『携帯もってすかしてんじゃねえよ』
『でもほんとはすっごい欲しいんでしょ』
このような歌詞の曲が発売されたのは1994年でした。つまり20年前です。
20年前というと長い時間が過ぎていると思いながらも、つい最近だったと感じることもあります。
思考では『随分前だ』と考え、感覚では『ちょっと前だ』と感じているのかもしれません。ただ、若いころに比べて『随分前だ』という感覚が薄らいでいるような気がします。
考えてみると、25歳のころ20年前といえばまだ5歳児です。
今の僕の20年前は、20代後半の社会人でした。
この20年間でも、体も生活環境もいろいろと変わりましたが、それでも5歳児から25歳までの変わり方のほうが大きいような気がします。またその期間には初めて経験することも多かったと思います。
同じ20年間でも、色々なことがあり、様々な変化あるほうが長く感じるのかもしれません。
今の僕の感覚で20年前は、近くない過去ですが、大昔というものではありません。そんな20年前、冒頭に書いた歌詞の曲がヒットしていました。
この歌詞から当時は携帯電話を持っている人が少なかったことが窺えます。そして携帯電話を持っていない人は、持っている人を羨んでいる様子が描かれていると思います。
現在20歳の人には、携帯電話がなかった時代など、現実感がないだろうと思います。僕自身、自分が生まれたころの話となると、遠い過去のことだと感じます。
『あの曲が流行っていたころは、そんなに大昔ではないのに、携帯電話をもっている人が少なかったんだな』
ふと、『逆から見たらどう思うだろう』という考えが浮かんできました。つまり20年前の自分が今の社会を見たらということです。
物語では未来を描く場合、誇張されることが多いと思いますが、実際に20年が過ぎてみると色々変化があるにはあるのですが、かつてイメージしていたほど“未来”だとは感じないような気がします。
もし20年前の自分がスマートフォンにあふれた現在の様子を目にしたらどう思うだろうか。そんな想像をしてみました。
当然、その機能には驚くだろうと思います。しかし機能を知る前に、人々の様子に驚くかもしれません。もしかしたら“怖い”とか“不気味”だと感じるかもしれません。
数多ある物語のように、20年前の自分が今年に時間移動して、多くの人がスマートフォンを手にしている様子を目にしたとします。それは20年前には見られない光景だと思います。
携帯電話さえ、それほど普及していない時代ですから、スマートフォンという通信機器を手にしているものの、通話せずに操作している様子や、その機器に意識を集中している姿を見て、何をしているのか理解できないかもしれません。
ベンチに並んで座っている人たちが、みな黙ってスマートフォンをいじっていることから、全員が他人なのだろうと思いっていると、ふいにその中の一人が隣の人に話しかけ、それに応じて並んでいる数人が言葉を交わす様子を見て、『知人同士だったのか』と驚くかもしれません。
しかし交わされた会話は短く、すぐにまた全員が黙ってスマートフォンをいじりだし、その場に沈黙が広がると、その静けさを“異様だ”と感じるかもしれません。
しかも当のベンチに座っている人たちは、その沈黙を当たり前のことであるかのように、平然としている。その光景から『人間関係が大きく変わってしまった』と思うかもしれません。
しかしこの時代の人たちは、自分たちが変わったことにまったく気づいていない。そう見えるかもしれません。
怖くなって、スマートフォンの機能など知ろうとせず、過去に帰ってしまうかもしれません。
しかしもっと先の人間社会はどうなるのか気になって、さらに何十年か先に行ってみるかもしれません。
人々は、一人ひとりが手にする小さな画面に囲われるように自我を強め、常にそれを守ろうと必死になっているかもしれません。
自我を守るために、出来るだけすばやく“こいつは敵だ”と認識しようとしているかもしれません。そのために、ささいな相違点を見つけると“こいつは敵だ”と決めているかもしれません。
そしてそう決めつけたなら、徹底的に叩こうとするかもしれません。“敵”をつぶさなければ、自我が守れないという意識があるからかもしれません。
そして徹底的に叩いて“敵”をつぶしたときには、勝利したことに喜びを感じ、そんな自分を誇らしく感じ、自我を守れたことに安堵するかもしれません。
また、徹底的に叩きつぶした“敵”を見て、自分がそうされないように、さらに自我を守ろうとするかもしれません。そのためにさらにすばやく“敵”を見つけ、さらに徹底的に叩こうとするかもしれません。
人々は、自分たちがそのようなことになっていることなどまったく自覚していないかもしれません。
過去から時間移動した僕は、恐ろしい世界になっていると思うかもしれません。
そして未来が心配になり、さらに数十年後に行ってみるかもしれません。
人類は互いに徹底的に叩きつぶしあい、滅亡しているかもしれません。