2014年9月30日火曜日

国民をたぶらかすもの

『生活必需品の税率を低くする。それは立て前に過ぎない。国家戦略として、特定の業界の税負担を軽くして優遇する制度が軽減税率であり、新聞業界はその優遇される業界である』
 日本新聞販売協会は、そのような趣旨だと読み取れる主張をしています。
 そして政治家の大先生様と、この国の指導的立場にある人たちが、新聞業界を優遇することを願っていると主張しているように見られます。

“逆進性の対策”と“税負担感の軽減”と“導入している国が多い”
 軽減税率の導入理由として、主にあげられるのはこの三点です。
 どれも理由として、全く成り立たないわけではないと思います。
 しかしどれも、それほど強い根拠にはならないと思います。

“逆進性の対策”については、軽減税率では効果が小さいと思います。
 その割には、いくつかの難しい問題点があると思います。
対象品目の選定が難しいこともその一つです。そこで揉めたり、混乱があったりすることは、軽減税率を導入している国の多くで見られていることだと聞きます。
また、消費者にとって商品の価格がわかりにくくなるということもあります。
それに、商店・企業の事務処理や販売関連実務が煩雑になるということもあります。

そもそも軽減税率は、消費税という税制度の本質的な理念に矛盾すると思います。
逆進性があることを前提とした税制度であるがゆえに、安定した財源になる、それが消費税の大きな利点の一つだと思います。
そのため低所得者の税負担の軽減は必要だと思いますが、軽減税率はあまにも安直な発想だと感じられます。

それなのに軽減税率を導入している国が多いのは、冒頭に書いたことが理由だと思います。
つまり“生活必需品の税率を低くする”それは建て前にすぎず、軽減税率の実態はマスコミ対策ということです。増税に対する批判、政府に対する批判、などを抑えることになるからだと思います。
 それは公然たる認識だと感じます。
 しかし誰もそれを口に出さなかったと感じます。

 口に出したとしても、マスコミが発信しなければ広がりません。
 それに有名な有識者は何かとマスコミと繋がりがあるでしょうし、出版物を出している人も多いでしょうから、「軽減税率が逆進性対策だというのは建て前にすぎず、本当の導入理由はマスコミを優遇するためだ」と声を出すわけにはいかないと思います。
 マスコミから有識者に対して、そのような発言をしないように要請することもあると思います。
仮に良識ある有識者が発言したとしても、マスコミは発信しないと思います。
そのため軽減税率の問題点を指摘する場合、対象品目選定の難しさや、それによる混乱ばかりが取り上げられるのだと思います。

 ただ、政治家にも国民にもマスコミ対策は必要だという認識があると思います。
『新聞業界を優遇するのが、軽減税率の本当の理由だって? そんなことはみんなとっくにわかっているさ。わかっているけど黙っているのさ。マスコミ対策は必要だからね。まあ仕方ないんじゃないの』
 多くの人にそんな意識があると感じます。
 そのため多くの国が軽減税率を導入し、そのほとんどが新聞を対象にしているのだと思います。
 そして軽減税率は一度導入してしまうと廃止することが非常に難しいこともあって、ずっと続けられているのだと思います。
 
 しかし特定の業界を優遇する税制度は、国民にとって“いいこと”ではないと思います。
 また情報伝達法は、大きく変貌していると思います。それは新聞のみならず、マスコミのあり方に対して、直接的に大きな影響を及ぼしていると思います。
 新聞がマスコミのなかでも大きな役割を果たしていた時代の発想である軽減税率など、これからの社会にはあわなくなるばかりだと思います。
そんな軽減税率を、これから初めて導入するべきではないと思います。

 また税金全体として見れば、軽減税率は国民の税負担の軽減にはならないと思います。
 軽減税率を導入すると、国の税収が低くなります。
 ではその財源をどうするのかという話になります。
 税以外でその財源が捻出できるのではあれば、消費税の税率の上げ幅を小さくすればいいと思います。
 財源がないとなると、結局、税金として国民から集めるしかないと思います。
 つまり軽減税率と導入しても、国民が納める税金の額が安くなるわけではないと思います。

