2016年7月24日日曜日

私が一番 我々が一番 我が国が一番

 近年の世界的な傾向として感じるのは、俗にいう保守的な傾向が強まっているということです。インターネットなどの情報技術の急速な発展はその大きな要因の一つだと思います。
 多くの人の主張や持論、誹謗中傷などに接する機会が爆発的に増えたように思います。他者の声を見聞きすることが急増し、また自身が声を発することが出来るようになり、実際にインターネットの“場”に意見や主張、誹謗中傷を発している人は多いと思います。
 それに多くの人たちは、多くの他者とインターネットを通じて接するようになったと思います。

大抵の場合、インターネットには一人で操作する機器を用いて接していると思います。パソコンやスマートフォンは基本的に一人で使うものだと思います。その画面を通してインターネットの“場”に入っている、それは自分一人で大勢の他者と向き合っているといえるかもしれません。
それによって人々に“自分”に対する意識が強まっていると感じます。自意識、自己愛、自己顕示欲、権利意識、被害者意識などです。
 しかしそれを自覚することが難しいものだと思います。実際世界中の多くの人々が、自覚していないと感じます。

人間には“他者”を意識することで“自分”に対する意識が強まる心理的な傾向があると思います。インターネットでは、多くの“他者”と自分一人で接していると考えると、それによって自分に対する意識が高まることは誰にでもあり得ることだと思います。
そして実際にそうなっていると感じます。ただそんな内面の変化を自覚している人は皆無に近いように思います。

“自分”に対する意識の強まりの一つに“自分は優れている”と、客観的で明確な根拠がないまま信じ込むことがあるように感じます。
またインターネットの“場”で個人が攻撃され、非常に大きな打撃を受けている様子を目にすることで多くの人々に“自分を守る”という意識が強まっていると感じます。
“自分を守る”ためには、他者を強く攻撃して“徹底的に叩きつぶす”という意識が強まっていると感じます。
 他者に対する強い批判や、貶めるようとする誹謗中傷は攻撃の一種だと思います。インターネットが普及した現代社会では、多くの声が攻撃になり、時に大きな痛手を与えることがあると思います。
 近年、世界的に排他的な行動や主張を目立っていると感じます。そして他者に対する攻撃性が強まっている傾向にあると思います。
 その根底には、“自分を守る”という意識の強まりがあるのではないかと思います。
 
 また“自分を守る”という意識は、被害者意識の高まりにもつながっていると思います。
 かねてから人間は無意識に、自分の被害を大きく発信する傾向がみられると思います。それは周囲から同情されることが、“自分を守る”ことに対して有効に働くことがあり、それを本能と経験から知っているのだと思います。
 関心をひき、同情をあつめることが、自分を守ることにつながる、そのため人は無意識に被害を大きく発信するものだと思います。
 
 他人を攻撃するにも“自分はいかに大きな被害を被ったか”を示すことは有効だと思います。
 被害が大きいほうが批判は強くなるものだと思います。批判が攻撃になるからには、被害が多いいほうが攻撃は強くなるものだと思います。無意識に、自分がうけた被害を大きくしていることは、よくあることだと思います。
 そして、それによって自分自身が被害を大きく認識することも、よくあることだと思います。無意識に多少大げさに被害を訴えることで、実際にそれだけの被害を受けたと信じるという心理が働くものだと思います。
 そしてさらに少し大きく被害を訴え、それを信じるようになるという連鎖が起こることがあると思います。
 
権利意識が世界的に高まっているのは、インターネットによって他者が権利を得ている様子を見聞きする機会が増えており、同じ権利を得られていないことが“被害者意識”に似た心理を掻き立てるのではないかと思います。
 ただそれは個人の内面の変化であり、その変化を自覚している人はごく少数だと思います。

 世界中の多くの人は自覚のないまま、“自分”に対する意識を高め、それが他者に対する攻撃性を強めることにつながっていると感じます。自分を守るため、自分を高みに置く。自分を守るため自分がいかにかわいそうかを強く訴え、他者への攻撃心を強め、他者に対する批判を強める、そんな雰囲気が今の世界には漂っているように感じることがあります。
そして対立者に対する攻撃性や敵愾心は怒りの感情を伴いやすく、それによって高ぶりやすいものだと思います。
それは主張や行動に現れることが増えていると感じます。怒りの感情を伴って強く激しく持論を発信し、相対する意見を持つものを強く批判し、強く非難し、あらゆる方法で攻撃する、そんな風潮があると感じます。
インターネットで袋叩きにするのは、その風潮の表れの一つだと思います。

