2014年4月29日火曜日

軽減税率導入意見にひそむもの


社会にはみんなのために使うお金が必要だと思います。

“みんなが使うものは、みんなで出し合ったお金で作ろう”

“生活していくためには、みんなにとって必要なものやことがある。そのために使うお金は、みんなで出し合うことにしよう”

そして、弱い人や貧しい人を支えるためのお金も、みんなが出し合っているものだと思います。

“みんなで出し合うお金”は、税金という形で集められることが多いと思います。

 

税金はみんなために、みんなが出し合うお金といえるかもしれません。

みんなのためのお金をみんなが出し合うのですから、みんなが同じ金額を出すべきだというのは自然な考え方だと思います。

しかし社会には色々な人がいると思います。お金持ちもいれば、貧しい人もいると思います。

同じ金額を出し合ったのでは、貧しい人の生活は苦しくなることもあると思います。また、貧しい人はより貧しく、豊かな人はより豊かになる一因になることもあるような気がします。

 

そのため税金は、金額で考えるのではなく、負担の重さで考えるようにしているのだと思います。

そこで、稼いだお金に応じて税金の金額を決める仕組みを取り入れているのだと思います。

また、土地や建物など価値があるものを持っている人は、その価値に応じて税金の額が決められるのだと思います。

 

こうして考えると、税金の考え方の根本には、負担の重さを同じくらいにしようというものがあるような気がします。

負担の重さが同じくらいならば、お金を沢山稼いでいるひとは、多くの税金を納めることになりますし、少ししか稼いでいない人は少ない金額になると思います。

お金持ちや多くのお金を稼いでいる人ほど、多くの税金を納める、それが税制度の基本にある理念だと思います。

 

ただ稼ぐお金は安定しにくいものだと思います。景気が良ければ多くなりますし、景気が悪ければ少なくなることが多いと思います。

しかし“みんなのために必要なお金”のなかには、景気が良かろうと悪かろうと必要になるものも少なくないと思います。

それに、景気が悪い時に景気を良くしようとして税金が使われることもあります。

そうなると、国に集まるお金が、その時々によって大きく変わったのでは、やりくりが大変だと思います。

国のお金が足りなくなることもあると思います。

その時々によって大きく変わることなく集められるお金が、国には必要だと思います。

それは安定した財源といえるかもしれません。

 

消費税は、お金持ちの人も、そうでない人も、子供も、高齢者も、同じものを買えば、同じ金額の税金を納める制度だと思います。

 みんなから同じように集めるために、安定した財源になりやすいのだと思います。

 それにしても景気が悪ければ、買い物は控えられるものだと思います。そうなると国に集まる消費税も少なくなると思います。

 つまり消費税も景気に左右されるということです。

 しかし左右される幅は大きくなりにくいように思います。

 どんなに不景気でも人は買い物をしないわけにはいかないからかもしれません。

 不景気でも多くの人は生活必需品を買わなければならず、それに税金がかかっているのだから、落ち込み幅が小さいのかもしれません。

 

 そう考えると消費税は、食料品を含めて生活必需品にこそかける税金だといえるかもしれません。食料品を含めて生活必需品の税率を低くするのなら、消費税ではなく別の税制度を導入するべきだと思います。

 お金持ちが買うものに税金をかけ、大金持ちが買うものほど、税率を高くするような税制度を導入するべきだと思います。

 それは消費税とは、理念が大きく違う制度だと思います。

 

それにしても、食料品を含めて性格必需品に税金がかけられると、貧しい人ほど負担が重くなると思います。

しかし消費税は、逆心性があるがゆえに安定した財源になるといえるような気がします。

つまり消費税は、逆進性があることを前提として導入するべき税制度だという気がします。

ただ貧しい人の税負担は軽減する必要があると思います。

しかし軽減税率は貧しい人だけが対象になるわけではないと思います。

 それでは貧しい人の負担を軽くするためやり方としては、安直な発想だという印象を受けます。

 

 しかも軽減税率は、さらなる増税の呼び水になったり、つぎの増税の布石になったりすることもあると思います。

 消費税増税の「ハードルが下がる」ということです。

 

