2015年9月8日火曜日

環境破壊団体シーシェパード

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2015年9月 8日「環境破壊団体シーシェパード」


概要
「調査捕鯨」という呼び方は実態を表していないと思います。個体数を維持しながら、適正数を商業目的で捕鯨し、調査も兼ねているのが実情だと思います。「管理商業捕鯨」といえるような気がします。「調査捕鯨」と称したため、欺瞞だといわれ実態よりも悪い印象を持たれていると感じます。ただ反捕鯨論はあまりにも感情的で、いくら論理的に説得しても聞く耳を持たれなかったため、方便として「調査捕鯨」と謳ったのだと思います。それが仇になった感があります。
種の絶滅は、それ自体が環境の変化であり、環境はあらゆる事物が相互に関係しあっているため、一つの種が絶滅することでさらなる環境変化をもたらすと思います。環境の変化は人類にとって、マイナスに作用する可能性が高いと思います。人間は種を絶滅させてはならないと思います。
ただホモサピエンスは、植物を採り、動物を獲り、植物を育て、動物を育て、それらを食べ、そのほかの用途でも生物を利用する生物だと思います。ホモサピエンスがそれらを行うことは、自然の摂理の一部だと思います。
もしホモサピエンスがすべての動物を一切殺さなくなくなったら、それによって絶滅する生物があるのではないかと思います。それは環境が変化するということだと思います。
もしホモサピエンスがある種の生物を一切殺さなくなったら、それによって絶滅する生物があるのではないかと思います。それは環境破壊だと思います。
そう考えると、シーシェパードは環境破壊団体だと思います。
シーシェパードが卑劣で悪質なのは、「環境を守る団体」と謳っていることだと思います。
しかもシーシェパードは、人間の倫理観に背くやり方で活動していると思います。
しかもシーシェパードは、その活動において法を犯していると思います。
シーシェパードは、極めて下劣で悪質な団体だと思います。

2015年9月7日月曜日

資本主義社会における報道と言論

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2015年9月 7日「資本主義社会における報道と言論」


概要
社会主義体制における報道と言論は、問題視されることが多いと思います。
しかし資本主義社会における報道と言論にも、特有の問題点があると思います。

2015年9月6日日曜日

パクリギャップ

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2015年9月 6日「パクリギャップ」


概要
デザイン、音楽、小説などの創作物だけでなく、主張や意見などの発言も「パクリだ」と指摘されることがあるようです。
他者が別の場所で発した言葉を、まるで自分の主張であるかのように主張したり、格言的な言葉や、語彙の使い方などに特徴がある主張などを引用したりすると、「パクリだ」と批判されることがあるようです。
 引用については、引用であることを断っておけば、多くの場合、問題ではないと思います。
 また創作物であれ、意見や主張であれ、意図せずに似ることは稀ではないと思います。
 どこかで目にした他者の作品や、過去の耳にした主張が意識の中にあり、意図せずにそれが創作や、論理構成に反映されることはあると思います。
 また、感性や考えが他者と同じようになることも、決して珍しいことではないと思います。
 つまり『似せた』という意識が全くないのに、似ることは稀ではないと思います。
 しかし人は、自分が創作した作品や、独自に構築した意見に対して『真似された』という意識を持ちやすい心理的な傾向があると思います。
『パクリ』に限ったことではありませんが、人間は些細なことでも、思いこむとそれを強めていく心理があると思います。
特に被害にあったと感じた時、被害者であるという意識を強める心理が働くような気がします。
それは善し悪しで論じことではなく、人間には誰にもそういう心理があると思うのです。
人間は『パクリじゃないのか』と思うと、『絶対にパクったに違いない』と、次第に思考を強めていく心理があると思います。
『パクった人』と、『パクられた人』との間には、大きな意識の差があると思うのです。
そしてそれが対立を深刻にし、事態を大きくすることがあると思います。

2015年9月5日土曜日

総インターネット調査員

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2015年9月 5日「総インターネット調査員」


概要
図や絵をインターネットで検索すれば、何かした似たものが見つかるのではないかいと思います。シンプルなデザインほど、似ている絵や図や写真が多いと思います。しかし複雑で奇抜なデザインでも、数は少なくても何かしら似ているものが見つかるような気がします。
似ているものが何ひとつ見つからないようなデザインは、独創性が強すぎたり奇抜すぎたりして、一般的に受け入れられない可能性が高いと思います。
つまり『探せば見つかる』『探さなければ見つからない』ということではないかと思います。敵が多い人は、多くの人が探すため、多くの似ているものが見つかるのではないかと思います
敵が少ない人だったら、似ているものが見つかっても叩かれないかもしれません。また、ごたごたを繰り返すのは避けたいと、多くの人が思っているため、仮に似ている図や絵やポスターやデザインが見つかっても、『あまり責めないようにしましょうね』『そりゃ似ているものがありますよ。仕方ないじゃないですか』という雰囲気になるかもしれません。
しかしいくら敵が少ない人でも、注目をあびることで敵が現れることがあり得ると思います。それに、インターネットで悪者を徹底的に叩くことに社会的意義があると信じている人や、非を見つけた他者に大きな痛手を与えることに達成感を覚える人が、敵になることもあり得ると思います。
インターネットの検索システムは、『見つけ出すことを目的としたシステム』といえるような気がします。だから見つかりやすいのだと思います。殊にエンブレムのような多くの人から受け入れられるデザインは。
それにしても、コンピューターの仕事は、見つけ出して、それを提示することだと思います。
それをどう役立てるか、どのように扱うか、それが重要だと思います。
それは人間がすることだと思います。

