2016年12月27日火曜日

愚かな強者、強い愚者

核兵器の開発が始まったのは数十年前のことです。そうなると核兵器は数十年前に発想された兵器であるということになります。
それから現在まで核兵器が実戦で使われたのは二回だけ。どちらも数十年前のことです。

数十年という時間が過ぎれば、世界情勢も戦争の様相も様変わりするのは当たり前だと思います。実際この世界は、核兵器が実戦で使われた時とは大きく変化したと思います。その変化はこれからもずっと続いていくものと思います。
東西冷戦時代を振り返ってみると、現在よりもはるかに世界は単純だったと感じます。大きな対立軸が一本だけだったように思えるのです。
そんな時代だったからこそ、核兵器をもっていることが抑止力となり得たのだと思います。

翻って現在は、世界中に多様な対立軸が多数あるように見えます。しかもいくつかの軸が交差しているような気がします。またねじれている軸が何本もあると思います。
国際情勢が変わると、戦争の様相も変わるものだと思います。
人類史上はじめて実戦で核攻撃が行われた数十年前の戦争と、東西冷戦時代に起こった戦争や武力衝突、その時代に想定された戦争とでは、あらゆる事物や考え方が違っていると思います。当然、現在、そしてこれから先の戦争も、数十年前の戦争とは様々な違いがあるはずです。

数十年前の戦争は、無差別に大量の人間を殺戮することが戦争の作戦として、“堂々と行われた”感があります。敵に対して、広範囲にわたって大きな打撃を与えることが戦争では有効だと目されていたのだと思います。
核兵器は、まさにそれを超大規模で行う兵器だといえるかもしれません。

現在、そしてこれから先の戦争は、狙ったものだけを的確に攻撃することが求められると思います。しかも極力犠牲を出さずに、です。敵味方問わず民間人はもちろんですが、自軍の兵士の犠牲も最小限に抑えようという考え方が強まっていくと思うのです。
過去の戦争のように多くの民間人を無差別に標的にするなど、戦争の戦術的にも戦略的も愚策となる可能性が高いと思います。

その一因として国際社会はまだ当分の間、複雑化し続けていくことが挙げられます。途上国の経済発展、世界的な格差の拡大などにより、国家間の利権は多様に絡み合うようになると思います。
そのため、国家や地域間の対立の構造が複雑になると思います。そうなれば、戦争も対立の構造が、かつてのようにわかりやすいものではなくなるはずです。
つまり、国際社会が敵か味方に明確にわかれるような形にはなりにくくなると思われます。それでは“敵国に莫大な破壊を与えれば戦争に勝利できる”という状況にはならないと思います。

世界が真っ二つに割れる、そうならなければ、戦争は規模が拡大しにくいと思います。同盟国のなかでも利害対立があり、意見が一致しないことが起こり得るからです。
 “すべて同盟国は絶対的に味方である”そうならず、かつての“東側対西側”ようなわかりやすい対立も起きないとなると、戦争は大戦にはなりにくく、国際社会から見れば“限定的な戦争、戦闘行為”になりやすいと思います。
限定的な戦争となると、大量の民間人を無差別に殺戮する軍事作戦など実行できないと思います。仮に実行し、それで戦争に勝ったとしても、その勝利は国にとって大きなマイナスに作用する可能性が高いと思います。

これからの戦争は、自国の民間人、自軍の軍人、相手国の民間人、敵軍の軍人、誰であれ人間の犠牲は最小限に抑える必要があるように思います。そういう方向に向かっていくと思います。
つまり戦争では、効率的で正確な攻撃が必要となるということになります。
狙った艦船だけを確実に撃沈する。
狙った軍機だけを確実に撃墜する。
狙った施設だけを確実に無力化する。
狙った人物だけを確実に拘束する。
などです。核兵器はいずれにも適していないと思います。

 核兵器は何十年も前、現在とは世界がまったく違っている時の発想に基づいて生みだされた兵器だと思います。
それにしても圧倒的な破壊力をもつ兵器であることは確かであり、人間は一度手にした力や武器を手放すことはできないものです。
そうなると世界から核兵器がなくなることはないと思われます。
しかし核兵器は現在、そしてこれからの戦争において有効な兵器ではないと思います。

