2017年10月25日水曜日

野党が一本化して選挙に臨んだら、むしろ野党の議席は減ったかもしれない

『政権交代可能な受け皿を作る。そのためには野党の統一が必要だ』
10月22日に投開票された衆院選の後、そのような発言が多いようです。
個人的に、その考え方は現在の国民の意識に適していないように思います。
今、国民は二大政党制を求める意識が薄らいでいるように感じるのです。
それなのに“二大政党制をめざす”発言をされても、関心が持てないのではないかと思うのです。

ではなぜ、国民は二大政党制を求めなくなったのか。やはり上手くいかないからだと思います。
現実的に旧民主党が政権をとったことがあります。しかしその時の政治を高評価する国民は非常に少ないだろうと思います。
“あの時の政権交代は失敗だった”
 そういう考えをもつ国民や、そういう印象を抱いている国民は多いと思います。
 その失敗も大きな理由の一つが、民主党は“まとまりを欠いている政党だ”ということだと思います。
 ではなぜまとまりを欠いた政党なのか。政権を取るために寄り集まった政党だから、ということが挙げられると思います。

 二大政党制は二つの大きな政党が必要です。日本には自民党という大きな政党がずっと前からありました。それに匹敵する大きな政党をもう一つ作らなければなりません。
“大きな政党をつくる”それ自体が目的とならざるを得ないということです。
 しかしそれは本末転倒であり、議会政治の原理にそわないと思います。
 実際せっかく与党になれたのに、政党内のうちわもめばかりだったと思います。それにつき合わされた国民が得られたものは少なかったと感じます。

 民進党になってからも一致団結できない政党に見えます。
『一丸となって代表を支えて難題を乗り越える』
逆立ちしても、そんなことない政党に見えます。なにかあれば戦犯をつるし上げ、それに乗じて権力を手にしようとするだけ、多くの国民はそういうふうに見ている、あるいはそういう印象を抱いているのではないかと思います。

それは“とにかく大きな政党を作らなければ、二大政党制にはならない”という考え方の弊害といえるかもしれません。
 それを国民が感じれば、二大政党制への期待感は薄らぐと思います。実際にそうなっていると思います。

 また、現在の“一強体制”も『二大政党制をめざしたことによる弊害』という見方もできると思います。
 先日の選挙による議会勢力図はまさにそうだと思います。
 現在の選挙制度は、二大政党制になりやすいといわれています。二大政党制をめざして導入されたという意味合いがあったと思います。
 しかし実際には二大政党制にはなっていません。
 それどころか死票が多く、結果的に自民党に支持率以上の議席数を獲得したように思います。
 今の選挙制度は二大政党制どころか、一強体制を作ることに貢献していると思います。
 それは国民が二大政党制の期待を薄める理由の一つになっているように感じます。
 ただ意識のなかで二大政党制に期待してないものの、それを自覚していない人も多いように見えます。
 
“国民の意識は二大政党制を求めていない”
 では何をもとめているのか。
“政党の選択肢がもっと欲しい”
 立憲民主党が野党第一党になりましたが、希望の党の議席もそれに近かったようです。
 野党の選択肢が増えた。だから野党第一党と第二党の獲得議席は近くなったと感じるのです。
 もしこの二つの政党が、一本化して選挙に臨んでいたら、二つを合わせた議席数を確保できただろうか。
 出来たかもしれません。個人的に大きく議席を減らしたのではないかと思います。
『民主党の二の舞だ。また性懲りもなく寄り合い所帯か。どうせまた内輪もめばかりするんだろ』
そういう印象を抱く有権者が少なくないように思います。
希望の党と立件民主党が近い票数を獲得したのは、一強体制に批判的な有権者や、反自民の有権者の政党選択肢が増えたことの表れだと思います。国民は増えた選択肢から選択した結果だと思います。 
民進党の分裂は時代が求めた必然だったといえるかもしれません。
数を集めただけの政党など国民は求めていない、それが今の日本だと思います。

