考えるべきだと思います。
借金は、その場しのぎを繰り返すことで雪だるま式に膨らんでいくものだと思います。
いかにして今をしのぐか考えるのではなく、金を稼ぐことを考えなければならないと思います。
まして、いかにして借金を棒引きにさせるか、いかにして借金を踏み倒すか、そんなことを考えている場合ではないと思います。
ギリシャは経済規模を拡大しなければ、財政体質は変わらないと思います。これからもずっと、借金を返すために借金をしていくことになると思います。
そこから脱却するには、国に金が入るようにすることが必要だと思います。脱税を取り締まることは当たり前だと思います。経済規模を拡大することが不可決だと思います。
『産業は観光しかない。それ以外に国を支える産業などない』そういって決めつけて、諦めている限り、これからもギリシャの債務は積もっていくばかりだと思います。
新しい産業を生み出す、既存の産業の規模を拡大する、それをやるとなると国が金を出さなければならないこともあると思います。それが債務削減を求める理由ならば、政治家の考えとしては健全だと思います。
雇用がないから公務員を増やし、国民の生活のために年金支給額を増やす、そのために国に金が必要だ、だから借金を帳消しにしてほしい、そんな理由では簡単に認めるわけにはいかないと思います。

それにしても『返せない借金を帳消しにしてもらう』『厳しいことには従わない』『出来もしない公約を掲げて選挙に出る』『行き詰ると国民に投票させる』、発想そのものが政治家として相当に無能だと感じます。

2015年8月22日土曜日

株価の呪縛

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2015年8月 22日「株価の呪縛」


概要
『株価に一喜一憂するべきだはない』とか『今や株価と実体経済はかけ離れている』
いくら頭でそう考えていても、株価を重く受け止める心理を抑えられない人が多いように見えます。
しかも最近では、その心理を抑えようと考える人が減っていると感じます。頭でも『株価こそ経済だ』と考えている人が増えているような気がするのです。
確かに、今の経済において株価は非常に重要になっていると思います。しかし近年、人々の意識があまりにも金融経済に向かい過ぎていると感じます。
とりわけ株価は、『株価は即ち経済だ』と感じたり、考えたりしている人も少なくないような印象があります。
それが金融経済と実体経済をさらに引き離していくように感じます。
 そして世界の経済が『株価至上主義経済』という様相になっているのだと思います。
それと株価は、落ち込む可能性が常にあるものだと思います。
 もし今、株価が大きく落ち込むと、日本経済にはとても厳しいことだと思います。
 日本経済は、株価に頼っているように見えるからです。
それはそのような政策をしてきたからだと思います。
株価が上がれば有頂天になり、実体経済に対する取り組みに身が入らず、株価が下がれば不安になり、株価に神経をとがらせるため、実体経済に対する取り組みがおろそかになっているように見られます。
日本国内に実体経済をしっかりさせることこそ、経済の骨を太く丈夫にすることだと思います。
国内における需要と供給の循環を安定したものにすることが重要だと思います。
しかしその手立てがなかなか見つからないのだと思います。
『株価の急落は、すなわちアベノミクスの失敗である』そんな懸念が常にあると思います。

2015年8月21日金曜日

看板架け替え

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2015年8月 21日「看板架け替え」


概要
5年前、俗にいう『消えた年金問題』などによって、社会保険庁が解体されて日本年金機構になったのだと思います。それは、社会保険庁には自浄能力がないと考えられたのだと思います。
また社会保険庁は組織の体質に問題があり、それは組織そのものを造り変えなければ改善されないと判断されたのだと思います。しかし「看板架け替え」になるのではないかという声があったと思います。
ただ、それまでの組織を解体して新しい組織を作るにしても、いくらなんでもゼロからというわけにはいかないと思います。どうしても社会保険庁から、様々なものが移さざるを得なかったと思います。そうなると『結局何も変わらないのでは?』という声があがるのは仕方ないと思います。
数か月前に日本年金機構から大量の個人情報が流出し、それついて内部調査の結果が発表されました。『個人情報の重みに関する意識が欠けていた』とのことです。企業などから個人情報が流出したということは、何度も報道されていると思います。
国民の年金を扱う組織であり、多くの個人情報を扱っている組織が、『意識が欠けていた』というのは、あまりにもお粗末だという印象を受けます。
また、社保庁から続いていている組織体質が問題だと聞きます。その体質は、むしろ社保庁時代より悪化したのではないかという声もあるようです。
もし組織の体質が社保庁時代よりも悪化したと思われるのなら、『社保庁を解体して、日本年金機構を作る』その改革が失敗だったということになると思います。
仮に悪化しなかったとしても、社保庁時代がから残る体質が問題だというのなら、やはり5年前の改革は失敗だったということになると思います。
そうなると、5年前に組織を解体しても改善できなかった体質を、これからどうやって改善するのだろうと思います。それはとても難しいことだと思います。
日本年金機構再生本部を立ちあげるそうですが『で?』と感じている人もいるような気がします。
『今度は本当に改善されるの?』そう感じている人もいると思います。

