2015年9月30日水曜日

クジラを神聖な生物に仕立て上げた罪。人類がその罰を受ける時

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2015年9月 30日「クジラを神聖な生物に仕立て上げた罪。人類がその罰を受ける時」


概要
『もう鯨食はやめてもいいんじゃないの』
『国際的に批判されるくらいなら、日本は捕鯨をやめたほうがいい』
日本でも、そういう考え方が次第に強まっている感があります。
『もし世界で一切の捕鯨が行われなくなったら』クジラの個体数が増える可能性が高いと思います。クジラが増えすぎて生息域にエサが亡くなれば、活動範囲を広げると思います。地上の動物の多くがそうしていると思います。海は一つに繋がっているため、増えすぎたクジラが、回遊している魚の多く捕食することで生態系を壊してしまう可能性があると思います。
 海は気象にも大きく関わっているため、海洋の生態系の変化は地球環境にも影響をあたえると思います。
 つまり、クジラが増えすぎることで、地球環境が変わる可能性があると思います。それは、人間の浅はかで身勝手な自己満足に対する罰だといえるかもしれません。
人間が保護したためにクジラが増えすぎてしまったなら、人間の手で減らしてやらなければならないと思います。
 しかし、いざその時になって捕鯨船や捕鯨機材や捕鯨技術がなくなっていたら、巨大な海洋生物であるクジラの間引きは相当に難しいと思います。
 クジラはコアラらのように安楽死させるわけにはいかないと思います。
慌てて捕鯨船を建造し、捕鯨技術がない状態で何とかクジラを捕獲するしかないと思います。しかしそれでクジラを獲ることが出来たとしても、クジラを食べる風習がなくなっていたら、クジラの死体は廃棄するしかないと思います。
カンガルーのように間引きした肉が食べられることはなく、ただ捨てられるしかないと思います。
適正数の捕鯨を継続していくことが、生態系をまもり、地球環境をまもることになるとに繋がると思います。 適正数の捕鯨を継続するためには、人間がクジラを活用することが必要だと思います。鯨肉を食することは、その一つだと思います。

2015年9月29日火曜日

クジラには知性があるという後付の根拠

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2015年9月 29日「クジラには知性があるという後付の根拠」


概要
『クジラには知性がある』今の若い大人たちは、この考え方が反捕鯨の最も重要な根拠だと認識していると思います。『クジラは賢い。だから殺してはならない』昔からそういう主張だったと固く信じている人が多いように感じます。
 しかし反捕鯨論を耳にするようになった当初は、『クジラが激減し絶滅の危機にある』という主張だったと思います。『クジラには知性がある』いう欧米人は極めて少なかったと思います。一人もいなかったかもしれません。『クジラを守ろう』という論旨すら強くなかったと思います。『クジラを乱獲する日本は悪い国だ』という意味合いが強かったと感じます。
あの頃、日本は経済が急成長し、世界中で存在感を強めていたと思います。
『日本叩きだ』と日本政府や捕鯨関係者は感じたように思います。『クジラが減っているなんて言いがかりだ。経済成長している日本を叩きたいだけだ。無視すればいい』。日本はそのような受け止め方をしたため、反捕鯨に対する対応があまりにも不充分で遅かったと感じます。
 日本の乱獲によってクジラの絶滅が危惧される状況だったのなら、捕獲数を減らすなど、速やかに対策を講じるべきだったと思います。それを世界に示すべきだったと思います。
日本が真摯に対応していないと見なされ、反捕鯨論は強まったと感じます。批判を強めるために『クジラには知性がある』『クジラはすばらしい生物だ』という根拠が引き出され、後付けされたのだと思います。
それは、欧米人の文明人意識を掻き立てたのだと思います。その後、捕鯨が制限されたことで絶滅の危機が解消され、それは反捕鯨論の根拠にならなくなったと思います。
しかし『クジラには知性がある』という根拠は、個体数の数に関わらず振りかざすことが出来ると思います。でもそれは、生態系や海洋環境に対する意識を置き去りにしていると思います。

2015年9月28日月曜日

東洋の国が台頭してきた時の欧米人の心理と感情と思考

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2015年9月 28日「東洋の国が台頭してきた時の欧米人の心理と感情と思考」


