2014年1月25日土曜日

それでも長く続いている


 かつて、人気のラジオドラマの放送時間になると、銭湯から人がいなくなったそうです。

僕が生まれる何十年も前のことですが、過去を振り返るテレビ番組などで、何度も見聞きしています。

そのよう番組では、ドラマの人気の高さを話題にしていることが多いのですが、ラジオや銭湯が庶民の暮らしに深く根付いていた時代だったという印象を受けたものです。

 

『子供ころは、よくラジオで浪曲を聞いたものだよ』

 若いころ、二回りほど年上の人から、そのような話を聞いたことがあります。もう随分前に交わした会話ですので、詳しい内容は忘れてしまいましたが、家族みんなでラジオを聴いている様子が思い浮かんだものです。

 親と一緒に浪曲を聞いたことが、楽しい思い出となっているという印象を受けたのだと思います。

 

 僕は物心ついたとき、我が家にはテレビがありました。ただまだ白黒でしたので、よその家でカラーテレビを見たとき、自分がイメージしていた色と違っていたことに驚いたことがあります。

 たとえば、赤色だとイメージして見ていたものが、カラーテレビを見ると実は紺色だったということです。

 

 また、テレビは一家に一台でしたので、大人も子供も同じ番組を見ていました。

 子供だけでアニメを見ているときや、大人だけでニュースを見ているときもありますが、家族で時代劇を見ましたし、アイドルも演歌歌手もお笑い芸人も同じ番組に出演していて、それを家族みんなで見ていたのです。

 僕の家だけではなく、多くの家庭がそのようにテレビに接していたのではないかと思います。

 テレビは身近にある一家の娯楽だったといえるかもしれません。

 

テレビが一般家庭に普及する前、ラジオが“身近にある家族の娯楽”の役割を果たしていたのかもしれません。

上に書いたラジオドラマのことや、浪曲を家族で聞いていたという話を耳にしたとき、そのように感じたものです。

僕が子供のころ、家族で一台のテレビ見ていたように、かつては家族で居間に置いたラジオを聴いていたのだろうと思ったのです。

ただ僕が子供のころは、ラジオは身近なものではありませんでした。

 

ただその後、ラジオを聴く機会が多くなりました。学生時代は深夜放送をよく聞いていました。高校生の頃アルバイトをした職場では、ラジオが流れていました。社会人になったころも、ラジオを流している職場がありました。

僕が免許をとったころ販売されていた車は、カセットデッキのオーディオはオプションだったものが多かったものです。

しかし、AMラジオだけはほとんどの車種に標準装備されていました。僕はAMラジオもついていない車に乗っていたこともありましたが、職場の車ではラジオを聴いていたものです。

そして今も時々ラジオを聴いています。

 

かつてラジオは一家団欒を彩るメディアだったのだと思います。

しかしその座はテレビにとって代わられたような気がします。

そして今では家族の暮らしも多様化したと感じます。

ゲーム、インターネット、スマートフォン、様々な機器や媒体が急速に世に出てきていると思います。そしてそれらが急速に広まっている印象があります。

ただ、それでもラジオはなくなっていません。

 

冒頭に書いたラジオドラマが人気を博していたころに比べてれば、ラジオの普及率は随分と低いのだろうと思います。

それは複数の媒体が世にあるのですから、比率が下がるのは当たり前だと思います。ラジオだけしかない時代、ラジオとテレビがある時代、ラジオとテレビとインターネットがある時代、だんだん比率が下がっていくのは仕方ないとうか、当然のことだと思います。

それでもラジオがなくならないのは、ラジオにはラジオの利点があるからだと思います。

そのラジオの利点を求める人が、ある程度存在し続けているからだと思います。

 

それは他の媒体でも当てはまるような気がします。どれだけ映像媒体や音声媒体が発達しても、活字媒体はなくなっていないと思います。

録音機器や録画機器が進化し普及してきても、本はなくなっていないと思います。

遠い未来のことはわかりませんが、まだ当分の間、本がなくなることはないと感じられます。

また、紙媒体の需要がなくなることはないような気がします。

本や雑誌やカタログなど、紙には紙の利点があると思います。

それを求める人が、いなくなることはないような気がします。少なくても、当分先のことだと思います。

 