2015年8月20日木曜日

下劣な偽善者

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2015年8月 20日「下劣な偽善者」


概要
シーシェパードは言葉で主張することが少ないと感じます。声明を出すことはあるようですが、議論を交わしたり論争をしたりしたということを見聞きした覚えがありません。
実力行使をする前に、自らの主義主張を明確に表明し、反対意見を受け、それに反論する、そのような論争をするべきだと思います。
また、ポール・ワトソン氏の発言の多くは論理的でないと感じます。感情的であり、情緒的な訴えだと感じます。そして思考がとても浅はかで、幼稚で単純だということです。そしてそれらは、知的水準の低さを印象付けることに繋がると思います。
しかし世の中には、難しいことを言わないことで、多くの賛同を得られることがあると思います。また賛同者が多いほど、多くの金が集まりやすいと思います。
世の中は、金が集まるところに、金をだす者がいると思います。野生生物のためでもなければ、自然環境のためでもなければ、人類の未来のためでもない、金のために金を出す企業があるように見られます。
それにしても、ポール・ワトソン氏の声明は、あまりにも事実誤認や拡大認識や誇張が多いと思います。しかも論理的な観点は皆無だと感じます。そのため知性がないと感じます。
ポール・ワトソン氏が知的水準の低い、無知で感情的で卑怯な乱暴者でないのなら、論理的に論争をするべきだと思います。
シーシェパードが下劣な偽善者の団体でないなら、論争をすべきだと思います。
シーシェパードの支援者が浅はかな愚者でないなら、論争することを求めるべきだと思います。
シーシェパードの支援企業が利益を求める拝金主義者でないなら、論争することを求めるべきだと思います。
理性的な社会では、破壊的な行動をとる前に論争をするべきだと思います。
それは現在の人間社会では、当然やるべきことだと思います。
当然やるべきことをやらないのなら、下劣な偽善者だといわれても仕方ないと思います。

2015年8月18日火曜日

尾てい骨と把握反射

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2015年8月 18日「尾てい骨と把握反射」


概要
人間の脳は、地球上の生物の中でも突出して高度に発達していると思います。しかし、ある器官を高度に発達させた生物は、いくらでもいるような気がします。
 人間は進化の過程で考える力を得た生物であり、走る力を得た生物もいれば、泳ぐ力を得た生物もいれば、飛ぶ力を得た生物もいるということです。
そう考えると生物に優越はないような気がします。進化には『高度』や『原始的』という概念が充てられますが、生物に『優越』という概念は、本来的に当てはまらないような気がします。
また人間は、人間の感覚や価値観や概念を、勝手に動物にあてはめて考えるものだと思います。
『草原を自由に駆け巡っている。動物にとってはそれが幸せだ』
確かに、草原を走っている動物は、何かしら快感を得ているかもしれません。動物にもストレスがあったり、快楽物質が分泌されたりすることが、研究によって判明するかもしれません。
しかし草原を走る動物は、獲物を捕まえるためや、捕食されることから逃れるため、気象状況を感知しその影響から逃れるためなど、生きるために走っているのかもしれません。また速く走れることが生き抜く条件となるため、その能力を維持するために走ることがあるかもしれません。しかしそれは本能的なもので、走る理由など認識していないかもしれません。
『動物がかわいそう』という言葉を耳にすると、どこか高みから動物を見下ろしているような印象を受けることがあります。人間様の上から目線であり、思いあがりであり、うぬぼれであり、自己満足であると感じることがあります。
 その思考自体がとても浅はかで、幼稚で、単純だと、思うことがあります。しかしそれだけに、大衆をまどわし、そそのかし、たぶらかし、欺くには都合がいいのかもしれません。