しかし今の選挙制度では、政党選択肢を増やすほど、大きな政党に有利になってしまうと思います。
それは民意を反映しているとは言えないと思います。
自民党も党勢が弱まっている時は、内輪もめが目立ちますし、誰か一人をつるし上げ、それによじ登って権力をつかもうとするようなことが起きてきたように見えます。
ただそれでも与党経験が豊富なこともあって、ここしばらくはあまりにもひどい状況にはなっていないと感じます。
何よりも“安倍一強”という形で安定しているため、あえてこの安定を崩すことは得策ではないと、党所属議員の多くが認識していると感じます。

しかし国民は今の“一強体制”を支持しているわけではないと思います。
保守的思考の高まりは、世界的な風潮だと感じます。安倍一強もその表れの一つといえるかもしれません。
ただ“そろそろ安倍政権に飽きてきた”といった雰囲気が漂い始めていると感じます。
それが見える形であらわれた時、内部闘争が顕在化するかもしれません。

国民は二大政党制をもとめていない。
 国民は政党選択肢が増えて欲しいと思っている。
これからの時代の民主主義に求められるのは、安定的な多党制議会だと思います。
それを実現するには。議会のあり方と選挙制度を適したものに改めること必要だと思います。
それは非常に難しいことであり、一度の改正ではなしえないだろうと思います。
思考錯誤しながら複数回の、制度変更が必要だろうと思います。
時間と手間と金を要すると思います。
時間が掛るということは、早急に手を付けなければならないということだと思います。
しかし政治家は、先々のこの国ことよりも、今の自分のことしか考えないように見えます。

そしてまた、離合集散と、一強体制の維持に興じるのではないかと思います。

2017年6月17日土曜日

安倍一強の理由

「安倍さんの他にいないからな。いろいろと問題もあるけど、今はしかたないよ」
「他にいないと考える理由を具体的に説明してください」
「だって他にいないじゃないか」
「では、首相になり得ると、あなたが考える政治家の名前を上げて、その人ではどうしてだめだと考えるのか、理由を話してください」
「……。と、とにかく他にはいないんだよ! みんなそう言っているじゃないか。マスコミもネットもみんなが言うんだからそうなんだよ!」
 少し前から「他にいない」という言葉を見聞きすることが多いと感じますが、この言葉と「誰がやっても同じさ」は“深く考えていない”、“政局や政治を理解していない”、“政治に関心がない”そういう人が、それを隠していうことが多いと感じます。
本当は良く知らないのに知ったかぶりをして、俗に言う“上から目線”で言っているように見えます。心理の動きは俗に言う“中二病”に似ているとところがあるような気がします。

“安倍一強”という言い回しを見聞きするようになって久しいと感じます。“もっと国民から強く批判されてもよさそうなものだが”と感じるような事柄が表ざたになっても、現政権の支持率はあまり下がらない、そんな傾向がずっと続いているような気がします。
 その理由には、“大衆の右翼志向の強まり”や“日本国民が政治に対して安定を求めている”などがあげられると思います。

“大衆の右翼思考の強まり”は世界的な傾向だと感じます。その要因として挙げられるのは、は社会全体が複雑化し、不安定化していることだと思います。
 国際社会も各国の国内情勢も、利害関係や対立構造が非常に複雑になっていると感じます。それは解決が見いだせない状況といえると思います。そして世界中の多くの国民がそんな状況を見聞きし、感じ取っているとように思います。それは漠とした不安にもつながっていると思います。
 そんな複雑化し不安定化している社会では、自己の生命や財産を守りたいという心理が強まることがあると思います。それは自意識、自己愛、の強まりに通じることがあると思います。
そして、自意識を守るために、自分と対立する立場にある他者に対する攻撃性を強めることがあると思います。
また自意識と自己愛の強まりや、対立する他者に対する攻撃性の高まりはインターネットの普及によるところが大きいような気がします。インターネットは多くの他者と浅く接するものだと思います。人間には声や言葉、仕草、表情など、様々なことをコミュニケーションに駆使していると思います。
しかしインターネットでは、その一部しか使うことが出来ず、それが対立や批判、非難、誹謗、中傷に繋がることが多いと思います。
そこで自分を守ろうとする心理が働き、それが自己愛や自己肯定感を強めることに繋がり、他者に対する攻撃性を強めることにつながっているように思います。
また、そのような意識は個人から自分が属する集団に拡大することがあると思います。自国や自分が属する集団に対する帰属意識は、自己に対する意識に共通するものがあると思います。自己愛、自己肯定感、自意識、それらは国に拡大して認識しやすいものだと感じます。
そして自国を第一に考えるようになっている感があります。それは世界的な風潮だと思います。
日本も例外ではなく、かねてから右翼的な言動がめだつ安倍首相に対する支持が強まり、それが持続しているように感じます。
 
