2014年5月24日土曜日

ファクス受信「メールを送ったので、すぐに見てください」 ”一応、電話をいれといたほうがいいな”「ファックスを送ったので、すぐに見てください」

 科学を扱ったテレビ番組で、身の回りにあるものを使って簡単なレコードを作る様子を見たことがあります。
何度か目にしているのですが、はじめてみたとき『レコードの原理って、意外に単純なんだな』と感じことを思い出します。
音をレコード盤に記録し、その音を再び発する、それだけのものなら、簡単に作ることが出来ると思ったのです。
 
ただ実用されているレコード盤やレコードプレーヤーは工業製品であり商品だと思います。安定して動かなければなりませんし、耐久性が必要だと思います。
それに使いやすくするなど機能を充実させることも求められるような気がします。だれでも簡単に手作り出来るものではないと思います。
レコードを“ちゃんと”聴くには、“ちゃんとした”レコードプレーヤーが必要だと思います。

音楽がCDだけで販売されるようになった頃、レコードプレーヤーは製造、販売されなくなるという声を耳にしました。
記憶が薄らいでいるのですが、レコード針の生産をやめたなどという話題を目にした覚えがあります。
『レコードもプレーヤーも大事にしよう。もし壊れたら変わりがなくなっちゃう』
 そのようなことを考えていた気がします。

 しかし今インターネットで検索してみると、レコードプレーヤーもレコード針も販売しているサイトがいくつもあります。
 販売しているサイトがあるということは、今でもレコードプレーヤーやレコード針を購入する人がいるのだと思います。
レコードを持っている人、レコードを聴いている人、レコードプレーヤーを使っている人、レコードの音楽をデジタルにして保存しようとしている人がいるのだと思います。
こうしてみると、レコードプレーヤーもレコード針も、まだしばらくの間は手に入るような気がします。

『遠い未来、レコード盤をみた未来人は、これが何をするものなのかわかるだろうか?』
 レコードプレーヤーが無くなってしまうだろうと言われていたころ、そんな空想をしたことがあります。
 今の文明が崩壊し、その後新たな文明が築かれた未来にレコード盤が見つかったときのことを思い浮かべたのです。
 レコード盤だけが見つかっても、レコードプレーヤーがなければ聴くことは出来ないと思います。そうなると、レコード盤が何をするものなのか、未来人にはわからないのではないだろうか、などと考えていました。
 しかし上に書いたように、レコードの原理はとても単純です。未来人はこれが音を記録しているものだとすぐに気づくかもしれません。そしてその音を聴く装置を簡単に作るかもしれません。

 それに比べて、デジタル音楽プレーヤーに保存した音楽は、その機器が壊れてしまったら消えてしまうこともあるのではないかと思います。
僕はデジタル音楽プレーヤーを持っていないのでよくわからないのですが、パソコンが故障して保存していたデータが無くなったことがあります。またCD-RやDVD-Rに書き込んだデータが消えてしまったこともあります。
 デジタルの音楽も消えてしまうことがあるのだろうと思います。
 それにもし、パソコンやハードディスクにデジタル音楽が保存されていたとしても、それを聴くには、聴くための機器が必要だと思います。
それはレコードプレーヤーよりも、ずっと複雑なものだと思います。

少し前、日本のファックスに関する話題を目にしました。アメリカでは博物館に展示されるほど、ファックスは使われなくなっているそうです。
先進国の多くでは、電子メールが主流になっているのに、日本はいまだにファックスを使われていることが不思議だと見る向きもあるようです。
ただ銀行や保険会社はアメリカでもファックスを使っているので、一概に“時代遅れ”というわけでもないようです。
それにしても、日本の企業はほぼ100%ファックスがあり、それが高い頻度で使用されていて、それは先進国では珍しいようです。

僕自身、電子メールより、ファックスを使う傾向があります。
電子メールは相手がメールソフトを立ち上げて、受信フォルダを開かなければ、見られないと思います。
つまり相手が見ようとしなければ、電子メールは見られないものだと思います。『向こうはちゃんとメールを見るだろうか?』と、心配するような気持ちになるのです。

