2014年7月31日木曜日

本ならではの心地よさ


“確かに読んだはずなのに”

本を読んでいると、そういうことがあります。

 長編小説を読んでいるとき、前に読んだ内容の一部が頭に残っていない時があるのです。そこで少しページを戻してみると、確かに読んでいるのです。しかし内容が頭に入っていないので、改めて読み返してから先に進めることがあります。

 

“以前読んだページの内容を覚えていない”

それは前日など、時間が経っている場合ばかりではありません。つい数分前に読んだ部分の内容が頭に入っていないこともあります。

ちょっとページから目を離したあと、どこまで読んだのかわからなくなっていることもあります。

 

それは、確かに読んでいるものの、ちゃんとした読み方をしていないのだと思います。

文章を目と頭で追っているのですが、同時に他のことを考えている時があるのです。

“読む”をいう行為をしているものの、思考が文章に集中していないという感覚です。

 また考え事をしているわけではないものの、文章に対して意識が集中しにくいときもあると思います。

 ただ“読む”という行為をしただけということです。

 

 前回読んだときから間が空いていると、記憶に残っていないこともあります。集中して読んでいたつもりでも、何日も続きを読まずにいると、内容を忘れてしまうことがあるのです。

 以前によった部分の内容がわからないと、その先を読んでも内容が理解できなかったり、物語の筋が繋がらなかったりするものです。

 そのため、ページをさかのぼって読み返すことになるのです。

 

 ただ、そうしないこともあります。読み進めることで、思い出すこともあるからです。

文章に意識が向けられていなかったにしろ、前回読んでから時間が経っているにしろ、“読んだ”ことは間違いないのです。

記憶が蘇ることも少なくないものです。集中せずに読んでいた場合でも、かすかな記憶が浮かんでくることがあります。

そのかすかな記憶と前後の文脈から、ページを戻らなくても、読み進めることで内容を理解できることもあります。

 

僕の場合、読み返すこともあれば、読み進めることもあります。

また、集中せずに読んでいると気づいたとき、すぐに読み直すこともあります。考え事をしながら読んでいることを自覚すると、読んだばかりの文章をもう一度読むのです。

そうすることで内容が頭に入っているか確認し、理解していないときは、しっかりと頭に入れるようにし、それから先を読むのです。

 

また集中して読んでいても、登場人物が多い小説や、物語の展開が複雑で長い作品は、前に書かれている内容が出てこないこともあります。

『えっと、この人誰だっけ』とか『ん? なんのこと?』と思うことがあるのです。

 その場合、ページをさかのぼりながら、その人物や出来事が書かれている部分を探して読み返し、理解するなり思い出すなりしてから、改めて読み進めることがあります。

 ただこの場合も、読み進めることで、思い出したり理解したりすることもあるので、わからないと思いながらも、戻らずに先に進めることもあります。

 

 それに、発行されてから時間が経っている本を読んでいると、読みや意味の分からない漢字や、言葉使いを目にすることがあります。

 わからない語彙や漢字があると、出来るだけその都度調べることがあります。しかし、文脈から見当をつけて、読みすすめることもあります。

 出先で読んでいるときは、手もとに辞書もパソコンもありませんので、調べようがありませんので、大抵は文脈から見当をつけて読み進めます。

ただ調べる環境があったとしても、それをせずに読み進めることがあります。

 若いころは、そうすることが多かったと思います。

 

 こうして考えていると、僕は本の読み方がその時によって違うことに改めて気づきます。

 作品や作風、読んでいる時の気分、時間の取り方など社会的環境、などによるのだと思います。

 古典的な文学作品などは、集中して読むように意識していることが多く、また内容を忘れてしまわないように、間をあけずに読むことが多いという気がします。 

一日、数十分でもいいので、とにかく毎日読むようにすると、作品の世界観というか、雰囲気が途切れないような気がして、内容が頭に残りやすいと感じられるためです。

 

 集中して読むと、ページの進み方は遅くなるものです。

 本は、読んだページと、残っているページを、手や目で感じ取ることが出来ると思います。残りのページが減っていくことに、達成感のようなものを抱きつつ、惜しいような気分にもなるものです。

 集中して読むことを心掛け、時間をかけて読むと、ページが減っていくのは遅いものです。しかし確実に進んでいることが感じられ、達成感のような心地よさは強まるような気がします。

 電子書籍には多くの利点があると思います。しかし、この心地よさは“本”ならではだと思います。

2014年7月29日火曜日

世界の警察


“世界の警察”など、はじめから存在していなかったと思います。

“世界の警察”を自認していた国はあったと思います。他の国も、その役割をある程度認めていたと思います。

 しかし実際は、“警察”ではなく、“世界の番長”だったと思います。

 