国や軍を統べる者のなかに、今もって“核兵器こそ最高の兵器である”というような認識をもっている者もいるかもしれません。
しかしその認識は間違っている、あるいは時代遅れといえるような気がします。強大な兵器をもって敵国に大きな破壊を与えて勝利するという考え方は、単純で浅はかだという印象を受けます。
戦争や世界情勢に対する認識不足といえるかもしれません。

国や軍を統べる者の認識不足は、すなわち能力不足だと思います。

2016年10月29日土曜日

大政党の党運営と野党共闘

個体はそれ一つしかないものだと思います。全く同じ成分で作られた、全く同じ性質をもっている製品も、全く同じ遺伝子をもつクローン生物も、個体は世界で唯一の存在です。
 人間もそうだと思います。仮に100%同じ遺伝子をもっている二人の人間がいたとしても、それぞれ一人一人が個体であり、世界で唯一の存在だと思います。

すべての人間の考え方や感じ方などの人間性は、その人だけのものだと思います。それに人間関係や利害関係などの社会性も、ひとりひとり異なるものだと思います。
考え方や感じ方、個性や社会性が似ている人はいると思います。しかしそれらがまったく同じことは、この世界ではありえないと思います。

国会議員も人間ですから、持論や主張がまったく同じ人はいないはずだと思います。ただ考え方が近しい人は少なからずいると思います。そういう人たちがまとまっているのが政党だと思います。
民主主義は多数派の意見を採用することが原則だと思います。そうなると国会議員が自分の考えを国政に反映させるには、同じ考えを持つ者とまとまることが必要だと思います。

ただそれにしても、政党に属する議員も一人一人の持論があるでしょうから、全員がすべての政策において同じ考え方であることはないと思います。
当然ですが、所属する人数が多いほど、主義主張も多くなり、相対する意見を持つ者が多くなると思います。

個人的にはそれは民主的な政党政治の原則から離れていると思います。出来るだけ思想や主義主張が近い者同士で政党は構成されることが、民主主義の根本の理念に沿っていると思うのです。
そうなると必然的に政党の人数は多くならないと思います。それでいて政党の数が多くなりやすいと思います。議会は多党制になると思います。
 今までは二大政党制や実質的与党固定制が適していたのかもしれません。しかしこれからの時代の民主的な国家の議会は、多党制の議会がより適していると考えています。
しかし現状の議会のあり方や選挙制度では、多党制の議会にはなりにくいと思います。選挙制度を含めた国会を大きく改革しなければならないと思います。
それは容易なことではなく、また現状を大きく変えるとなると混乱やあらゆる形での争いが避けられないと思います。
 
そう考えると選挙制度や国会の改革を模索しつつ、当面は現状の議会で国政を進めることが現実的だと考えます。
そうなると、政党内であれ、政党間であれ、政策の不一致を容認しなければならないと思います。
 多数の議席を持つ政党が与党になるのですから、必然的に与党は所属議員が多いということになると思います。所属議員が多いということは、議員間で意見の相違も多いということになると思います。
 実際、現在の巨大与党は、ずっと前から相対する政策を掲げている議員が混在しているように見えます。

 前途したようにそれは民主的な議会の原則には則していない気がします。しかしそれが常態となり、[多様な意見がある政党]として国民が受け入れてきた感があります。
“派閥”など、政党の中で集団をつくるのは、“議会における多数派の二重構造”といえるかもしれません。
 時に派閥間、議員間で対立がおき、それが国政の混乱や停滞を引き起こしたこともあったと思います。
 現在の巨大与党はそういうことが起こりにくい状況にあるように感じます。巨大であるということは“与党であることが安定している”と、議員も国民も感じているように思います。
 その安定を壊すことを避けたい心理が、議員にも国民にもあるように感じます。
 巨大与党所属議員のなかには、政党が進める政策に反対する者や、党運営に批判的な意見をもっている者もいるだろうと思います。
 しかし“これだけ与党が安定しているのだから、今党内で波風を立てることは自分にとっても得策ではない”というような意識があるように感じます。
 
 また、与党が巨大で安定していると“与党の国会議員である”ということを重要視する所属議員も少なからずいるような気がします。
 それに現在の巨大与党は、ずっと前から異なる意見を持つ議員を抱えているため、それを党運営の大きな支障にしないノウハウのようなものが蓄積されているのだろうと思います。
ただそれは火種を抱えていることもでもあり、過去にはそれが燃え上がったことがあるのだと思います。