 多くの媒体が世にあるのですから、以前に比べたら利用する人の数が減るのは当たり前のことだと思います。別にラジオや本やテレビが嫌いなわけではなく、他の媒体を利用することで選ばれないことがあるのは仕方ないと思います。

 また、この国には人口減少の問題があります。ただ比率が下がっても、利用者数が減っても、ラジオや本やテレビを好む人がまったくいなくなることはないような気がします。

 そんな社会では、選ばれないのではなく、積極的に選択から除外されることのないようにしなければならないのかもしれません。見たくないと思われたり、読むに値しないと判断されたりしたら、その人はなかなかその媒体に帰ってこない、今はそんな社会だと感じます。




 

 

2014年1月24日金曜日

価値あることでも


 時間を必要とすること、体力を要すること、頭を使うこと、人間はそのようなことを“面倒なこと”と捉えるものだと思います。

 ただ社会にはそんな“面倒なこと”があふれていると思います。その“面倒なこと”を毎日こなしていくことが、“日常”なのかもしれません。

 

 たとえば仕事は“面倒なこと”といえる要素を含んでいることが多いような気がします。しかし『面倒からやりたくない」というわけにはいかないものだと思います。

 社会には“面倒なこと”があふれていて、その中にはやらなければならないことも多いだろうと思います。

 それにしても“面倒なこと”はやらなくて済むものなら、したくないものだと思います。

 

 ただ、趣味や娯楽のなかには、興味のない人からみると“面倒なこと”があると思います。

 冬のスポーツはその典型といえるかもしれません。わざわざ雪が降る寒い場所に行くことも、体力と時間を使うことも、“面倒なこと”だと感じる人もいると思います。

 でもスキーやスノーボードが好きな人は、何時間も車を運転して、遠くの寒い所に行くことも、“面倒なこと”という意識はあまり強くないような気がいます。

“面倒なこと”だとまったく思わないわけではないかもしれませんが、それほど苦にならない人もいると思います。

 

また、マラソンを趣味としている芸能人が、テレビ番組で話していた言葉が思い出されます。

『そんなに走るなんてすごいですね』とか『大変ですね』などといわれることが多いそうですが、その言葉に対して、『好きだから走っているんですよ。だから別にすごいわけではないし、大変でもないんですよ』と答えるという趣旨の話をしていたと思います。

それを聞いて、“走ることが好きだなんて信じられない”と思う人もいるかもしれません。“疲れるだけじゃん。なにが楽しいの?”という人もいると思います。

しかし“疲れることも楽しみの一つさ”という人もいると思います。

 

本を読むことも人によっては“面倒なこと”ではないかと思います。 

本と言ってもいろいろありますが、“本を読む”という行為は多くの場合、ある程度の時間がかかると思います。また多くの文章を読んで、内容を理解するには頭を使うものだと思います。

それはまさに冒頭にあげた“面倒なこと”だという気がします。

ただ、興味がない人にとっては“面倒なこと”でも、好きな人にとっては“楽しいこと”だと思います。

 

個人的に、“本を読むこと”は好きです。僕が読むのは小説ばかりですし、驚かれるほど多くの本を読んでいるわけではありません。また置く場所に困るほど多くの本を持っているわけではありませんが、それでも本を読むことは好きです。

その理由を考えるといろいろなことがあげられます。

その一つに達成感のような感覚があります。

 

 本を読むということは、時間を要することが多いと思います。また、頭を使うことが多いと思います。そして、なんとなく知的な行為だという印象があると思います。

“面倒なこと”そして“知的な行為”そのようなことをやることは、なんとなく自意識をくすぐられるものだと思います。

 一冊の本を読み切るということは、“面倒なこと”や“知的な行為”をやり通したというような感覚が得られると思います。

 その感覚は、心地よいものです。その心地よさを感じることも、読書の楽しみの一つだという気がします。

 