また、世界的に社会が複雑化し、不安定化していると、日本国民が感じ取っており、そのため国政に対する安定志向が強まっていると感じます。
国内外に諸問題が山積している状況では、政治の安定が不可欠だと認識しており、政治が不安定化することは結局個々人が不利益を被ることになると感じているのだと思います。
日本は民主党政権時代とその前の自民党政権時代、政治家による国民と国益を無視した身勝手な政争によって非常に不安定だったと思います。
国民の生活と国益は、愚かな政治家による争いの犠牲になったと感じている国民も少なくないと思います。それがつよく国民に印象付けられたのではないかと思います。
また韓国の大統領交代劇や、英国の選挙で与党が過半数を割るなど、他国の政治が不安定になっている様子や、不安定になることが予見される状況を目にして、日本国民はより自国政治の安定を求める心理が高まっているような気がします。

今の日本国民は無意識に安定志向を強め、その意識が“他にいない”という主張の元になっているように見えます。
“下手に交代を求めれば、規模の大小はともかく、政争が起こることは間違いない。そして政治同氏の争いは、政治の混乱と不安定化をもたらすことが予想される”
そこで国民は、わざわざそんなことをしなくても、このままでいいという意識を強めているのだと思います。それを言葉にして表すと「今は安倍さんの他にいない」となるのだと思います。

ただ冒頭に書いたように「他にいない」「誰がやってもおなじ」という言葉は、無関心な人、知ったかぶりをして発することが非常に多いように感じます。
そしてこの言葉を見聞きする機会が増えているということは、大衆のなかに政治に対して無関心な人が増えているということでもあると思います。

それが安倍一強の最大の理由だと思います。

2017年5月5日金曜日

中朝貿易

仮に中国が公式に北朝鮮との貿易を制限、あるいは停止したとしても、実際に北朝鮮に物資が入らなくなることはないような気がします。
昔から、闇の商売ほど儲かるものだと思います。公に貿易が禁じられるほど、非合法の貿易を行う者は利益を得られるものだと思います。そしてそのような闇貿易には、袖の下が不可欠だと思います。中国では昔からそれが横行していたと聞きます。闇貿易によって儲かる官と民に属する者がいるかもしれません。

また北朝鮮は情報を当局が統括しているのですから、貿易が禁じられたことで国民が困窮していると対外的に流すことで、人道面で批判してくるかもしれません。北朝鮮国民に向けても、貿易が禁じられたことで物資が不足していると報じるかもしれません。そうしておきながら、闇で得た物資を上層部が独占してしまうかもしれません。

2017年4月30日日曜日

金正恩 アメリカ軍 中国

金正恩の資質は未知数だと思います。彼は資質を推し量ることがとても難しい立場にいると思います。
ただ“金正恩は経験と見識が乏しい”、それは経歴からしても北朝鮮から発信される情報からも明らかなことだと思います。また彼の立場では、彼自身が自国および国際社会の現状を正しく認識することは難しいと思います。
つまり彼は正しい見識を蓄積できない状況にあるということです。そして本人がそれを自覚しにくい状況でもあるということです。
独裁者とはえてしてそういうものだと思います。
それに彼は一国のリーダーとしてはまだ若く、若さは思考の方向性や価値観に小さからぬ影響を与えるものだと思います。
今の彼は“経験と見識に乏しい思いあがった若造である”と見ていいと思います。それ自体が現在の国際社会にとって危険因子の一つだといえるような気がします。
そして彼の資質が未知数であることは、北朝鮮の内政や朝鮮半島情勢や国際社会において不安定要因になっていると思います。