2015年8月17日月曜日

金と快楽のため

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2015年8月 17日「金と快楽のため」

概要
ライオンやゾウなどの狩猟は、『金と快楽のため』といえるかもしれません。象牙を売って金が得られるから、ゾウを狩る者がいると思います。また『獲物をしとめた』それ自体や、それを自慢することで快感を得られるため、ライオンを狩る者がいるのだと思います。
また人間は『狩りが成功した』それ自体に快感を得るものだと思います。魚釣りや山菜採りも、食べられることに対する喜びだけでなく、『釣れた』『採れた』それ自体に、喜びを感じるものだと思います。
人間社会で、『金と快楽のため』の行為をやめさせるのは、極めて難しいと思います。モラルは往々にして、欲には敵わないものだと思います。
そんな中、定められた金を払った者には、定められた範囲内で、定められた頭数の狩猟を許可し、狩猟者が払った金を動物の保護に使う、そのような仕組みを行っている国や地域があると聞きます。それが野生動物の保護に繋がった地域があるそうです。しかし結局は金が絡んでいるため、謳い文句通りにいかない場合もあるようです。
もしライオンやゾウがいなくなったとしても、密猟者は『その時は別の食い扶持を探すだけのこと』と思いっているのかもしれません。狩猟者は、『その時は、別の場所で、別の獲物を撃つだけのこと』と思っているのかもしれません。
しかし自然界の食物連鎖はあくまでも“連鎖”であり、“弱肉強食”は人間が勝手に抱いたイメージでしかないと思います。
連環状の鎖は、1コマでもなくなったら環にならないと思います。人間が、食べない生物を絶滅させてしまうと、食物連鎖を断ち切ることになると思います。
人間が身勝手なことをすると、人間に跳ね返ってくることは容易に想像できると思います。
それにしても、金と快楽に対して人間が出来ることは、あまりにも少ないと思います。

『倫理や道徳に訴えること』『ルールを作ること』『そのルールに基づいて取り締まること』

2015年8月16日日曜日

可もなく不可もなく、そつがなく、意味がない

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2015年8月 16日「可もなく不可もなく、そつがなく、意味がない」

概要
少し前にアメリカの議会で日本の首相が演説をしました。先日、首相は戦後70年談話を発表しました。どちらにも感じらえたのは、『そつなく、上手にまとめた』というものです。どこからも大きな批判を受けることはなく、しかし誰からも大絶賛されることのない、そんな談話だと感じます。
ただ保守派は大喜びではないものの、概ね好評だと感じます。
『言いたいことを思いっきり言いたい。でも隣国の関係悪化は避けたい』
保守層はそんな葛藤を、首相と共有しているような感覚があったと感じます。それに隣国から大反撥されるような談話を発表したのでは、アメリカをはじめ世界中から批判されることが目に見ています。
『言い回しを工夫しなければならないし、ある程度は抑えた内容にしなければならない。でもその上で、出来るだけ言いたいことを言ってほしい』そう考える保守層が少なくなかった感があります。
 そして発表された談話に対して『言いたくないことをはっきりと言わずに済ませた。でも言いたいことは、なんとか言えた』と、保守派の多くが感じているような気がします。
韓国が一定の理解を示したのは、関係改善を模索しているためだと思います。今回の談話が発表される前から、その道を探っていたと思います。戦後70年談話がそれを悪化させることはなかったと思います。しかし進展させることもなかったと思います。
中国のメディアでは、日本の戦後70年談話に批判的な論調もあるようですが、国同士の関係が悪化することはないと思います。ただ関係改善に役立つこともないと思います。
 戦後70年談話は、どの角度から見ても、プラスもなければ、マイナスのないような気がします。

しかし、談話を発表するまでに、日本は政治的なエネルギーを注ぎ込まなければならなかったように見えます。それはマイナスだと思います。

2015年8月15日土曜日

東京裁判と一億総被害者意識

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2015年8月 15日「東京裁判と一億総被害者意識」


概要
自己犠牲を尊ぶことは、日本の精神構造に見られる一つの傾向だと思います。
 自己犠牲的な行いを讃たえ、美談として語ることは、日本に限らず世界各国で見られると思います。ただ日本人は、その心理的な傾向が強いと感じます。自己犠牲は誇れることだという感覚が強いように見えます。
それは戦時中、国による心理誘導によって強まったという側面があると思います。ただそれよりずっと前から、日本人は自己犠牲を尊ぶ精神構造があったように感じます。
ただ『自己犠牲は、自己陶酔を伴うものだ。陶酔とは心地よいものであり、むしろその心地よさを得るために、自分を犠牲にしていることが少なくない。即ち自己犠牲は、あくまでも自分のためである。その方が多い』という考えがあります。
 確かに一理あると思います。自己犠牲には、多かれ少なかれ自己陶酔や自己満足が含まれていることが多いと思います。しかし、自己陶酔や自己満足が非常に少なかったり、一切含まれなかったりする自己犠牲も、間違いなく存在すると思います。
また『状況はあまりにも厳しく、たとえ自らの命を犠牲にしても到底かなう相手ではない。しかしそれでも立ち向かっていく。そして死したとしても、その死は尊く、その心は美しい』という考えがあります。
『滅びの美学』という言葉があります。日本人には、古くからその観念があったように思います。
戦時中、国は日本人の精神構造を心理誘導に利用したように感じます。『お国のために喜んで命を捧げます』という信念を植えつけたのだと思います。
 特攻作戦を命じた軍人は、若者が命を落としても『一矢報いる』には程遠かったことを十分以上に承知していたと聞きます。承知していながら特攻を命じたと聞きます。
特攻によって命を落とした若者は『自らの命によって一矢報いることが出来る』と信じていたと聞きます。