 数年前に選挙で政権をとった政党は、意見や主義主張の相違が、政党内での政争の道具にされたのだと思います。その政争によって国政は大きく混乱し停滞したと思います。しかもどれだけ国民が批判しても政争を収められなかったため、みなが愛想をつかしたのだと思います。
 与党経験がないが故かもしれませんが、一国の政治を担う政党としてはあまりにも情けなかったと思います。

それにしても野党が政党を大きくするには、異なる政策を掲げる議員をとりこまなければならないと思います。つまり“寄せ集め”になることは必然ということです。
実際、与党はそうだと思います。ただ野党には、巨大与党のように主義主張の相違を受け入れる雰囲気もノウハウもないのだと感じます。
だから寄せ集めの政党は党内で争いがおこり、関東と関西の人気者同士が手を組んだ政党は結局分裂するのだと思います。

野党が所属議員を増やすには、議員各々が政党の方針に賛同できることと、そうではないことをはっきりと示し、そのうえで同じ政党に属している理由を明確にすることが求められると思います。
所属議員の間でも政策の違いがあるはずです。政党はそれを認め、党議拘束は極力さけるべきだと思います。仮にそれで与党の法案が通ったとしても、議員ひとりひとりの考えを尊重することは政党が押し付けるよりも民主的であると思います。

 個人的には高度に政策が一致する議員だけで構成された少数政党が多数ある議会が望ましいと思いますが、現状ではそうはなりにくいとなると野党がもっと力をつけなければならないと思います。
 そのためには、巨大与党のように異なる意見を持つものを取り込んだうえで、安定した党運営をすることが不可欠だと思います。党内で権力争いなどしている場合ではないような気がします。
与党が巨大化しすぎることは、民主主義において芳しいこととはいえないと思うからです。

しかし現状は与党が強すぎることで、政党内、政党間で政争が起こらないため、政治が安定しているようにみえることで、多くの国民が意識せずに巨大与党を受け入れているように感じます。
国民の意識の中には、“国会など所詮議員の身勝手な政争でしかない。それなら与党は強すぎるくらいの方が、政治が安定していていい”というものがあると感じるのです。
長年、政治家の身勝手な争いを見せつけられてきた国民は、強すぎる与党の問題点から目を背けているような気がします。

その状況において野党は、“与党の議席を減らす”。そういう政策を進める必要があると思います。
“現在は与党の力が強すぎる。それを弱めることは野党に共通する重要である”
野党はそう認識してとりくむべきだと思います。
”与党の議席を減らす“すなわち”野党の議席を増やす“それは野党に共通する”重要な政策“といえると思います。

与党の力が強すぎることは、民主的国家では弊害があると思います。それを是正するには野党による選挙協力が不可欠だと思います。
ただ野党も政党によって政策に違いがあると思います。別の政党だから、それは当然のことだと思います。
 ひとつの政党内でも、所属議員全員が、すべての政策において意見が一致することなどあり得ないのですから、政党間となると掲げる政策が違っていて当然、違いがなければおかしいと思います。
 そんななかでも“与党の議席を減らす”ことを最重要政策に位置づけ、それを優先するべきだと思います
 
“与党の議席を減らす”それ以外の政策が野党間で相対していても、与党の力が強すぎる現状ではどのような政策であれ野党が掲げていても実現できる可能性は低いと思います。
 まずは“与党の議席を減らす”ことが、野党において必要なことだと思います。

 そのためには、政党間で一致する政策と、ゆずれない政策と、完全に一致しないものの国会では連携する政策などを明確にすることが必要だと思います。
 政策が違っていることを各政党が認め、国会では政策ごとに連携することを前提とし、そのうえで選挙協力をするべきだと思います。そうしなければ“巨大与党の議席を減らす”ことは難しいと思います。
 ただ現状では、そうしてでも巨大与党の議席を減らすことが、当面の野党の重要政策だと思います。

そしてそれを国民にしっかりと説明し、理解を得ることが今の野党には必要だと思います。
つまり“与党が強すぎることは国にとっていいことではない”ということの理解が得られれば、それは票に直結すると思います。
野党は、与党の力が強すぎることの弊害や、その現状を是正するための野党共闘であることなどを積極的に発信する必要があると思います。現実的な野党共闘の姿勢が報道で取り上げられるなどして話題になると、次の国政選挙それ自体の関心が高まる可能性があると思います。