 オバマ前大統領の方針もあって、前政権時代のアメリカ軍は抑制的だったと思います。予算を削られ、活動を抑えられていたのですから、軍上層部の中には欲求不満をため込んでいた者がいたのかもしれません。
 トランプ大統領は選挙期間中から、強硬的な発言が目立ち、軍を動かすことに関しても触れていたと思います。そんな彼が大統領になったのですから、フラストレーションを抱えた軍上層部の人たちはここぞとばかりに、見える動きや、見えない働きかけをしているのかもしれません。
 トランプ大統領は軍事に関しても政治に関しても経験がないのですから、海千山千の軍上層部からすれば素人に見えるのかもしれません。
 しかも彼の言動から察して、軍人にとって好ましい考え方や価値感を持っているような気がします。
手練の軍人からすれば、トランプ大統領は“御しやすい”とみえているのかもかもしれません。“扱いやすい素人”と目されているかもしれません。
 ただし、予算が削られ、行動が抑制され、フラストレーションがたまっていたとしても、ここで本格的な戦争を始めるつもりは、軍上層部にもないと思います。
どこであれ、今、戦争をすればアメリカ合衆国もアメリカ軍も疲弊することは、欲求不満をため込んでいる軍人にもわかることだと思います。


 中国は北朝鮮と経済的な結びつきが強いと聞きます。今の中国は北朝鮮を支援しているのではなく、商売をしているということになると思います。
 商売をしているということは、お互いに何かしらの益があるものと思います。中国は北朝鮮と商売することで、儲けを得ているものと思われます。
つまり中国のなかには、北朝鮮と商売をすることで儲けている人がいるということになると思います。
そして中国で儲けるには、官を取り込むことが不可欠であり、それは当たり前のように行われてきたと聞いたことがあります。中国においてある程度の立場にある人のなかで、北朝鮮と商売することで儲かっている人がいるのかもしれません。儲けている人は、それを手放すことはしないものだと思います。
それに儲けるには、表立ったことばかりやっているわけではないと思います。

このところの北朝鮮の動きによって、中国にはどのようなメリットがあって、どのようなデメリットがあるのかを考えてみます。
デメリットの一つは“中国は北朝鮮を抑えるべきだ”とか“中国は北朝鮮を抑えられていない”などと、国際社会から批判を受けることだと思います。
ただそれは直接中国に対する批判ではなく、あくまでも北朝鮮に対する働きかけに対するものだと思います。直接批判ではないのですから、どれだけ強く批判されても、その強さには限りがあると思います。
中国のメリットとしては、自国でアメリカをけん制しなくても、北朝鮮がやってくれているということが挙げられると思います。そのメリットは小さくないと思います。
しかし、もし北朝鮮がやりすぎて、本格的な軍事衝突が起きてしまっては、中国は面倒な立場になりかねないと思います。
アメリカも、北朝鮮の危険度は高まっていると見立てているものの、戦争をしたいわけではないと思います。
そう考えると今の中国は“北朝鮮に働きかけているものの、いうことを聞かずに困っている”という姿勢を、世界に示しておけばいいような気がします。それはそれほど難しいことではないような気がします。
北朝鮮と商売をして儲けを得ること、北朝鮮が適度にアメリカを挑発してくれること、それは中国にとって好ましいことだと思います。


2017年2月18日土曜日

かつてないほど危険な状況にある

逮捕されること、それ自体が練りに練られた計画なのだと思われます。
 大韓航空機の時は、自決を仕損じたことで結果的に北朝鮮の重要な内部情報が韓国に渡ることになったとみられます。
 その轍を踏まないように周到に計画されたのが、金正男の暗殺だったと思います。下手に自決を命じると失敗した場合の面倒なことになりかねないという考えに基づいていると思います。
 実行犯が逮捕されても、北朝鮮が知られたくないことが漏れなければなんの問題もないからです。
それに実行犯が逮捕起訴されたとしても、死刑や終身刑になる可能性は小さいと思います。それならば暗殺の後の逃亡路を確保するより、逮捕させたほうが確実だと踏んだのだと思います。
 逮捕されることが目的ですから衆人環視と、多くの防犯カメラが設置された空港で、事前に練習までして、つまり人目にさらす形で暗殺を行ったものと思われます。
 実行犯が工作員であれ、素人をたぶらかして利用したのであれ、逮捕されても北朝鮮との関係が明らかにならなければ問題ないので、そのようにしてあるのだと思います。つまり実行犯は、漏らしてはならない北朝鮮の情報を知らない者である、ということです。逮捕され尋問されても、北朝鮮当局には痛手はないからです。
 今回、実行犯に求められたのは、暗殺を確実に成功させる能力と、北朝鮮が漏らしたくない情報を持っていないこと、その二つだったと思います。
 一つ目のために、十分な訓練や練習や説明をして暗殺を確実に実行できる状態にしていたと思います。 
 二つ目のために、素人を引きこんだり、工作員の身元を擬装したり、情報を持たない要員を選抜したり、暗殺を実行する訓練をしたりしたのだと思います。
要人暗殺は極めて周到な計画と入念な準備を経て実施されることが多いものだと思います。

