2016年7月24日日曜日

私が一番 我々が一番 我が国が一番

 近年の世界的な傾向として感じるのは、俗にいう保守的な傾向が強まっているということです。インターネットなどの情報技術の急速な発展はその大きな要因の一つだと思います。
 多くの人の主張や持論、誹謗中傷などに接する機会が爆発的に増えたように思います。他者の声を見聞きすることが急増し、また自身が声を発することが出来るようになり、実際にインターネットの“場”に意見や主張、誹謗中傷を発している人は多いと思います。
 それに多くの人たちは、多くの他者とインターネットを通じて接するようになったと思います。

大抵の場合、インターネットには一人で操作する機器を用いて接していると思います。パソコンやスマートフォンは基本的に一人で使うものだと思います。その画面を通してインターネットの“場”に入っている、それは自分一人で大勢の他者と向き合っているといえるかもしれません。
それによって人々に“自分”に対する意識が強まっていると感じます。自意識、自己愛、自己顕示欲、権利意識、被害者意識などです。
 しかしそれを自覚することが難しいものだと思います。実際世界中の多くの人々が、自覚していないと感じます。

人間には“他者”を意識することで“自分”に対する意識が強まる心理的な傾向があると思います。インターネットでは、多くの“他者”と自分一人で接していると考えると、それによって自分に対する意識が高まることは誰にでもあり得ることだと思います。
そして実際にそうなっていると感じます。ただそんな内面の変化を自覚している人は皆無に近いように思います。

“自分”に対する意識の強まりの一つに“自分は優れている”と、客観的で明確な根拠がないまま信じ込むことがあるように感じます。
またインターネットの“場”で個人が攻撃され、非常に大きな打撃を受けている様子を目にすることで多くの人々に“自分を守る”という意識が強まっていると感じます。
“自分を守る”ためには、他者を強く攻撃して“徹底的に叩きつぶす”という意識が強まっていると感じます。
 他者に対する強い批判や、貶めるようとする誹謗中傷は攻撃の一種だと思います。インターネットが普及した現代社会では、多くの声が攻撃になり、時に大きな痛手を与えることがあると思います。
 近年、世界的に排他的な行動や主張を目立っていると感じます。そして他者に対する攻撃性が強まっている傾向にあると思います。
 その根底には、“自分を守る”という意識の強まりがあるのではないかと思います。
 
 また“自分を守る”という意識は、被害者意識の高まりにもつながっていると思います。
 かねてから人間は無意識に、自分の被害を大きく発信する傾向がみられると思います。それは周囲から同情されることが、“自分を守る”ことに対して有効に働くことがあり、それを本能と経験から知っているのだと思います。
 関心をひき、同情をあつめることが、自分を守ることにつながる、そのため人は無意識に被害を大きく発信するものだと思います。
 
 他人を攻撃するにも“自分はいかに大きな被害を被ったか”を示すことは有効だと思います。
 被害が大きいほうが批判は強くなるものだと思います。批判が攻撃になるからには、被害が多いいほうが攻撃は強くなるものだと思います。無意識に、自分がうけた被害を大きくしていることは、よくあることだと思います。
 そして、それによって自分自身が被害を大きく認識することも、よくあることだと思います。無意識に多少大げさに被害を訴えることで、実際にそれだけの被害を受けたと信じるという心理が働くものだと思います。
 そしてさらに少し大きく被害を訴え、それを信じるようになるという連鎖が起こることがあると思います。
 
権利意識が世界的に高まっているのは、インターネットによって他者が権利を得ている様子を見聞きする機会が増えており、同じ権利を得られていないことが“被害者意識”に似た心理を掻き立てるのではないかと思います。
 ただそれは個人の内面の変化であり、その変化を自覚している人はごく少数だと思います。

 世界中の多くの人は自覚のないまま、“自分”に対する意識を高め、それが他者に対する攻撃性を強めることにつながっていると感じます。自分を守るため、自分を高みに置く。自分を守るため自分がいかにかわいそうかを強く訴え、他者への攻撃心を強め、他者に対する批判を強める、そんな雰囲気が今の世界には漂っているように感じることがあります。
そして対立者に対する攻撃性や敵愾心は怒りの感情を伴いやすく、それによって高ぶりやすいものだと思います。
それは主張や行動に現れることが増えていると感じます。怒りの感情を伴って強く激しく持論を発信し、相対する意見を持つものを強く批判し、強く非難し、あらゆる方法で攻撃する、そんな風潮があると感じます。
インターネットで袋叩きにするのは、その風潮の表れの一つだと思います。