 そこで俗に言う無党派層が動けば、それは野党に有利に働くと思われます。

2016年7月24日日曜日

私が一番 我々が一番 我が国が一番

 近年の世界的な傾向として感じるのは、俗にいう保守的な傾向が強まっているということです。インターネットなどの情報技術の急速な発展はその大きな要因の一つだと思います。
 多くの人の主張や持論、誹謗中傷などに接する機会が爆発的に増えたように思います。他者の声を見聞きすることが急増し、また自身が声を発することが出来るようになり、実際にインターネットの“場”に意見や主張、誹謗中傷を発している人は多いと思います。
 それに多くの人たちは、多くの他者とインターネットを通じて接するようになったと思います。

大抵の場合、インターネットには一人で操作する機器を用いて接していると思います。パソコンやスマートフォンは基本的に一人で使うものだと思います。その画面を通してインターネットの“場”に入っている、それは自分一人で大勢の他者と向き合っているといえるかもしれません。
それによって人々に“自分”に対する意識が強まっていると感じます。自意識、自己愛、自己顕示欲、権利意識、被害者意識などです。
 しかしそれを自覚することが難しいものだと思います。実際世界中の多くの人々が、自覚していないと感じます。

人間には“他者”を意識することで“自分”に対する意識が強まる心理的な傾向があると思います。インターネットでは、多くの“他者”と自分一人で接していると考えると、それによって自分に対する意識が高まることは誰にでもあり得ることだと思います。
そして実際にそうなっていると感じます。ただそんな内面の変化を自覚している人は皆無に近いように思います。

“自分”に対する意識の強まりの一つに“自分は優れている”と、客観的で明確な根拠がないまま信じ込むことがあるように感じます。
またインターネットの“場”で個人が攻撃され、非常に大きな打撃を受けている様子を目にすることで多くの人々に“自分を守る”という意識が強まっていると感じます。
“自分を守る”ためには、他者を強く攻撃して“徹底的に叩きつぶす”という意識が強まっていると感じます。
 他者に対する強い批判や、貶めるようとする誹謗中傷は攻撃の一種だと思います。インターネットが普及した現代社会では、多くの声が攻撃になり、時に大きな痛手を与えることがあると思います。
 近年、世界的に排他的な行動や主張を目立っていると感じます。そして他者に対する攻撃性が強まっている傾向にあると思います。
 その根底には、“自分を守る”という意識の強まりがあるのではないかと思います。
 
 また“自分を守る”という意識は、被害者意識の高まりにもつながっていると思います。
 かねてから人間は無意識に、自分の被害を大きく発信する傾向がみられると思います。それは周囲から同情されることが、“自分を守る”ことに対して有効に働くことがあり、それを本能と経験から知っているのだと思います。
 関心をひき、同情をあつめることが、自分を守ることにつながる、そのため人は無意識に被害を大きく発信するものだと思います。
 
 他人を攻撃するにも“自分はいかに大きな被害を被ったか”を示すことは有効だと思います。
 被害が大きいほうが批判は強くなるものだと思います。批判が攻撃になるからには、被害が多いいほうが攻撃は強くなるものだと思います。無意識に、自分がうけた被害を大きくしていることは、よくあることだと思います。
 そして、それによって自分自身が被害を大きく認識することも、よくあることだと思います。無意識に多少大げさに被害を訴えることで、実際にそれだけの被害を受けたと信じるという心理が働くものだと思います。
 そしてさらに少し大きく被害を訴え、それを信じるようになるという連鎖が起こることがあると思います。
 
権利意識が世界的に高まっているのは、インターネットによって他者が権利を得ている様子を見聞きする機会が増えており、同じ権利を得られていないことが“被害者意識”に似た心理を掻き立てるのではないかと思います。
 ただそれは個人の内面の変化であり、その変化を自覚している人はごく少数だと思います。

 世界中の多くの人は自覚のないまま、“自分”に対する意識を高め、それが他者に対する攻撃性を強めることにつながっていると感じます。自分を守るため、自分を高みに置く。自分を守るため自分がいかにかわいそうかを強く訴え、他者への攻撃心を強め、他者に対する批判を強める、そんな雰囲気が今の世界には漂っているように感じることがあります。
そして対立者に対する攻撃性や敵愾心は怒りの感情を伴いやすく、それによって高ぶりやすいものだと思います。
それは主張や行動に現れることが増えていると感じます。怒りの感情を伴って強く激しく持論を発信し、相対する意見を持つものを強く批判し、強く非難し、あらゆる方法で攻撃する、そんな風潮があると感じます。
インターネットで袋叩きにするのは、その風潮の表れの一つだと思います。

