2014年7月26日土曜日

コンピューターにまかせれば


そう遠くない将来、報道機関では、コンピューターが自動的に記事を書くことが主流になるかもしれません。

金融やスポーツに関する記事は、事実や記録などを基にして書かれるものがあると思います。事実や記憶をコンピューターに与えれば、それを基にして自動的に文章を書く技術が、実用化されはじめているようです。

記者の仕事の中で、“記事を書くこと”をコンピューターが担えるようになってきたと感じます。そしてその技術はこれからも、進化していくような気がします。

 

報道には、記者の取材があってこそ書くことが出来る記事もあると思います。洞察力や行動力が必要な取材もあると思います。

ただ、起こった事実を正確に伝える記事は、その事実と、過去の記録、関連がある資料などのデータを入力すれば、コンピューターが自動的に書くことが出来るようになるかもしれません。

数年後には、録音した音声や、録画した画像をコンピューターに取り込めば、自動的に記事が作成されるかもしれません。

 

考えてみれば、報道がコンピューターによって自動的に記事が書かれるようになると、起こった事実を、客観的に、中立性を保って報じられるかもしれません。

コンピューターは、文体や表現の仕方に個性を出すなど、人間性を感じさせる文章を書くことも出来ると聞きます。読みやすい記事や、引き付ける記事を書くことも出来るのだろうと思います。

 

そして、コンピューターが書く記事には、主張や言論はなく、あくまでも事実を事実として伝えることが出来るだろうと思います。

個人的に、報道はそのほうが好ましいと考えています。

報道は客観性と中立性が保たれるべきだと思うのです。

 

ただ報道機関は、言論機関でもあると思います。

そのため、報道は主観が介在するのは仕方ない面もあると思います。しかし報道はあくまでも客観性と中立性をもって伝えるべきで、そのように報じた後で、その件に関して主張したり、言論を発したりするべきだと思うのです。

 

そういえば、少し前からニュース番組をあまり見なくなりました。自然に見なくなったのですが、その理由を考えてみると、ナレーションがあげられます。

ナレーションには作為が満載だと感じることがあります。

ニュースを報じるナレーションが、声の高低や抑揚の付け方や間の取り方などで、“演出”しているような印象を受けるのです。

『このニュースは視聴者に、このような印象を与えたい』

報道機関の意図を感じます。

 

また、人物の発言や談話、手記などを読み上げるナレーションは、その人物を連想させる声で表現されることが多いと感じます。そして、少し台詞調になることが多いと思います。

『視聴者に、このような人物像をイメージさせたい』

『視聴者に、このような意味合いが込めた発言だとイメージさせたい』

 そんな意図を感じることがあります。

 

個人的に、報道は報じるものの意図は感じられないほうが好ましいと感じます。

 ナレーションが「しかし」というところで区切って、その後に続く言葉の印象を強めさせる“演出”が頻繁に行われていると、それが鼻につき次第にそのニュース番組を見なくなったのです。

 ただある程度“演出”をしたほうが、見ている人は受け入れやすいように思います。

 堅い口調で、報道を読まれるだけでは、見る人が少なくなるかもしれません。見る人が少ないと、テレビ番組は続けられないなどと耳にします。

 

もし、ニュース番組で、報じる内容もナレーションも、コンピューターが自動的に作成するようになったら、客観性と中立性が高まるかもしれません。

そうなったら、報じたあとで、その件について主張や言論をすればいいような気がします。

なんとかして報道に主張や言論を押し込もうとするのではなく、客観的な報道を流したあとで、報道とは明確に区別して、主張や言論を発すればいいような気がします。

 

「解説」と称して主張するのではなく、『これは、私の意見です』『これはわが社の主張です』と明確にして発信したほうが、個人的に好感が持てます。

 報道機関の主張と、出演者の意見が違っていても、いいと思います。

 語尾を曖昧にしたり、隣の人に言わせたりすることなく、だれの主張なのか明確にし、その責任において、堂々と発信したほうが、報道機関やそれに携わるものとして潔さを感じます。

 