また時に、客観的な第三者として聞くと、到底正論に聞こえない持論を発信している人がいるように思います。当人は、至極正当で論理的に訴えていると信じており、その点について一切の疑問を持っていないようです。
一部の極端な人ですが、今の人間社会では程度の差こそあれ、多くの人が似たような心理状態に陥っていると感じることがあります。
それは世界的な風潮だと感じるのです。

そして“自分”に対する意識は、自分が属する集団に拡大されやすいものだと思います。“自分の国”に対しても、自意識、自己愛、自己顕示欲、などと同じような心理が強まっていると感じます。
統計をとれば年代や性別などによる傾向が現れるかもしれませんが、個人的な印象でいうと世界的あるいは人類的な風潮だと感じられます。

そして政治家も国に属する人間であると思います。
「国民の声に配慮せざるを得ず、難しい対応がせまられている」そういう状況もあり得ると思います。
「政治の動きには、国民はネットで批判を強めている」
「ネットでは国民の多くが、自国のやりかたに批判的で、相手国に同情的である」
 そういう状況もあり得ると思います。
しかし国民も政治家も、自分の国がとにかく一番でありたいという意識があると思います。

ところで、以前から中国の南シナ海の主張は正当ではないと思っていました。ただ日本人は感情的に中国に対して批判的な考えを持ちやすいことは確かだと思います。
それが先日、国際仲裁裁判所が判断を下したことで、“やっぱり中国の主張は正しくない。身勝手な言いぐさなのだ”という認識を強めた日本人が多いように感じます。

中国側から見ると国民も政治家もマスコミも、海岸線が短い中国にとって海洋権益を確保することは国益上不可欠であり、九段線は絶対に譲れないと考えている人が多いと感じます。
“自分のため”とか“自国のため”となると、思考や判断は主観に基づくものだと思います。第三者の客観的な思考をすることは誰でも難しく、客観的な判断をすることは出来ない人が多いと思います。

 中国だけがその傾向が強いというわけではないと思います。ロシアは国を挙げてスポーツ選手にドーピングを行い、またそれを隠ぺいしてきたとスポーツに関する国際的な機関によって調査されたと聞きます。
 多くの国からすれば、『正式に“国が主導し悪質な不正がある”と発表したとなると、もはや言い逃れは出来ないだろう、すぐに潔く非を認め、根本的な改革を急ぐべきだ』と考えるものだと思います。
 現状ではそれが最善であり的確な対応だと思います。国民とスポーツ選手のために、です。
 しかしロシアの政治家も国民もスポーツ選手もマスコミも、そう考えることが出来ず、国際的なスポーツ機関に対する批判を強めているようです。

 そして中国もロシアも『政治的な力が働いている』と政治家が発言し、『陰謀に違いない』などとまことしやかに語られていると聞きます。
 改革や改善をするべきだという声は、国民からも政治家からも発せられていないようです。仮に“非を認めて改善するべきだ”と考えている人がいても口にすることが難しいと思います。

そのようなことはどこの国でもみられると思います。まったく利害関係のない国の国民が、第三者の目で沖ノ鳥島をみれば『岩にしか見えない。どうみても島だとはおもえない』と考えるのではないかと思います。
そして利害が一切ない国の人の中には『島だと言い張っているのは自国の利益のためだろう。だがそれは公正な主張には聞こえない。護岸工事が遅すぎるのだ。島に見えるうちにやっておけばいいものを、岩になってしまってからやったのでは、中国が人工島を作っていることと同じことをやろうとしているように見えてしまう』という人もいると思います。
しかし日本の政治家は「あくまでも島だ」と主張し、国民の多くがそれを支持していると感じます。『島』と『岩』では排他的経済水域が大違いであり、自国の利益が大きく左右されるのですから、客観的な視点ではなく主観的に「ぜったいに島であり、ぜったいに譲るべきではない。国益を守らなければならない」という主張が多いように思います。