概要
現在、中国経済は成長に陰りが見え始めていると聞きます。それにしても近年の急速な経済成長によって、中国は国際的に存在感を強めたと思います。
また中国国民の自負心や自意識を強めたと感じます。日本も経済成長をしていたときはそうだったと思います。ただ中国の場合は、大国を志向する心理が強いように見えます。覇権主義とはいえないものの、それに近しい心理的な傾向だと思います。それにしても今の国際社会において、中国が覇権主義に走ることは、中国にとってマイナスが小さくないと、当の中国でも認識されていると思います。
 近代以降、経済に関する事柄は、外交において非常に大きな要素になっていると思います。近年の中国や、かつての日本の急速な経済成長は、外交上の武器になったと感じます。
欧米人には、『我が国は先進国である』『我々は先進国の国民である』『我々は文化的な水準が高い』という自負心や優越感を抱いていると感じます。このところの中国や、かつての日本が、経済成長を背景に国際的な存在感を強めると、無意識的に抵抗感のような感情が湧くことがあるように見られます。
 しかし上記したプライドが、その感情を抑え込むことがあると思います。
『急成長する国に悪い感情を抱く、それでは妬んでいるようだ。それは文化的な水準の高い我々がすべきことではない。東洋の国の台頭に対しても冷静に思考し、受け入れるべきだ。知性が高い我々にはそれが出来る』
欧米、殊に欧州では、そのような心理が働くことがあると思います。
経済面からすれば、経済大国となった中国と良好な関係を築くことが望ましいと思います。中国に警戒をしつつも批判は抑え、経済的な思惑から対立に至らないように言動に気をつけているように見えます。

2015年9月27日日曜日

外交と感情

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2015年9月 27日「外交と感情」


概要
外交には、一般に認識されているよりも、遙かに感情に左右されているような気がします。政治家も人間ですので、自国にしても、他国に対しても、その人なりの感情を抱いているものだと思います
 また国民の感情は、外交にとって非常に大きな要素だと思います。民主的な政治体制の国の政治家は、国民感情とかけ離れた外交をするわけにはいかなないと思います。
 中国のように権力が集中している国家でも、民衆の反政府意識が強まることには警戒しなければならないと思います。
数年前に中国と韓国の政府が反日姿勢を強めたのは、政治的な思惑が少なからず関わったと思います。当局が反日姿勢を強めたことで、国民感情も一気にそちらに振れたと感じます。国民のなかに『反日』の土壌が深かったのだと思います。
10年ほど前、日本人の中国と韓国に対する印象は、とても好意的だったと思います。それが両国の激しい反日言動をうけて大きく変わったと感じます。人間は自分を嫌っている他者を好きになれないものだと思います。
ただ最近の若い世代は変わってきているようですが、日本人は西洋人に媚び、アジア人を見下す心理的な傾向が見られると感じます。
『日本は先進国であり、アジアの国は途上国である』という観念があり、それが言動に表れていたと感じます。
 かねてから中国と韓国の国民は、『日本から見下されている』と感じ、それが不快だったのではないかと思います。
そのため経済発展をしたことで、『見返してやりたい』という感情が強く湧きあがったのだと思います。
ただ日本人は、中国や韓国のそんな感情に気づいていなかったのだと思います。中国と韓国の反日運動が高まりを受けて、ようやく『日本は、これほどまでに嫌われていたのか』と気づき、またショックを受けたのだと思います。