また時に、客観的な第三者として聞くと、到底正論に聞こえない持論を発信している人がいるように思います。当人は、至極正当で論理的に訴えていると信じており、その点について一切の疑問を持っていないようです。
一部の極端な人ですが、今の人間社会では程度の差こそあれ、多くの人が似たような心理状態に陥っていると感じることがあります。
それは世界的な風潮だと感じるのです。

そして“自分”に対する意識は、自分が属する集団に拡大されやすいものだと思います。“自分の国”に対しても、自意識、自己愛、自己顕示欲、などと同じような心理が強まっていると感じます。
統計をとれば年代や性別などによる傾向が現れるかもしれませんが、個人的な印象でいうと世界的あるいは人類的な風潮だと感じられます。

そして政治家も国に属する人間であると思います。
「国民の声に配慮せざるを得ず、難しい対応がせまられている」そういう状況もあり得ると思います。
「政治の動きには、国民はネットで批判を強めている」
「ネットでは国民の多くが、自国のやりかたに批判的で、相手国に同情的である」
 そういう状況もあり得ると思います。
しかし国民も政治家も、自分の国がとにかく一番でありたいという意識があると思います。

ところで、以前から中国の南シナ海の主張は正当ではないと思っていました。ただ日本人は感情的に中国に対して批判的な考えを持ちやすいことは確かだと思います。
それが先日、国際仲裁裁判所が判断を下したことで、“やっぱり中国の主張は正しくない。身勝手な言いぐさなのだ”という認識を強めた日本人が多いように感じます。

中国側から見ると国民も政治家もマスコミも、海岸線が短い中国にとって海洋権益を確保することは国益上不可欠であり、九段線は絶対に譲れないと考えている人が多いと感じます。
“自分のため”とか“自国のため”となると、思考や判断は主観に基づくものだと思います。第三者の客観的な思考をすることは誰でも難しく、客観的な判断をすることは出来ない人が多いと思います。

 中国だけがその傾向が強いというわけではないと思います。ロシアは国を挙げてスポーツ選手にドーピングを行い、またそれを隠ぺいしてきたとスポーツに関する国際的な機関によって調査されたと聞きます。
 多くの国からすれば、『正式に“国が主導し悪質な不正がある”と発表したとなると、もはや言い逃れは出来ないだろう、すぐに潔く非を認め、根本的な改革を急ぐべきだ』と考えるものだと思います。
 現状ではそれが最善であり的確な対応だと思います。国民とスポーツ選手のために、です。
 しかしロシアの政治家も国民もスポーツ選手もマスコミも、そう考えることが出来ず、国際的なスポーツ機関に対する批判を強めているようです。

 そして中国もロシアも『政治的な力が働いている』と政治家が発言し、『陰謀に違いない』などとまことしやかに語られていると聞きます。
 改革や改善をするべきだという声は、国民からも政治家からも発せられていないようです。仮に“非を認めて改善するべきだ”と考えている人がいても口にすることが難しいと思います。

そのようなことはどこの国でもみられると思います。まったく利害関係のない国の国民が、第三者の目で沖ノ鳥島をみれば『岩にしか見えない。どうみても島だとはおもえない』と考えるのではないかと思います。
そして利害が一切ない国の人の中には『島だと言い張っているのは自国の利益のためだろう。だがそれは公正な主張には聞こえない。護岸工事が遅すぎるのだ。島に見えるうちにやっておけばいいものを、岩になってしまってからやったのでは、中国が人工島を作っていることと同じことをやろうとしているように見えてしまう』という人もいると思います。
しかし日本の政治家は「あくまでも島だ」と主張し、国民の多くがそれを支持していると感じます。『島』と『岩』では排他的経済水域が大違いであり、自国の利益が大きく左右されるのですから、客観的な視点ではなく主観的に「ぜったいに島であり、ぜったいに譲るべきではない。国益を守らなければならない」という主張が多いように思います。

「正々堂々と岩だとみとめよう。それによって排他的経済水域が小さくなっても仕方ない。かつては島だったとしても、今は岩になってしまったのだから」
 もしそんなことを言おうものなら、インターネットで非難され、膨大な誹謗中傷にさらされかねない。著名人ならば、それが実生活に影響を及ぼしかねない。そうなると考えていても、それを口にすることは憚られる、そういう日本国民や政治家もいるかもしれません。
 それは領土に関する事柄全般に言えることだと感じます。
 