 低所得者対策としての軽減税率は、安易な発想に基づくやり方だと感じます。

 安易な発想であるために、実行するとあらゆる混乱があるのだと思います。

 また軽減税率は、企業や業界などの利害と、それに繋がる政治家の利権のために、導入を進めようとしていると感じることもあります。

安易な発想、硬直した思考、先見性の乏しさ、利害や利権に対する執着、軽減税率を進める声のなかにはそれらが潜んでいると感じることがあります。

2014年4月28日月曜日

税金と年金


社会全体のために必要なお金があると思います。みんなのためのお金といえるかもしれません。

 みんなのためのお金ですので、みんなで出し合うべきだという考え方があると思います。

“みんな”のなかには、お金持ちもいれば、貧しい人もいるものです。同じ金額を出したら、貧しい人は大変になると思います。

 生活していけなくなる人もいると思います。

 そうなると、お金持ちのほうが多くのお金をだすべきだと考えられます。

 税金はそういうものだといえるかもしれません。

 

 以前、「大きい政府」と「小さい政府」について書いたことがあります。

「大きい政府」は、国が国民から“みんなのためのお金”を多く集めて、それをみんなのために使うといえるかもしれません。

 つまり国民は高い税金を払っているけど、そのぶん国が生活するためのお金を出すので、国民はそれについてはあまりお金を使わなくても済むのだと思います。

「小さい政府」は、『自分のことは自分で面倒見る』という観念が根元にあると感じます。国は“みんなのためのお金”を集めるけれど、それはあまり多くないので、生活のためのお金も国はあまり多くは出さないのだと感じます。

国民は“みんなのためのお金”をあまり出さなくて済むので、自分のお金を自分の生活にために使う、そういう仕組みだという気がします。

 

「大きい政府」にしろ「小さい政府」にしろ、国にはみんなのためにお金が必要だと思います。“みんなのため”のなかには“貧しい人のため”や“弱い人のため”も含まれていると思います。

「大きい政府」の場合、貧しい人や弱い人のためのお金は税金として徴収されますが、「小さい政府」ではそれがあまり多くはありません。

そこで「小さい政府」の場合、お金持ちは貧しい人や弱い人のため、またみんなのために、寄付するべきだという観念が強いような気がします。

 国に税金を徴収されるのではなく、自発的に寄付するべきだという考えだと感じます。

 

 では公的年金は誰のためだろう、そういう考えが浮かんできます。

 自分が高齢になったときのため、すなわち“自分のため”だと感じている人はいると思います。

 また、今の高齢者ため、すなわち“他者のため”だと認識している人もいると思います。

 最近は後者のほうが増えてきているかもしれません。しかし以前は、前者だと思っていた人が圧倒的に多かったような気がします。

 

それは年金制度によるところが大きいような気がします。

日本の年金制度は、今の高齢者のために現役世代からお金を集めているといえるような気がします。

現役世代は今お金を納めることで、将来高齢者になったときに年金を受け取ることが出来る仕組みだと思います。

そして、お金持ちほど多くのお金を納めているように思います。

多くのお金を納めた人は、将来多くの年金を受け取る仕組みだと思います。

それが、年金は自分の老後のために積立ていると多くの人が認識していた理由の一つなのかもしれません。

そしてそれは、年金と税金の大きな違いといえるかもしれません。

 

 税金はお金を出した人ほど、多くのことを得られることは少ないと思います。

 お金持ちほど多くの税金を納めることが多いのですが、そのお金は原則的に“みんなのため”や“貧しい人のため”や“弱い人のため”だと思います。

お金持ちのためだけに税金が使われることは少ないと思います。

 税金には、お金持ちが貧しい人や弱い人のためにお金を出す、という意味合いがあるといえるかもしれません。

今の日本の年金制度にはその意味合いはあまりないといえるかもしれません。

 

今の日本の年金制度は“他者のために”納めているのですが、そうすることで将来自分がお金を受け取れるのですから“自分のため”でもあるといえるような気がします。

今の日本の年金制度と税制度では、根っこにある考え方が大分違うと感じます。

それについて考えなければならない時かもしれません。

「年金はあくまで自助であり、互助は税金で賄うべき」なのか。それとも「年金を互助にするべき」なのか。それを考えなければならない時かもしれません。

 

 この国は急速に少子高齢化が進んだ感があります。ただそれにしても、ある朝めざめたら国が高齢化していたわけではないと思います。

 実際、少子高齢化を問題視する声は随分前から耳にしてきたような気がします。

 そして年金を含めた社会保障制度は、このままではいずれ立ち行かなくなると、何度となく見聞きしている気がします。

 社会保障制度を改革し、持続可能なものにしなければならないという声を頻繁に耳にしているような気がします。

 しかし改革が進んでいるという感じは、あまり受けていないような気がします。

 