 公明党は消費税の税率を10%に引き上がる際「国民の理解を得るために軽減税率の導入をお願いしたい」と言っているそうです。
 公明党は軽減税率を導入したほうが、増税に対する理解が得られると認識しているようです。

少し前に公明党は、「軽減税率を導入するには、国民に丁寧に説明して理解を得る必要がある」という趣旨の発言をしていたと思います。
それは理解を得なければ、軽減税率を導入することが難しいという意味に聞こえます。
そうなると、増税の理解を得るために軽減税率が必要で、軽減税率を導入するために国民の理解が必要で、国民の理解を得るために丁寧な説明が必要だ、ということになると思います。

 しかし軽減税率を導入しても、国民から集める税の額を低くするわけではないと思います。つまり税金の負担が軽くなるわけではないということです。
 そうなると、“軽減税率の導入で、国民から増税の理解を得る”ということは、国民をたぶらかしていると感じることがあります。
 
また公明党が、軽減税率導入の理解が得られるように丁寧に説明している意見を、今のところ僕は見聞きしていません。

軽減税率に関しては、“公明党は国民をたぶらかす政党である”といえるかもしれません。

2014年9月29日月曜日

都市を消し去るほどの力と速さ

“わずか一昼夜で、一つの都市が完全に消滅した”
 こうして書くと、SF小説に一節のようです。そんなことが現実に起こり得るとは考えにくいと思います。
 しかしかつて実際に起こったことだと考えられています。
 イタリアの古代都市ポンペイです。
 
ポンペイの街から数キロの位置にビスビオ火山があります。その噴火により大量の火山灰がポンペイに降り注ぎ、都市は一夜にして壊滅状態になったといわれています。
そして火砕流が発生し、あったという間に街を飲み込んだそうです。
火砕流の速度は時速100kmほどだったと聞きます。
その速さでは、ポンペイで暮らしていた多くの人は、なすすべがなかったのではないかと思います。
 そしてポンペイの街は、完全に埋まってしまったそうです。
 
 それから1000年以上という長い年月の後に、ポンペイは発掘されました。
 発掘の際、地面に複雑な形状の空洞が、いくつも見つかったそうです。
 そこでその空洞に石膏を流し込み、固まったあと周囲の土を取り除くと、そこには人間の体の形があったといわれています。
 
 つまり人間が埋まっていたということです。一瞬にして火砕流に飲み込まれた人たちです。
その遺体は長い年月によって自然分解されたため、人間の形の空洞が出来たようです。
体は完全に朽ち果てたものの、その形だけは千数百年後まで残ったといえるかもしれません
その人の形から、本当に短い時間で町全体が飲み込まれたことが窺えます。
それに、まさになすすべがなかった様子が見て取れます。
火山という自然災害の圧倒的な破壊力やその怖さが発散されているような気がします。
破壊力が強いというだけでも恐怖ですが、それを防ぐすべがないことが怖さを何倍にも増幅していると感じられます。

この世界には、あらゆる自然災害が起こり得ると思います。
そして実際に人類は多くの自然災害に見舞われてきただろうと思います。
それにしても、都市が一つ消えてなくなるような災害はそう多くはないような気がします。
火山による災害は、そのようなことが起こり得るのだと思います。

一昨日、御嶽山が噴火し、人的被害が出ています。
多くの登山者がいたことからも、予測できない噴火だったのだろうと思います。
登山者は、予測しておらず経験したこともない事態に直面したのだと思います。
自然災害とは、多くの場合そうだと思いますが、登山をしている最中にその山が噴火したとなると、とるべき行動も、とられる行動も限られると思います。
危険が迫っていると感じながら、出来ることが限られている状況は、言いようのない恐怖に襲われることもあると思います。

多くの自然災害は予測が難しいものだと思います。
現在、台風や大雨はある程度予測が出来ていると思います。それによって被害を未然に防げたことも多いと思います。
台風や大雨の予想は、多くの人が感じている以上に、その被害を少なくすることに役立っているのかもしれません。
そのようなことは、なかなか気づかないものだと思います。