 自国の国益のために客観的な視点をなくしていることも、自国の国益に反するとなると持論を堂々と発することが出来ないことも、心理の働きは中国やロシアと同じように感じます。
 
別の国の国民からすれば「明らかに身勝手な主張だ。あの国の国民はそんなこともわからないのか」と感じることでも、当の国の国民の多くは本当にわからないのだと思います。あくまでも正しい主張をしていると、心から信じており一切疑うことはない。そういう人が少なくないのだと思います。
そしてそれに反する持論を抱いている人がいたとしても、インターネット上の大衆や、俗にいう右派から叩かれることを恐れて発信することが出来ないでいることがあると思います。

今の人間社会は怖い風潮に包まれていると感じます。そしてそれは強まっていると感じます。その強まり方は加速していると感じます。

しかしそれに気づいている人はごくわずかだと思います。それが最も恐ろしいことかもしれません。

2016年7月20日水曜日

ネット大衆

このところ、俗にいう保守的な志向が強まっていると感じます。世界各地でその傾向が強まっているように思うのです。政治家、国民共に保守的な主張をする人たちがふえ、保守的な主張を支持する人が増えていると感じます。世界全体で、です。
数年前から感じられていたことです。ただそれが、年々強まっているような気がします。また加速していると感じます。
その要因と考えられる事柄について、何度も書いています。パソコンやインターネットの普及は、世界的に個人主義を高めさせるともに、国粋主義も強めさせている要因の一つだと思います。

今の世界はインターネットをなしでは成り立たないのではないかと思えるほど、それが広く深く浸透していると思います。
 当たり前のようにインターネットが存在していると感じますが、それは相当に急速に浸透した感があります。ただ多くの人々は、その速さに注意を払っていないのだと思います。
 
一回り前の干支の年と今年を比べれば、インターネットなど通信関連は大きな変化をしていると思います。現在、インターネットやスマートフォンなどがあまりにもあたり前に身近にあるため、ともするとずっと前からそうだったような感覚を無意識に持っている人が多いと感じます。
それを指摘されると「いわれてみれば、スマホを持つようになってまだ数年だな」「今は便利になったなあ」などと思考することがあるかもしれません。ただ頭で考えるだけで、スマートフォンが自分の生活に浸透した速さを感じることは少ないと思います。

 インターネットなどの通信環境の急速な変化は、社会全体の急速な変化といえるような気がします。
そして社会全体の急速な変化は、人間の心理にも影響を及ぼすと思います。
ただ多くの人たちがその変化の只中にあるため、認識できないように見えます。頭で考えることは出来ても、感覚的に変化の速さと大きさを認識できていないように見えるのです。
そのため『確かに言われてみれば社会は大きく変わったね。でもそれがどうかした?』と軽んじていると感じます。そのことの重さを認識できずにいると感じます。

何度が書いていますが、インターネットは自分一人で多くの他者と向き合うものだと思います。
友人知人たちである場合もあれば、世界中の不特定多数の人々である場合もありますが、スマートフォンやパソコンの画面に向き合っているのは自分一人だけである場合がほとんどだと思います。
それが自我や自意識を強めるように作用することが多いのではないかと思います。多くの人たちは、日常的にインターネットを利用しつつ、無自覚に自我や自意識、自己肯定感、自己保守心などを強めているように見えるのです。
しかし多くの場合は、その作用が働いていることを自覚することは出来ないと思います。

インターネットの中で激しい誹謗中傷などが行われることは珍しくないと聞きます。その中には悪意や敵愾心、攻撃欲、義憤などが含まれていることが多いように思います。
『一人一人は無名でなんの力も持たない一般人だけど、みんながネットで攻撃すれば悪者をやっつけられるんだ』
 このような感覚を抱くこともあると聞きます。インターネットで大衆の誹謗中傷が沸き上がることで現状が変わったことがあると、『ネット民の勝利だ』『権威も権力もない一般人の勝利だ』『我々が正したのだ』と達成感のようなものを得ることがあると思います。
 それはとても心地いいものだと思います。
心地いいために、何度も味わいたくなるものだと思います。そしてまた『悪者』を見つけようとし、悪者が見つかるとインターネットで袋叩きをする、そんな状況が起こるのだと思います。