「正々堂々と岩だとみとめよう。それによって排他的経済水域が小さくなっても仕方ない。かつては島だったとしても、今は岩になってしまったのだから」
 もしそんなことを言おうものなら、インターネットで非難され、膨大な誹謗中傷にさらされかねない。著名人ならば、それが実生活に影響を及ぼしかねない。そうなると考えていても、それを口にすることは憚られる、そういう日本国民や政治家もいるかもしれません。
 それは領土に関する事柄全般に言えることだと感じます。
 
 自国の国益のために客観的な視点をなくしていることも、自国の国益に反するとなると持論を堂々と発することが出来ないことも、心理の働きは中国やロシアと同じように感じます。
 
別の国の国民からすれば「明らかに身勝手な主張だ。あの国の国民はそんなこともわからないのか」と感じることでも、当の国の国民の多くは本当にわからないのだと思います。あくまでも正しい主張をしていると、心から信じており一切疑うことはない。そういう人が少なくないのだと思います。
そしてそれに反する持論を抱いている人がいたとしても、インターネット上の大衆や、俗にいう右派から叩かれることを恐れて発信することが出来ないでいることがあると思います。

今の人間社会は怖い風潮に包まれていると感じます。そしてそれは強まっていると感じます。その強まり方は加速していると感じます。

しかしそれに気づいている人はごくわずかだと思います。それが最も恐ろしいことかもしれません。

2016年7月20日水曜日

ネット大衆

このところ、俗にいう保守的な志向が強まっていると感じます。世界各地でその傾向が強まっているように思うのです。政治家、国民共に保守的な主張をする人たちがふえ、保守的な主張を支持する人が増えていると感じます。世界全体で、です。
数年前から感じられていたことです。ただそれが、年々強まっているような気がします。また加速していると感じます。
その要因と考えられる事柄について、何度も書いています。パソコンやインターネットの普及は、世界的に個人主義を高めさせるともに、国粋主義も強めさせている要因の一つだと思います。

今の世界はインターネットをなしでは成り立たないのではないかと思えるほど、それが広く深く浸透していると思います。
 当たり前のようにインターネットが存在していると感じますが、それは相当に急速に浸透した感があります。ただ多くの人々は、その速さに注意を払っていないのだと思います。
 
一回り前の干支の年と今年を比べれば、インターネットなど通信関連は大きな変化をしていると思います。現在、インターネットやスマートフォンなどがあまりにもあたり前に身近にあるため、ともするとずっと前からそうだったような感覚を無意識に持っている人が多いと感じます。
それを指摘されると「いわれてみれば、スマホを持つようになってまだ数年だな」「今は便利になったなあ」などと思考することがあるかもしれません。ただ頭で考えるだけで、スマートフォンが自分の生活に浸透した速さを感じることは少ないと思います。

 インターネットなどの通信環境の急速な変化は、社会全体の急速な変化といえるような気がします。
そして社会全体の急速な変化は、人間の心理にも影響を及ぼすと思います。
ただ多くの人たちがその変化の只中にあるため、認識できないように見えます。頭で考えることは出来ても、感覚的に変化の速さと大きさを認識できていないように見えるのです。
そのため『確かに言われてみれば社会は大きく変わったね。でもそれがどうかした?』と軽んじていると感じます。そのことの重さを認識できずにいると感じます。

何度が書いていますが、インターネットは自分一人で多くの他者と向き合うものだと思います。
友人知人たちである場合もあれば、世界中の不特定多数の人々である場合もありますが、スマートフォンやパソコンの画面に向き合っているのは自分一人だけである場合がほとんどだと思います。
それが自我や自意識を強めるように作用することが多いのではないかと思います。多くの人たちは、日常的にインターネットを利用しつつ、無自覚に自我や自意識、自己肯定感、自己保守心などを強めているように見えるのです。
しかし多くの場合は、その作用が働いていることを自覚することは出来ないと思います。

インターネットの中で激しい誹謗中傷などが行われることは珍しくないと聞きます。その中には悪意や敵愾心、攻撃欲、義憤などが含まれていることが多いように思います。
『一人一人は無名でなんの力も持たない一般人だけど、みんながネットで攻撃すれば悪者をやっつけられるんだ』
 このような感覚を抱くこともあると聞きます。インターネットで大衆の誹謗中傷が沸き上がることで現状が変わったことがあると、『ネット民の勝利だ』『権威も権力もない一般人の勝利だ』『我々が正したのだ』と達成感のようなものを得ることがあると思います。
 それはとても心地いいものだと思います。
心地いいために、何度も味わいたくなるものだと思います。そしてまた『悪者』を見つけようとし、悪者が見つかるとインターネットで袋叩きをする、そんな状況が起こるのだと思います。