ただ予想はあくまでも予想であり、絶対に当たるとは言えないと思います。
また、予想の範囲は広くならざるを得ないと思います。局地的な気象状況を予想することは難しいと思います。
しかし局地的な気象状況によって、災害がおこることもあると思います。竜巻などは、その典型といえるかもしれません。

そして、雨が降ることは予想できても、それがどんな影響を及ぼし、どんな災害に結びつくのか、実際に起こってみるまで思いもしないこともあると思います。
過去に大雨で氾濫したことがある川なら、警戒することも出来ると思います。事前に非難することも出来ると思います。
しかし、かつて大雨が降ったときにはなにも異常がなかった斜面が、崩れることもあると思います。
局地的な大雨の降り方や、降った場所の違いなどによって、災害の起きる場所や、有様が違ってくることがあると思います。

ただそれにしても、日常の生活圏で起こる災害に対しては、物質的な備えも、心構えも、ある程度はしておけるような気がします。
近年、自然災害が増えていると感じている人も多いのではないかと思います。備えや心構えをしている人も、かつてより増えているのではないかと思います。
しかし登山をしている最中、災害に見舞われることに備えや心構えをしている人は少ないと思います。
ましてや、いざという時の行動が限られると思います。

現在、御嶽山噴火の対策に関わっている人は、色々と大変だと思います。救助活動をされている方は、とても苦労されていると思います。

被害にあわれた方が、長い間、埋まったままにならないように努力されていることと思います。

2014年9月28日日曜日

御嶽山

 日本には火山が多いと聞きます。
 学校の授業で習った覚えがあります。また情報番組や特集記事などで目にすることも、しばしばです。「火山列島」とか「火山大国」などという言葉を耳にすることもあります。
火山が多いのですから、火山による災害が度々起きています。その都度、報道を見聞きします。

昨日、長野県と岐阜県の県境にある御嶽山が噴火しました。
これを書いている時点では、複数の人が怪我をされているようです。また山小屋などに避難して下山できずにいる方も大勢いるそうですし、火山灰に埋まったままだと思われる方も何人かいるようだと聞きます。
これまでに伝えられる情報だけでも、多数の人的被害が出ていることが窺えます。深刻な自然災害が起きていると感じます。

過去に報じられた火山噴火の映像の中には、記憶に残っているものがいくつもあります。
 その映像に衝撃を受けたのだと思います。また過去の出来事を振り返る番組や、火山や災害を取り上げた特集などで、何度も目にしているため自然に記憶に刻まれているのだろうと思います。

 それにしても今回の御嶽山の噴火の映像は、これまでに目にしたものは明らかな違いがあるように感じます
 どのような災害であっても、災害は、その場、その時によって様々なあり様を示すものだと思います。
 災害の映像も、すべて違っているものだと思います。それにしても今回の御嶽山の噴火の映像には、今まで目にしたことがないと感じることがあります。
それは多くの人間が映っていることです。

昨日の御嶽山には、大勢の人が登山をしていたそうです。300人以上だと報道で耳にしました。
例年多くの登山者が訪れるのだろうと思います。昨日もそうだったのだろうと思います。僕は登山をしませんが、御嶽山という名前は耳にしたことがあるような気がします。登山をする人にはよく知られた山なのかもしれません。
昨日も多くの人が、登山を楽しんでいたのではないかと思います。
その多くが、おそらくほぼ全員が、まさか御嶽山が噴火するとは、思ってもみなかったのではないかと思います。

山を登っていた人だけでなく、山小屋で働いている人も、研究や観測している人も、麓に近い町で暮らしている人も、昨日御嶽山が噴火するなど、頭の片隅にもなかった人がほとんどではないかと思います。
それが昨日、大きな噴火をしたのだと思います。
火山は観測者も近隣住民も予兆や前兆を捉えられないほど、いきなり大きな噴火を起こすことがある。火山はそのように噴火し得るものである。それを知らしめられた感があります。

『まさか今、この山が噴火するなんて』
 日本は火山が多いのですから、これからもそんなことが起きるかもしれません。
 そんなことを考えていると、富士山が思い浮かびました。
 世界遺産に登録されたことからも、少し前には富士山があらゆる媒体で盛んに取り上げられていた気がします。
 そのなかには、富士山の火山活動に関するものがいくつかあったと思います。