 インターネットで報道を読むと、主張や言論が介在していないと感じる時があります。文章ですので、ナレーションの“演出”もありません。

 そのほうが報道から、自分なりの考えをもてるように感じています。

 読むことが億劫になることもありますが、いずれサイトを読み上げるソフトが開発されるかもしれません。僕はパソコン全般にあまり詳しくないのですが、もしかしたら、すでにそのようなソフトがあるかもしれません。

 

 そうはいうものの、ニュース番組を一切見なくなったわけではありません。やはり映像が見たい報道もあるからです。ただ“演出”が鼻につくと、チャンネルを変えることがあります。

 もしインターネットで、客観性と中立性が保たれていると感じられるニュース動画をみつけたら、テレビのニュースは見なくなるかもしれません。

2014年7月25日金曜日

文章自動作成ソフト


「ロボット記者」

 少し前にそんな言葉を目にしました。

アメリカの報道機関で、企業決算に関する記事を、コンピューターによって自動的に作成する試みをはじめるそうです。それによって記事の数が格段に増やせるようです。

自動作成された記事は、人間の記者が確認してから発信され、また世間の関心の高い企業の記事は、今までどおり人間が書くとのことです。

 

「ロボット記者」と聞くと、アニメやSFで描かれるような、人間型のロボットが人間の記者と同じように取材をし、人間の記者と同じように机に座って記事を書く姿が思い浮かびます。

 人間の記者とコンビを組んで取材をし、ロボットの機能を生かして活躍する物語を想像します。はじめは人間の記者とロボット記者の関係が、ぎくしゃくしていたものの、次第に息が合うようになり、そんななか殺人事件の取材をしているときに、巨大な陰謀に巻きこまれる。そんな物語を想像します。

しかしそういうものではなく、コンピューターが自動的に文章化することのようです。

 

記者は取材することも仕事だと思いますが、ここでいう「ロボット記者」は“記事を書く”その仕事だけをするようです。

ただそれにしても、コンピューターによる自動的に文章化するとなると興味がわきます。そこで、インターネットで検索してみました。

すると一つのサイトに、今年3月の日付がついた文章がありました。それには、アメリカの報道機関では、コンピューターによって自動的に記事を作成するプログラムが実用化されているという趣旨のことが書かれていました。

 

 地震が起きた時、発信された記事が、そのプログラムによるものだったそうです。その記事を日本語にして要約している文章を読むと、まったく違和感がありません。普段から、よく見聞きする地震を報じる記事だと感じます。

 何もいわれなければ、コンピューターが自動的に書いたとは気づかないと思います。

 そのプラグラムを用いると、殺人事件も自動的に記事を作成し、即座に報じることが出来るようです。

 

また、スポーツの結果や金融に関する記事を、コンピューターで自動的に作成する“ロボットジャーナリスズム”に関する企業が、アメリカには数社あるそうです。

スポーツに関する記事の場合、今回の試合結果や過去の戦績、選手の記録などを取り込んで、自動的に文章に起こすようです。

そしてそれは、事実や記録を羅列するだけでなく、人間性を感じられるというか、読んで受け入れられるような文章を書くことが出来るようです。負けたチームを取り上げたり、好プレーに焦点を当てたりするとのことです。

 

金融に関する記事などは、企業の決算、過去からの業績の変遷、専門家による市場予想などを、取り込んで自動的に文章にするのだと思います。

そして、コンピューターが自動的に書く記事は、対象を絞ることも出来るとあります。

金融関連の記事の場合、特定の株主だけにむけたものが書けるということのようです。

スポーツの場合は、一般向け、チームがある地域向け、競技団体向けなど、内容を書き分けることが出来るのかもしれません。

何に焦点をあてるのか、誰を対象とするのか、それによって記事の書き方は違ってくるものだと思います。

コンピューターではそれが簡単に設定できるようです。

 