また時に、客観的な第三者として聞くと、到底正論に聞こえない持論を発信している人がいるように思います。当人は、至極正当で論理的に訴えていると信じており、その点について一切の疑問を持っていないようです。
一部の極端な人ですが、今の人間社会では程度の差こそあれ、多くの人が似たような心理状態に陥っていると感じることがあります。
それは世界的な風潮だと感じるのです。

そして“自分”に対する意識は、自分が属する集団に拡大されやすいものだと思います。“自分の国”に対しても、自意識、自己愛、自己顕示欲、などと同じような心理が強まっていると感じます。
統計をとれば年代や性別などによる傾向が現れるかもしれませんが、個人的な印象でいうと世界的あるいは人類的な風潮だと感じられます。

そして政治家も国に属する人間であると思います。
「国民の声に配慮せざるを得ず、難しい対応がせまられている」そういう状況もあり得ると思います。
「政治の動きには、国民はネットで批判を強めている」
「ネットでは国民の多くが、自国のやりかたに批判的で、相手国に同情的である」
 そういう状況もあり得ると思います。
しかし国民も政治家も、自分の国がとにかく一番でありたいという意識があると思います。

ところで、以前から中国の南シナ海の主張は正当ではないと思っていました。ただ日本人は感情的に中国に対して批判的な考えを持ちやすいことは確かだと思います。
それが先日、国際仲裁裁判所が判断を下したことで、“やっぱり中国の主張は正しくない。身勝手な言いぐさなのだ”という認識を強めた日本人が多いように感じます。

中国側から見ると国民も政治家もマスコミも、海岸線が短い中国にとって海洋権益を確保することは国益上不可欠であり、九段線は絶対に譲れないと考えている人が多いと感じます。
“自分のため”とか“自国のため”となると、思考や判断は主観に基づくものだと思います。第三者の客観的な思考をすることは誰でも難しく、客観的な判断をすることは出来ない人が多いと思います。

 中国だけがその傾向が強いというわけではないと思います。ロシアは国を挙げてスポーツ選手にドーピングを行い、またそれを隠ぺいしてきたとスポーツに関する国際的な機関によって調査されたと聞きます。
 多くの国からすれば、『正式に“国が主導し悪質な不正がある”と発表したとなると、もはや言い逃れは出来ないだろう、すぐに潔く非を認め、根本的な改革を急ぐべきだ』と考えるものだと思います。
 現状ではそれが最善であり的確な対応だと思います。国民とスポーツ選手のために、です。
 しかしロシアの政治家も国民もスポーツ選手もマスコミも、そう考えることが出来ず、国際的なスポーツ機関に対する批判を強めているようです。

 そして中国もロシアも『政治的な力が働いている』と政治家が発言し、『陰謀に違いない』などとまことしやかに語られていると聞きます。
 改革や改善をするべきだという声は、国民からも政治家からも発せられていないようです。仮に“非を認めて改善するべきだ”と考えている人がいても口にすることが難しいと思います。

そのようなことはどこの国でもみられると思います。まったく利害関係のない国の国民が、第三者の目で沖ノ鳥島をみれば『岩にしか見えない。どうみても島だとはおもえない』と考えるのではないかと思います。
そして利害が一切ない国の人の中には『島だと言い張っているのは自国の利益のためだろう。だがそれは公正な主張には聞こえない。護岸工事が遅すぎるのだ。島に見えるうちにやっておけばいいものを、岩になってしまってからやったのでは、中国が人工島を作っていることと同じことをやろうとしているように見えてしまう』という人もいると思います。
しかし日本の政治家は「あくまでも島だ」と主張し、国民の多くがそれを支持していると感じます。『島』と『岩』では排他的経済水域が大違いであり、自国の利益が大きく左右されるのですから、客観的な視点ではなく主観的に「ぜったいに島であり、ぜったいに譲るべきではない。国益を守らなければならない」という主張が多いように思います。