2015年9月26日土曜日

史上最大の同盟

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2015年9月 26日「史上最大の同盟」

概要
『もしアメリカと中国が同盟国になったら』
 現時点の状況からは『ほぼありえない』と言えると思います。 そもそも大国同士は対立するものなのかもしれません。有史以来、大国と大国は常に対立してきたような気がします。
『大国が対立するメリットは?』
『東西冷戦が生みだしたものは、大量の核兵器に他になにがある?』
インターネットやDPSは、冷戦の副産物といえるかもしれません。しかし『東西冷戦は、アメリカにとってどんなメリットがあったのですか?』『東西冷戦はソ連にどんなメリットをもたらしたのですか?』と、米ロ両国の国民に問うたら、すぐに返答できない人が少なくないと思います。
今、振り返ってみると、東西冷戦は米ソ双方にとって大したメリットはなかったように感じます。
 現在、世界の大国といえば、アメリカ、ロシア、中国を上げる人が多いと思います。ただ、この三つの大国は、いずれも安泰とはいえないと感じます。大国同士が対立してもお互いにメリットがないのであれば、確実に手に入る実利を優先し、同盟を組むほうがいいのではないだろうかと思います。
『米ロ同盟』、『ロ中同盟』、『米中同盟』、『三国による同盟』
 この四つはどれも現実的ではないと思いますが、あえて最も実現しそうなものをあげるなら、『ロ中同盟』だと思います。
また最も可能性が低いというか、難しいのは『米ロ同盟』だと思います。
『三国による同盟』は、形式的または名目上の同盟ならば、多少は可能性があると感じます。

『米中同盟』は、現実的に可能性はゼロに近いと思います。ただ三つの二国間同盟のなかでは、両国のメリットが最も大きいのは、この組み合わせだと思います。

2015年9月25日金曜日

は? 矢? それは的でしょ。で? 矢は?

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2015年9月 25日「は? 矢? それは的でしょ。で? 矢は?」


概要
「新三本の矢」は、『的』を指さしただけだと思います。しかもその『的』は、今さら大仰に指摘されなくても、ずっと前から掲げられていたものだと思います。
 つまり、多くの国民がずっと前から認識している課題を、改めて提示しただけだと思います。『課題に向けた取り組み』こそが『矢』だと思います。
『数字を示した』それが『取り組み』だと、訴えたいのかもしれません。そうだとすればその『矢』はあまりにも細く、あまりにも弱い弓で放たれたと感じます。
「GDP600兆円を目指すのは結構ですけど、一体どうやって実現させるつもりなの?」と思う国民もいると思います。
『わかりきっている課題を改めて提示する』という、ささやかなことに「新三本の矢」という謳い文句をつけて、大げさに発表したのは、「アベノミクス」の、イメージ戦略が上手くいったためだと思います。
 何事もイメージ戦略が重要なのは、確かだと思います。政治も例外ではないと思います。経済政策に「アベノミクス」という名称を付け、「三本の矢」という謳い文句を添え、その語彙を多用して印象付けたことは、イメージ戦略として一定の効果があったと思います。
 そこで再びその効果を得ようとしたのだと感じます。「新三本の矢」という謳い文句を前面に押し出すことで、経済政策を大々的に行うような印象を与える意図があったのだろうと感じます。
その発想自体、あまりにも安易だと思います。
「新三本の矢」が、本当に『矢』であったなら、二匹目のドジョウが獲れたかもしれません。
しかし『的』を『矢』であるかのように話す、そんな安直なやり方で淹れた二番煎じ茶など、国民は見向きもしないと思います。

2015年9月23日水曜日

クジラを祀り上げた文明人意識

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2015年9月 23日「クジラを祀り上げた文明人意識」


概要
日本の捕鯨によってクジラは絶滅が危惧されていると耳にしたのは、35年くらい前だったと思います。日本がクジラを乱獲し種の絶滅が危ぶまれるのなら、捕獲数を抑えるなり、一定期間捕鯨を中断するなりして、個体数の回復を図るべきだと思います。
批判に対して、当時の日本はあまりにも動きが鈍かった感があります。海洋資源の保護という観念が薄かったのかもしれません。政治的な思惑による“日本たたき”も加わって、日本の捕鯨に対する批判はどんどん強まっていったように思います。
次第に『クジラは賢い』という声が聞かれるようになってきたと思います。そして『クジラの個体数が減っている。だから捕鯨をしてはならない』という論旨が、『クジラは頭がいい。だからクジラを殺してはならない』に変わっていった感があります。
『クジラを殺すことは野蛮なことだ』『クジラは神聖な生物だ』もはやクジラの個体数や、生態系など、顧みられなくなっていると感じます。反捕鯨論は、どんどん感情的になったと思います。
現在の欧米人はクジラという生物に対してあまりにも“いいイメージ”を持っていると感じます。しかしそれは、数十年前つまり反捕鯨論が高まる以前とは、大きく違っていると思います。今では“いいイメージ”が定着してから生まれた世代も大人になり、かつてのクジラのイメージを全く知らない人も多く、『クジラは殺してはならない生物であり、クジラは食べるなどもってのほか』という観念が強く根付いているのだと思います。
 反捕鯨論が急速に感情的になったのは、文明人意識が関わっていると思います。
『文明人は、野生生物を保護するべきだという声を上げ、その活動をするべきだ』
 欧米で生まれ育った白人には、そのような観念が根付いている傾向がみられます。
しかし真の文明人ならば、自分の観念を他者に押し付けるべきではないと思います。それは野蛮なことだと思います。