 一冊を読み終わったときに達成感を得るということは、途中で進度を感じることも楽しみになり得ると思います。

 読みかけの本にしおりを挟めて閉じたとき、どの程度まで読み進めたのか目で見ることが出来ます。大体何割くらい読み進めているのか視覚で感じられるのです。

 厚い本を読んでいるときは、本を閉じるたびに着実に読み進んでいることが見て取られ、その都度、少しだけいい気分になります。

 

 また本を読んでいる最中にも、進み具合を感じているものだと思います。

 本を読むとき、多くの場合、何かしら本に手で触れているものだと思います。机に本を置いて手でページを抑えていたり、手で本を持ったりして読んでいるということです。

 その手が、読み終わったページの厚みと、残っているそれを感じとっているものだと思います。

 手の感覚で、読書の進度を感じているということです。着実に読み進んでいることを手で感じ取り、すこしいい気持になっているような気がします。

 そんな感覚が得られることも、読書の楽しみのひとつだと思います。

 

僕は電子書籍を利用したことがありませんので、あくまでも先入観によるのですが、上に書いたような楽しみは紙の本ならではのような気がします。

電子書籍にも様々な利点があると思いますし、これから僕も利用することがあるかもしれません。

ただ電子書籍に利点があるように、紙の本にもそれがあると思います。

それは、どちらにも、それぞれの魅力があるといえるような気がします。

魅力があるということは、“価値がある”ということでもあるような気がします。

ただ資本主義経済では、たとえ価値があっても、それが小さいと見なされると存在するのが難しいものだと思います。

それがすこし残念だと感じることがあります。

2014年1月23日木曜日

何を成す


 人は誰でも失敗するものだと思います。

 一言で失敗といっても様々だと思います。誰かの“失敗”は、他の誰かにとって好ましいこともあると思います。

 また、傍目には“失敗”に見えていても、本人がそれを認めない場合もあると負います。

 

 人は当初思い描いたようにいかないまま、それでも強引に進めることもあると思います。

しかし思惑通りに展開しなかった場合、そのまま続けることが、目的を達成するために有効ではないこともあると思います。

目的が見えなくなることもあるかもしれません。

 

まず失敗を認めることは、目的達成の第一歩になることがあると思います。

失敗を認めなければ、うまく進んでない理由を分析できないことがあると思います。分析したとしても、浅かったり、先入観にとらわれたりすることもあると思います。

それでは“とにかくこのまま押し続けるしかない”という観念ばかりが強まることがあると思います。

 

 何事も、仕切り直しが必要なときがあると思います。

 それには、まず失敗を認める必要があると思います。

そして失敗を分析する必要があると思います。

そしてこれからどうするか考える必要があると思います。

 着実に成功を目指して、次の手を打つということです。

 失敗を認めることは、成功の第一歩と言えるかもしれません。

 

内戦が起きたこと自体、デモによる民主化の失敗といえるかもしれません。

 おびただしい血が流れ、争いは複雑になり、まさに泥沼化しているような印象を受けます。

 こんな状況を求めて始めたのではないと思います。

 当初思い描いたようになっていないと思います。

 このまま争いを続けることで、当初描いていた状況に近づけるのだろうか。

相当に難しいと思います。

 当初思い描いた状況に近づかないのならば、失敗だったといわざるを得ないような気がします。

 しかもあまりにも混沌としており、この状況からではどこにも向かいようがないようにも見られます。

仕切り直しと、立て直しが必要なときかもしれません。

 

 今、一人の人物を排除したところで、そのあとを受ける政治勢力がないような印象を受けます。それでは混乱はより深まるかもしれません。争いは収まらないかもしれません。別の争いも起こるかもしれません。血が流れ続けるかもしれません。さらに多くの血が流れるかもしれません。

 