「正々堂々と岩だとみとめよう。それによって排他的経済水域が小さくなっても仕方ない。かつては島だったとしても、今は岩になってしまったのだから」
 もしそんなことを言おうものなら、インターネットで非難され、膨大な誹謗中傷にさらされかねない。著名人ならば、それが実生活に影響を及ぼしかねない。そうなると考えていても、それを口にすることは憚られる、そういう日本国民や政治家もいるかもしれません。
 それは領土に関する事柄全般に言えることだと感じます。
 
 自国の国益のために客観的な視点をなくしていることも、自国の国益に反するとなると持論を堂々と発することが出来ないことも、心理の働きは中国やロシアと同じように感じます。
 
別の国の国民からすれば「明らかに身勝手な主張だ。あの国の国民はそんなこともわからないのか」と感じることでも、当の国の国民の多くは本当にわからないのだと思います。あくまでも正しい主張をしていると、心から信じており一切疑うことはない。そういう人が少なくないのだと思います。
そしてそれに反する持論を抱いている人がいたとしても、インターネット上の大衆や、俗にいう右派から叩かれることを恐れて発信することが出来ないでいることがあると思います。

今の人間社会は怖い風潮に包まれていると感じます。そしてそれは強まっていると感じます。その強まり方は加速していると感じます。

しかしそれに気づいている人はごくわずかだと思います。それが最も恐ろしいことかもしれません。

2016年7月20日水曜日

ネット大衆

このところ、俗にいう保守的な志向が強まっていると感じます。世界各地でその傾向が強まっているように思うのです。政治家、国民共に保守的な主張をする人たちがふえ、保守的な主張を支持する人が増えていると感じます。世界全体で、です。
数年前から感じられていたことです。ただそれが、年々強まっているような気がします。また加速していると感じます。
その要因と考えられる事柄について、何度も書いています。パソコンやインターネットの普及は、世界的に個人主義を高めさせるともに、国粋主義も強めさせている要因の一つだと思います。

今の世界はインターネットをなしでは成り立たないのではないかと思えるほど、それが広く深く浸透していると思います。
 当たり前のようにインターネットが存在していると感じますが、それは相当に急速に浸透した感があります。ただ多くの人々は、その速さに注意を払っていないのだと思います。
 
一回り前の干支の年と今年を比べれば、インターネットなど通信関連は大きな変化をしていると思います。現在、インターネットやスマートフォンなどがあまりにもあたり前に身近にあるため、ともするとずっと前からそうだったような感覚を無意識に持っている人が多いと感じます。
それを指摘されると「いわれてみれば、スマホを持つようになってまだ数年だな」「今は便利になったなあ」などと思考することがあるかもしれません。ただ頭で考えるだけで、スマートフォンが自分の生活に浸透した速さを感じることは少ないと思います。

 インターネットなどの通信環境の急速な変化は、社会全体の急速な変化といえるような気がします。
そして社会全体の急速な変化は、人間の心理にも影響を及ぼすと思います。
ただ多くの人たちがその変化の只中にあるため、認識できないように見えます。頭で考えることは出来ても、感覚的に変化の速さと大きさを認識できていないように見えるのです。
そのため『確かに言われてみれば社会は大きく変わったね。でもそれがどうかした?』と軽んじていると感じます。そのことの重さを認識できずにいると感じます。

何度が書いていますが、インターネットは自分一人で多くの他者と向き合うものだと思います。
友人知人たちである場合もあれば、世界中の不特定多数の人々である場合もありますが、スマートフォンやパソコンの画面に向き合っているのは自分一人だけである場合がほとんどだと思います。
それが自我や自意識を強めるように作用することが多いのではないかと思います。多くの人たちは、日常的にインターネットを利用しつつ、無自覚に自我や自意識、自己肯定感、自己保守心などを強めているように見えるのです。
しかし多くの場合は、その作用が働いていることを自覚することは出来ないと思います。

インターネットの中で激しい誹謗中傷などが行われることは珍しくないと聞きます。その中には悪意や敵愾心、攻撃欲、義憤などが含まれていることが多いように思います。
『一人一人は無名でなんの力も持たない一般人だけど、みんながネットで攻撃すれば悪者をやっつけられるんだ』
 このような感覚を抱くこともあると聞きます。インターネットで大衆の誹謗中傷が沸き上がることで現状が変わったことがあると、『ネット民の勝利だ』『権威も権力もない一般人の勝利だ』『我々が正したのだ』と達成感のようなものを得ることがあると思います。
 それはとても心地いいものだと思います。
心地いいために、何度も味わいたくなるものだと思います。そしてまた『悪者』を見つけようとし、悪者が見つかるとインターネットで袋叩きをする、そんな状況が起こるのだと思います。