2015年9月4日金曜日

インターネット総叩き

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2015年9月 4日「インターネット総叩き」

概要
招致エンブレムも、インターネットで探せば、似ているものがいくつか見つかりそうな気がします。絵柄としてみるとあまり複雑ではないようですので、そのようなデザインは意図せずに似たり、偶然に発想が同じだったりすることがあると思います。
 今の時代は非常に多くのものが発信されていて、それをインターネットで見つけることも手軽に出来ると思います。
そうなると、『探されるか、探されないか』の違いが大きいと思います。かねてから『敵が多い人』は、『探される』ことが多くなりやすいと思います。大きな注目を浴びている事柄で、『叩くネタ』が見つかれば、大きな痛手を与えることが出来ると思います。
インターネットは、『大勢で一人を叩く』道具になりやすいと思います。
その際、悪いやつをやっつけるという心理が働くこともあると思います。
また、嫌いな人物に痛手を与えたい心理が働くことがあると思います。
また、ただ単に騒ぎに乗っかろうという心理も働くことがあると思います。
そのような心理から、一人の人物を総叩きにすることがあると思います。
擁護する者があれば、その人たちも総叩きにすることがあると思います。
擁護者を叩くことは、本人に対する徹底した攻撃の一環だと思います。
そして、その人物が大きな痛手を受けると、達成感や満足感を覚えることが多いと思います。また、総叩きに加わった者同士の連帯感や一体感を得ることもあると思います。
『権力や財力を持たない者たちがみんなで叩いたことで、悪者をやっつけた』そのような感覚を得ることがあると思います。
それは心地よい感覚だと思います。
インターネット総叩きは、これから増えていくだろうと思います。また、叩き方が強まると思われます。
インターネット総叩きには、功もあるでしょうが間違いなく罪もあると思います。

インターネットの特性を考えると、罪があまりにも大きくなる懸念があると思います。

2015年9月2日水曜日

理性的文明人ならば、シーシェパードの欺瞞に気づいてもいい頃

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2015年9月 2日「理性的文明人ならば、シーシェパードの欺瞞に気づいてもいい頃」


概要
世の中には様々な偽善があると思いますが、シーシェパードは最も卑しい偽善組織の一つだと思います。理性的な社会では、意見の相違があるのなら、実力行使をする前に論争するべきだと思います。シーシェパードは、一方的に声明を出すことはあるようですが、論争したことがないように見られます。
それ以前にシーシェパードは論理的に主張したり、現実的な目標を示したりしていないと思います。
論理的な主張と現実的な目標があれば、それを達成するための効果的な手段を取ろうとするものだと思います。
しかしシーシェパードがやっていることは、嫌がらせと悪口という、極めて幼稚で低次元なことだと思います。正義の味方気取りで、嬉々として嫌がらせと悪口に興じているように見えます。
ポール・ワトソン氏が発した声明や、インタビューに応じた内容を目にすることがありますが、理性的で論理的な主張は、今のところ見聞きしていません。あくまでも今までに見聞きした彼の発言だけで判断すると、ポール・ワトソン氏は論理的な思考をする能力が低いように感じます。
議論をせずに、声明など一方的に意見を発するのは、論争になったら負けることを自覚しているからかもしれません。それを自覚できる程度の知能はあるのかもしれません。
同氏の日本に対する批判は、小学生低学年のいう「おまえのかあさんでべそ」と同程度の驚くほど低次元な内容で、そんな声明をだすこと自体が、自らの知能の低さを晒しているような気がします。
それに気づくだけの知能を持ちあわせていないのかもしれません。

2015年9月1日火曜日

作られた映像によって作られた正義

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2015年9月 1日「作られた映像によって作られた正義」


概要
「川口浩探検隊」は『大げさだ』ということは十分に承知しつつ、その『大げさぶり』を楽しんでいた感があります。
ドキュメンタリー番組ではなく『ドキュメンタリー風の娯楽番組』として、楽しんでいたように思います。そのように劇的な演出が施されたテレビ番組は、感情移入しやすいことがあると思います。
ドラマなどの完全な創作物ではないので、『自分が探検隊の一員だったら』という想像が掻き立てられやすいと思います。その空想は“ヒーロー気分”に通じていると思います。その気分が楽しく、心地よいものですので、『過剰な演出だ』と思考で認識しながらも、心理が引き寄せられやすいのだと思います。
シーシェパードも、劇的に過剰な演出した『ドキュメンタリー風のテレビ番組』によって、大衆を引きつけたのだと思います。
視聴者の中には、『自分がこの場にいたら』、という想像を掻き立てられた人もいたと思います。『悪者と戦う正義の味方になる』そんなイメージを掻き立てられた人もいたと思います。
 それに駆られて、真剣に『正義の味方ごっこ』をしている人たちが大勢いるようです。
 しかし大抵は、本人にその自覚はないと思います。むしろ『決して自覚してはならない』という心理が働いていると思います。
『正義の味方ごっこ』だと自覚してしまうと、『正義の味方』ではなくなってしまうからです。
“正義の味方気分”を堪能して楽しみ続けるには、『正義の味方ごっこ』であることを絶対に認めてはならないと思います。
それと『正義の味方ごっこ』を続けるには、『悪者を仕立てあげること』が必要だと思います。