またファックスは、こちらにもあちらにも“紙”という“物”が残ります。それが資源の無駄使いだという声もありますが、形が残るのは安心感のような気持ちを持てるような気がします。
 それにその紙を綴じておくと、記録になると思います。デジタルデータよりは随分とかさばりますが、保存についてはデジタルより確実だと感じます。
 CD-Rに保存したデータが気づくと消えたり、データが残っていてもそれを作成したソフトないと、見られなかったりすることはないと思います。
 そのようなことから、電子メールよりファックスのほうが確実で堅実なやりかたという印象をもっているような気がします。

 日本人はそのような仕事のやりかたを好む傾向があるような気がします。

2014年5月23日金曜日

復活のカセット

僕はレコードを何枚か持っています。レコードプレーヤーは高校生のころに購入したものがあります。それは物置に仕舞ってあるのではなく、部屋のテレビの横に置いてあります。
しかしもう何十年前から使用していません。つまりただ単に飾ってあるだけの状態です。
使わないものなら片づけてしまえばよさそうなものですが、今のところそのつもりはありません。部屋の景色に馴染んでいるからです。
高校生のころからずっと部屋にあったものです。部屋の一部になっているような感覚があるのです。

もう随分前に、音楽はCDで聴くのが全盛となり、レコードが売られなくなりました。
それでも手持ちのレコードをいつでも聞けるように、レコードプレーヤーを片づけませんでした。
実際に時々それを使ってレコードをかけていたのですが、その頻度は徐々に少なっていきました。手間をかけることもレコードの味わいだと思っていたのですが、その反面やはり面倒だと感じていたからかもしれません。
それにレコード盤を持っているもののLPが数枚程度ですので、そればかり頻繁に聞いていたら飽きてしまいます。

結局レコードを聴かなくなったのですが、それでも聴きたいと思ったとき、いつでも聴けるようにレコードプレーヤーは仕舞わなかったのです。
それが今では装飾品として部屋の景色を作っています。ただ物置のなかで埃をかぶっているわけではないので、汚れてもいませんし傷んでもいません。
使おうと思えば、いつでも使えるように見えます。

CDが全盛となってもレコードプレーヤーを片づけなかったのですが、今ではそのCDが売れない時代だと聞きます。考えてみればそう言われるようになって久しい感があります。音楽はダウンロードして聴くものになっているようです。
僕はデジタル音楽機器を持っていません。今、音楽はパソコンを使ってCDを聴くか、インターネットテレビや動画サイトを利用しています。
ただ数年前まではカセットテープを毎日聴いていました。

高校時代にレコードを録音したカセットテープを流していたのです。それにFMラジオから録音したカセットテープも使っていました。それは何十年も前のものですが、音質などに関心のない僕には充分聴くに堪えられるものでした。
今でも聴きたいと思うことがあるのですが、数年前カセットデッキの調子が悪くなってしまったので、それを使うことをやめました。
時々テープが絡まってしまい、おかげで数本のカセットテープが切れてしまうなどして、聴くことが出来ないようになってしまったのです。

しかし実は、カセットデッキの洗浄キットを持っています。経験からすると、それを使ってローラーとヘッドを洗浄すると正常に機能する可能性が高いと思われます。
この洗浄液は、僕が小学生のころ、父親がラジカセと一緒に買ってきたものです。あのとき、我が家に初めてラジカセが来たのですが、僕はそれを成人になって数年後まで使っていました。そして今は箪笥のなかにしまってあります。
今そのモノラルラジカセを使うことはないのですが、洗浄キットはカセットデッキやVHSビデオデッキに使っています。
上に書いたようにカセットデッキが不調をきたしたときや、VHSビデオのノイズがひどくなったとき、ヘッドとローラーをそれぞれの洗浄液で拭くと、機能が回復するのです。まさに効果覿面の感があります。