2015年9月22日火曜日

ホモサピエンスの観念に基づいて

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2015年9月 22日「ホモサピエンスの観念に基づいて」


概要
人間が動物の命を奪うことは罪ではないと思います。ホモサピエンスという生物は、地球上に生まれたときから、様々な理由で動物の命を奪ってきたと思います。ホモサピエンスはそういう生態をもった生物だと思います。
人類は今も、食べるためや、毛皮をとるためや、羽毛をとるためや、作物を守るため、身を守るために、様々な生き物の命を奪っていると思います。
それに対して罪悪感を覚える人もいると思います。嫌悪感を覚える人もいると思います。動物も痛みや苦痛を感じるといいます。それは生きていくうえで必要だと思います。
しかし感覚器官もそれを伝達する仕組みも、脳の機能も、脳の大きさも、生物によって違うものだと思います。
どんなに賢い動物でも、人間が同じように考えることは不可能だと思います。また人間が他の動物と同じように感じることも不可能だと思います。
人間は、人間の想像力を働かせ、人間の観念を動物に当てはめ、動物がかわいそうだと感じるものだと思います。
それは人間本位の考え方だと思います。また人間だけは自然から超越した存在だという認識が潜んでいると思います。
ただ動物を保護し、環境を守ることは必要だと思います。ホモサピエンスが生きていける環境を維持するためです。またホモサピエンスが生きていくためには、精神面がとても重要だと思います。動物を保護することは、精神を好ましい状態にすることに貢献すると思います。
ホモサピエンスには道徳心や倫理観があると思います。それは時に動物や環境を守ることに有効に働くと思います。
『思い込みと自己満足の動物本位』ではなく、『ホモサピエンスの観念』に基づいて、動物を保護し、環境を守るべきだと思います。
 そして、それをしっかりと認識しておく必要があると思います。

2015年9月21日月曜日

シリア内戦における大国

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2015年9月 21日「シリア内戦における大国」


概要
『独裁者を倒すだけでは、民主的な政治体制にはならない』しかし中東は、民主的な政治体制を確立することが難しい風土があるように感じます。
民族や部族などの意識がつよく、そこで対立があり、また宗教や宗派でも対立もあると聞きます。対立要素が潜在的に多いといえるかもしれません。
“対立気質”が強いから、“対立要素”が多いのかもしれませんし、“対立要素”が多いから、“対立気質”が強いのかもしれません。
民主主義のやり方である話し合いと多数決は、『争いの一つの形』といえるかもしれません。つまり民主主義は『争いを行う』体制といえるかもしれません。
 独裁による政治は、強権的に争いを抑え込むことが常に行われることが多いと思います。
“対立要素”が多々あり、“対立気質”が強い人たちに、『争う体制』である民主的な政治は、“対立意識”を強めさせるのかもしれません。
『民主的な体制の確立を目指す勢力を作ることが必要だ』、内戦が起こった直後からそういわれていたと思います。それを作ろうという働きかけもあったと思います。しかしその時点ですでに戦闘行為が始まっていたと思います。そうなると政治的な勢力は、即ち武装勢力ということになると思います。
ただでさえ“対立気質”が強い風土で、武装した勢力を取りまとめることは、非常に難しいと思います。
また民主的な政治体制つくりは、市民による後押しが必要だと思います。教育を受けており、生活水準もあまり低くない市民は、民主化を進める力の一つだと思います。
しかしそのような市民が難民となってシリアから脱出していると聞きます。
民主的な政治体制を作る土台が、さらにもろくなったといえるかもしれません。
 そんななか、二つの大国の働きかけが強まっていると聞きます。シリアを舞台とした大国の対立が激しくなると、泥沼はさらに深刻になると思います。本当に収拾がつかなくなるかもしれません。