“ネット大衆”はインターネットという空間のなかで群れを成し、大勢で一人を袋叩きにして、叩きのめすことにある種の快感を得ていることがあると思います。“集団対一人”という構図の中で、自分が“集団側”つまり“圧倒的な優位な側にいる”それ自体と、圧倒的に優位な側の自分が、圧倒的に不利な側である“一人”を容易く叩くことに“快楽”に似た感覚をえることがあると思います。それは“いじめる側”の人間にもみられる心理ではないかと思います。
さらに“ネット大衆”による“ネット袋叩き”には達成感や正義感を満足させるという快感も加わることが多いと思います。
そのような快楽や快感は、麻薬のような心理的、脳科学的効果があるのではないかと思います。

叩かれる側が企業など集団である場合もあると思います。また政治家など権威や権力をもっている場合もあると思います。
そしてその叩かれる側の企業や集団、政治家に批判されるべき要素がある場合も決して少なくないと思います。
それが“ネット大衆”による“総叩き”によって制裁を受けることもあると思います。悪事が露見し罰せられることもあると思います。不正が除かれることもあると思います。改善すべきことでありながら長年放置されていたことが改善されることもあると思います。
“ネット大衆”が社会全体に対して貢献することもあると思います。
 
 大企業や政治家など権威や権力を持つ者には、個人の力は到底及ばないと思います。
 しかし“ネット大衆”となれば、いかに大企業でも数で勝るのは容易いと思います。
 また大衆は時に、権力者を脅かすものであり、インターネットのなかの“ネット大衆”は実社会の大衆よりも膨らみやすいものだと思います。
 距離など物理法則にとらわれることがないことが、“ネット大衆”が膨れあがりやすい要因の一つだと思います。

また“袋叩きにする者たち”は、袋叩きにしながら、“袋叩きにされている人”の様子を耳目にしているものだと思います。
袋叩きにされている側の人が受けている痛手の大きさを見聞きしているといえるかもしれません。
そして『向こう側にはなりたくない』と思ったり、考えたり、無自覚に意識をしたりするものだと思います。
これも“いじめる側”の心理に共通するような気がします。
“ネット大衆”の場合、“いじめる側”より、個人を特定される可能性が小さいと思います。
 そのため“ネット大衆”のなかには、『ネットで袋叩きにされたくない』と言語で表現できるようには考えていないかもしれません。
 しかし思考ではなく、意識のなかに『“向こう側”になりたくない』と感じている人が多いと感じます。

“ネット大衆”は、多くの個人が、インターネット空間で非常に多くの他者と群れることで形成されていると思います。
“多くの個人”は、スマートフォンの画面やパソコンの画面を通して群れに加わっているものだと思います。
 大抵の場合、スマートフォンもパソコンも一人で操作しているものと思います。そして“ネット空間”に通じるスマートフォンの画面やパソコンの画面は一人で見ているものだと思います。
“多くの個人”は自分一人で“ネット空間”に入り、そして時にその空間で非常に大勢の他者と対峙しているものと思います。

 それによって、“多くの個人”は“自分自信”に対する意識が強まっていると感じます。そしてほとんどの人はその自覚がないと思います。
 自覚がなく、意識していないものの、“自分自信”に対して固執するような心理が強まっていると感じます。
《“絶対に自分が正しい”と無条件に思いこむ心理》、《自分を守ろうとする心理》《すこしでも敵性を感じる他者に強く反発し強く攻撃する心理》、《自分が優れていると無条件に信じ込む心理》、《自分の正義感に背く他者を、強く攻撃する心理》、《他者との同調を求める心理》、《得られるべきものは得たいという心理》、《得られるべきものが与えられないことに対する不満》
 それらはインターネット関連の発達に関わらず、誰も持っている心理や意識だと思います。生まれながらに備わっているのかもしれません。
 しかしインターネット空間に触れる機会が急増したことで、《自分が一番》《自分は正しい》《自分をまもる》《自分最優先》という心理や意識が強まったと感じます。
 そんな個人がインターネット空間で群れることで“ネット大衆”が生まれることがあると感じます。

