2014年2月28日金曜日

未来から帰ろう


『携帯もってすかしてんじゃねえよ』

『でもほんとはすっごい欲しいんでしょ』

 このような歌詞の曲が発売されたのは1994年でした。つまり20年前です。

 20年前というと長い時間が過ぎていると思いながらも、つい最近だったと感じることもあります。

 思考では『随分前だ』と考え、感覚では『ちょっと前だ』と感じているのかもしれません。ただ、若いころに比べて『随分前だ』という感覚が薄らいでいるような気がします。

 

考えてみると、25歳のころ20年前といえばまだ5歳児です。

今の僕の20年前は、20代後半の社会人でした。

 この20年間でも、体も生活環境もいろいろと変わりましたが、それでも5歳児から25歳までの変わり方のほうが大きいような気がします。またその期間には初めて経験することも多かったと思います。

 同じ20年間でも、色々なことがあり、様々な変化あるほうが長く感じるのかもしれません。

 

 今の僕の感覚で20年前は、近くない過去ですが、大昔というものではありません。そんな20年前、冒頭に書いた歌詞の曲がヒットしていました。

 この歌詞から当時は携帯電話を持っている人が少なかったことが窺えます。そして携帯電話を持っていない人は、持っている人を羨んでいる様子が描かれていると思います。

 現在20歳の人には、携帯電話がなかった時代など、現実感がないだろうと思います。僕自身、自分が生まれたころの話となると、遠い過去のことだと感じます。

 

『あの曲が流行っていたころは、そんなに大昔ではないのに、携帯電話をもっている人が少なかったんだな』

ふと、『逆から見たらどう思うだろう』という考えが浮かんできました。つまり20年前の自分が今の社会を見たらということです。

物語では未来を描く場合、誇張されることが多いと思いますが、実際に20年が過ぎてみると色々変化があるにはあるのですが、かつてイメージしていたほど“未来”だとは感じないような気がします。

もし20年前の自分がスマートフォンにあふれた現在の様子を目にしたらどう思うだろうか。そんな想像をしてみました。

 

当然、その機能には驚くだろうと思います。しかし機能を知る前に、人々の様子に驚くかもしれません。もしかしたら“怖い”とか“不気味”だと感じるかもしれません。

数多ある物語のように、20年前の自分が今年に時間移動して、多くの人がスマートフォンを手にしている様子を目にしたとします。それは20年前には見られない光景だと思います。

携帯電話さえ、それほど普及していない時代ですから、スマートフォンという通信機器を手にしているものの、通話せずに操作している様子や、その機器に意識を集中している姿を見て、何をしているのか理解できないかもしれません。

ベンチに並んで座っている人たちが、みな黙ってスマートフォンをいじっていることから、全員が他人なのだろうと思いっていると、ふいにその中の一人が隣の人に話しかけ、それに応じて並んでいる数人が言葉を交わす様子を見て、『知人同士だったのか』と驚くかもしれません。

しかし交わされた会話は短く、すぐにまた全員が黙ってスマートフォンをいじりだし、その場に沈黙が広がると、その静けさを“異様だ”と感じるかもしれません。

しかも当のベンチに座っている人たちは、その沈黙を当たり前のことであるかのように、平然としている。その光景から『人間関係が大きく変わってしまった』と思うかもしれません。

しかしこの時代の人たちは、自分たちが変わったことにまったく気づいていない。そう見えるかもしれません。

 怖くなって、スマートフォンの機能など知ろうとせず、過去に帰ってしまうかもしれません。

 

 しかしもっと先の人間社会はどうなるのか気になって、さらに何十年か先に行ってみるかもしれません。

 人々は、一人ひとりが手にする小さな画面に囲われるように自我を強め、常にそれを守ろうと必死になっているかもしれません。

自我を守るために、出来るだけすばやく“こいつは敵だ”と認識しようとしているかもしれません。そのために、ささいな相違点を見つけると“こいつは敵だ”と決めているかもしれません。

そしてそう決めつけたなら、徹底的に叩こうとするかもしれません。“敵”をつぶさなければ、自我が守れないという意識があるからかもしれません。

そして徹底的に叩いて“敵”をつぶしたときには、勝利したことに喜びを感じ、そんな自分を誇らしく感じ、自我を守れたことに安堵するかもしれません。

また、徹底的に叩きつぶした“敵”を見て、自分がそうされないように、さらに自我を守ろうとするかもしれません。そのためにさらにすばやく“敵”を見つけ、さらに徹底的に叩こうとするかもしれません。