“ネット大衆”はインターネットという空間のなかで群れを成し、大勢で一人を袋叩きにして、叩きのめすことにある種の快感を得ていることがあると思います。“集団対一人”という構図の中で、自分が“集団側”つまり“圧倒的な優位な側にいる”それ自体と、圧倒的に優位な側の自分が、圧倒的に不利な側である“一人”を容易く叩くことに“快楽”に似た感覚をえることがあると思います。それは“いじめる側”の人間にもみられる心理ではないかと思います。
さらに“ネット大衆”による“ネット袋叩き”には達成感や正義感を満足させるという快感も加わることが多いと思います。
そのような快楽や快感は、麻薬のような心理的、脳科学的効果があるのではないかと思います。

叩かれる側が企業など集団である場合もあると思います。また政治家など権威や権力をもっている場合もあると思います。
そしてその叩かれる側の企業や集団、政治家に批判されるべき要素がある場合も決して少なくないと思います。
それが“ネット大衆”による“総叩き”によって制裁を受けることもあると思います。悪事が露見し罰せられることもあると思います。不正が除かれることもあると思います。改善すべきことでありながら長年放置されていたことが改善されることもあると思います。
“ネット大衆”が社会全体に対して貢献することもあると思います。
 
 大企業や政治家など権威や権力を持つ者には、個人の力は到底及ばないと思います。
 しかし“ネット大衆”となれば、いかに大企業でも数で勝るのは容易いと思います。
 また大衆は時に、権力者を脅かすものであり、インターネットのなかの“ネット大衆”は実社会の大衆よりも膨らみやすいものだと思います。
 距離など物理法則にとらわれることがないことが、“ネット大衆”が膨れあがりやすい要因の一つだと思います。

また“袋叩きにする者たち”は、袋叩きにしながら、“袋叩きにされている人”の様子を耳目にしているものだと思います。
袋叩きにされている側の人が受けている痛手の大きさを見聞きしているといえるかもしれません。
そして『向こう側にはなりたくない』と思ったり、考えたり、無自覚に意識をしたりするものだと思います。
これも“いじめる側”の心理に共通するような気がします。
“ネット大衆”の場合、“いじめる側”より、個人を特定される可能性が小さいと思います。
 そのため“ネット大衆”のなかには、『ネットで袋叩きにされたくない』と言語で表現できるようには考えていないかもしれません。
 しかし思考ではなく、意識のなかに『“向こう側”になりたくない』と感じている人が多いと感じます。

“ネット大衆”は、多くの個人が、インターネット空間で非常に多くの他者と群れることで形成されていると思います。
“多くの個人”は、スマートフォンの画面やパソコンの画面を通して群れに加わっているものだと思います。
 大抵の場合、スマートフォンもパソコンも一人で操作しているものと思います。そして“ネット空間”に通じるスマートフォンの画面やパソコンの画面は一人で見ているものだと思います。
“多くの個人”は自分一人で“ネット空間”に入り、そして時にその空間で非常に大勢の他者と対峙しているものと思います。

 それによって、“多くの個人”は“自分自信”に対する意識が強まっていると感じます。そしてほとんどの人はその自覚がないと思います。
 自覚がなく、意識していないものの、“自分自信”に対して固執するような心理が強まっていると感じます。
《“絶対に自分が正しい”と無条件に思いこむ心理》、《自分を守ろうとする心理》《すこしでも敵性を感じる他者に強く反発し強く攻撃する心理》、《自分が優れていると無条件に信じ込む心理》、《自分の正義感に背く他者を、強く攻撃する心理》、《他者との同調を求める心理》、《得られるべきものは得たいという心理》、《得られるべきものが与えられないことに対する不満》
 それらはインターネット関連の発達に関わらず、誰も持っている心理や意識だと思います。生まれながらに備わっているのかもしれません。
 しかしインターネット空間に触れる機会が急増したことで、《自分が一番》《自分は正しい》《自分をまもる》《自分最優先》という心理や意識が強まったと感じます。
 そんな個人がインターネット空間で群れることで“ネット大衆”が生まれることがあると感じます。

 それは世界的な傾向に見えます。そしてそれは大きな危険をはらんでいるようにも思えます。

2016年6月25日土曜日

国民投票は究極の民主主義ではない

意見が対立する状況で、多数派の意見を尊重するというやり方は、確かに民主的な手法だと思います。
しかし約半数の意見を取り入れ、約半数の意見を切り捨てる、それでは究極の民主主義とはいえないと思います。