 北朝鮮の最高指導者を世襲した金正恩は、それまで政治経験が全くなかったと思われます。それは金正男も同じですが、正恩が後継者に決まったということは、北朝鮮内部で彼を担ぎ上げる人たちがいたものと思われます。
 金正男もそうだったと思いますが、金正日に嫌われたため、ある程度早期に後継者候補から脱落したとみられています。
 金正日が死亡する前に金正恩を後継者と定めたことで、すみやかに権力移行が行われたものの、しばらくは混乱があったように思います。
 国として行うことがちぐはぐな印象があった気がするのです。硬軟両極端なことをやっているように見えました。遊園地を作ったり、ミサイルを発射するときは見世物的にしたり、そこでミサイル発射が失敗したり、といったことがあったと思います。
 それは北朝鮮内部で硬軟両端の勢力争いがあったものと思われます。その争いは、祭り上げた金正恩に取り入って、自分たちの側の主張する方向に最高指導者の意志を誘導することだったと思われます。
 当初、金正恩は強硬派と穏健派のどちらにもつかず、両方の顔を見せていた感があります。それがある時を境に、明確に強硬姿勢を取るようになったように見えます。
 
 一旦は強硬派についたように見えましたが、金正恩は自分自身についたといえるような気がします。
 経験がなく見識もなかったため当初は大人しく担ぎ上げられていたものの、権力を得たことで増長したのだと感じます。
 その増長ぶりはすさまじいものがあり、まさに暴君的であり、周囲では抑制が効かないほどになっていると感じます。
 気に入らない人物を容赦なく葬っているように見えます。

一方、金正男は見識と常識を有していたと思います。後継者候補から脱落したのは三世代世襲に反対するなどしたためだと伝えられていますが、それは見識と常識と的確な国際感覚があるからこそ言えることだと思います。
そして状況を冷静に認識できるからこそ、後継者になる意欲を持っていなかったのだと思います。後継者候補から脱落させられたというより、自ら降りたというほうがいいのかもしれません。
つまり常識と見識をもっていたために、野心を持たなかったということです。また野心を見せることが身を危険にすることを十分に認識していたと思います。
ただ、野心などない、北朝鮮の最高指導者になどなりたいとは思わないと、本人がいくら言っても邪推する者が必ずいることもわかっていたと思います。
そのため殊更、政治とは関係のない行動や、稚拙に見える行動をとっていた感があります。それは聡明さの表れといえるような気がします。
しかし常識と見識を備えた聡明な人物、それは一国のリーダーとしての素養を有した人物であると見る者たちもいたのではないかと思います。

経験も見識もなく、現状を的確に認識する能力が欠けているにも関わらず、ひたすら自意識を高め、強硬性を強めるばかりの金正恩に危機感を抱く者が、北朝鮮国内外にいるはずだと思います。
そんな金正恩体制では国が危ういと考える北朝鮮国内外の者たちが担ぐのは、金正男が最有力候補だったと思います。たとえ金正男本人にその気がなくとも、です。
そうなると、いくら野心がないことや、能力がないことを行動でしてしても、金正恩にとっては、金正男の存在自体が懸念材料になると思います。
今は野心がなくても、いつ気が変わるかもしれませんし、いずれ説得されるかもしれません。
理性的で的確な見識をもつ金正男が、その気になれば金正恩は権力の座から引きずり降ろす、金正恩はそれを恐れていたのだと思います。
今はまだそのような動きが表にでていないため、金正男は特に警戒していなかったとみられます。金正恩からすれば、今のうちに最大の懸念材料を排除しようと考えたのかもしれません。