 日本にある火山の中でも富士山は、多くの人によって観測や研究されているのではないかと思います。
 専門的なことはわかりませんし、特に調べていませんが、耳に入ってくる話によると、すぐに富士山が噴火する可能性は低いようです。
 ただそれだけに、もし噴火したら大変なことになりそうな気がします。
今年はすでに富士山を登る期間が終わっているようですが、もし来年たくさんの人が登っているまさにその時、今の御嶽山のような噴火が起きたらと想像すると、大変な被害が出そうな気がします。

御嶽山の噴火では、登山していた方が撮影していた映像が報道で流されています。
それを見ると、はじめは驚き戸惑っているように見えます。おそらく多くの登山者は経験したことがない状況だと思いますので、無理もない気がします。
それでもすぐに深刻な事態であると察し、そこで判断を迫られている様子がうかがえます。
避難することを判断したように見えますが、山中では行動の選択肢がそう多くはないと思います。逃げたくても、逃げようがないという状況だった人も多かったのではないかと思います。

そしてあっという間に火山灰が降り注いできたように見えます。
熱風を浴びたという声も聞かれます。逃げなければならないと思いながらも、逃げようがなく、一瞬後には火山灰が降ってくるような状況では、強い恐怖心があったのではないかと思います。
まったく予測しておらず、一度も経験したことがなく、また対処するすべが限られている、そんな事態に直面した人も多いのではないかと思います。
そんなどうしようもないような状況下で、被害を被った人がいるのではないかと思います。


今後どうすればいいのか、すぐには思い浮かびません。ただ、おそらく色々とするべきことがあるのだろうと思います。

2014年9月27日土曜日

市民が求めたこと

「この事故は危険運転致死傷罪を適用するべきです」
「この事故が適用されるように危険運転致死傷罪を改正するべきです」

 個人的に危険運転致死傷罪には、色々な問題があるように感じています。
 それは法律と市民感覚との“ずれ”が原因の一つだという気がします。
 その“ずれ”には「危険運転致死傷罪」「過失運転致死傷罪」という呼び名の印象にもあるような気がします。
「危険運転」と「過失運転」、この言葉から受ける印象は、大きく違うと思います。

 危険運転致死傷罪は、悪質な運転によって重大な事故を起こした人を厳しく罰して欲しいという市民の声を受けて作られた法だと思います。
 しかし危険運転致死傷罪を作ってみたものの、“極めて悪質で、あまりにも危険”な運転だと感じられても適用されず、疑問の声が発せられることが、何度もあるような気がします。
遺族が死刑に値すると感じるほど、極めて悪質で、あまりにも危険な運転にも、危険運転致死傷罪が適用されないこともあると聞きます。

〈無免許で一晩中運転した後、居眠り運転をして人命を奪った事故〉
〈無免許で飲酒運転し、一方通行を逆走して通行人をはねて命を奪った後、無灯火で逃走した事故〉
市民感覚というか社会通念上“極めて悪質で、あまりにも危険”な運転だと思います。
しかしどちらも事故も、危険運転致死傷罪では起訴されなかったと聞きます。

危険運転致死傷罪では、自動車を運転することが出来るか、出来ないかが問題なのであって、無免許の有無で適用されるわけではないといいます。
つまり免許がなくても、運転しいていたなら適用されないのだと思います。
運転することが出来ない人が運転するのは、極めて危険だと思いますので厳しく罰するべきだと思います。
ただ、自動車を運転する技量を一切持っていない人が、自動車を運転して事故を起こすことは非常に稀だと思います。
それに運転する技量がないとなると、「危険運転」以前の話だという印象を受けます。

また、“飲酒によって運転が困難な状態”だったことを証明できなければ、危険運転致死傷罪は適用されなかったようです。
事故を起こすのですから、それまで運転している場合がほとんどだと思います。事故の前後、実際に運転しているとなると、“運転が困難な状態”とはいえないため、危険運転致死傷罪は適用されなかったそうです。
運転できないほど酩酊しているのに運転することは非常に危険だと思います。
しかし、運転できないほど酔っぱらった状態で運転して事故を起こすことは、稀だと思います。