 少し前に「税と社会保障の一体改革」や「身を切る改革」などという言葉を頻繁に目にしたり耳にしたりしました。

 税金は上がりました。それだけは実感しています。

2014年4月27日日曜日

議論の場として純粋ではない


「ねじれ国会」は、衆議院と参議院で多数派の政党が違っている状態だと思います。

そうなると衆議院を通った法案が、参議院では否決されることもあると思います。

国会が議論の場であるなら、それは悪いことではないと思います。むしろ議論の場では健全な状態にあるという見方が出来るかもしれません。

衆議院で多数を占める政党が好き放題に法案を決めてしまうことを、参議院で抑える役割を果たすこともあると思います。

 

日本ではしばらくの間「ねじれ国会」だったと思います。

議論の場としてそれは悪い状態ではないと思うのですが、あまりいい印象で語られないことが多いと思います。

国会がねじれていることは、政治の停滞と混乱の表れの一つであるともに、政治を停滞させ混乱させている理由の一つである、そのような捉え方をされることが多かったように感じます。

議論の場での状態としては悪くないのに、悪い印象が持たれる。それは国会が議論の場として純粋ではないからかもしれません。

政治家の勢力争いや権力争いや利権争いの場という意味合いが強いのかもしれません。

 

衆議院を通過した法案が参議院で通らないとなると、参議院のせいで政治が停滞し混乱していると感じられ、「参議院なんていらない」という意見があがることがあるような気がします。

しかし国会がねじれておらず、衆議院を通過した法案を参議院があっさり通したら、衆議院とおなじことを参議院でもやっているだけ、それなら「参議院なんていらない」という意見があがることがあるような気がします。

法案と通さなくても、すんなり通しても、どちらにせよ「いらない」と言われるのですから、参議院は本当に「いらない」のかもしれません。

 

国会議員は国のことについて話し合い、決定する国民の代表者といえるかもしれません。

国のことを決めるとき、国民全員、また大人の国民全員が話し合いをすることは、相当に難しいと思います。

情報技術が目覚ましく発展していますので、もしかしたら技術面では可能になるかもしれません。それもそう遠くない未来に実現できるかもしれません。

それは政治のあり様を劇的に変えてしまうかもしれません。

しかし当面は、大人の国民全員で意見を交わし、最後に多数決をとることなど出来ないと思います。

今の日本で国のことを決めるには、国民の代表者が話し合い、決を採るというやり方がとられているように思います。

国民は代表者を選ぶ権利をもっていて、その権利を行使することで、間接的に意見を国政に反映させる仕組みといえるかもしれません。

つまり政治家は国民の代表者ということです。

 

そして、政治家は地域の代表者という意味合いもあると思います。

地域のために国で決めなければならない、そういうことが色々とあるような気がします。 そこで地域で選挙をし、国民の代表者を選んでいるのだと思います。

しかし地域ごとに人口は違っています。同じ得票数でも、地域によって当選する場合もあれば、落選することもあると思います。

国会で決を採る場合、政治家はみんな同じ一票を持っています。しかしそれぞれの政治家が、選挙で得た票数には大きな違いがあると思います。

それでは有権者の考えが、国会に反映されているとはいえないかもしれません。

 

そうはいうものの、地域に人口差があることは仕方ないと思います。それを前提で制度を考えなければならないと思います。

そうすると“政治家は国民の代表者であり、地域の代表者でもある”それは元来無理な気がします。

無理ならば、国民の代表者と、地域の代表者で、分けるという考え方があるような気がします。

二院制なら、衆議院を国民の代表者、参議院を地域の代表者とし、その役割を明確に分けるという考え方もあるかもしれません。衆院選は比例代表制を主にし、参院選は小選挙区制を主にした選挙制度ということです。

地域の代表者であれば、「一票の格差」はなくしようながないと思います。つまり、参議院議員は、一票の格差を前提として選ばれた国会議員ということになります。そうなると、参議院のあり様自体を、衆議院とは大きく違ったものにするべきだと思います。

 

先日、参議院選挙の改革案がだされたようです。それに対して国会議員の間から賛否の声が上がっているようです。あくまで個人的な印象ですが、この改革案ならば数年前に出されていてもよかったような気がします。少なくても数か月前には示されていてもいいような気がします。それでも相当に遅いと感じます。もうとっくに議論されているべき内容だと感じます。

参院選と衆院選、それぞれに選挙制度改革が論じられていること自体、“いまだにその段階なのか”という印象を受けます。選挙制度改革に対する政治家の取り組み方が見て取れるような気がします。それは政治家の選挙制度改革に対する意識の低さを表しているような気がします。