今の北朝鮮は、金正日が死んだときよりもずっと危うい状況にあるのかもしれません。
それどころか、史上最も危険な体制にあるといえるかもしれません。
経験も見識も常識もなく、自意識過剰の認識不足で、強行一辺倒で統率力がなく、思慮の浅い横暴な素人の若造が一国のリーダーとして権力を強めているからです。
しかも対処するすべが見つけられない状況だと思われます。中国にはそんな金正恩に不快感を持つ者もいれば、そうではない者もいると思われます。

それに素人であるがゆえに、玄人が使う手が通用しないことはよくあることだと思います。

2017年2月17日金曜日

テロリストの発想をもつ人物と核兵器

現時点で人類最後の戦争における核攻撃から数十年の時間が過ぎたと思います。長い時間が流れたのですから、様々な事柄が変わったと思います。
先の大戦と比べると、現在そしてこれからの戦争の様相も大きく変わったと思います。様々な技術が生み出され軍事分野で実用されていますし、国際情勢は刻々と変化しています。
現在、そしてこれからの戦争において、核兵器は戦術的にも戦略的にも有効ではないと思います。

東西が二つに割れるという対立軸が一本だけのわかりやすい冷戦時代にくらべて、現代の国際社会は遥かに複雑になっていると思います。
利害関係は国によって異なっており、同盟国であっても、すべてにおいて賛同することはなくなっていると思います。
戦争においても非人道的な行為があれば、同盟国であっても厳しい態度に出ることは十分にありうることだと思います。

情報伝達技術が発達したことで、もし今後核攻撃が実行されたら、その非人道性が世界中に知らしめられることと思います。
核攻撃によるあまりにも大きな破壊と虐殺が、過去の二度の核攻撃の時とは比較にならないほどに早く、広く、世界の人々に知れ渡ることが考えられます。
核攻撃を行った国は、広くから強い批判にさらされると思います。

それ以前に実戦で核兵器をつかうということは、核抑止力が壊れたことを意味すると思います。核攻撃には核攻撃による報復があるということです。
それは多くの破壊と犠牲をもたらし、核戦争による人類滅亡も起こり得なくはないと思います。

ところで無人攻撃機の登場は、軍人と一般人共に、戦争に対する人々の感覚を変えた感があります。
軍人は無人機に攻撃が一定の戦果を挙げていること知ることで、一般人は遠隔操作された軍用機が爆撃や攻撃を行う映像を目にすることで、それが戦争において有効な兵器であることを思考で認識し、またそれを感じたのではないかと思います。
 
“自軍の兵士の犠牲は少なければ少ないほどいいに決まっている。しかし戦争では兵士が命を落とすことはやむを得ないことだ”
 そういうものだと感じている人が多いのではないかと思います。無人機が攻撃する様子を映像で目にし、自国の兵士は安全な場所にいて、敵を攻撃することが出来うる時代になったことを感じた人が少なくないと感じます。
 ただ遠隔操作による無人機には多くの問題点が指摘されています。

 それにしても人々は自軍の兵士の犠牲者を出さずに済むという点は、戦争において有効だと感じたり、考えたりする人は多いと思います。
 そして無人機だけでなく、近年目にする爆撃の映像は標的だけを狙っているものが多いと思います。
 それを目にすることで、人々に自軍の犠牲者を最小限に抑えるだけでなく、敵軍であっても必要以上の破壊をもたらすべきではない。まして非戦闘員の犠牲は出すべきではないという観念が強まったように感じます。
 
それは人道的な観点だけでなく、戦争における有効性という視点においても、不必要な破壊は、結局無駄なだけで、戦争における無駄にはメリットは少なく、デメリットが大きいと思います。
無差別に大量の人間を殺戮するのは、戦術的にも戦略的にも極めて無駄なことであり、多くのデメリットを抱えることになると思います。