 それは世界的な傾向に見えます。そしてそれは大きな危険をはらんでいるようにも思えます。

2016年6月25日土曜日

国民投票は究極の民主主義ではない

意見が対立する状況で、多数派の意見を尊重するというやり方は、確かに民主的な手法だと思います。
しかし約半数の意見を取り入れ、約半数の意見を切り捨てる、それでは究極の民主主義とはいえないと思います。

意見が対立しているほど、すみやかに意思決定する必要性が高いと思います。対立する意見の人数が拮抗しているほど、話し合いで結論をだすことが難しいと思います。話し合いで結論を出せないとなると、他の意思決定手段を用いること必要になると思います。
多数決はその手段として民主的ではあると思います。

多数決の結果に差が付きにくい事案こそ、多数決という手法を求める声があがりやすいと思います。多数決では差が付きにくい、すなわち相対する意見を持つ人数が拮抗していると話し合いでは決定しにくいからです。
ただそうなると多数決では、多数派と少数派の人数差が少ないということになることが多いと思います。
そこで多くの反対意見が“多数決で決めたことである”という声によって切り捨てられることが少なからず起こり得ると思います。

しかし半数近い反対を切り捨てるのは、民主主義においる優れたやり方でもなければ、高度な手法でもないと思います。
むしろ幼稚で浅はかなやり方だという印象を受けます。
現代社会は多様化し複雑化していると思います。また人々の心理が対立を激化しやすくなっていると感じます。インターネットの普及ばかりが原因ではないと思いますが、インターネットが大衆の心理に大きな影響を及ぼしているのは確かだと思います。
それが社会の動きに現れていると思います

 持論に沿う意見ばかりインターネットから拾い出し、それを思想や主義主張に取り入れる傾向が今の社会にはあると感じます。
また持論に沿った根拠ばかりを探しだしてそれを取り入れるものの持論に反する根拠は黙殺するばかりになっていると感じます。
そうして多くの人が、持論に反する思想や主義主張に対して反対を強めるばかりになっているように見えます。
 皆がそうなることで、意見対立は激化することが多いように見えます。そして対立は多くの場合において、怒りの感情を掻き立てるものだと思います。
 また対立相手から怒りをぶつけられることで、怒りはさらに高ぶるものだと思います。
 しかし多くの人は、自分が正しいと信じ、そのために戦っているという印象を抱くものだと思います。自分が正しい側の人間であり、そのために戦っていると認識することは、心地よさを伴うものだと思います。
 多くの人は自覚がないまま、持論に固執し、持論が正義であり、持論と相対する意見を間違いだと断定し、対抗心や敵愾心を強めているように見られます。

 そんな現代社会において、大衆に二つに一つの選択をゆだねるという手段は、あまりにも単純で浅はかだと思います。それは大衆の賢愚の問題ではないと思います。
 国には必ず大衆がいると思います。また大衆は特有の傾向があると思います。大衆が存在することと、大衆の特徴を前提として論理を組み立てる必要があると思います。
 選択肢が多く、複雑では大衆を含んでいる国民投票はやりにくいと思います。
 そこで国民投票は二者択一という形にすることが多いと思います。
国民投票をするためには、二者択一にせざるを得ない状況もあると思います。
 多様化し、複雑化し、対立が激化しやすく、一つ方向に大衆が群れやすい現代社会では、二者択一の手法は、単純で浅はかな発想による手段だと思います。

 また結果的に、約半数の意見が切り捨てられることになるのでは、後の対立や混乱の火種を残すことになりかねないと思います。
なにより多くの人の意見を“少数派”として切り捨てることは、民主主義が高度に発達した社会で行うべきことではないと思います。
 
しかし大衆はもとより多くの政治家も、国民投票を“究極の民主主義”だと認識しているように見えます。
ことに欧州では、国民投票の民主性に疑問を持っている人は少ないと感じます。
近年、欧州で国民投票が行われたり、国民投票を求める声が高まったりしているように感じます。
欧州の国民には、自分たちの国は先進国であり、民主主義国家であるという意識が強いと感じることがあります。
その自意識は“究極の民主主義”だと思い込んでいる国民投票という手法を、多くの国民が求める心理的な傾向につながっているような気がします。