“ネット大衆”はインターネットという空間のなかで群れを成し、大勢で一人を袋叩きにして、叩きのめすことにある種の快感を得ていることがあると思います。“集団対一人”という構図の中で、自分が“集団側”つまり“圧倒的な優位な側にいる”それ自体と、圧倒的に優位な側の自分が、圧倒的に不利な側である“一人”を容易く叩くことに“快楽”に似た感覚をえることがあると思います。それは“いじめる側”の人間にもみられる心理ではないかと思います。
さらに“ネット大衆”による“ネット袋叩き”には達成感や正義感を満足させるという快感も加わることが多いと思います。
そのような快楽や快感は、麻薬のような心理的、脳科学的効果があるのではないかと思います。

叩かれる側が企業など集団である場合もあると思います。また政治家など権威や権力をもっている場合もあると思います。
そしてその叩かれる側の企業や集団、政治家に批判されるべき要素がある場合も決して少なくないと思います。
それが“ネット大衆”による“総叩き”によって制裁を受けることもあると思います。悪事が露見し罰せられることもあると思います。不正が除かれることもあると思います。改善すべきことでありながら長年放置されていたことが改善されることもあると思います。
“ネット大衆”が社会全体に対して貢献することもあると思います。
 
 大企業や政治家など権威や権力を持つ者には、個人の力は到底及ばないと思います。
 しかし“ネット大衆”となれば、いかに大企業でも数で勝るのは容易いと思います。
 また大衆は時に、権力者を脅かすものであり、インターネットのなかの“ネット大衆”は実社会の大衆よりも膨らみやすいものだと思います。
 距離など物理法則にとらわれることがないことが、“ネット大衆”が膨れあがりやすい要因の一つだと思います。

また“袋叩きにする者たち”は、袋叩きにしながら、“袋叩きにされている人”の様子を耳目にしているものだと思います。
袋叩きにされている側の人が受けている痛手の大きさを見聞きしているといえるかもしれません。
そして『向こう側にはなりたくない』と思ったり、考えたり、無自覚に意識をしたりするものだと思います。
これも“いじめる側”の心理に共通するような気がします。
“ネット大衆”の場合、“いじめる側”より、個人を特定される可能性が小さいと思います。
 そのため“ネット大衆”のなかには、『ネットで袋叩きにされたくない』と言語で表現できるようには考えていないかもしれません。
 しかし思考ではなく、意識のなかに『“向こう側”になりたくない』と感じている人が多いと感じます。

“ネット大衆”は、多くの個人が、インターネット空間で非常に多くの他者と群れることで形成されていると思います。
“多くの個人”は、スマートフォンの画面やパソコンの画面を通して群れに加わっているものだと思います。
 大抵の場合、スマートフォンもパソコンも一人で操作しているものと思います。そして“ネット空間”に通じるスマートフォンの画面やパソコンの画面は一人で見ているものだと思います。
“多くの個人”は自分一人で“ネット空間”に入り、そして時にその空間で非常に大勢の他者と対峙しているものと思います。

 それによって、“多くの個人”は“自分自信”に対する意識が強まっていると感じます。そしてほとんどの人はその自覚がないと思います。
 自覚がなく、意識していないものの、“自分自信”に対して固執するような心理が強まっていると感じます。
《“絶対に自分が正しい”と無条件に思いこむ心理》、《自分を守ろうとする心理》《すこしでも敵性を感じる他者に強く反発し強く攻撃する心理》、《自分が優れていると無条件に信じ込む心理》、《自分の正義感に背く他者を、強く攻撃する心理》、《他者との同調を求める心理》、《得られるべきものは得たいという心理》、《得られるべきものが与えられないことに対する不満》
 それらはインターネット関連の発達に関わらず、誰も持っている心理や意識だと思います。生まれながらに備わっているのかもしれません。
 しかしインターネット空間に触れる機会が急増したことで、《自分が一番》《自分は正しい》《自分をまもる》《自分最優先》という心理や意識が強まったと感じます。
 そんな個人がインターネット空間で群れることで“ネット大衆”が生まれることがあると感じます。

 それは世界的な傾向に見えます。そしてそれは大きな危険をはらんでいるようにも思えます。