 その“世界の番長”も、今では疲れがたまっているように見られます。

 今まで散々、力を振りかざし、力を振るってきたのですから無理もないと感じます。

 ただそれ以前に、今の国際社会では“番長”が存在しにくくなっていると思います。

 

 現在は、先進国が成熟期にあり、新興国が成長期にあると感じます。それでは、ひとつかふたつの大国が突出する状況にはなりにくいと感じます。

また今の世界は、広く多様に繋がりあっているように見えます。それは利害が複雑に繋がっているといえると思います。

 利害が広く多様に繋がっているため、世界を二つにわけるような対立の構図にはなりにくいと思います。

 

 そして、人間の心理が変わってきたと感じます。自我や権益を守ることに固執するようになったと感じます。

 利益や権利を守ろうという意識が強くなり、決して妥協や譲歩をしない、そのような心理傾向が強まっていると感じるのです。

 そして、自我や権益を守るためには、他者に勝たなければならないという意識が強まっていると感じます。

 他者に勝つには、強く叩かなければならないという意識が強まっていると感じます。

 自己正当性を強く訴え、対立するものを強く攻撃するべきだと、強く考えるようになったと感じます。

 

 人間がそのような心理を強めていることが、国際社会にも反映していると感じます。

 国民の強硬志向が強まっているのですから、強硬志向の強い人物が政治家になることが増えているように見えます。

 強固志向の強い政治家が、国民の強硬論に押され、国際社会においても、強い態度を示すことが増えていると思います。

 どの国も「一歩たりとも引き下がることはない」と主張するばかりになっていると感じます。

 

 近年、国連は対立の場になっていると感じることがあります。

 世界には様々な対立があるのですから、国が集まって話し合うことが必要だと思います。国連はその場でもあると思います。

 しかし国連では、各国が決して譲らない主張をしているばかりに見えることがあります。

 そのため近年の国連は、争いを解決する場ではなく、武力のぶつけ合いを、言葉のぶつけ合いに変える場に見えることがあります。

 

“話し合いで争いを解決するとは、妥協点を見出すことである”

争っている双方が、妥協する意思をもっていなければならないと思います。

 しかし現代社会は、自分が絶対的に正しく、相手が絶対的に悪いのだから、一歩たりとも妥協してはならないという姿勢で、話し合っているものが多いと見られます。

 それでは話し合いで解決するはずはないと思います。

 現代の国際社会において、国連は対立を解決する場としての機能しなくなりつつあると感じます。

 

そして今の国際社会は、争いを終わらせることが難しくなっていると思います。

争いが長引くことで、状況が複雑になり、混乱を深めることが増えていると感じます。

血が流れつづけるばかりの地域があるような気がします。

 

そうなると必要なのは、ルールとそれに基づいた秩序つくりだと思います。

国家間や地域間の争いは、国際的な司法において裁定する仕組みが必要だと思います。

主張がぶつかるときは、武力で訴えるのではなく、法によって決するべきだと思います。

しかし現状の国際社会では、その仕組みが実質的に機能していない場合が多いと感じます。

そうなると、仕組みを変える必要があると思います。

 

 また、戦争を始めないルールや、武力衝突を終わらせるルールが必要だと思います。そうなると、武力行使に関するルールも必然的に作られると思います。

 そのルールに基づいて、戦争を起こさないようにし、紛争や内戦を終わらせるようにするべきだと思います。

 

何も調べないで書いていますので、もしかしたら関連する国際法があるのかもしれませんが、それに基づいて紛争が終わったことがあっただろうかと考えると、記憶からは何も引き出せません。仮にルールがあっても、実質的に機能していないように見えます。

 

ただ、ルールによって秩序を守るには、ルールに基づいた権限を有する機関が必要だと思います。

それは国の利害関係から、完全に独立していなければならないと思います。

権限を持つからには、特定の国に有利になってはならないと思います。

 

そうなると、ルールを定めることも、それに基く権限を有する機関を作ることも、非常に難しいと思います。

だからこそ、早く作り始めなければならないと思います。

これからの国際社会に必要なのは、“世界の番長”でも自称“世界の警察”でもなく、真の“世界の警察”だと思います。

2014年7月28日月曜日

世界の番長


“戦闘で、民間人を犠牲にしてはならない”

 人はまだ、その倫理観をなくしていないと思います。

戦闘行為によって民間人に犠牲者が出ると、国際的に非難されるからです。

 