人々は、自分たちがそのようなことになっていることなどまったく自覚していないかもしれません。

 過去から時間移動した僕は、恐ろしい世界になっていると思うかもしれません。

 そして未来が心配になり、さらに数十年後に行ってみるかもしれません。

 人類は互いに徹底的に叩きつぶしあい、滅亡しているかもしれません。

2014年2月27日木曜日

そっくりなサルがボクを指さしてる


 最近は「ボスザル」という言い方をしないようになっていると聞きました。「一位のサル」というようになっているそうです。

その時はあまり詳しい説明はなかったのですが、少し興味を惹かれました。

「ボス」という言葉と、「一位」という言い回しの違いが気になったのです。

 

そして「ボスザル」と「一位のサル」の違いを考えました。

ボスというと集団の最上位に君臨し、統率する者だという印象があります。「ボスザル」という言葉が用いられるのは、サルは群れの最上位につくものが、リーダーとしてほかのサルたちを率いているのだろうと思います。

またボスというと、周囲には腹心や側近が何人かいて、その下に部下がいて、その下に“平”の所属員が大勢いるような集団が浮かびます。

 

それに対して「一位」という言葉は、最上位者という意味合いしかないような気がします。

群れを統率するリーダーではなく、“集団における強さ”が一番の個体であるということです。つまり「一位のサル」は、単に一番目であるということだけで、別に群れを率いているリーダーではない、ということではないかと思いました。

また、「一位」がいるということは、二位以下の順位が明確になっているのだろうという気もします。

一位から最下位まで明確に順位がついているのかもしれませんし、上位陣は順位がはっきりしていて、下位は頻繁に順位が入れ替わるため、序列が明確になっていないのかもしれません。

 

「一位のサル」という言葉を使うようになったということは、サルはリーダーが群れを統率しているわけではないと考えられるようになったのではないかと思いました。

そのように考えると、「ボスザル」と「一位のサル」では、随分と違っているような気がします。

ただここまで書いておいていうのもなんですが、これは僕の勝手な解釈です。

そこで今更ですがインターネットで検索して見ました。ただ、僕はインターネットで調べること自体あまり得意ではありません。今回はいくかのサイトをみただけです。

 

それによると、どうやら“勝手な解釈”は当たっていなかったようです。サルの群れの最上位のものは、群れのリーダーとしての役割を果たしているというようなことが書かれている文章を目にしました。つまり群れを統率しているということです。

また、野生のサルではボスザルのような存在は確認できないという文章もありました。人間が餌を与える環境が、サルに順位をつけることになっているのではないかという考え方のようです。

また、一位の座につくのは、群れの中で最も強い個体ではなく、最も年齢が上の個体だと書かれているものがありました。

 

こうしてみると、今の時点では「これが正しい」という説は決まっていないような印象を受けました。様々な研究が行われている最中といえるかもしれません。

そのためどれが正しいということを前提にして書くことが控えたいと思います。ただ様々に書かれているものを読むと、興味深いものがあります。

 

“ボスザルが群れを率いている”

 そのような見方をすることが、“人間らしいな”というような気がします。人間は自分たちの概念に照らして、人間以外のものを見る傾向があると感じます。

 その表れのひとつとして、動物や植物やモノを擬人化したがるということあります。動物を人間のように表現した物語は、昔から数え切れないほど作られていると思います。

 また、ペットに人間と同じような意思があることを前提として接することもよくあることだと思います。

 

それに車や飛行機など無機質なものを主人公にしたアニメ物語もあります。車が意思をもって人間を襲う映画もあったような気がします。

古くて傷んだ軽自動車を、「どうせ乗り換えないと決めたのだから、化粧して楽しむことにした」高校教師が、「こいつも喜んでよく走るわい」というマンガを思い出します。

 

サルの群れには“ボス”がいる。それは人間が人間の見方で見ているから、そう見えるのかもしれません。

 その人間の見方は、人間の群れにはボスがいることから、形作られたのかもしれません。

 人間の群れにはボスがいることが多いと思います。どのような集団であれ、人間社会ではリーダーがあったほうが上手くいく場合が多いと思います。そのリーダーの決まり方は、色々とあるような気がします。

 全員で選ぶ場合もあれば、強引にリーダーにつくこともあれば、集団で活動するなかで自然にリーダーとしての資質を示した人物が、その役割を果たし、やがて名実ともにリーダーになることがあると思います。

 

 ただ人間社会では、権力が一人握りの人間に集中すると、色々と“よくないこと”があるといわれます。実際、権力者が“おいしいこと”を独り占めしていることは、時々見聞きします。