調子が悪くなったカセットデッキも、ローラーとヘッドを洗浄すれば、直るだろうと思います。そう思いながらも手を付けていません。
元々音楽にそれほど関心があるわけではありませんので、カセットを聴かなくなったら、それに慣れてしまったのだと思います。
それに洗浄液を温存したいという思いがあります。カセットテープは聴けないならそれでもいいのですが、VHSビデオは今でも頻繁に使用しています。それが調子悪くなった時のために、洗浄液を残しておきたいのです。
カセットデッキも、VHSビデオデッキも、世間では使われなくなったと思うと、これからは洗浄液が手に入らなくなるのではないか、それなら今あるものを出来るだけ温存しておくべきではないか、そう考えたのです。

そんななか、再びカセットテープが注目をされているという話題を目にしました。音楽に関することはあまり詳しくないのですが、「国内外のインディーズシーンでカセットテープによるリリースが増えている」とのことです。
費用が安く済むこと、手作りであることなどが利点や魅力になっているようです。それに若い世代は、カセットテープは決して便利ではないものの、“なんとなくかっこいい”と感じられるようです。

また音楽だけではなく、データ保存にも磁気テープが見直されていると聞きます。
そうなるとそれは、懐古趣味など情緒的な面ではなく、実用的な利点があるのだろうと思います。
もしかしたらこれから先、カセットヘッドとローラーの洗浄液が簡単に手に入るようになるかもしれません。

そうしたら、またカセットテープを聴こうと思います。

2014年5月22日木曜日

「敵」 デズモンド・バグリイ著

 何度か書いていますが、僕は冒険小説が好きです。
 若いころあまり本を読まない友人と雑談をしているとき、小説が話題になったことがあります。
 確か僕が「冒険小説が好きだ」などと言ったのだと思います。その時、友人は“冒険小説”とは、秘境を探索して悪漢と戦うような物語や、お姫様を守る勇者が活躍する小説を思い浮かべたようです。
 それは僕が言いたかった冒険小説とは少し違っていました。
 僕が認識していた“冒険小説”は、推理小説や戦争・軍事・諜報を題材にした作品に、活劇の要素を取り入れた小説というものでした。

 友人は「冒険」という言葉から、秘境での宝さがしや、幻想の世界で騎士が活躍する話を連想したようです。
 そこで、僕自身冒険小説を読み始めたころには同じように感じていたことを思い出しました。私立探偵が活躍する小説を「冒険小説」と呼ぶことに、違和感のようなものがあったのです。
 それが何作も読んでいるうち、冒険小説は大人の主人公が事件や戦争や諜報活動で活躍する小説だと認識するようになりました。
 
 ただ、秘境の探検やお姫さまと騎士を描いた作品も “冒険小説”とされていることもあります。
考えてみれば、本来はそのような作品が冒険小説だったのかもしれません。調べていませんので、勘違いや認識不足があるかもしれませんが、そこに推理や戦争、軍事、諜報などを題材とした小説が加えられるようになったのかもしれません。
 僕は前者も後者も冒険小説は好きですが、後者の方が読む機会が多かったような気がします。そしてそれを“冒険小説”と認識するようなったのだと思います。

それと、僕は一つの小説を何回も読むことがあります。好きな小説は、無性に読みたくなることがあるのです。
また、初めて読んだときにあまり気に入らなかった作品を、改めて読んでみたくなることもあります。そのように読み返してみると印象や感想が変わることもあります。
ここでは「高い砦」「鷲は舞い降りた」「深夜プラスワン」などの“冒険小説”について何度も取り上げているような気がします。
この3作品は何度も読んでいますが、特に「高い砦」は本が随分と傷んでしまい、バラバラになりそうです。数えたことはありませんが、そのことから読む頻度が最も高い小説かもしれません。