2015年9月20日日曜日

時勢とマスコミ

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2015年9月 20日「時勢とマスコミ」


概要
 小泉元首相は、『もう一期、続けて欲しい』という声もあるなか、総裁の座を降りたのだったと思います。あの時点では、まだまだ人気が高かったものの、もう一期維持することは出来ないという読みがあったのだと感じます。
そこで人気が高いうちに、首相の座から降りた方が、彼個人にとっては得策だと踏んだのだと思います。その思惑は図に当たったように見えます。陰りが見えはじめた人気は、降りたことが潔い印象を与え、持ち直した感がありました。
しかし大人気の小泉元首相の後だったので、国民の目もマスコミも安倍首相はどうしてもくすんで見えたように感じます。なにかにつけて批判された感があります。
精神面は体調に影響を及ぼすものだと思います。持病があったそうで、安倍首相は一年ほどで退陣したのだと思います。
その安倍首相が返り咲いた要因には、本人の才覚や努力があったと思います。また、早めに総理を辞めたことで地盤の痛手が小さかったこと、早めに総理を辞めたことで政権を投げ出したというイメージが薄らいでいたこと、早めに総理を辞めたことで再起をめざす意欲が再燃したこと、早めに総理を辞めたことで再起する準備期間があったこと、などが有利に働いたように見えます。
また、早めに辞めたことで芯が完全に折れていなかったのかもしれません。
それと『前回は叩きすぎた。あれでは安倍首相は実力を出させなかっただろう。もう一度やらせてみてもいいだろう』、自覚している人もいれば、自覚していない人もいたと思いますが、マスコミにそのような意識が湧いていたと感じます。
 そして派閥は力を弱めており、党内対立をさける空気があり、自民党は長いもの巻かれる議員ばかりになったことが、安倍首相の権力を強めることに利したのだと思います。

2015年9月19日土曜日

デモとインターネット選挙

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2015年9月 19日「デモとインターネット選挙」


概要
デモで政治を変えるのは大変なことだと思います。確かにデモで政治が変わることもあります。しかしデモで政治が変わると大きな混乱があり、それは国民にとってマイナスに作用することが多いと思います。
俗に「アラブの春」は、その典型だと思います。インターネットの呼びかけで集まった人たちの勢いはすさまじいものがあり、それよって独裁者が倒されたといっていいと思います。『民衆の勝利だ』と世界中が沸き上がったように思います。しかしそれで『めでたしめでたし』と言うほど、現実の政治は単純ではないと思います。
独裁者を倒すことが到達点になっていたため、いかにして民主的な政治を打ちたて、持続できる体制にするか、その点について殆ど考えていなかったという印象があります。
 ところでここ数日、日本では安保法制に反対する大規模なデモが起きています。それでも法案は成立しました。政治は変わらなかったといえると思います。しかしデモで政治を変えることは、国にとっても国民にとっても芳しいことではないと思います。そこでデモに参加した人たちは、これからはより有効な手段に移行するべきだと思います。
デモで騒いだだけで終わらせないために、政治に対して影響力がある活動に移ることが必要だと思います。
政治に対して影響力があること、それは選挙だと思います。本気で政治を変える気があるのなら、参政権を駆使するべきだと思います。
『自分一人が投票したところで、何もかわらない』という声が聞かれます。デモには参加しても、投票にはいかない人は少なくないように見えます。大勢で集まるデモに比べたら一人で投票する選挙は、政治に対して何か行動をしているという実感を得にくいのかもしれません。
 それでも時代は変わってきていると思います。インターネットによる選挙活動が認められるようになりました。投票の前の選挙活動で、インターネットを通じて大勢の人と繋がり、それが政治を変える力になるかもしれません。

2015年9月18日金曜日

なめられなくないなら、なめられない有権者になること

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2015年9月 18日「なめられなくないなら、なめられない有権者になること」