2015年8月14日金曜日

本気の取り組み

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2015年8月 14日「本気の取り組み」


概要
『原発を一定数維持していく必要がある』。その根拠は『電力の安定した供給』『地球温暖化対策』『原発は輸出産業である』『電気料金を抑えることが出来る』『原子力関連の技術力を維持する必要がある』『核兵器に繋がる技術力を有していると他国に示すことが、安全保障上の観点からも必要である』などです。
ところで、何事も本気で取り掛からなければ、新しいことを開発することは出来ないと思います。国も電力会社も企業も、原発を推進しているのですから、原発の代替エネルギーの開発に力を注ぐことはないだろうと思います。電力会社による再生可能エネルギーの研究や開発は、『やってます』ということを国民にアピールすることが最大の目的だと感じます。そして代替エネルギーの開発が進まないことは、原発から脱却できない要因の一つとなっていると思います。
ただそれは日本に限ったことではなく、世界的な傾向に見えます。原発に対する危険性や、廃棄物の処理などの問題があることは、世界中で認識されていると思います。しかし多くの国では、利益を重視し、原発を推進していると感じます。 
しかしそれならば、原発に代わり得る『電力供給システム』が開発されれば、世界的に需要があるといえるような気がします。
ただし膨大な金が掛ると思います。電力の場合、それを負担するのは、国民ということになると思います。
原発には反対でも、代替エネルギー開発費用のため電気代が跳ね上がると、企業の利益が減ったり、国内の個人消費が冷え込んだりする可能性があると思います。
原発には反対だが、あまり電気代が高くなるのは嫌だし、景気が悪くなっては困るという人も少なくないと思います。
 こうして考えると、一定数の原発を維持しつつ、代替電力供給システムの開発に力を注ぐ、そのバランスを常に取り続けていくことが必要だと思います。
『ベースロード電源』とは、根本的に違う考え方が必要だと思います。

2015年8月13日木曜日

本気になれば

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2015年8月 13日「本気になれば」


概要
『必要に迫られないと、やる気にならない』とか『切羽詰まってからでないと、本気がでない』などと感じたことがある人は多いと思います。
先々を見据えて早くから努力し、成果を上げている人の話を聞くと、『自分も今度からはそうしよう。そうすればこの人のように成功するはずだ』などと決意することがあります。
 しかしその決意が実行されることは稀だと思います。決意のもろさを感じることが多いと思います。そして人はまた決意をし、それを崩してしまうものだと思います。
 福島第一原発の事故から四年が過ぎた今年の夏、電力不足だという声は聞いていないと思います。今夏は各地で記録的な猛暑だという声を耳にしますが、電力不足という声は聞かない気がします。むしろ『電気は足りている』という趣旨の言葉が多いと感じます。
 それは、電化製品の省電力化が進んだことや、企業や家庭が省エネに取り組んでいることが理由の一つのようです。福島第一原発の事故により、いわば『必要に迫られて』あるいは『切羽詰まった』ために、本気で『省電力化』や『省エネ』に取り組むことになったといえるかもしれません。
 本気で取り組んだ結果、省電力化が進み、省エネが習慣となり、それが電力不足を心配しなくても済むようにしたといえるかもしれません。
 考えてみれば、電化製品の省電力化や、家庭や企業の省エネは、ずっと前から必要性が論じられ、呼びかけられていたと思います。
 しかし必要に迫られたり、切羽詰ったりしなかったため、大きく進むことが無かったのかもしれません。
 それが福島第一事故によって『必要に迫られ』『切羽詰まった』ため、本気で取り組んだという印象があります。
 そうなるとこれから原発が稼働し、発電するようになると、再び人々は“本気”を出さなくなるだろうと思います。