 その「高い砦」と同じデズモンド・バグリイの著作に「敵」があります。
 この作者の作品はいくつか読んでいるのですが、そのどれかの解説に、著者自身が最高傑作だと考えているのが「敵」だと書かれていました。
 この小説を紹介する文章には、「作者自身の最高傑作」などと書かれているものが多いと思います。
 それを目にすると読んでみたくなるものです。そして若いころに読んだのですが、内容はまったく記憶に残っていません。
“作者自身が最高傑作だという小説を、僕はあまり気に入らなかった”そのことが記憶に強く残っています。
 そこで、いつか読みかえそうと思っていました。読みかえしてみると感じ方が変わるのではないかと考えたのです。
 
 お気に入りの小説を何度も読むことも、初めて読んだときにはあまり気に入らなかった作品を読みかえしてみることも、読書の楽しみ方の一つだと思います。
 僕が「敵」を読んだのは、随分若い時で、その時に一回だけです。
 今読んでみると、どのように感じるのだろうかと考えると、興味が湧いてきます。

 しかし『いつか読み返そう』と思いながら、なかなか手が出せませんでした。特に理由はないのですが、他にも読みたい本があるので、ずっと後回しにしてきたという感じです。
 先日ようやく「敵」を読んでみました。
この作品は諜報活動を描いた作品です。そのような物語は時代背景によって、設定や社会の雰囲気などが変わってくるものだと思います。この作品は1977年に発表され、日本では1986年に初版が出たようです。
つまり東西冷戦の最中です。

そのころの冒険小説の多くが、冷戦を背景にしていたような気がします。個人的な印象ですと、その時代のスパイ小説は、活劇の雰囲気が強いものと、それに反発するかのように現実味を強く感じさせる作品の二極的だったような気がします。
 そんな中で、「敵」は後者を目指しているように感じます。諜報活動を仮想し、現実味のある緻密なスパイ小説に仕上げようとしたという印象を受けます。結果的に諜報活動を題材とした冒険小説になったような印象があります。

機密の扱い方や、個人的な面での関わり方など、現実ではもっとずっと厳しいのではないかと思われる描写があります。現実味の強いスパイ小説や、この作品のずっと後に登場する軍事スリラーを読むとそう感じるのです。
また遺伝子研究やコンピューターなどに関することが描かれていて、それらについて随分と調べたのではないだろうかと感じます。

そのことからも、この小説は間違いなく力作だと思います。それを「最高傑作」という言葉で表したのかもしれません。

2014年5月20日火曜日

機を逸した後で

 争いを収めたり終わらせたりすることは難しいと思います。
 ずっと昔からそうだったと思います。
人間社会は成熟し、複雑化し続けていると言われます。それによって争いは、収めることが出来なくなり、終わらなくなり、その傾向が強まっているように見えます。
 争いが長く続くことで多くの人たちが不利益を被っているように見えます。血を流し、命を落とすこともあると見られます。
 しかしそれでも争いをやめられないと感じます。

 争いが終わるには、いくつかの形があると思います。
 誰かが完全に勝ったといえる形になることはその一つだと思います。
 昔はそのような形で争いが終わっていたような気がします。
 しかし現代では、そんな形で争いが終わることは少ないと思います。
国が関わる争いが、そんな形で終わることなど、ここ半世紀以上ないような気がします。
 その間、世界には多くの争いが起きていると思います。しかし、その中に勝者のいる戦争や紛争はなど一つもないと思います。
 世界は複雑に関与しあっており、争いに勝ち負けなどつけられなくなっていると感じます。
しかし人間は争わずにいられないように見られます。それは無益なことであり。無益なことを続けるのは愚かことだといえるかもしれません。

 争いが終わるには、妥協しあうという形もあると思います。
 ただ昔からそのような形で争いを収めることは難しかったように思われます。しかし現代は昔より、格段に難しくなっていると感じます。
「いがみあっていても、お互いにいいことはないだろうが。適当なところで折り合いをつけるべきだろ。分け合うぜ」
「なんだと! こっちが全面的に正しいんだぞ。分け合う? なにずうずうしいこと言ってんだ! そんなの横取りじゃねえか!」
「向こうは妥協してくるさ。それこそが我々の勝利だ。そうだろみんな。」
「みんなが書き込んでいるとおり、我々が全面的に正しいのだ。一歩たりとも引くことはない。少しでも引いたら、それは敗北だ!」