概要
『三連休を過ぎれば忘れる』『選挙の時には有権者はすっかり忘れている』政治家はそのように考えているのだろうという声があります。そして『有権者をなめている』と感じている人もいるようです。
実際選挙は、大衆のイメージによって結果が左右されるものだと思います。それは選挙に潜在している要素であり、大衆の賢愚で語ることではないと思います。
そして政治家もそれを十分に承知しているものだと思います。そのため、イメージが悪くなるような公約は堂々とは掲げないものですし、選挙が近づく前に不人気の法案を通そうとするものだと思います。
  今回の安保法制に対する批判には、『時の政権によって解釈が変わる。戦争やるのは時の政権次第』という趣旨の言葉を耳にします。
そうなると、戦争をやらないという政権を選挙で選べば、戦争はやらずに済むということになると思います。
政権は選挙で決まるのですから、『時の政権次第』は、即ち『時の有権者次第』といえるかもしれません。
 ただしそうなるには、公約を徹底的に監視することが必要だと思います。戦争をやらないと選挙期間中に明言した候補者が、当選した途端に翻すことがあるかもしれません。
 そこで有権者がやるべきことは、選挙活動期間中に候補者の公約を明確にさせることだと思います。ネットなどで、有権者が候補者に対して政策を質すことが必要だと思います。公約を明言しない候補者は、必ず落選するような選挙の雰囲気を作る必要があると思います。それは地盤を無関係にするほどの強さが必要だと思います。
そして、当選した後で公約を翻した政治家は、次の選挙で間違いなく落選するような雰囲気を作る必要があると思います。
そのような雰囲気づくりは、インターネットを使いこなせば、出来ないことはないと思います。

2015年9月16日水曜日

人間本位。動物本位ではなく

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2015年9月 16日「人間本位。動物本位ではなく」


概要
オーストラリアでコアラが増えすぎたため、一定数を安楽死させたそうです。かつてコアラは毛皮を目的として乱獲されて激減したそうです。そこで人間はコアラを保護し、今では間引きが必要になっているようです。
オーストラリアではカンガルーも、間引きが行われるそうです。その肉は食用にされると聞きます。コアラやカンガルーに限らす、特定の種の生物が増えすぎるということは、それ自体生態系の変化であり、環境に対して様々な影響を及ぼすと思います。エサとなる植物だけでなく、昆虫や微生物などあらゆる生き物が影響を受けかねないと思います。
人間が手を加えたおかげでコアラが増えすぎたのなら、人間が手を加えて減らさなければならないと思います。
人間は乱獲によって、何種類の生物を滅ぼしてきたと思います。現在人間は生物を保護する必要性を認識していると思います。間引く必要性も認識していると思います。
『一頭たりともクジラを捕獲してはならない』
それはとても極端な主張であり、論理的な根拠が乏しく、極めて感情的な訴えだと思います。しかしまるで正当な主張だと認識されていると感じます。 
 もし人間がクジラを一切取らなくなったら、個体数が増えすぎることは想像に難くないと思います。それが海洋、ひいては地球の生態系に変化をもたらすこともあり得ると思います。間引きが必要になるかもしれません。
一度保護しておきながら、その後に間引くなら、一定数を捕獲してもいいと思います。ホモサピエンスも生態系の一部であり、他の生物を捕獲することは、自然に対して健全な行為だと思います。
人間は様々な用途のために、様々な動物の命を、様々な形で奪っていると思います。それが残酷なのか残酷ではないのか、それを決めているのは人間の概念、人間の観念、人間の感覚、人間の道徳心、人間の倫理観だと思います。
 それは人間本位の考え方だと思います。動物本位ではないと思います。