これからの戦争は狙った目標だけを的確に破壊することが求められると思います。何事であれ無駄はないにこしたことはなく、無駄をなくそうと努めるものだと思います。
ピンポイント攻撃はまさに無駄を排した攻撃といえるかもしれません。
民間人、非戦闘員の被害は出さない方向に向かうと思います。それに自国の兵士の犠牲は極力すくなくし、敵国兵であってもむやみに殺さず、狙った艦船、狙った航空機、狙った施設など、狙いだけを的確に破壊する、それは無駄がない効率的な戦い方だと思います。

その点、核兵器は莫大な破壊をもたらすための兵器であり、ピンポイント攻撃とは対極の発想に基づいた兵器だと思います。
核兵器のあまりにも強大な破壊力は、必然的に多くの民間人を巻き込むと思います。人類史上二回行われた核攻撃は、端から非常に多くの民間人を標的にしていました。次の核攻撃は軍事関係の施設だけを狙ったとしても、核兵器の破壊力と、それに伴う放射性物質の拡散は、ほぼ間違いなく多くの民間人を犠牲にすると思います。
そして報復の核攻撃を受けたり、国際社会からの強い批判をあびたり、あらゆる制裁を受けたりすることになると思います。

これからの戦争において、核兵器は決して有効は兵器ではないと思います。しかしすでにこの世界に核兵器が存在している以上、今から核兵器を失くすことは不可能だと思います。核兵器が存在する国際社会では、核抑止力は必要だと思います。
ただ無駄に多くの核兵器を持っていても仕方ないと思います。不必要なほど多くの核兵器を抱えることは、メリットよりもデメリットのほうが大きいような気がします。

 ただし戦争ではなく、無差別のテロには十分有効になりうると思います。核兵器は無差別に多くの人間を殺戮する兵器だと思います。まさにテロの手段として核兵器の使用は有効だと思います。 
そしてテロリストが核兵器を使うとなると、脅しや抑止力として使うことよりも、実際に兵器として使うことがあり得ると思います。
 つまり、テロリストに核兵器が渡ることは、すなわち核兵器が使用されること、そうなる可能性が低くないと思われます。
 
そうなるとテロリストの手に核兵器が渡らないようにしなければならないと思います。
核兵器の管理を厳重にすることはもちろんですが、世界にある核兵器の数を減らすことも求められると思います。
数が少ない方がテロリストの手に渡りにくいからです。また数が少ない方が管理を厳重にしやすいと思います。
 
またテロリストと同じように、あるいはそれ以上に危険なのは、テロリストと同じような発想をする独裁者だと思います。
実際、テロリストのような発想をする人物が、国を支配する立場にいるように見えます。

その人物が核兵器を欲していると聞きます。そういう人物が求めているのは、戦争において有効な核兵器ではない。テロリズムの道具としての核兵器であるような気がしてなりません。危険極まりないと思います。

2017年1月15日日曜日

一体いつまで道半ばなの?

「デフレ脱却までまだ道半ばです」
もう何度も耳にしている感があります。それに随分前から耳にしているとも感じます。何度も耳にしているのは、何年間も“道半ば”であることも一因だろうと思います。
考えてみると、あまり長い間“道半ば”では“成果”とは言えないのではないかと思います。“道半ば”で止まってしまい、それ以上に進めないのでは上手く行っていないという見方をされてもしかたないと思います。
あるいは方向性を誤っているという見方もあると思います。
「アベノミクス」を名付けた政策は順調とはいえない、あるいは政策が正しくなかった、といえるかもしれません。
ただどちらも初めから想定されていた気がします。

 少し前から世界には“金融至上主義”という考え方が蔓延している感があります。
世界中で多くの人達と多くの国が、金融経済を重視し、金融経済に頼るようになったようにみえるのです。 
 そうなった要因の一つだと考えられるのは、情報技術の進歩が挙げられると思います。金融に関する作業が効率化し、即時的な対応が可能になったことで、取引が活発になったのではないかと思います。それらは新規参入のハードルを下げることになったのかもしれません。
 そんなことも相まって、金融経済の動きは速まるばかりに見えます。また極端に振られやすい傾向が強くなったと感じます。それは不透明感が強まっているということでもあると思います。即ち予測が難しく、またリスクが大きいということです。