“戦争は感情で起きる。それは昔も今も変わらない。民衆の感情。政治家の感情。怒りや自尊心や嫌悪感などで戦争は起きるのだ”
 そう考える人もいると思います。

 争いで妥協点を見いだせないのは、感情によるところが大きいと思います。
対立を続けても、お互いが得るものより失うものが大きい、それ知りながら妥協しない人もいると思います。
このまま争いを続ければ勝てる、そう信じて妥協しない人がいるかもしれません。しかし少し冷静に考えれば、そんなことはないとわかるかもしれません。それでも争いを続けている人もいると思います。

また、民衆の要求が明確ではなければ、妥協するもしないもないと思います。民衆が何を求めればいいのか、それすらわかっていないのではないか、という印象を受けることがあります。
よくわかっていないまま、感情を発散させ、それから要求を後付しているように見られます。
大国に編入することで、何がどのように変わるのか具体的に考えていないまま騒動を起こし、それが大きくなってから、ようやく具体的な要求を無理やりひねり出したのでは、順番が違うと思います。それでは争いを助長し混乱に拍車をかけるような気がします。

政治家も、何を求めるべきなのかわかっていないように見られます。それは国内の民衆の声に押されていることもあると思います。
しかし、政治家自身が感情に左右されていると感じることあります。利害や今後の影響を冷静に検討せず、とにかくこちらに引き寄せなければ負けたような気分になるので、強硬に編入したり、裏で炊きつけたりしたように見られます。
負けたような気分なることを避けるために、戦略性のない安易なやり方で手を出したということです。
しかも具体的にどのような形に持っていくのか冷静に検討されないまま、手を出してしまったため、引くも進むも出来なくなったと見られます。冷静に見ていれば、進む道など端からないことに気づけたと思います。

民衆も大国も着地点を決めずに飛び降りたと感じます。空中で降りる場所を探しても、適当な場所を見つけるのは容易でないと思います。

対立は感情を高ぶらせ、高ぶった感情は対立を激化させるものだと思います。
激化する対立は、一気に深刻化することがあると思います。誰の手にもおえないような事態も起こり得ると思います。そうなる前に沈静化しなければならないと思います。
“親しい国”や“連合”は、混乱している国の国内対立を抑える努力をするべきだと思います。それが大国や連合の利益になると思います。対立の激化は誰もが損するだけだと思います。

その国の国内を安定させるには、周辺国と大国の協力が不可欠だったと思います。
しかし時機を逃すと、もう“親しい大国”や“連合”でも抑えられなくなると思います。手遅れということです。
民衆の感情が高ぶり、それによって対立が激化すると、“親しい国”や“連合”でも抑えが利かなくなると思います。
すでに、他国が民衆を抑えられる時点は過ぎているかもしれません。それが出来る時機を逃したということです。

もしかしたらまだ何とかなるかもしれません。しかし何事もなく選挙が行われ、それ以降の政治が安定するなどと、多くの人が考えていないと思います。

予想することが難しい状況ですが、事態は一瞬で深刻化し激化することがあると思います。まだ手遅れではなかったとしても、一瞬で“親しい大国”も“連合”も“離れた大国”も手が付けられないことになるかもしれません。

2014年5月19日月曜日

古い辞書を引きながら

最近「着地点」という言葉を見聞きすることが増えたような気がします。
 その多くが「妥協点」という意味合いで使われていると感じます。
 社会にはあらゆる対立があると思います。対立している双方が一歩も引かなければ、対立は延々と続くこともあると思います。
対立が激しくなることもあると思います。そうして血が流れることもあると思います。
 激しくなり続ける対立や、収まる方法すら見いだせない対立は、双方にとって得るものがなく、むしろ双方がひらすら失い続けている場合もあると見られます。
 