2015年9月15日火曜日

我ら、先進国の文明人ですから

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2015年9月 15日「我ら、先進国の文明人ですから」


概要
『我々は先進国に暮らしている文明人であり、文化的な人間である』
欧米で生まれ育った白人の多くに、そのような認識を抱く心理的な傾向があるように感じます。それは自負心であり、優越感でもあると思います。
 民族や人種に対するプライドや優越感は、別の民族や人種を見下す心理を掻き立てるものだと思います。その心理は、差別という形で現れると思います。
ただ欧米で生まれ育った白人の多くには『文明人はかくあるべし』というイメージが根付いていると感じます。そのなかに『文明人は差別をしてはならない』という観念もあると思います。それによって差別的な意識を抑え込めることもあると思います。
また『文明人は動物や自然を保護するべし』というものがあると思います。『とにかく、自然保護の立場を示し、動物愛護をうったえる、それが文化度の高い文明人だ』
大抵の場合、その主張には論理性がとても低いと思います。考え方がイメージに左右されると感じます。
人間の感覚と観念を動物に当てはめてイメージしているため、冷静かつ論理的に主張を検証すると、非常に感情的で、論理性が極めて低いことが多いと感じます。そのような経緯で反捕鯨論は、あまりにも感情的になったのだと思います。
『地球上のクジラは一頭たりとも絶対に捕獲してはならない』すこし冷静になってみると、相当に極端な主張だと思います。むしろ生態系の破壊に繋がる思想だと思います。
 そしてこの訴えにどの程度の論理性があるか、冷静に考えると相当に低いと思います。
反捕鯨論者は、少し冷静になって、ポール・ワトソン氏の今までの声明をすべて読みえしてみるといいと思います。
 あまりにも論理性が低く、幼稚で、感情的で、思慮が極めて浅いことに、もうそろそろ気づいてもいいころだと思います。

2015年9月14日月曜日

醜態の余波の長さ

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2015年9月 14日「醜態の余波の長さ」


概要
『寄せ集めの政党には政権を任せるべきではない』
『多少強権的志向が強くても、強い首相でなければ政治が安定しない』
 前政権に対して、嫌というほどうんざりし、苛立ち、あきれはて、失望しまくったことで、多くの国民にそのような印象が強く根付いたと感じます。
国民が前政権にうんざりしていた時、次の政権を担う者として、めぼしい政治家が数人いたと思います。そのなかで一歩抜きんでることが出来たのが、今の首相だと思います。
“時勢に乗れた”という感があります。
 そして前政権による『寄り合い所帯はだめだ』『強いリーダーが必要だ』というイメージは、自民党所属議員の心理にも強く根付いたように感じます。
『政党内で対立や政争をしてはだめだ。それは政党の支持を落とすことになる。政党の支持率が落ちることは、多くの場合所属議員にとってマイナスになる。政党内で政争を起こさないためにも、強い総裁が必要だ』
 与党議員にそういう観念が強まったように見えます。そして、呆れるほど『長い物に巻かれている』のだと感じます。その点においても、今の首相は時勢が味方をしていると感じます。
強い批判があるものの、与党の支持率があまり下がらないのは、強く反対する人がいる一方、強く賛同する人もいるのだろうと思います。それと、なんとなく与党を支持している人も多いように感じます。
 前政権が国民と政治家に植え付けた、“与党内の政争に対する負のイメージ”は、一般的に認識されているよりずっと強いような気がします。
民主党のイメージが回復するには、どうしても長い時間がかかると思います。“身から出た錆”という側面もあると思いますので仕方ないと思います。
しかし、二の轍を踏みたがる政治家も少なからずいるように見えます。
そんなかで自民党だけは、民主党を半面教師にして上手くやっている感があります。

2015年9月13日日曜日

手段としての無差別テロ

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2015年9月 13日「手段としての無差別テロ」


概要
アメリカ中枢同時多発テロ以降、「テロ」という言葉が多用されるようになった感があります。それによって「テロ」という語彙の意味が、多様化したように思われます。
つまり色々な意味で言葉が使われることで、言葉の意味が広くなったと感じるのです。かねてから「テロ」は、定義が明確ではなかったことも、意味が広がった理由の一つだと思います。
定義がはっきりしていなかったため、様々な意味で「テロ」という語彙が使われ、使われることで、語彙の意味の幅が広くなったのだと思います。
そして「テロ」という言葉が、頻繁に使われるようなった要因として、アメリカ中枢同時多発テロがあると思います。
俗にいう9・11は、全世界に強い衝撃を与えた出来事だったと思います。あまりにも衝撃的だったことが、それ以降「テロ」という言葉を多用するという、社会全体の傾向に繋がっていると感じます。
マスコミでは、視聴者や購読者に対して、脅威を印象付ける意図で、「テロ」という衝撃的な表現を使うことが増えたと感じます。
また政治家は、聴衆や国民に強く訴え掛けようという意図があるときに「テロ」という語彙を用いることが多いような気がします。
 それは世界的に見られる傾向だと感じます。「暴力的」「反社会的」「反道徳的」で、「無差別性」「強行性」「犯罪性」がある行為ならば、「テロ」という言葉を用いることあるように見えます。
日本では、北朝鮮による拉致を「テロ」だという趣旨の発言を見聞きするようになった感があります。
『拉致は悪しき行為だ』ということを、強く印象付ける思惑からだと思います。ただ「テロ」には含まれないのではないという声もあるようです。