そんな社会では“とにかく金融市場を持ち上げれば、実体経済がついてくる”という発想が通じなくなっていると感じます。その発想自体が古いといえるかもしれません。
バブルの再来を望んでいる、バブル懐古主義者の発想という印象をうけることもあります。数年まで、国民にも、政治家にも、マスコミにも“バブルの再来を望んでいる、バブル懐古主義者”が多かったような気がします。
そのためアベノミクスに対する批判的な論調が強まらなかった感があります。
“金融だけで実体経済を引き上げるには無理があるのではないか”、そういう意識を抱きながらも、“上手くいって日本の景気がよくなって欲しい”、そういう希望的観測が勝っていたように感じます。

また景気は“気”であり、たとえデマでも“良くなる”と多くの人が信じれば、実際に景気が良くなることもあり得ると思います。景気には雰囲気が非常に重要だと思います。
バブル崩壊以降、日本経済が長い間低迷していると感じるのは、そういう雰囲気が蔓延し、払拭できずにいることが、一つの要因だと思えます。
金融市場を活性化することで、景気の雰囲気をよくするということも、アベノミクスの狙いの一つではあると思います。それも必要なことであり、その点について一時、効果があったと感じます。
また「アベノミクス」という呼び名をつけて、首相がみずから積極的にアピールし、マスコミにもその語彙を多く発信させることも、景気の雰囲気をよくする手立ての一つだと思います。
アベノミクスにおいて、最も効果的だったのはこの点かもしれません。

しかしいま本当にこの国の経済発展に必要なの、成長戦略であり、金融経済ではなく、実体経済を強くすることだと思います。
そのために雇用創出と賃金水準の引き上げが求められると思います。それが個人消費を喚起し、個人消費が活性化することで、国内消費が高まり、そこで雇用が生まれ給与水準があがるという好循環が作られる可能性があるからです。
アベノミクスの初代三本の矢の一つに、成長戦略を掲げていましたが、この矢はいかにもおざなりだったと感じます。
バブル懐古者による金融至上主義的政策、それがアベノミクスであり、成長戦略は付録のような扱いだった感があります。
だからいつまで経っても「道半ばです」といわなければならないのだと思います。

 アベノミクスを発表して数年後、今から数年前になってようやく給与水準の引き上げに政府が動き出したように見えます。
 それはいいのですが、そのやり方は企業に給与を上げるように口出しすることであるように見えます。
 それでは効果は限定的になりやすいと思います。むしろ給与を上げられる企業とそうではない企業との格差、都市部と地方との格差が広がることになりかねないと思います。
構造的に給料があがるような政策が求められると思います。

今の世界経済における有効な成長戦略は、あたらしい産業を見つけることが挙げられると思います。つまりこれから発展する産業を世界に先がけて見つけ、それを世界に先だって発展させること、です。
ただしそれは極めて難しいと思います。ことに日本人には。

未来を知ることは誰にも出来ないと思います。
理論や論理的な予想が必ずしも現実になるとは限らないと思います。
これから発展する産業を見つけることは難く、また新しい産業を見つけるにはコストがかかると思います。コストがかかることは、リスクがあるということだと思います。
コストをかけて今後発展するであろうと予測し、その産業を育てるためにあらゆる資材を注ぎ込んだものの、思惑どおりにいかない可能性が常にあるものだと思います。

日本人に見られる心理的な特徴として、リスクがあることには及び腰になりやすいということがあると思います。発想が保守的になりがちで、主体性が弱い傾向がある日本人は、リスクがあると認識した瞬間、守りに入る心理が働く人が多いと感じます。
殊に一度痛い目にあった後には、それが顕著に表れることが多いと感じます。リスクを負って新しい産業を探すことに、バブル崩壊とリーマンショックを経験した今の日本人は及び腰になりがちだと感じます。

それにしても今の日本経済は「道半ば」で立ち止まっていると感じます。
経済が立ち止まって入るということは即ち停滞しているのであり、経済が停滞しているのは、政府の経済対策が効果的ではなく、手詰まり状態だという見方が出来ると思います。

そんな現状を打開するには、大胆な成長戦略が必要なのかもしれません。