 現状からの軌道修正は、やり方さえ思いつかない感があります。やはり仕切り直しが必要な時期なのかもしれません。

 当面は一人の人物に居すわらせることも、仕切り直しの一つだという気がします。

 ただ居すわらせるのではなく、次につなげる仕切り直しにするべきだという気がします。そのためには、一人の人物の力を最大限にそぎ落とすことが求められます。そのために使えるものを総動員する必要あると思います。

 また、居すわらせるは当面であり、その間に反対勢力を組織化し、一人の人物がいなくなった後の政治の受け手となり得る勢力を作っておくべきだと思います。

その勢力がないまま、民主化することは難しいような気がします。

 

民主主義が縁遠い地域で、それを根付かせるには、よく練った工程が必要だと思います。それは、ここ数年のその地域の動きからも見て取れるような気がします。

お祭り騒ぎや、やみくもに血を流すことが、民主化するための手段として有効なのかというと、そうとは思われないように見られます。

 

それを反面教師とするべきだという気がします。今の状態を見ると、あまりにも戦略性がないように感じられます。民主主義のない地域にそれを根付かせるには、周到な計画を立てて臨むべきだという気がします。しかし今の状況では、実際にどのように民主化するのか、具体的な計画性があるようには見られないような気がします。

 

そうなると、それをつくることが急がれるような気がします。そのための時間が必要だと思います。それを得るために、当面は一人の人物に居すわらせることも一つの手段かもしれません。ただ居すわらせるだけでなく、出来るだけ力をそぎ、次の勢力が作られる環境をつくるように持っていくことが求められるような気がします。

 

 戦略性も計画性もなく、ただ勢いに任せたため、うまく進んでいない事例が散見されるような気がします。それを示して説得することも必要かもしれません。

 まるで美談のように盛り上げたものの、お祭り騒ぎで政治を変えるには容易ではないのかもしれません。

 

 何が目的なのかよく考えることが必要な時期なのかもしれません。民主化が目的であるならば、このまま血を流し続けていることでそれが成し得るのか、よく考えなければならない時期なのかもしれません。

 民主的な政治がなかった地域で、それを始めるのは難しいことだと思います。

 何事も難しいことを成すには、冷静な思考に基づく戦略性が必要だと思います。

2014年1月21日火曜日

無意識の変換


今の日本は世界で薄らいだ存在感を、再び高めようと躍起になっているような印象があります。

 国全体にそのような雰囲気があると感じます。

 

日本が国際的に存在感を弱めたのは、内政における対立が大きな理由だったと思います。かつての経済大国も、国内の景気は低迷し、政治は際限なく対立をするばかりになっていて、それを世界中にみせていた印象があります。

それでは他の国の日本に対する見方が変わるのは当たり前だと思います。直接的な表現はされなくても、日本の印象は軽んじられるものだと思います。

 

そんななかにありながら、日本の政治家は内政の対立に心血をそそぐばかりで、外国との関係にかまけていられなかったように感じられます。

それでは、外国から見た日本の印象をさらに軽くすることになるような気がします。

日本から軽く見られていると感じている人が多い国では、それを逆転させたい心理が強まることがあるような気がします。

 

そんな国の経済が急成長しているなら、その国の人たちの自尊心も高まると思いますので、日本に対する対抗意識や、嫌悪感が強まることもあるだろうと思います。

また、日本から軽く見られていると感じている人が多い国の経済が伸び悩み、政治に対する批判が高まっていたなら、日本が弱っている今こそ商売で蹴落としてやろうと考えるかもしれません。また、日本の影が薄くなった今こそ叩き時だと思う人がいるかもしれません。

 

日本はそのような周辺国の変化に対して、あまりにも何もしてこなかったと感じられます。

そうなる前から、目を配り、気を配っておく必要があったと思います。

隣国の雰囲気の変化を早期に察知していれば、対応のしようがあったような気がします。

しかし、政治の対立とそれによる内政の混乱と停滞で、政治家はそれどころではなかったと感じます。

 