しかしそうなると、それを利用する者がいるように見えます。

相手に非難が向けられるよう、民間人が犠牲になるように仕向けるものがいると思います。

その思惑通り、相手に対する批判が強まると、これからも同じことが行われると思います。

 しかも、次第に犠牲が大きくなっていくと思います。

民間人の犠牲が悲惨であるほど、相手に対する批判が強まるからです。

 

大人よりも子供が犠牲になったほうが、相手に対する批判は強まると思います。

犠牲になる子供の人数が多いほうが、相手に対する批判は強まると思います。

犠牲になる子供が幼いと、相手に対する批判は強まると思います。

いかにして悲惨な状況を作り出すか、武装勢力はそう考え、味方の民間人が犠牲になるように謀るようになると思います。

 

国際社会は、そんな思惑に“はまらない”ようにしなければならないと思います。マスコミが思惑に“はまる”ほど、この先、悲惨な状況が強まっていく危険性があると思います。

あの地域で武力衝突が起きる理由が、完全解決することなどないと感じることがあります。それほど根が深く、難しい問題だと思います。

 

また近年、中東地域の不安定さが強まっていると感じます。近年各地で起こった民主化運動は、現在の混乱の要因の一つだと思います。

中東はずっと前から、根が深く難しい問題を抱えていた地域だと思います。安易な発想による民主化運動で理想を実現することなど、端から難しい地域だったと思います。しかし、マスメディアも含めて、多くの人にその認識がなかったと思います。

状況は複雑になり、手の施しようがなくなったと感じます。

 

ただ過去を振り返ってみると、離れた国が関わったからといって、必ずしも状況がよくなったとは言えないような気がします。

視点の置き方にもよると思いますが、よそ者がちょっかいを出せば出すほど、状況が悪くなったと感じることもあります。

“何とかしなければならない、しかしどうしようもない”

今の世界には、そんな地域があると思います。

 

「世界の警察」

 数年前から時々見聞きする言葉です。

 今まで、大国がその役割を担っていたという趣旨の言葉を耳にすることがあります。

 そして今、大国はその役割から降りたという趣旨の言葉を目にすることがあります。

 それらの言葉は、大国の中から発せられることもありますし、他の国の中から聞こえることもあります。

 

“大国は強大な軍事力をもち、状況によってはそれを行使する。それによって世界の秩序が守られてきた”

自他ともにそれを認めていて、それを「世界の警察」という言葉で表現したのだと思います。ただ、実質的に警察の役割をしていたわけではないと思います。

自国の利益に関わるからこそ、強大な軍を動かしていたのだと思います。

それによって、世界の秩序が守られるように見えることがあったのだと思います。

 

強いものが威張っていると、他のものは下手なことは出来ないと思います。

強いものが「いざというときは、ためらわずに力を使うぞ」と言うと、他のものはその言葉を無視することは難しいと思います。

そしてその言葉通り、強いものが力を振るうこともあったと思います。

しかしそれは“警察”のやることではないと思います。

 それよりも“番長”や“ガキ大将”のやり方だという印象があります。

 

そういえば、ここしばらく「番長」や「ガキ大将」という言葉を見聞きしていないような気がします。

社会が変わったからかもしれません。

今の社会は、番長やガキ大将が存在しにくい構造になっていると感じます。

強い一人が統率するという構図になりにくいと思うのです。

“誰もが自分の権利を強く訴えるようになり、妥協や譲歩しなくなり、対立するものに強硬的な志向を強める傾向がある”

そのため、一人の強い人物に従うことなど少なくなったと感じます。

また、一人が威張ること、それ自体に反感が強まる傾向があるような気がします。

 

番長やガキ大将が存在にしくいのは、国際社会でもいえるような気がします。

先進国であれ、新興国であれ、強い軍事力をもった国が、世界に目を光らせることで、秩序が守られる。そうなりにくいと思います。

 

先進国の大国は、今まで番長をやることで、疲弊した感があります。番長の力は、かつてに比べて随分と弱まったということです。

それは“番長”であるがゆえのおごりや、過剰な自負心によるところもあると思います。

ただ、社会が変わっていく過程で、番長の力を削いだという見方も出来ると思います。

 

今の世界に“番長”が君臨することは難しいと思います。

今の世界に“番長”は必要ではないと思います。

真の“世界の警察”が必要だと思います。

2014年7月27日日曜日

狙い通りになると


 数年前に中東で立て続けに起こった民主化運動の多くは、インターネットが使われたといわれていました。

 交流サイトによって、民主化を求める運動が、急速に広がったと聞きます。

誰かの“声”を速く広く伝えることが出来るのは、インターネットという“道具”の特徴の一つだと思います。

中東の民主化運動は、その特徴を存分に生かしたといえるような気がします。

 