そこで別のサイトを見てみると、2012年の7月つまり一年ほどまえに書かれた文章がありました。

そこには、野球の結果や、株式市場などに関する記事を自動的に作成するソフトが開発され、アメリカの企業が使用していると書かれています。

そのソフトはIT企業が作ったそうで、それによって自動作成した記事を報道機関に配信しているそうです。

その際に、配信する報道機関に合わせて、個性というか“らしさ”を加味した記事が書かれるそうです。

報道機関の方向性や、文章表現の仕方などを、データとしてソフトに与えることで、それが出来るようです。

 

冒頭にかいた「ロボット記者」は、今月の初旬に目にしました。すごく新しいことだと感じましたが、インターネットで検索すると、もっと以前に書かれている文章が見つかります。

大分前から進んでいた事柄なのかもしれません。

 

こうしてみると、個人的にいくつかの考えが浮かんできます。

そう遠くない将来、文章の自動化は一般にも普及するかもしれません。

手紙やレポート、業務関係の書類などが、コンピューターによって自動的に文章化されるということです。

いくつかのデータを入力し、目的や対象を指定し、例文から望ましい雰囲気の文体を選択し、テーマの優先順位を決定し、実行キーを打てば、コンピューターが自動的に文章を書いてくれる、そんなソフトがあたりまえのように使われる日がくるかもしれません。

2014年7月24日木曜日

権力者の憂鬱


江戸時代の徳川将軍は、絶大な権力をもっていたと思います。

僕は歴史が嫌いではないのですが、あまり詳しい知識はありません。そのため理解不足や、認識不足や、勘違いや間違いがあるかもしれませんが、江戸時代は将軍という一人の人物が、非常に強い権力を有していたと思うのです。

そしてそれは、江戸幕府のはじまりから最後まで続いたような気がします。

 江戸時代、将軍は“絶対的権力者”という印象があります。

 

 しかし将軍が、すべて権限を実質的に有していたかというと、そうではないような気がします。

 何から何まで将軍が決めていたというわけではないと思うのです。形式はそうなっていたとしても、事柄によっては別の人物が実質的権限を持っていたような気がします。

ただ実質的に持っていた権限の多さは、将軍個人によって違っていたような気がします。

まつりごとに強い関心を持っていた将軍もいたと思いますし、そうとはいえない人物もいたと思いますし、一つの事柄にはこだわりながらも、別の件では他者にまかせっきりだった将軍もいたと思います。

 

 それにしても、権力者が、実質的に、絶対的な権限をもっているとは限らないと思います。

そして、“権力の強さ”と“権限の多さ”に差があるのは、世襲による権力者に見られる傾向だと思います。

“絶対的権力者”は、存在すること自体が、統治に役立てられている側面があると思います。

江戸時代の場合、徳川将軍が君臨していることそのものが、国を治めるうえで重要だったと感じられるのです。

 

“絶対的権力者”を君臨させる場合、世襲されていくことで、国民に“決まっていること”であり、“逆らえることではない”という観念をあたえやすいと思います。

その観念は、将軍の権威を強めることに繋がると思います。

しかし世襲では、必ずしも有為な人物が権力者になるとは限らないと思います。

そうなると、強い権力を持ちながら、実質的な権限はあまりもっていないこともあると思います。

 

ただ、権力者が君臨していることを統治に利用しているのですから、国民にも他国にも“お飾り”に見えることは、出来るだけ避けたほうがいいと思います。

“絶対的権力者”は“絶対的な権限の所持者”ではない、それが実態だとしても、国民や外国には権力者がすべての権限を有しているように見せようとするものだと思います。

また権力者を祀り上げるには、当人にも“お飾り”だと感じさせないほうが、やりやすいと思います。

“絶対的権力者”には、自分が“絶対的な権限の所持者”であると思い込ませておくということです。

 色々な形があると思いますが、実質的な権限の多くを側近がもっている場合があると思います。

 

 そのような体制では、“絶対的権力者”の下で、権力争いがあるものだと思います。“絶対的権力者”が君臨していることを統治に役立てているのですから、権力を欲する者は、権力者を倒すのではなく、そのふところで権力を得ようとするものだと思います。

