2016年6月25日土曜日

国民投票は究極の民主主義ではない

意見が対立する状況で、多数派の意見を尊重するというやり方は、確かに民主的な手法だと思います。
しかし約半数の意見を取り入れ、約半数の意見を切り捨てる、それでは究極の民主主義とはいえないと思います。

意見が対立しているほど、すみやかに意思決定する必要性が高いと思います。対立する意見の人数が拮抗しているほど、話し合いで結論をだすことが難しいと思います。話し合いで結論を出せないとなると、他の意思決定手段を用いること必要になると思います。
多数決はその手段として民主的ではあると思います。

多数決の結果に差が付きにくい事案こそ、多数決という手法を求める声があがりやすいと思います。多数決では差が付きにくい、すなわち相対する意見を持つ人数が拮抗していると話し合いでは決定しにくいからです。
ただそうなると多数決では、多数派と少数派の人数差が少ないということになることが多いと思います。
そこで多くの反対意見が“多数決で決めたことである”という声によって切り捨てられることが少なからず起こり得ると思います。

しかし半数近い反対を切り捨てるのは、民主主義においる優れたやり方でもなければ、高度な手法でもないと思います。
むしろ幼稚で浅はかなやり方だという印象を受けます。
現代社会は多様化し複雑化していると思います。また人々の心理が対立を激化しやすくなっていると感じます。インターネットの普及ばかりが原因ではないと思いますが、インターネットが大衆の心理に大きな影響を及ぼしているのは確かだと思います。
それが社会の動きに現れていると思います

 持論に沿う意見ばかりインターネットから拾い出し、それを思想や主義主張に取り入れる傾向が今の社会にはあると感じます。
また持論に沿った根拠ばかりを探しだしてそれを取り入れるものの持論に反する根拠は黙殺するばかりになっていると感じます。
そうして多くの人が、持論に反する思想や主義主張に対して反対を強めるばかりになっているように見えます。
 皆がそうなることで、意見対立は激化することが多いように見えます。そして対立は多くの場合において、怒りの感情を掻き立てるものだと思います。
 また対立相手から怒りをぶつけられることで、怒りはさらに高ぶるものだと思います。
 しかし多くの人は、自分が正しいと信じ、そのために戦っているという印象を抱くものだと思います。自分が正しい側の人間であり、そのために戦っていると認識することは、心地よさを伴うものだと思います。
 多くの人は自覚がないまま、持論に固執し、持論が正義であり、持論と相対する意見を間違いだと断定し、対抗心や敵愾心を強めているように見られます。

 そんな現代社会において、大衆に二つに一つの選択をゆだねるという手段は、あまりにも単純で浅はかだと思います。それは大衆の賢愚の問題ではないと思います。
 国には必ず大衆がいると思います。また大衆は特有の傾向があると思います。大衆が存在することと、大衆の特徴を前提として論理を組み立てる必要があると思います。
 選択肢が多く、複雑では大衆を含んでいる国民投票はやりにくいと思います。
 そこで国民投票は二者択一という形にすることが多いと思います。
国民投票をするためには、二者択一にせざるを得ない状況もあると思います。
 多様化し、複雑化し、対立が激化しやすく、一つ方向に大衆が群れやすい現代社会では、二者択一の手法は、単純で浅はかな発想による手段だと思います。

 また結果的に、約半数の意見が切り捨てられることになるのでは、後の対立や混乱の火種を残すことになりかねないと思います。
なにより多くの人の意見を“少数派”として切り捨てることは、民主主義が高度に発達した社会で行うべきことではないと思います。
 
しかし大衆はもとより多くの政治家も、国民投票を“究極の民主主義”だと認識しているように見えます。
ことに欧州では、国民投票の民主性に疑問を持っている人は少ないと感じます。
近年、欧州で国民投票が行われたり、国民投票を求める声が高まったりしているように感じます。
欧州の国民には、自分たちの国は先進国であり、民主主義国家であるという意識が強いと感じることがあります。
その自意識は“究極の民主主義”だと思い込んでいる国民投票という手法を、多くの国民が求める心理的な傾向につながっているような気がします。

 社会の多様化と複雑化や、対立が激化する傾向や大衆が一方に一気になびく傾向は、これからも強まっていく可能性が高いと思います。
 国民投票という手法は、そんな社会には適さないと思います。
 より複雑な手法が必要になると思います。それでは大衆がついてこられないかもしれません。しかし民主主義をより高め、さらに成熟させるには、大衆が複雑な手段についていくようにしなければならないと思います。
 
そこで大衆を引っ張るのは政治家や有識者がやらなければならないと思います。

 しかし現在の政治家や有識者の多くは大衆と同じ次元に見えます。それでは引っ張ることはできないと思います。大衆と共に踊り、流されるばかりだと思います。