 また権力が一人の人物に集中すると、なんでも自分のやりたいようにやろうとすることがあるかもしれません。

2014年2月25日火曜日

手打ち


“人間は誰もが自我が強まっている”

 なんとなくそう感じます。それは変化だと思うのですが、多くの人が同じように変わっているため、気づかれていないような気がします。

しかもこのような変化は、ある時突然起こるのではなく、徐々におこるため変わっていることを自覚出来ないものだと思います。

 

多くの人が自覚してないものの、自我を守ろうとする意識が強まっていると感じるのです。

以前書いたことがありますが、インターネットの普及はその理由の一つのような気がします。パソコンもスマートフォンも画面をみるのは一人であり、キーを打つもの、画面に触てるのも一人である場合が多いと思います。

パソコンの前にいるとき、スマートフォンを手にしているとき、人は一人だけの世界にいるようなものなのかもしれません。

一人だけですので、その自分を守ろうという意識が強まるのかもしれません。自分を守るために、他者を叩こうとする意識が強まるのかもしれません。

今、人間はそのように変わっているのかもしれません。しかし誰も気づいてないのかもしれません。

 

社会は多くの人間によって作られていると思います。そこに属する全員が自我を強めては、難しくなることが多いような気がします。しかし自我が強まっていることも、それによって難しくなっていることが多々あることも、多くの人は気づいていないような気がします。

 

 難しいことのひとつに“手打ち”があると思います。

「商売の約束や仲直りの成立したしるしに手を叩くこと。転じて、契約や和解が成立すること」

「手打ち」を国語辞典で調べると、そのように書かれています。

 最後に書かれていることは、誰もが自我が強まることで、難しくなっていることだと思います。

 

 だからこそ、今の世界にはそれが必要だと思います。今の人間社会には手打ちが、非常に重要になっていると感じるのです。

 しかし多くの人はそう感じていないような気がします。自我を守る意識が強まり、他者を叩く意識が強まっているからかもしれません。

『手打ち? 和解しろ? いいよ。向こうが完全に折れるならね。なに? 妥協しろ? なにを馬鹿なことを言っているんだ。なぜこちらが折れなければならないんだ? 1ミリたりとも引くいわれはない。半歩たりとも引き下がることはない。当たりまえだ!』

 双方がそういっているような事柄が、世界中にいつくもあるような気がします。それがいかに不利益をもたらしているか、認識できていないと感じることがあります。

 認識でないまま不利益を被り続け、不利益を被ることでさらに意固地になっている。そのように見えるときがあります。

 

 戦いの最中に得られるものは少ないと思います。当事者だけでなく、周囲にいるものたちも得られるものは少ないと思います。

 自我を守る意識の強まりは、戦いを終わりにくくしていることに繋がっているのかもしれません。

そして、終わらない戦いは、多くの人から奪うばかりになり、誰もが得られないことになっているように見られます。

 

今、内戦が起きている国では、争いの構図が複雑化し、まさに泥沼になっていると感じます。当事者同士では、どのような形であれ、戦いを終わらせることが出来ない状況だと感じます。

その状況で利益を得ているものは、極めて少ないと思います。もしかしたらいないかもしれません。全員が失っているばかりなのかもしれません。

後ろにいる大国も、内戦が起きている間は、利益を得られていないと思います。しかしこの内戦は、もはや誰かの勝利に終わることなどないような状況だと感じます。そうなると、後ろにいる大国も総取りすることなどないと思います。それなら、取り分を減らしてでも、内戦が終わったほうが、少なくても得るものがあるような気がします。

妥協せずに何も得られないよりは、妥協して少しでも何かを得るほうが、利益になると思います。

 

しかし今の状況で内戦を終わらせるには、非常に難しいと思います。ただ後ろにいる大国同士が、内戦をしている国の頭の上で手打ちをすれば、戦いを終わせることに結びつくかもしれません。

『戦いを後押しして、なにを得た? 戦いがもっと早く終わっていたら、なにが得られた? 戦いが起きなかったらなにが得られた? そのすべてを得られなくても、半分だけでも、三分の一だけでも、内戦が起きている今よりは得るものが多かったはずだ』

 妥協してでも和解したほうが、利益がある場合が多いと思います。では、なぜ手打ちが出来ないのか考えると、人間の心理によるところが大きいような気がします。

 自我を守ろうとする心理が、大国の上の人たちにもあるような気がします。もともと自我を守る意識が強くなければ、大国の上につくことは出来ないのかもしれません。

 しかしそれだけに、自我を守る意識が一国の政治に反映されていると見えるときがあります。冷静に利益を得る判断を曇らせているように感じることがあります。本人はそれを自覚出来ないように感じるときがあります。