そんな事態を収める方法の一つに、対立している双方が折り合うことがあると思います。
お互いがすべての要求と通すのではなく、双方が『ここまでならひき下がってもやむなし』と妥協できる内容を受けいれることで対立を収めるということです。
多少妥協してでも、延々と対立を続けたり、制御できないほど激化したりするよりは、事態を収めたほうがいい場合が多いと思います。
その“双方が妥協できる内容”に対して「着地点」という言葉が使われていると感じます。

 ちなみに僕が使っている国語辞典には「着地点」が出ていません。「着地」はあるのですが、その項目に「点」がつく場合の意味は記されていないのです。
「①地面に着くこと。着陸。②到着地。③器械体操で、演技を終えて地面に降り立つこと。またスキーのジャンプ、陸上のハードルなどで飛躍した後に地面に足が着くこと」
「着地」の意味はそのように書かれています。
 
この国語辞典は、もう30年ほど前から使っているものです。そんな古い辞書では、言葉の意味や読みを調べるには適していないと思います。
言葉の意味合いや読み方などは、変わっていくものだと耳にします。そのため辞書の内容も、時おり改められるのだと思います。
言葉の意味や読み方が変わっているのですから、それを調べるには常に最新の辞書を使うべきだと思います。

そう思いながら、僕は古い辞書を使っています。言葉の意味や読み方は、インターネットで簡単に調べられます。ただその言葉が、古い辞書にはどのように書かれていたかということは、インターネットで見つけるのは大変だと思います。
つまり、古い辞書を使うことで言葉の変化を感じ取ることが出来るのです。

それに30年ほどまえのものでも、辞書としての実用性がすっかりなくなっているわけではありません。
意味や読み方が変わっていない言葉も数多くあります。
そしてこうして古い辞書を引くことで、あらためて思うことがあります。
「着地点」が僕の辞書にないことで、見聞きする頻度が高くなったことのは、つい最近だという気がしたのです。
そしてこの言葉が、対立を収めるために双方が妥協できる内容というような意味合いで使わるようになったのも、つい最近のことだと感じます。
 古い辞書を引かなければ、そんなことは思わなかったかもしれません。
 
「落としどころ」
 最近この言葉もよく見聞きするような気がします。僕の国語辞典には「落としどころ」もありませんでした。
 この言葉も、見聞きする頻度が増えたのは最近のだという気がします。
 意味合いとしては、「着地点」と同じだと感じます。つまり対立している事柄で、双方が妥協できる内容ということです。
上に「妥協点」と書きましたが、僕の国語辞典には「妥協点」も出ていません。「妥協」の項目に「妥協案」はあるのですが、「点」がつく場合について記されていないのです。

「着地点」も「落としどころ」も、最近使われるようになったとなると、なにか理由があるのだろうかと、なんとなく興味を引かれます。
 そこで考えてみると、交渉や対立に“地点”とか“ところ”という概念が持ち込まれるようになってきたためかもしれないと思いました。
かつてそれはなかったのだと思います。
 
対立する事柄を図式でイメージするようになっているのかもしれません。
双方の要求を両端に配置した横線を連想しているのかもしれません。また、十字の座標をイメージし、対立している人や集団などを配置するような認識をしているのかもしれません。
映像媒体によって、そのような表現を目にする機会が増えたため、人は無意識に対立の構図を図式で認識することが増え、そのため“点”や“ところ”という概念が受け入れられるようになったのかもしれません。
「着地点」や「落としどころ」という言葉を“しっくりくる”と感じ、それらの言葉が用いられることが増えたのかもしれません。

そしてなにより、社会に対立が増えていて、その多くが折り合いをつけることが難しくなっていると感じます。

それが「着地点」や「落としどころ」という言葉を耳にする機会が増えた理由の一つだという気がするのです。

2014年5月18日日曜日

インターネットが変えていくこと

 以前は、見るに値しないと思いながらも、結局は見ていることが多かったと感じます。
 また、読むに値しないと思いながらも、結局は読んでいた人が多かったと感じます。
 他の媒体がなかったことは理由の一つだと思います。
 発信する側では、それを意識していたかもしれません。また無自覚だったかもしれませんが、それにあぐらをかいていたのかもしれません。
 昔は多少批判されても発行部数が大きく落ちることはなく、視聴率が大きく落ち込むことはなく、受信料の未払いが急増することもなかったかもしれません。