そう考えると、せっかく法を作っても、実際にその法が使われることは少ないだろうと思います。
せっかく法を作ったのに使われないのでは、何のために法律を作ったのか、わからないような気もします。
多くの人がそう感じたのだと思います。
危険運転致死傷罪が適用されないことに関して、理由や問題点も指摘されていたと思います。
そのような声に応じる形で法律が改正され、自動車運転死傷処罰法が作られたのだと思います。
そのなかに危険運転致死傷罪と過失運転致死傷罪があるという形になったのだと思います。

この改正で、上に書いた二つの事故に危険運転致死傷罪が適用されるだろうか、と考えてみます。
無免許で一晩中走りまわった後で人をはねた事故には、改正された後の危険運転致死傷罪でも適用される可能性は高くないような気がします。

ただアルコールの影響については改正されたと聞きます。
正常な運転に支障が出るおそれがある状態で自動車を運転した場合、危険運転致死罪が適用されるようになったようです。
また一方通行の逆走も追加されたようです。
そうなると、改正前は危険運転致死傷罪が適用されなかったような事故も、今後はこの法律で起訴されることもあると思います。

しかし今でも、危険運転致死傷罪が適用されず、それを求める声が聞かれます。
問題点が指摘され、法律が変わったはずですが、それでも市民から改正前と同じ声が聞かれているような気がします。
そうなると、やはり市民感覚と法律に“ずれ”があるように感じられます。

処罰感情は被害者との関係性など、個人個人によって違うと思います。
また大衆の処罰感情は、被害者が誰かによって違うものだと思います。
しかし事故の態様や、事故を起こした者の落ち度は、被害者が誰だろうと変わらない場合もあると思います。
重い罰を科す法は慎重に用いるべきだと思います。

それにしても市民の求めによって危険運転致死傷罪が作られたのだと思います。
また市民の求めによって改正され、自動車運転致死処罰法が作られたのだと思います。
しかし今でも市民の声が聞かれています。

“市民が求めているのはそういうことじゃない”ということになるような気がします。

2014年9月25日木曜日

不満や批判も多々あるけど、支持率は高くしておいてあげよう。そうしないと、またこの国は政治家に足を引っ張られる

「いずれ消費税を上げる必要がある。しかし今はだめだ」
 消費税の税率を引き上げる法律を審議している時にも、8%にあげることを“私が決断する”前にも、10%にあげることを“私が決断する”前である今も、そういう意見があったと思います。
 その意見には、もっともな根拠があると思います。

 ただやはり、論理的な弱さがあることは否めないと感じます。
「いつかやらなければならない。でも今やるべきではない」という意見を発する場合、“ではいつ、どのようにしてやるのか”を合わせて述べないと、片手落ちというか、無責任というか、安易な意見だと受け取らざるを得ないからです。
「今はだめだ」というものの、「ではいつやるか」という具体的な話は、消費税を上げる法案が審議されている時も、8%にあげる前も、10%に上げる前である今も、僕は一度も見聞きしていない気がします。

 消費税10%に上がることを先送りするべきだと述べる場合、先送りした後、いつどのような形であげるのか、出来るだけ具体的な案を合わせて提示するべきだと思います。
 ただそれは難しいと思います。

「今はだめだ」という根拠は、現状を分析して論じられることが多いと思います。
現状を分析した意見に説得力を持たせることは出来ると思います。
しかし「ではいつかやるか」という根拠は、楽観的な予測を基にせざるを得ないと思います。
 楽観的な予測を基にした意見は、どうしても説得力が弱くなるものだと思います。

“先送りする”という考え方は、“これから良くなる”ということを前提としていると思います。
 しかし未来のことは誰もわからないと思います。
 そのため、具体的なことを示せないことがあると思います。具体的であるほど、説得力がなくなることがあると思います。
「先送りすべき」という意見は、説得力の大きさという点では、はじめから不利だと思います。
 それは消費税の増税に限らず、多くの事柄にいえる宿命的なことだと思います。仕方ないことだと思います。