 

 内戦は起きていないものの、これからどう展開するか予測が難しく、それゆえに危うさを抱えている国があるように見られます。

 大国ならば、得られることを重くみるべきだと思います。争いの後押しをすればするほど、事態は混乱し、争いは深まると思います。

それによって大国が得られるものが減ることも十分以上にあり得ることだと思います。

この国の頭の上で、大国同士が手打ちをすること、それが混乱を鎮めることに大きな効果をもたらすような気がします。

争って得るより、鎮めて得るほうが確実だと思います。

2014年2月24日月曜日

繰り返しながら増幅する


 民主主義を掲げる国において、デモは否定されるべきではないと思います。

大勢の人が集まることは、それ自体が“力”になるような気がします。

人間に限らず“群”は大きいほうが“力”になると思います。

人間は集団をつくって社会を築いているといえるかもしれません。そうなると、大勢の人間が集まること、それ自体が威圧感を放つことがあると思います。

その威圧感は権力側を抑えることにつながるかもしれません。

それは民衆が数の力を用いて、一定の成果を上げたといえるかもしれません。

 

しかしもし、デモに集まった民衆が暴力的な行為に及んだら、それは民主的とはいえないと思います。

多くの人が血を流し、街や日常生活を破壊し、それによって主張を通そうとすることは、民主主義に則っているとは言えないと思います。

まして、暴徒化した民衆による破壊や略奪には、主張が置き去りになっていると感じるときもあります。

 

デモには、常にそうなる危険性を含んでいるのではないかと思うことがあります。

もちろんデモも様々ですので、一括りに論じてしまうわけにはいかないと思います。ただ、度合いに大小があるものの、民衆が集まることによる“力”には、破壊や殺傷などの“力”を呼び起こす要素を抱えているものだと感じるのです。

 

デモは怒りの感情を発散させることが多いからかもしれません。民衆が集まっての主張には、怒りが込められることが多いような気がします。

怒りの感情は発することで増幅することが多いと思います。

そして怒りの感情は、暴力や破壊力などの“力”を呼び起こしやすいと思います。

また集団は、暴力や破壊力を抑えるよりも、高ぶらせることのほうが多いと思います。

 

そこで、デモは主義主張を実現させる手段として、どの程度有効だろうか考える必要があると思います。個人的に、それほど高くはないような気がします。

 殊に近年の世界を見ると、昔よりも有効性は下がっているように感じられます。

 ここ数年、デモが発端で政治が変わったことが立て続けに起きたように見られます。デモの“力”は破壊や暴力を呼び起こしやすくなっており、それを恐れて政治が変わったとみられることもあると感じます。

 民衆によって政治を変えたといわれることが多かったように感じます。

 しかし、それがさらなる混乱をもたらした国があるような気がします。

 深刻な事態になっている国もあるとみられます。

 

今現在、デモから“力”が発生し、政治を変えている国があると感じます。

その国は何年も政治が混乱しているような印象があります。かつて、デモから政治を変えることになったように思いますが、その後の選挙で政治家が変わったように見られます。政治家が変わったのですから、国政も変わるだろうと思います。

そしてまた、民衆が動きだしたように感じられます。

ただ今回は危うさが増しているような感があります。

破壊する力が大きくなっているような気がします。

 

それに統制がとれなくなっていっているような気がします。民衆を取りまとめる力があまりにも弱いような印象を受けます。

またそのためでもあると思いますが、民衆は何を求めているのか、デモの要求に具体性が薄らいでいるような気がします。

つるし上げ、排除することが目的になっていると感じることがあります。

何のためにそうするのか、それをちゃんと意識していなければならないと思います。

つまり、これからどうするのか、大きな方向性だけでなく、現実的で明確にこれから何をやるかを練る必要があると思います。

それがないと、混乱と争いを起こすことになりかねないと思います。

民衆が政治を変えたと騒がれながら、その後も混乱や争いが続いている国は、それがなかったように感じられます。

 

現状を否定するばかりではなく、その後について明確な方向性と進め方を計画しておく必要があると思うのです。

つまり計画性や戦略性が必要だということです。そのために統率する力が必要だと思います。

 