2014年4月26日土曜日

人類は滅亡します


『どうしてこれほど栄えた文明が崩壊したのだろう?』

 過去の文明を扱ったテレビ番組を見たり、読み物を目にしたりしたとき、ふとそのような疑問を抱くことがあります。

『たぶん、どれほど高度な文明も永遠に続くことはないのだろう』

 そしてそのような考えが浮かんできます。

『それは歴史が証明しているといえるかもしれない。過去に栄えた文明はどれも崩壊している』

 過去に栄えたすべての文明に関する知識はありませんが、古代から現代まで続いている文明はないような気がします。

『そうなると、今の文明もいずれ滅びるのだろうか?』

 そんな問いが湧きます。

『たぶん滅びるだろう』

 そんな答えが浮かびます。

 

現代は、様々な事物が世界中で繋がっていると思います。

世界中が一つの文明といえるかもしれません。先進国、新興国、途上国と分類されることがありますが、現代社会はそれらを切り離して考えることは出来ないような気がします。

古代文明は、一定の地域で栄えたのだと思います。外との交流や交戦はあったと思いますが、現代ほど結びつきは強くなかったのではないかと思います。

現代はあらゆる物事が速く広く伝わると思います。それは、あらゆる物事を広く深く、また複雑に繋げていると思います。

 

先進国、新興国、途上国、お互いになにかしらの繋がりがあると思います。そしてそのつながりは複雑で、簡単に切り離すことは出来ないと感じます。

そう考えると、今の世界はすべての国をひっくるめて、“人類の文明”といえるかもしれません。

そうなると、“現代の文明が滅ぶ”ということは、すなわち“人類が滅ぶ”ということになるような気がします。

世界は地域によって社会も環境も違っていますので、生き延びる人間はいるかもしれません。

しかし「文明」と呼べるものは、全世界において崩壊してしまうかもしれません。

 

そんなことを考えていると、子供のころから、世界の終末について色々と見聞きしていることを思い出します。

多少なりとも科学的根拠に基づいた予想もあります。

それらを後付しているような予言のようなものもあります。

どちらかというと後者のほうが多いような気がします。神秘的なイメージがあり、それが人を引き付けるのかもしれません。

あくまでも個人的な印象ですが、予言の多くは、ことが起こった後で、当たっていると解釈と付けているように感じます。

またあくまでも個人的な考えですが、数々の予言があたっているということは、回避できなかったということであり、予言されても結局あたってしまうのならば、実利的な観点から予言を見ると、あまり役に立たないのではないのだろうかと思います。

 

そういえば少しまえのことですが、インターネットで、人類文明が滅亡するという調査を取り上げている記事を目にしました。

あまり長くない記事ですし、専門的なことはわかりませんが、過去に栄えた文明はすべて崩壊していて、それはどんな文明も永遠に続くことはない証しだということが書かれていました。

 

そして、文明が崩壊するには、大きな二つの社会状況が深くかかわっているようです。

“資源の浪費”と“貧富の差”です。

 富は一部の人間にのみ集中し、しかもその一部の人間によって資源が浪費されるそうです。

 そしてその浪費は加速するもののようです。

 大衆に富は行き渡らず、貧困層はより貧困になり続けることになるようです。

そしてそれは社会から労働力を失わせることになり、社会の崩壊につながると考えられるようです。

 

過去の文明に比べて、現代の文明は資源の消費は格段に多いと思います。

技術を進歩させることで資源消費の効率をよくしたとしても、人々が消費する資源の量が増え続けていくために、資源全体の消費量を抑えることは難しいようです。

しかし人間は“資源の浪費”と“貧富の差”を解消することは相当に難しいと考えられるようです。

つまり、人類が文明の崩壊を回避することは難しいということです。

 

インターネットの記事を読んだだけですので、僕の理解が不十分だったり、勘違いしていたりするかもしれません。

ただ予言ではなく調査や研究によって導き出された答えが「人類文明の崩壊は不可避である」というものなのかもしれません。

そして、過去の文明が崩壊した理由に、人間のおごりや油断があるようです。

『今まで大丈夫だったんだから、これからも大丈夫さ。今まで通りにしてりゃいいのさ』

 そして文明は滅びたそうです。

 次に滅びるのは“現代の文明”かもしれません。

2014年4月25日金曜日

私の正体を明かそう


男は「ふっふっふ」と小さく不敵な笑い声を発しながら首筋に手をかけ、皮膚を引きはがすかのようにすると、顔全体がめくれた。それをはぎ取ると、そこに別人の顔があった。

樹脂で精巧に作られた顔を被って変装していたのだ。

 