周到さのまったくない外交は、関係をさらに悪化させたような印象があります。

 どの国も感情にまかせた行動ばかりが目に付くようになり、それは相乗効果で怒りと嫌悪を増幅させていると感じます。

そこに戦略性など皆無だと思います。相手をねじ伏せるために戦略だと思い込んでいる人がどこの国にもいるようですが、それは感情に主導されている思考であり、現実的かつ論理的な思考に基づくものではないと思います。

考え方自体は幼稚園児の喧嘩と本質的に変わりがなく、それは戦略性とはいえないような気がします。

しかし大抵の場合、そのような指摘をされても、反発し、むしろ怒りの感情を高ぶらせ、さらに無益な行動に出ようとするものだと思います。それも幼児的だと感じます。

 

早くから注意を向け、早い段階で分析し、対応していけば状況は大きく変わっていたかもしれません。そうするべきだったと思うのですが、この国の政治家はそれどころではなかったような気がします。

その“それどころではない”が始まったころに政治の中心にいた人が、それによる影響がよくない形で高まったころに、再びその座につき、無策ゆえに深まった溝をさらに深めようとするばかりであるように感じられます。

 

ただ思考が感情にひかれるのは政治家だけではないと思います。

怒りの感情や、嫌いだという気持ちをぶつけられて、同じ感情を増幅させてぶつけたがっている人が少なからずいるようにみられます。

その心理は意識的であれ、無意識であれ、政権の支持率に反映されているように見られます。

 

ただそれだけではなく、多くの国民が“もうあんな政治の混乱と停滞は勘弁してもらいたい”と感じているような気がします。

内政の不毛な対立が、国際的に日本の影が薄くなった大きな要因だと多いますが、国民の目には実際の状況ほど大きな失点に見られていないような気がします。

 

それよりも、政治の対立は国内の雰囲気を悪くし、混乱や停滞を印象付けていたように思います。

多くの国民はうんざりして『もういい加減にしてくれ』と感じていたように見られます。しかしどれだけ『いい加減にしてくれ』と言われても、政治家たちはいい加減にしなかったように見えます。

それでは“うんざり”は高まる一方だったような気がします。 

 

そして、安定した政治体制を求める心理が強まったと思います。

 その心理が選挙制度と相まって、一つの政党が圧倒的議席数を獲得することになったとみられます。

“いい加減にすることが出来ない政治家”ばかりなのだから、不毛な対立のない政治体制をつくるには一党が過半数を与えるしかない、そのような意識が感じられます。個人的には、ほかの方法もあると思いますが、与党が安定多数をしめる議会は、とてもわかりやすい形だと思います。

 また、リーダー一人がどんどん進めてしまうことも、とてもわかりやすいと思います。

 それが支持率に表れているような気がします。

 そう考えるとこの支持率は“過去の反動”という側面が強いのかもしれません。

ただ多くの人たちは、“過去の反動”を今のリーダーに対する“好ましさ”に、無意識に変換しているようにも感じられます。
つまり心の深い部分では、その人に対する支持ではないということです。多くの人が色々なことに気づいたとき、大きな変化があるかもしれません。

2014年1月20日月曜日

目立たないが大きな失点


 戦略性とは、先を見据えて冷静に判断し、物事を進めていくことだと思います。

 そう考えると、戦略的に物事を進めるには冷静な思考が欠かせないような気がします。

 考え方の方向性が感情に流されないことが求められると思います。

 ただ何回も書いていますが、思考は人間性が主導するものだと感じます。

 

人間性には、価値観や志向性など感情とつながっていることもあると思います。

 また、利害関係や人間関係などの社会性も、感情を呼び起こすことが多いという印象があります。

 人間は思考と感情を切り離すことは難しいものだと思います。

 しかしそれでも戦略的に物事を進めには、個人の価値観や思想を土台にして考えるべきではないと思います。

 

 外交には戦略性が必要だと思います。しかし有史以来、他国との関係には様々な形で感情が関わっているように感じられます。

 もしかしたらそれは有史以前から続いていることかもしれません。

 つまり、外交は冷静さが不可欠でありながら、それを実践することは極めて難しいような気がするのです。関係を持つ国同士が感情に左右されていることも、珍しいことではないように見られます。