 また「先送りするべき」という思考の根底には、『やりたくないことは、出来るだけ後まわしにしたい』という心理があることが多いような気がします。
 多くの場合、自覚していないと思いますし、自覚していない心理を他者から指摘されると強く否定する人もいると思いますが、宿題やお手伝いや期限が決まっている仕事などを、後回しにする心理と似ているものがあるような印象を受けます。
 その心理が思考を導いていると感じます。冷静で客観的な判断をしているつもりでも、その考えは感情に近い心理が引き出しているということです。

 またやはり多くの人は自覚していないと思いますし、自覚していない心理を他者から指摘されると、強く否定する人もいると思いますが、消費税10%引き上げを先送りする意見には、軽減税率の導入が難しいことに対する苛立ちや腹立たしやや口惜しさのような感情が、根っこにある人もいるかもしれません。
 また軽減税率が導入されずに消費税が10%に上がると、売り上げが下がることが懸念されるため、先送りして欲しいと考え、先送りするべきだと訴えている業界や企業があるかもしれません。

今回、消費税の税率を先送りすると、後で実施することが非常に難しくなると思います。
 政治的にも経済的にも、です。
 先送りすると、今よりも明らかに経済が良くならなければ、税率はあげられないと思います。しかし、経済が確実によくなると保証することは誰にも出来ないと思います。悪くなる可能性もあります。
 それに一度先送りすると、その後で増税する判断は格段に難しくなると思います。 
また過去を振り返ってみても、消費税は選挙に大きく関わってきます。

 消費税の税率を引きあげる政策の進め方として、首相が「私が決断します」としたのは大きな失敗だと思います。
 やりたくないことは、“腹をくくるのが早いほどいい”ものだと思います。
『消費税は二段階で引き上げられる』、早くから国民がそういう意識をもっていたほうが、影響が抑えられ、経済にとってよかったような気がします。
先送りするのは、リーマンショックや巨大災害など、余程のことが起きた場合のみ、とするべきだったと思います。

しかし、8%にあげる時、10%にあげる時、その都度、「私が決断します」としたために、国民の中に『今回は上がらないかもしれない』という意識があったと思います。
 それでは、影響をやわらげるために二段階で増税する効果を、弱めさせることになると思います。
 それが8%にあげた後の反動減を大きくした理由の一つになったような気がします。
 10%にあげるのなら、出来るだけはやく方向性を示したほうがいいような気がします。“腹をくくる”のは遅くなるほど、後の影響が大きくなりやすいような気がします。
 しかし首相は「私が決断します」を出来るだけ“先おくり”にし、ぎりぎりまで国民に示さないつもりのようだと聞きます。
 
 数年前、与党の支持率が低いこともあって、政治家は国民を無視するような争いをしていたと思います。それは何年間もつづき、一年ごとに首相が変わったと思います。
 国民を無視した政治家の身勝手な争いが、国をあらゆる点において良くない方向に向かわせたと感じます。
 国民はその印象が強く残っていると思います。
それが意識的にも無意識的にも『与党の支持率は高い方がいい』という感覚を持たせていると感じます。

 今の与党の支持率は『不満や批判も多々あるけど、支持率は高くしておいてあげよう。そうしないと、またこの国は政治家に足を引っ張られる』という国民の意識があるように感じます。

 支持率が高いことをいいことに、個人的にやりたいことをやってしまおうとすると、経済も財政も政策の詰めが甘くなり、そのツケがまわってきているようにも感じられます。

2014年9月24日水曜日

決めたくないなら

初めて“ロボット”という概念が世に出たのは、チェコの戯曲だと言います。
 若いころ、ロボットを描いたSF小説を読むと、あとがきには必ずといっていいほど、そのことが書いてあった気がします。
“人はなぜ人型を作りたがるのか?”
 そんな問いを目にしたとき、ふと冒頭に書いたことが思い出されました。
 そして、ロボットは物語から生まれたのだと思いました。

 人類は、大昔から人型を作ったり、描いたりしてきたと思います。
 土偶や巨像、壁画など人間の形をしたものが多数あると思います。
 それは人間をあらわそうとしたのかもしれません。正確に描写する能力や、造形する技術がなかったため、人間そのものには見えない形になったのかもしれません。
 そうではなく、人間の形を模した人間ではないものを表しているのかもしれません。
 個体によっても、また時代や地域によっても、様々だろうと思います。