 社会の多様化と複雑化や、対立が激化する傾向や大衆が一方に一気になびく傾向は、これからも強まっていく可能性が高いと思います。
 国民投票という手法は、そんな社会には適さないと思います。
 より複雑な手法が必要になると思います。それでは大衆がついてこられないかもしれません。しかし民主主義をより高め、さらに成熟させるには、大衆が複雑な手段についていくようにしなければならないと思います。
 
そこで大衆を引っ張るのは政治家や有識者がやらなければならないと思います。

 しかし現在の政治家や有識者の多くは大衆と同じ次元に見えます。それでは引っ張ることはできないと思います。大衆と共に踊り、流されるばかりだと思います。

2016年5月23日月曜日

シリアに対してアメリカが出来たこと。出来なかったこと。やるべきだったこと。やるべきではなかったこと。

 俗にいうアラブの春の動きに乗ってシリアで民主化運動が激化し、それをアサド政権が武力をもって徹底的に弾圧したことで、内戦状態になってしまったのだと思います。
 アサド政権は民主化運動に対して一切の妥協を示そうとしなかったのは、民主化運動がおこった他の中東諸国との違いだと感じます。
 反体制勢力も、せっかく独裁体制に反する動きが高まったのですから、武力で弾圧されたとしても引くわけにはいかないという考えが強まったように思います。
 民主化デモに参加した民衆も、当初はそうだったのかもしれません。民衆のなかには、アサド大統領が一ミリたりとも引く気がないことを知って、引き下がった人もいたのではないかと思います。

 民衆の中の引き下がりたくない人たちの中には、反体制派に加わって武力で対抗する道を選んだ人もいるのだろうと思います。
“せっかく民主化の機運が盛り上がったのだ。この機を逃しては、アサドの独裁がつづいてしまう”
“武力で民主化運動が抑え込まれてしまったら、今後アサドはより強権的になってしまう”
“どんなに犠牲者がでたとしても、今やめるわけにはいかない”
“多くの犠牲者を出したのに、独裁政治が強まってしまったのではみな無駄死になってしまう”

 アサド政権が民主化運動に対して問答無用で武力を行使したころ、アメリカでは“アメリカの軍事力でアサド政権を倒すべき”という主張が少なくなかったと思います。
 ただそれは大衆的な意見だと思います。
現状を冷静に分析し、先々を見据えたというよりも、“悪者を力でやっつけろ”という政治観や怒りなどの感情が思考を主導した意見だと思います。
現実として、もしアメリカが軍事力でアサド政権をアメリカが倒していたら、間違いなく泥沼化していたと思います。
内戦も泥沼化した状況だと思いますが、アメリカが軍事力をふるっていたら、事態はより複雑になったことは確かだと思います。
アサド大統領に代わりうる政治勢力がない状況で政権を倒し、アメリカ寄りの政治勢力をアメリカが主導して作ることが出来ただろうか、それを考えると相当に難しかっただろうと思います。

アサド政権が武力を使ったとなると、反体制勢力が複数あったままでは現政権に対抗できない、まして打倒することなど出来るはずがない、ということは明白だったと思います。
それでも反体制勢力はまとまることはなく、むしろ互いを攻撃しあっているように見えます。
それは反体制勢力の対立がいかに深刻で根深いものであるかを表していると思います。“アサドを倒す”それでは団結できないほどに、強く対立しているのだろうと思います。

それではアメリカが主導して、安定した政権が作ることはまさに至難だと思います。それならは、アメリカとしては軍事介入せずに、アサド政権に代わりうる政治勢力を作ろうと考えるは、至極まっとうなやり方だと思います。 
しかし軍事的にも政治的にも、思惑通りにはいかなかったように見えます。実態を把握できなかったため。アメリカは何をするべきか、それすらわからない状況で、手探りで軍事指導として、アサドに代わる政治勢力を作ろうとしていたように見えます。
難しい状況だったと思いますが、実際にうまくいかなかったと思います。

 シリアが内戦状態になった時点で、国際社会は内戦を終わらせようと働きかけることが必要だったと思います。血が流れる戦闘行為を終わらせようとすることが必要だったと思います。
 アサド政権に代わり得る政治勢力がないとなると、内戦を終わらせるにはアサド政権を存続させるしかなかったと思います。
 それは現状でもいえることだと思います。そのため今では“アサド存続もやむなし”という意見が大きくなっていると感じます。
 結局、多くの血が流れたあとで、結局アサドを存続させるのならば、内戦が勃発した早い段階で行っていれば、犠牲者は少なかったと思います。