 それはどの国にも当てはまると思います。

 そうなると、外交はどの国にとっても難しいことだといえるような気がします

 

この国では数年前、政治家から“外交などにかまけている場合ではない”という意識が感じられました。国内で政治家が権力や利権を争うことで、外交に時間を割くことも、意識を注ぐことも出来なくなっていたという印象があります。

 

 内外でそう感じられたこと自体、外交では不利点になると思います。

 国内の政治が対立するばかりで混乱や停滞していることが世界中に報じられることは、外交的に芳しいことではないと思います。 

それが、景気が低迷しかつて経済大国が凋落したとみられる時期と重なると、国の印象をさらに落とすことになると思います。

 外国の会議に欠席したり、出席してもすぐに帰国したりすることも、外交にとって失点になるような気がします。世界に欠席が伝えられることで、その理由である国内政治の混乱も合わせて報じられます。

 それほど目立つ失点ではないため、あまり気にかけられないのかもしれませんが、目立たなくても“失点”であることに変わりないような気がします。思いのほか大きな“失点”になっている場合があるような気がします。

 しかしそれに気づいていない人が多いような気がします。もっとも気づいていないのは政治家たちかもしれません。

 

 そのようなことは、どこの国でもあると思いますが、数年前の日本は本当に時期が悪かったと思います。

 政治の対立と混乱と停滞が最悪のタイミングだったと感じるのです。

政治家が国内の政治対立にばかりにかまけて“新興国の台頭”に対する意識が希薄だった印象があります。

 

急速な発展に伴って、自国に対する意識も他国に対する感情も変わるものだと思います。そのことに対する注意や目配り気配りが明らかに手薄だったように感じられます。そうでなくても、政治の混乱や景気の低迷が世界中に報じられていたのですから、隣の国の政治家や国民がこの国を見る目にも変化があってもおかしくないと思います。隣国は長年面白くない思いを募らせていたという側面があるように見られます。だから、そこに注意を向けておく必要があったと思います。しかし日本全体に隣国に対して驕りや自惚れに似た感情があり、政治家はみな内政にしか関心を向けられずにいた感があります。外交全般が手薄だったのですから、隣国との適切な対応をさぐることなど、政治家には意識出来るはずかなかったのかもしれません。

 

そんななかでも、経済活動において民間は隣国との関係を強めていたとみられます。政治的な面がその足を大きく引っ張ったのは、“新興国”に対する政治的な対応が、数年前の時点でまるで不十分だったことが大きかったようにも感じられます。

経済面でも民間が主導しており、政治は役割をまるで果たしていなかったように感じられます。

 

そのように、政治家が国の足を引っ張っていたと感じられますが、その政治家の顔ぶれは変わっていないような気がします。変わったのは、勢力争いの道具にされた“頭数の政治家”ばかりのように感じます。主だった顔ぶれは変わらず、混乱が始まった一人目の人が、今も政治の中心のド真ん中にいるようにみられます。

 

本当に地球儀を俯瞰しているのならば、世界経済第二位と第三位の国が近くにあるという利点は一目瞭然だと覆います。それに同盟国が近くにあるという利点も一目瞭然だと思います。隣の同盟国との協調の重要性など、今更いうまでもないことだと思います。

 

東南アジア、アフリカ大陸の国との関係構築も、出遅れている感がありますので、そこに力を注ぐことも必要だと思いますが、出遅れたことも、隣国との関係悪化も、数年前の内政の混乱が大きく響いていると思います。

目立ちにくいものの、大きな失点だったと思います。それならば取り返さなければならないと思います。

 

しかしどの国の政治家も国民も感情に思考をまかせているように見られます。感情による思考を優先することは、冷静な判断ではなく、それは戦略性がないといえるような気がします。

“嫌いだから付き合わないだもん。その代わりにほかの国と仲良くするんだもん。だから地球儀を見ているんだもん”

 幼児の思考回路だと感じます。