 以前は反感を抱きながらも見るしかなく、また読むしかなったような気がします。そうしなければ情報を得ることが出来ず、言論や主張を知ることが出来なかったような印象があります。
それが今では、インターネットで情報も言論や主張も見聞きすることが出来るような気がします。
そうなると、見るに値しないものは見なくても済むと感じることもあると思います。読むに値しないものは読まずに済むと感じることもあると思います。
また読まなくても事足りるとなると、一度読むことをやめた人は、再び読もうという気には、なかなかならないと思います

自分の主義主張と違うから、『読むに値しない』と考える人はいると思います。
そうではなく、自分と違う主義主張こそ『読むべきだ』と考える人もいると思います。
そうしなければ視野が狭くなってしまいますし、持論の客観性を見定めることが出来なくなると考える人がいると思います。
そのような人が『読むに値しない』と考える理由は、姿勢や取り組み方に対して反撥を覚えたことがあげられると思います。
報道も表現しなければならないのですから、主義主張が滲むこともあると思います。しかし原則的に報道は中立的で客観的であるべきだと思います。言論と報道は明確にわけて表すべきで、そうしようとする意識と姿勢が必要だと思います。

ところで、主義主張には人間性や社会性が反映されるものだと思います。自分にとって有利になったり利益になったりすることが、社会全体のためになると考えることが多く、そう訴えることが多いと思います。
 そうなると、マスコミが言論として、軽減税率は社会全体のためになると主張するのは、当たり前のことだと思います。
しかし、消費税の税率があがることで新聞や雑誌が値上がりすると売れなくなくなるので困るというのは、“社会全体のため”という意味合いがあると思いますが、やはり“企業や業界のため”というほうがずっと大きいと思います。
しかもそのように主張されることは少なく、あくまで低所得者対策であり、他の国も導入しているという点を論拠にしているようです。
ただその二点は“社会全体のため”の論拠としては弱いというか、むしろ“社会全体のため”にならないような気がします。

最近は軽減税率導入の理由を発信しなくなっているようです。マスコミのやり方から、企業のやり方に移したのかもしれません。
インターネットはマスコミに対して批判的な場合が多いと聞きます。軽減税率に対する姿勢や取り組み方が批判の対象になるかもしれません。
既存メディアはインターネットの急速な普及のほかに、人口減少という問題を抱えていると思います。当面の増税による値上げを阻止することに心血を注いでいると、より本質的な対策がおろそかになるかもしれません。
“なんだかんだ言っても結局は読まれるから大丈夫さ”そういう時代は急速に終わるかもしれません。

マスコミは不利とみたら黙っていればいいかもしれませんが、政治家はそうはいかないと思います。軽減税率を導入するべきだと主張するのならば、その理由を示さなければならないと思います。
ただ近ごろは、政治家の口から軽減税率導入の理由が発せられることは少ないような気がします。
「法人税減税よりも、軽減税率を導入するべきだ」という発言があったり、財務省の試算が公表されたりしていますが、軽減税率の利点や不利点、消費税の本質などが論じられることはないような気がします。
それらが報じられることも少ないと感じます。

近年、インターネットが使われるようになったことに選挙があります。
有権者が候補者や政党に政策について問うことが出来たと思います。次の国政選挙は消費税が10%に上がった後になる可能性が高いと思います。
もし軽減税率が導入されていたら、それを進めた政治家や政党にインターネットを使って理由や根拠を質すことが出来るような気がします。
その返答に賛同できない場合、反論をインターネットで発することが出来るような気がします。
嫌がらせや誹謗中傷ではなく、軽減税率や消費税について真っ当な議論をするということです。

そして“どの政党”や“どの政治家”が“どのような根拠”で軽減税率の導入を進めたのか明らかになると思います。