 内戦が続いたことでアサド政権が弱体化したことは確かだと思います。それは今後、民主化を進めるには少しは利点となるかもしれません。
 もっと早い時点でアサド政権を存続させて内戦を終わらせていたら、アサド大統領はさらに強権的になった可能性はあると思います。
 弱くなった政権基盤を立て直そうという考えと、今後反対勢力が武力をもって体制転覆を目論むことのないように徹底的な締め付けを行ったかもしれません。

 ただシリア内戦はイスラム国が台頭した要因の一つだと思います。早い段階でアサド政権が存続する形でシリア内戦が終わっていたら、イスラム国のあり方も随分とちがっていたような気がします。
 それにイスラム国の台頭は、ロシアに軍事介入する理由を与える形になったと思います。
 内戦によってアサド政権が弱体化したと思いますが、それはロシアの存在感を強めることにもなったと思います。
 シリアでは、かねてから現政権を支援することのほうが、反体制勢力を支援するより、やりやすかったと思います。
 それが内戦によって政権基盤が弱くなったとなると、さらに体制を支援しやすくなったと思います。ロシアは軍事介入することで、アサド政権に対して存在感を増したと思います。
 アメリカは、せめてロシア軍がシリアで空爆を始める前に、アサド政権を存続させることで内戦を収めるべきだったと思います。
 そして内戦によって弱くなった現体制に代わりうる勢力を作ることが必要だったと思います。ただ反体制派の組織化や統合が難しいことは、仮に内戦が終わっても難しいと思います。現体制が維持されれば、テロリストとなる反体制勢力が多いと思います。
 ただそれは、早い段階で内戦を終わらせても、これから内戦を終わらせても、見られることだと思います。

シリアの内戦は防ぎようがなかったといえるかもしれません。アラブの春がもたらした“大きなマイナス”だと思います。
それにしてもシリアの内戦は泥沼化したと思います。そうなってしまっては、“よそ者”がちょっかいをだすと、おさまりが付かなくなるような気がします。
現政権と反体制勢力のなかで、“いいかげん戦闘をやめるべきだ”という雰囲気が強まらなければ、よそ者が力づくで終わらせることは難しいと思います。
 戦っている連中のなかで“戦闘をやめたい”という意識が広がったときに、手を貸すのが“よそ者”のやるべきことだという気がします。

 

2016年5月4日水曜日

トランプ大統領

アメリカ合衆国の大統領は強い権限を有していると聞きます。世界一の大国のリーダーが強い権限を持っているとなると、“誰がその任に着くか”ということはアメリカだけでなく世界的にみてもとても重要なことだと思います。

過去を振り返ってみても、アメリカの大統領は何人も世界の歴史に名前が刻まれていると感じます。
自国以外の国の、過去のリーダーの名前を上げようとしても、アメリカ以外の国のリーダーの名はそれほど多くは思い出せません。
ソ連やロシア、中国など、何人はすぐに名前が出ますが、西欧の国のリーダーとなると、現役だったころは知っていた名前も、退いた後はなかなか思い出せないことが多いのです。

 その点、アメリカの大統領は何人かの名前が思い出せるのです。それは学校の歴史や社会の授業で習っていることや、情報番組、歴史を扱ったテレビ番組などで見聞きする機会が多いなどのことから、記憶や印象に残っているのだと思います。

 これらのことからも、アメリカ大統領は世界的に存在感があり、その選挙は世界中が関心をよせているように見えます。
 数か月前から、アメリカ大統領選挙に関する報道を見聞きする機会が相当に増えた感があります。その要因として最も大きいのは、今回の選挙には、まさに“台風の目”といえる存在がいることだと感じます。
 ドナルド・トランプ氏です。過激な発言内容と、それを発する態度などが、候補者の中でも際立って目立っているように思います。
 極端で過激な主張は、熱狂的な支持者を集めるとともに、反対意見を持つ者たちも少なくないようです。そして双方が強硬的になっていると聞きます。
 支持者も反対派もデモを行い、それが暴力沙汰になることもしばしば起きているようです。