 複雑で多様な現代社会では、人と人との関係も、集団と集団との関係も、地域と地域との関係も、国と国との関係も、複雑で多様だと思います。

そんな複雑で多様な社会では、計画性や戦略性がないまま政治を変えことは、混乱と争いを招くことが多いような気がします。

まして、流血や破壊を行う“力”によって政治を変えることには、様々な危うさを抱いていると思います。

 この先も混乱や争いが起こるかもしれません。そうすると、また同じようなことが起こるかもしれません。

 国のなかにも、別の主張あり別の勢力があるものだと思います。

次はより多くの血が流れるかもしれません。

2014年2月23日日曜日

テレプレゼンス


 未来を描いた物語は無数にあると思います。映画やアニメ、マンガなど、視覚に訴える媒体もあれば、言葉だけで表現される小説もあると思います。

 また、高度な科学考証をもとにしている物語もあれば、実現性を度外視した作品もあると思います。

 ただやはり物語ですので、多くのものは“少し大げさ”に描かれているように感じます。

 未来の雰囲気を出すためには、“少し未来過ぎる”表現が必要な場合があると思います。

 

 それでもマンガやアニメや映画で描かれた“未来”が、現実になっているものも少なくないと思います。

 ただ少し“こじつけ”めいていると感じるものもあります。現代にあるものと、昔のマンガで描かれた未来のものの共通点を見つけ出し、物語が現実になったという取り上げられ方をすることがあるような気がします。

『確かにそういえなくもないと思うけど、ちょっと強引というか、多少無理やり結びつけているような感があるなあ』

 そのように感じることがあります。

 

 そうではなく、まさに未来を描いた物語に登場したものが、現実のものになったものもあると思います。

 それどころか、未来の物語を現実の技術が追い越したと感じることもあります。

 あくまで例えですが、自動車が空を飛ぶ未来を舞台にした物語でも、その物語の世界には携帯電話がなく、通信は公衆電話を使っているなどです。

ただその公衆電話はテレビ電話で、料金は指紋認証によって本人の口座から自動的に引き落とされるようになっています。

 

現在、自動車は空を飛びませんし、公衆電話はテレビ電話ではありませんし、指紋認証によって料金を支払う仕組みもありません。多くの人が携帯電話やスマートフォンを持っています。

 これは何かの物語ではなく、僕が勝手に想像した“例え”ですが、時々耳にするのは、携帯電話は昔のSFで似たようなものがよく登場していということです。

 

 ただこうして考えているだけでは、発想点はわかりません。

 多少無理やりこじつけていてように感じられるものが、実は昔のSF映画から発想を得て開発が始まったのかもしれません。

 また、昔のSFにそっくりなものが現代で実用化されているものの、それは物語とはまったく無関係なものもあるだろうと思います。既存の機器の機能を高めていくことで、図らずも昔のSF映画にそっくりになったものもあるような気がするのです。

 

 具体的な作品は思いつきませんが未来を描いた物語で、顔の部分がテレビやパソコンの画面になっているロボットが登場するものがあります。

 その画面に人間の顔が映しだされ、ロボットがその人物の代わりに何かを行うというものです。

 例えば、遠隔地にいる人物が本人の代わりにそのロボットを使っているとか、他界した人物が自分の記憶を詰め込んだロボットを残しておいたという展開です。

 どちらも、自分がその場にいられないため、その代わりにロボットを使っています。

 

 ロボットでなくても、機械にモニターが備えてあり、そこに人間の顔が映しだされるものも、SFでは頻繁に描かれていると思います。

 案内や説明や教育をする機械などが多いような気がします。

 

「テレプレゼンス」

 先日インターネットで、はじめてこの言葉を目にしました。そこには(遠隔存在感)と括弧書きがありました。

 前後の文脈と括弧書きから、モニターなどの画面を利用して、実際にその場にいなくても存在しているような感覚を抱かせるとともに、これまで対面して行っていたことを、離れた状態で実施する仕組みのことだろうと思います。

 インターネットで調べてみると、テレビ会議などはテレプレゼンスを用いた仕組みのようです。

 

 僕が目にしたインターネットの記事には、「テレプレゼンス・ロボット」と書かれていました。

 アメリカでは「テレプレゼンス・ロボット」が医療において実用されているという内容でした。画像はなかったのですが、医師の顔を映しだすスクリーンを備えた機械のようです。

 深夜など、医師が自宅にいるときに担当している患者の容体が変わった場合など、そのテレプレゼンス・ロボットを介して、医師は自宅に居ながらにして、患者とやり取りをするようです。

患者に対する処置は看護師やその場にいる医師が行うようですが、血圧や心拍数など医療に必要な情報は、自宅にいる医師のパソコンで見られるようです。

 

正確には思い出せませんが、そのような取り組みが開発されているとか、構想があるなどと聞いた覚えがあります。

 しかし、すでに実用化されているとは思っていませんでした。

 技術は思いのほか急速に発展しているのかもしれません。人の命を守る現場だけでなく、命を奪う用途でも技術は進んでいるのかもしれません。