漫画、アニメ、ドラマ、小説、媒体によらずあらゆる物語で、そのような場面に触れているような気がします。

思い起こしてみると、物心ついたときにはそのような場面を見たり読んだりしていたような気がします。

探偵や怪盗が登場する物語における、定型的展開の一つといえるかもしれません。

 

そして子供のころから、あくまでも物語の中だけのことであって、現実には絶対にないことだと理解していました。

子供でも覆面状の変装顔を被ることで、他人に成りすますことなど出来るはずがないと思っていました。

実際に、現実として他人に変装する技術はなかったと思います。

 

それだけに物語のなかでは、意外な展開にするために、このような変装を使うことがあると思います。ただ現実を度外視しているだけに、都合よく使われることもあるような気がします。

そのため現実性の高い物語には、このような変装はあまり使われないような印象があります。

近年はこのような変装をする場面を目にすることは少ないような気がします。

 

しかし最近目にしたテレビCMで、そのような場面がありました。覆面を剥がすようにして変装を解くのです。

笑いを誘うような内容のCMですので、現実性を求めることなく、昔ながらのわかりやすい表現をしたのかもしれません。

この場面で剥がされる覆面状の顔が、成りすまされる俳優の顔にそっくりというか、本当の人間の顔のように見えます。

コンピューターで画像処理したのかな、などと思っていたのですが、実際に作られたものだと聞きました。

 

それを取り上げているテレビ番組をみたのです。

特殊メイクの技術によって作られた覆面状の顔だそうです。その技術によって作られた他の覆面状の顔は、生きている人間と見紛うほど精巧に作られていて、テレビの画面で見る限り“そっくり”というより“そのもの”という印象を受けます。

そしてそのような精巧な作りは、人間の手技による部分が大きいようです。

「特殊メイク」という言葉を耳にするようになって久しいと感じますが、その技術は日々進歩しているのだろうと思います。

 

 少し前に、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」について書いたことがあります。この作品は時間移動を扱っています。そのため何人かの役者は高校生の役と、その三十年後を演じています。

 年齢を重ねた特殊メイクをしたのですが、スクリーンやブラウン管でみる限り、本当に中年に見えたものです。

 この映画が公開されたのは、もう三十年近くまえのことです。それからも技術は高まり続けていたのだろうと思います。

 

ただ上に書いたように、なんとなく今はコンピューターによる画像処理が全盛で、特殊撮影はあまり使われなくなったという印象を持っていました。

 思い起こしてみると、もうだいぶ前からハリウッド映画に登場する怪物や妖精など想像上の生き物は、コンピューターによる画像処理で描かれているため、着ぐるみや人形などは作られないという話を耳にしたことを思い出しました。

「E・T」や「グレムリン」は、表情など生き物のように動く人形を使って撮影されたといいます。

それが画像処理技術で描かれるようになったため、もうだいぶ前からそのような人形は必要としないのだと聞いたのです。

 

その話が印象に残っていたために、なんとなく特殊メイクもコンピューターにとって代わられていると感じていたような気がします。

 しかし役者が演じる部分については、画像処理よりも特殊メイクはよるところが大きいようです。

 そうなるとちょっとした疑問が湧いてきます。スクリーンやテレビ画面を通さず、肉眼で見ても、本当の人間と見分けがつかないのだろうか、という疑問です。

 

「ミセス・ダウト」という映画では、中年男性が特殊メイクで高齢女性に成りすますという内容の物語でした。二十年ほど前の作品ですが、あの映画を観たとき『間近でみても気づかないものだろうか』と思ったものです。 

もし現実に通用するようなら、とにかくすごいと思いました。『子供ころから物語の中だけだと思っていた変装が現実になるかもしれない』と、なんとなくわくわくしたのです。

 

そしてちょっとした不安や懸念も湧きました。怪盗が誰かに成りすますことが現実におこるとは思いませんが、特殊メイクの技術が犯罪に関わることに使われたり、いかがわしいことや、薄気味悪いことに使われたりすることはないだろうか、という考えが浮かんだのです。

ただ考えてみれば、高度な技術が必要で、特殊な部材が必要なのかもしれませんし、相応にお金もかかるでしょうから、そう簡単に何にでも使えるわけではないのかもしれません。