意見が対立しているほど、すみやかに意思決定する必要性が高いと思います。対立する意見の人数が拮抗しているほど、話し合いで結論をだすことが難しいと思います。話し合いで結論を出せないとなると、他の意思決定手段を用いること必要になると思います。
多数決はその手段として民主的ではあると思います。

多数決の結果に差が付きにくい事案こそ、多数決という手法を求める声があがりやすいと思います。多数決では差が付きにくい、すなわち相対する意見を持つ人数が拮抗していると話し合いでは決定しにくいからです。
ただそうなると多数決では、多数派と少数派の人数差が少ないということになることが多いと思います。
そこで多くの反対意見が“多数決で決めたことである”という声によって切り捨てられることが少なからず起こり得ると思います。

しかし半数近い反対を切り捨てるのは、民主主義においる優れたやり方でもなければ、高度な手法でもないと思います。
むしろ幼稚で浅はかなやり方だという印象を受けます。
現代社会は多様化し複雑化していると思います。また人々の心理が対立を激化しやすくなっていると感じます。インターネットの普及ばかりが原因ではないと思いますが、インターネットが大衆の心理に大きな影響を及ぼしているのは確かだと思います。
それが社会の動きに現れていると思います

 持論に沿う意見ばかりインターネットから拾い出し、それを思想や主義主張に取り入れる傾向が今の社会にはあると感じます。
また持論に沿った根拠ばかりを探しだしてそれを取り入れるものの持論に反する根拠は黙殺するばかりになっていると感じます。
そうして多くの人が、持論に反する思想や主義主張に対して反対を強めるばかりになっているように見えます。
 皆がそうなることで、意見対立は激化することが多いように見えます。そして対立は多くの場合において、怒りの感情を掻き立てるものだと思います。
 また対立相手から怒りをぶつけられることで、怒りはさらに高ぶるものだと思います。
 しかし多くの人は、自分が正しいと信じ、そのために戦っているという印象を抱くものだと思います。自分が正しい側の人間であり、そのために戦っていると認識することは、心地よさを伴うものだと思います。
 多くの人は自覚がないまま、持論に固執し、持論が正義であり、持論と相対する意見を間違いだと断定し、対抗心や敵愾心を強めているように見られます。

 そんな現代社会において、大衆に二つに一つの選択をゆだねるという手段は、あまりにも単純で浅はかだと思います。それは大衆の賢愚の問題ではないと思います。
 国には必ず大衆がいると思います。また大衆は特有の傾向があると思います。大衆が存在することと、大衆の特徴を前提として論理を組み立てる必要があると思います。
 選択肢が多く、複雑では大衆を含んでいる国民投票はやりにくいと思います。
 そこで国民投票は二者択一という形にすることが多いと思います。
国民投票をするためには、二者択一にせざるを得ない状況もあると思います。
 多様化し、複雑化し、対立が激化しやすく、一つ方向に大衆が群れやすい現代社会では、二者択一の手法は、単純で浅はかな発想による手段だと思います。

 また結果的に、約半数の意見が切り捨てられることになるのでは、後の対立や混乱の火種を残すことになりかねないと思います。
なにより多くの人の意見を“少数派”として切り捨てることは、民主主義が高度に発達した社会で行うべきことではないと思います。
 
しかし大衆はもとより多くの政治家も、国民投票を“究極の民主主義”だと認識しているように見えます。
ことに欧州では、国民投票の民主性に疑問を持っている人は少ないと感じます。
近年、欧州で国民投票が行われたり、国民投票を求める声が高まったりしているように感じます。
欧州の国民には、自分たちの国は先進国であり、民主主義国家であるという意識が強いと感じることがあります。
その自意識は“究極の民主主義”だと思い込んでいる国民投票という手法を、多くの国民が求める心理的な傾向につながっているような気がします。

 社会の多様化と複雑化や、対立が激化する傾向や大衆が一方に一気になびく傾向は、これからも強まっていく可能性が高いと思います。
 国民投票という手法は、そんな社会には適さないと思います。
 より複雑な手法が必要になると思います。それでは大衆がついてこられないかもしれません。しかし民主主義をより高め、さらに成熟させるには、大衆が複雑な手段についていくようにしなければならないと思います。
 
そこで大衆を引っ張るのは政治家や有識者がやらなければならないと思います。

 しかし現在の政治家や有識者の多くは大衆と同じ次元に見えます。それでは引っ張ることはできないと思います。大衆と共に踊り、流されるばかりだと思います。