その特徴は人間社会にとって役立つと思います。

しかし、常にそうだとは限らないと思います。

しかし、人間はそれを認識できてないと思います。

マスコミは、それを認識できていないと思います。

中東で民主化が起きた時は特にそうだったと思います。

 

“交流サイトで大勢の人間が集まった”それ自体に喜びを感じ、満足感を得ていたように見られます。

“交流サイトで大勢の人間が集まることで政治体制を崩壊させた”と大騒ぎをしていたと感じます。

 それはそれでいいのですが、“政治体制を変える”ということに対する認識が低すぎたと感じます。

 はじめからあまり高くなかった感がありますが、“交流サイトで大勢が集まった”と大騒ぎすることで、さらに低くなったと感じます。

 

 そして既存メディアも、“交流サイトで大勢の人間が集まった”ことと“それによって政治体制を崩壊させた”ことを大きく取り上げたと思います。好意的に報じるマスコミが多かったと思います。

それは、政治体制の変化に、意識が向けられなくなることに繋がったと感じます。

 マスコミはそれを自覚していなかったと思います。ただ、自覚しながらも“うけがいい”と考えて、交流サイトを使った民主化運動を、過剰に好意的に報じた感があります。

 それが、その動きを各地で助長させたと感じます。

 

“民間人を標的にした攻撃は、非人道的である”

 人類は、今まで数え切れないほどの、争いをしてきたと思います。戦争など、武力を使うことで、多くの血を流してきたと思います。

「世界大戦」と呼ばれる戦争もあったと思います。「世界」といえるほど、大きな戦争だったのだと思います。

 

その大きな戦争では、多くの民間人を狙った攻撃が行われたと思います。

多くの民間人を殺戮することで、国を弱らせ、抵抗する軍の意識を砕こうとしたのかもしれません。

当時は、戦争とはそういうものだという認識があったのかもしれません。民間人の殺戮も軍事作戦のひとつだと考えられていたのかもしれません。

 

それが現代では、軍が民間人を狙って攻撃することは、非人道的であり、行うべきではないと、広く認識されていると感じます。

過去の戦争から得た教訓といえるかもしれません。

それでも民間人の犠牲者をなくすことは、難しいと思います。

民間人の犠牲者がでると、国際的に非難されると思います。

それが利用されるようになっていると感じます。

 

 武力を持った勢力が、民間人を盾にするようになったと見られます。

 盾にするだけでなく、相手の軍の攻撃で民間人が犠牲になるように、仕向けることもあると思います。

 民間人を犠牲にして、相手の軍に対する国際的な非難を強めようと、謀るということです。

 

 その場合、多くの民間人が犠牲になるほど、攻撃した側に対する国際的な批判が強まると思います。

 また、大きな同情を引く犠牲者を出せば、国際的な批判が大きくなりやすいと思います。

 多くの子供たちが、軍の攻撃によって犠牲になり、その様子が報じられると、世界中から非難されると思います。

 

 それは謀った側からすれば、思う壺だと思います。

 そして、また同じことが行われると思います。効果があったのなら、それを繰り返すのは当たり前のことだと思います。

これからも、子供のように多くの同情を集められるような民間人を、犠牲にしようと謀ると思います。

 

 謀った者の思惑通り、マスコミは同情心を煽るように報じると思います。謀ったものの狙い通り、攻撃をした側に批判が集まると思います。

狙い通りだから、また繰り返されると思います。さらに悲惨な状況を起こそうと狙うと思います。

 

そうすると、民間人の犠牲を出さずに攻撃することは、難しくなるばかりだと思います。

 それもあって、攻撃した側は、民間人の犠牲者が出ることを厭わなくなっていると見られます。

 相手側が民間人の犠牲者がでるように謀っていると知りながら、それでも構わずに攻撃しているときがあると見られます。

 多くの民間人が犠牲になる。それを十分に認識したうえで攻撃していると見られます。

 むしろ、民間人を狙っていると感じることも少なくないと見られます。

 

片や、民間人が犠牲になるように謀っている。

片や、民間人が犠牲になることをいとわない。

過去の戦争から得た教訓を忘れ、倫理観が崩壊していると感じます。

近い将来、軍が民間人に対して、無差別大量虐殺を行うようになるかもしれません。