 時が流れ人類が文明社会を築いてからも、民話や伝承、宗教に関わる挿話などに、人の形をした人間ではないものが見られるそうです。
 土で作った人型が動き出したり、人の形をした紙が意思を持ったりする話が、世界には色々とあるようです。
 そして近代になると、あらゆる媒体における物語で、人の形をした人間ではないものが描かれるようになったと見られます。

ロボットもその一つだったと思います。
現在、人型をしたロボットが現実に作られています。
しかし考えてみれば、ロボットは物語から生まれたのだと思います。
科学が物語を追従したことで、人型ロボットが現実の世界に現れたといえるかもしれません。

個人的に、人間は人型を目にすると、そこから何かを空想しやすいような気がするのです。
また、空想によって人型をした何かを生み出しやすいような気がするのです。
人型は空想を掻き立てられやすいと思います。

人間はあらゆるものに意思があるという感覚を持ちやすいものだと思います。
飼っているペット、育てている植物、お気に入りのぬいぐるみや人形、使い慣れた道具、長い間乗っている車、住み慣れた家、山や海や川、天候など自然現象などに、人間と同じような意思があるという感覚をもつことがあると思います。
ただその感覚は、無機質なものよりも動物など生命があるものに対する方が持ちやすいと思います。
たたたとえ無機質なものでも、生命や人間を連想させる要素があるほうが、擬人的な感覚を持ちやすいものだと思います。
人間に似た形をしていることは、擬人化しやすいような気がします。

 そして擬人化はそれ自体、想像だと思います。
また擬人化することで、想像を広げやすいと思います。
その造像は物語の形になることも多いと思います。
 人は想像することが好きで、物語を作ることも好きだと感じます。物語に触れることも好きだと思います。
 それは、人間が人型を作りがたる心理に繋がっているような気がします。

 先日、インターネットでロボットに関する実験を取り上げた記事を目にしました。
“危険が迫っている人間を守ってから、命じられた仕事をする”
 ロボットにそれが出来るかどうか、実験したようです。

実験では人間の代わりにロボットが用いられたそうですが、危機が迫っている人間が一人だった場合、被験ロボットはそれを回避させてから、命じられた仕事をしたそうです。
しかし、二人の人間が危ない状況に追い込まれていると、上手くいかなかったと書かれています。
33回実験をしたそうですが、二人とも助けられたのは数回だけだそうです。
一人を助けたものの、もう一人は見過ごしてしまうことが数回あったそうです。
 そして14回は、二人とも助けられなかったとあります。
 ロボットが考え込んでしまって行動しなかったり、動き出すのが遅くなったりして、間に合わなかったようです。

この実験は、被験ロボットが的確に動けば、人間を二人とも助けることが出来るという状況が設定されたようです。
それは、どちらか一人しか助けられない状況や、5人を犠牲にすれば20人を助けられる状況などと比べると、簡単な設定だと思います。
しかしそれでも今回の被験ロボットは、的確に判断し行動することが出来なかったようです。
 
 時々哲学に関する問いで、倫理的に判断しかねるものを見聞きすることがあります。
二人のうち一人しか助けられない状況や、5人を犠牲にすれば20人が助かるような状況に直面したときに、どのような判断をするかという問いもその一つです。
 詳細な状況にもよりますが、「正しい回答などない」という場合が多いと思います。
 それにどんな決断を下しても、批判され非難される場合も多いと思います。
 そんな判断を迫られることは、人間なら誰もが避けたいものだと思います。

 人間は、他人にやらせることで、自分の責任を回避しようとすることがあると思います。

『倫理的に難しい決断なら、ロボットに任せてしまえばいいじゃないか。ロボットが得られた情報を基にして、機械的に判断すりゃいいのさ。これほど冷静な判断はないだろ。みんなだまってそれに従えば、人間が自分で決断するよりずっと楽じゃないか。人間が散々悩んで決断したって、後でボロクソに叩かれるんだぜ。機械の判断に任せりゃ恨みっこなしだろ』