2015年9月12日土曜日

災害対策の折り合い

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2015年9月 12日「災害対策の折り合い」


概要
『自然災害に対する万全の備え』それは現実ではあり得ないような気がします。
 それは想定を上回る災害が起こる可能性が0%になることがないと思うからです。この世界に“絶対”など、ないような気がしますが、災害対策については『これで絶対に大丈夫』ということは、あり得ないと思います。
それは東日本大震災の時の、福島第一原発の事故で日本中が痛感したように思います。
 電力会社は地震に対して、何も備えていなかったわけではないと思います。しかし現実に、人類史上稀に見る大きな原発事故が起きてしまいました。
 原発に限らず自然災害の対策は、どの程度の規模を想定し、どのような優先順位で行うべきか、判断することが非常に難しいと思います。
災害対策は、結果論で語るしかないのかもしれません。災害が起きてから、『結果的に対策が不十分だった』、あるいは『結果的に対策が効果を発揮した』となるしかないということです。
そうなると、災害が起きるまで『結果的に』とはいえないことが多いと思います。
例えば、堤防が老朽化して改修が必要になった時点で、『結果的にこれほどの高さは必要ななかった』などと論じられることはあるかもしれません。
そこで予算の面からも、堤防を低くするべきだという声があがるかもしれません。
しかし、この先、それで絶対に大丈夫だと保証することが出来る人間はいないと思います。
こうして考えていると、災害対策はどこかで折り合いを付けなければならないのだと思われます。どの程度の規模の災害に備えるのか、有線順位はどうするのか、などです。
ただ、災害が発生した場所は優先的に改修されることになると思います。復旧の際に改修するのは効率的ですし、実際に災害が起きたからには、災害の規模の想定を上げて改修するのは当たり前の考え方だと思います。

2015年9月11日金曜日

経験したことが無い事態

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2015年9月 11日「経験したことがない事態」


概要
『前例がない。マニュアルがない』日本人はそのような状況での対応が苦手だという印象があります。
 多くの日本人に共通して見られる心理的な傾向に、『公的な機関の支持に従って行動する』『手引書に従って対処する』というものがあるように感じます。
 そのように行動することが適した状況では、秩序が守られ、事後の結果論でも『すぐれた対応をした』と評されることが多いと思います。
 ただそれだけに、前例も手引書も経験もない事態に直面し、自らの判断で行動しなければならない状況が苦手だという感じることがあります。
 最近は変わってきていると感じますが、物事には『公的機関が作成した手引書がある』『何かにつけて、公的機関の人間が旗を振って先導するものであり、それに従うべきであり、ついていけばいい』という観念が強いような気がするのです。
それで問題があったり、不具合がおこったりしたら、それは指示をした公的機関の責任であり、糾弾するべきだという認識が根付いていると感じます。
昨日、栃木県で鬼怒川の堤防が決壊しました。まさに経験したことがない災害だったのかもしれません。災害が増えたのか、救助体制が整ったのか、救助活動の映像を撮ることが増えたのか、そのすべてか、昨今救助の様子を映像で見る機会が各段に増えていると感じます。今回の水害でも、自衛隊、警察、海上保安庁、消防庁、各公的機関による救助の様子を目にしました。そこから受ける印象は、『優れた救助活動をしている』というものでした。
東日本大震災など、過去の災害の経験が生かされているのかもしれません。救助隊員の練度がとても高いと感じます。また前例のない事態に対応すべく、さまざまな対応策を施しているのかもしれません。