人は誰でも失敗するものだと思います。
一言で失敗といっても様々だと思います。誰かの“失敗”は、他の誰かにとって好ましいこともあると思います。
また、傍目には“失敗”に見えていても、本人がそれを認めない場合もあると負います。
人は当初思い描いたようにいかないまま、それでも強引に進めることもあると思います。
しかし思惑通りに展開しなかった場合、そのまま続けることが、目的を達成するために有効ではないこともあると思います。
目的が見えなくなることもあるかもしれません。
まず失敗を認めることは、目的達成の第一歩になることがあると思います。
失敗を認めなければ、うまく進んでない理由を分析できないことがあると思います。分析したとしても、浅かったり、先入観にとらわれたりすることもあると思います。
それでは“とにかくこのまま押し続けるしかない”という観念ばかりが強まることがあると思います。
何事も、仕切り直しが必要なときがあると思います。
それには、まず失敗を認める必要があると思います。
そして失敗を分析する必要があると思います。
そしてこれからどうするか考える必要があると思います。
着実に成功を目指して、次の手を打つということです。
失敗を認めることは、成功の第一歩と言えるかもしれません。
内戦が起きたこと自体、デモによる民主化の失敗といえるかもしれません。
おびただしい血が流れ、争いは複雑になり、まさに泥沼化しているような印象を受けます。
こんな状況を求めて始めたのではないと思います。
当初思い描いたようになっていないと思います。
このまま争いを続けることで、当初描いていた状況に近づけるのだろうか。
相当に難しいと思います。
当初思い描いた状況に近づかないのならば、失敗だったといわざるを得ないような気がします。
しかもあまりにも混沌としており、この状況からではどこにも向かいようがないようにも見られます。
仕切り直しと、立て直しが必要なときかもしれません。
今、一人の人物を排除したところで、そのあとを受ける政治勢力がないような印象を受けます。それでは混乱はより深まるかもしれません。争いは収まらないかもしれません。別の争いも起こるかもしれません。血が流れ続けるかもしれません。さらに多くの血が流れるかもしれません。
現状からの軌道修正は、やり方さえ思いつかない感があります。やはり仕切り直しが必要な時期なのかもしれません。
当面は一人の人物に居すわらせることも、仕切り直しの一つだという気がします。
ただ居すわらせるのではなく、次につなげる仕切り直しにするべきだという気がします。そのためには、一人の人物の力を最大限にそぎ落とすことが求められます。そのために使えるものを総動員する必要あると思います。
また、居すわらせるは当面であり、その間に反対勢力を組織化し、一人の人物がいなくなった後の政治の受け手となり得る勢力を作っておくべきだと思います。
その勢力がないまま、民主化することは難しいような気がします。
民主主義が縁遠い地域で、それを根付かせるには、よく練った工程が必要だと思います。それは、ここ数年のその地域の動きからも見て取れるような気がします。
お祭り騒ぎや、やみくもに血を流すことが、民主化するための手段として有効なのかというと、そうとは思われないように見られます。
それを反面教師とするべきだという気がします。今の状態を見ると、あまりにも戦略性がないように感じられます。民主主義のない地域にそれを根付かせるには、周到な計画を立てて臨むべきだという気がします。しかし今の状況では、実際にどのように民主化するのか、具体的な計画性があるようには見られないような気がします。
そうなると、それをつくることが急がれるような気がします。そのための時間が必要だと思います。それを得るために、当面は一人の人物に居すわらせることも一つの手段かもしれません。ただ居すわらせるだけでなく、出来るだけ力をそぎ、次の勢力が作られる環境をつくるように持っていくことが求められるような気がします。
戦略性も計画性もなく、ただ勢いに任せたため、うまく進んでいない事例が散見されるような気がします。それを示して説得することも必要かもしれません。
まるで美談のように盛り上げたものの、お祭り騒ぎで政治を変えるには容易ではないのかもしれません。
何が目的なのかよく考えることが必要な時期なのかもしれません。民主化が目的であるならば、このまま血を流し続けていることでそれが成し得るのか、よく考えなければならない時期なのかもしれません。
民主的な政治がなかった地域で、それを始めるのは難しいことだと思います。
何事も難しいことを成すには、冷静な思考に基づく戦略性が必要だと思います。