2016年12月27日火曜日

愚かな強者、強い愚者

核兵器の開発が始まったのは数十年前のことです。そうなると核兵器は数十年前に発想された兵器であるということになります。
それから現在まで核兵器が実戦で使われたのは二回だけ。どちらも数十年前のことです。

数十年という時間が過ぎれば、世界情勢も戦争の様相も様変わりするのは当たり前だと思います。実際この世界は、核兵器が実戦で使われた時とは大きく変化したと思います。その変化はこれからもずっと続いていくものと思います。
東西冷戦時代を振り返ってみると、現在よりもはるかに世界は単純だったと感じます。大きな対立軸が一本だけだったように思えるのです。
そんな時代だったからこそ、核兵器をもっていることが抑止力となり得たのだと思います。

翻って現在は、世界中に多様な対立軸が多数あるように見えます。しかもいくつかの軸が交差しているような気がします。またねじれている軸が何本もあると思います。
国際情勢が変わると、戦争の様相も変わるものだと思います。
人類史上はじめて実戦で核攻撃が行われた数十年前の戦争と、東西冷戦時代に起こった戦争や武力衝突、その時代に想定された戦争とでは、あらゆる事物や考え方が違っていると思います。当然、現在、そしてこれから先の戦争も、数十年前の戦争とは様々な違いがあるはずです。

数十年前の戦争は、無差別に大量の人間を殺戮することが戦争の作戦として、“堂々と行われた”感があります。敵に対して、広範囲にわたって大きな打撃を与えることが戦争では有効だと目されていたのだと思います。
核兵器は、まさにそれを超大規模で行う兵器だといえるかもしれません。

現在、そしてこれから先の戦争は、狙ったものだけを的確に攻撃することが求められると思います。しかも極力犠牲を出さずに、です。敵味方問わず民間人はもちろんですが、自軍の兵士の犠牲も最小限に抑えようという考え方が強まっていくと思うのです。
過去の戦争のように多くの民間人を無差別に標的にするなど、戦争の戦術的にも戦略的も愚策となる可能性が高いと思います。

その一因として国際社会はまだ当分の間、複雑化し続けていくことが挙げられます。途上国の経済発展、世界的な格差の拡大などにより、国家間の利権は多様に絡み合うようになると思います。
そのため、国家や地域間の対立の構造が複雑になると思います。そうなれば、戦争も対立の構造が、かつてのようにわかりやすいものではなくなるはずです。
つまり、国際社会が敵か味方に明確にわかれるような形にはなりにくくなると思われます。それでは“敵国に莫大な破壊を与えれば戦争に勝利できる”という状況にはならないと思います。

世界が真っ二つに割れる、そうならなければ、戦争は規模が拡大しにくいと思います。同盟国のなかでも利害対立があり、意見が一致しないことが起こり得るからです。
 “すべて同盟国は絶対的に味方である”そうならず、かつての“東側対西側”ようなわかりやすい対立も起きないとなると、戦争は大戦にはなりにくく、国際社会から見れば“限定的な戦争、戦闘行為”になりやすいと思います。
限定的な戦争となると、大量の民間人を無差別に殺戮する軍事作戦など実行できないと思います。仮に実行し、それで戦争に勝ったとしても、その勝利は国にとって大きなマイナスに作用する可能性が高いと思います。

これからの戦争は、自国の民間人、自軍の軍人、相手国の民間人、敵軍の軍人、誰であれ人間の犠牲は最小限に抑える必要があるように思います。そういう方向に向かっていくと思います。
つまり戦争では、効率的で正確な攻撃が必要となるということになります。
狙った艦船だけを確実に撃沈する。
狙った軍機だけを確実に撃墜する。
狙った施設だけを確実に無力化する。
狙った人物だけを確実に拘束する。
などです。核兵器はいずれにも適していないと思います。

 核兵器は何十年も前、現在とは世界がまったく違っている時の発想に基づいて生みだされた兵器だと思います。
それにしても圧倒的な破壊力をもつ兵器であることは確かであり、人間は一度手にした力や武器を手放すことはできないものです。
そうなると世界から核兵器がなくなることはないと思われます。
しかし核兵器は現在、そしてこれからの戦争において有効な兵器ではないと思います。

国や軍を統べる者のなかに、今もって“核兵器こそ最高の兵器である”というような認識をもっている者もいるかもしれません。
しかしその認識は間違っている、あるいは時代遅れといえるような気がします。強大な兵器をもって敵国に大きな破壊を与えて勝利するという考え方は、単純で浅はかだという印象を受けます。
戦争や世界情勢に対する認識不足といえるかもしれません。

国や軍を統べる者の認識不足は、すなわち能力不足だと思います。