トランプ氏はまだ政策をほとんど述べていないと感じます。イメージというか方向性を発信しているということです。
 ただイスラム教徒の入国を禁止、あるいは制限するとか、メキシコ国境に壁をつくってその費用を負担させるということは、“やること”を明確に言っていると思います。
 しかしそれをどうやって実現させるのか、実現させるには大統領として何をするのか、そのようなことは今のところ発言していないようです。
 そのため、政治経験がなく政策に対する見識が低い、という趣旨の批判はアメリカ国内外でたびたび発せられていると聞きます。

 ただここにきてトランプ氏の言動が落ち着いてきたという声も聞こえてきます。
 世界一の大国の大統領ですから、ふさわしい立ち居振る舞いがあると思います。それは大統領選では毎回取り上げられていると思います。
 ここまでのトランプ氏の言動は、とてもアメリカ合衆国大統領としてふさわしいものではなかったと思います。
 それはアメリカでも多くの政治家、有識者、マスコミなどが言っているようです。
 そして「トランプ氏はイメージチェンジを図ろうとしている」という見方もあるようです。
 実際トランプ氏は少し前から「大統領になれば、ふさわしくふるまうことはできる」という趣旨の発言をしていると思います。
 つまり選挙期間中は、大統領になるために俗にいう“パフォーマンス”が必要で、晴れて大統領になれば“パフォーマンス”のない言動をするつもりであり、それが出来るのだといいたいのだろうと感じます。

 実際トランプ氏が大統領になればそうなるだろうと思います。というか、そうならざるを得ないように思えます。つまりトランプ氏が大統領になれば、選挙期間中のような言動を目にする機会はだいぶ減ると思います。
 ただもしそうなると、支持が急落する可能性があると思います。
 選挙中の支持が熱狂的であるほど、当選後の冷め方が大きくなるものだと思います。
 熱狂的支持には“大きな期待”が含まれているものだと思います。しかし大きいがゆえに実現することは難しいことも多いと思います。
 今のところトランプ氏の支持者のなかでも、本当にメキシコに費用を負担させて国境に壁を作ることが出来るなどと、本気で考えている人はそう多くないと思います。
 ただトランプ氏が大統領になった後、他国に対する強硬的な姿勢が弱まったとみえると、支持者は急速に離れていく可能性は、決して低くないと思います。
 
オバマ大統領も、選挙中には大きな期待を抱いていた有権者や、熱狂的な支持者が少なくなかったと思います。
それは大きすぎる期待は実現されず、熱狂は必ず冷めるものだと思います。
そのためオバマ大統領のイメージが、実績を過小評価させる傾向があると感じます。
トランプ氏が大統領になった場合、大きすぎる期待による失望と、熱狂の冷め方は、オバマ大統領よりも大きくなることが予想されます。

 しかし現在トランプ氏が発言しているような外交を、大統領に就任した後で実践することも相当に難しいと思います。
 外交に限ったことではありませんが、アメリカ合衆国の政治が議会制民主主義であるからには、いくら大統領の権限が強くても、やりたい放題になんでもできるわけではないと思います。
 大統領の権限を振りかざして好き勝手に政権運営することは、現実では相当に難しいと思います。
 ましてトランプ氏は外交に関して見識が不十分で、政治経験がないのですからなおさらです。

 こうしてみると、クリントン氏の支持は熱狂的という印象がトランプ氏ほど強くないと感じます。
トランプ氏が目立つために、クリントン氏の支持が地味な印象を受け、そのイメージが支持を低くすることもあり得ると思います。
ただクリントン氏の場合、有権者の期待が、現実的ではないほど大きくなる、そのようなことは起こりにくいと思います。
それは当選後、“大きすぎた機体に対する大きな失望”も抱かれにくいということになると思います。
 またクリントン氏の場合、支持者が熱狂的になることはそれほど多くないと思います。
 それは当選後、“熱狂が急速に冷める”ということのなりにくいと思います。
 またクリントン氏は、政治経験は十分にあると思います。
 
 よく言われることですが、やはりクリントン氏の安定感は、このところのアメリカ大統領選でもまれに見るほどだと感じます。
 だからこそ“飽きられている”とか“面白みがない”という見方があるのだと思います。
 ただ“稀に見るほど安定した候補者”が、“飽きられている”とか“面白みがない”という理由で大統領になれないとすれば、これからアメリカ大統領に求められるのは“大

統領としての資質“や”政治家としての能力“ではなく、”個性的なキャラクター“とか”盛り上げる要素“ばかりになってしまいそうな気がします。

2015年12月10日木曜日