 つまり側近が争うということです。

ただ、どの側近が争いに勝っても、“絶対的権力者”を君臨させ、それが“絶対的な権限の所持者”であるように見せるものだと思います。

 

 側近同士が争っているときは、外から見ると“ちぐはぐ”なことをしているようにみえると思います。

 側近が実質的な権限を持っていて、それが争っているのですから、側近の意見が分かれている場合、それが表れると思います。

側近の権力闘争が終わると、方向性が定まることがあると思います。強硬志向の強い人物が権力闘争に勝ったのなら、何をするにしてのそれが根底にあると思います。

 

 では権力者が世襲ではない場合について考えてみます。

 権力者は、その座につくために争わなければならないと思います。

 権力者は、権力をめぐって争いをしなければならないと思います。

権力者は、自分に反する者が力をつけることを防がなければならないと思います。

権力者は、闘争相手を蹴落とそうとすることもあると思います。

権力者は、その座を奪おうとするものに対して、謀ることもあると思います。

 

そのようなことをするには、他者から協力を得る場合もあると思います。

そうなると、権力者の味方には、絶対服従している手下ばかりではないこともあると思います。

権力者にとって今は味方でも、決して従順ではない人物もいるということです。権力者になるには、そういう人物と繋がりを持つことが必要だと思います。

世界中から非難されるようなことした勢力の中に、そんな“味方”がいる場合もあると思います。

権力者は世界的に非難されても、そんな“味方”を離すわけにはいかない場合もあると思います。

そんな“味方”は、絶対服従している手下ではないので、切り捨てることなど出来ない場合もあると思います。

それが権力者を追い込むことになる場合もあると思います。

権力者には、なだめて引かせることが出来る時機があったかもしれません。それを逃がしたことが、これから重くのしかかってくるかもしれません。権力を失うきっかけになるかもしれません。

2014年7月22日火曜日

丁寧な説明


 消費税は、何十パーセントであろうが、あくまでも単一税率で行ったほうがいいと思います。

 軽減税率を導入するという法律は、10%の間に改正するべきだと思います。

 

 日本の社会保障費が、これからも増加し続けていくことは確実だと聞きます。

 その財源を確保しなければならないため、消費税が増税されるのだと思います。

 消費税は景気に左右されにくい税制度であるため、確実に増えると見込まれることに充てるには適した財源だと考えられます。

 

 ただ“景気に左右されにくい”ということは、不景気でも税金を納める額が下がらないという見方が出来ると思います。

 それは国民にとって重い税金ということになると思います。

 国にとって必要だから、重い税だということを承知して、導入するべき制度だと思います。

 軽減税率は、その重さを軽くする策としては、発想が安易で、効果が不十分だと感じられます。

 

”低所得者の税負担の軽減”
”すべての消費者の税負担感の軽減”
それが軽減税率の利点だと思います。

 軽減税率の不利点を考えてみます。
”低所得者の税負担軽減としては不十分だということ”
”税収が下がるということ”
”さらなる増税の理由になり得るということ”
”今後消費税の税率が上がりやすくなるということ”
”消費者にとって価格がわかりにくくなるということ”
”対象とする品目の選定が難しいということ”
”販売者にとって事務処理が煩雑になるということ”
”生産者や加工者にとって事務処理が煩雑になるということ”
”そのための費用が発生するということ”

 

 軽減税率は、低所得者の税負担を軽くするには不十分だと思います。

 しかし軽減税率で低所得者対策をしているということで、十分な対策が施されないかもしれません。

それでは低所得者の税負担は、軽くならないと思います。

そこで軽減税率を導入し、さらに別の低所得者対策を行うことになるかもしれません。しかしそれなら、軽減税率を導入する意味が薄くなると思います。

わざわざ不十分な対策を講じる必要はないということです。

 

マイナンバー制度の、導入に向けた取り組みが進められていると聞きます。

個人情報の管理に不安がなくなり、有効に活用されるようになれば、所得に応じた税負担の軽減策が講じられると思います。

軽減税率よりは、ずっと確かな対策になると思います。

そのように有効な低所得者対策が、将来実施できるようになったとしても、一度軽減税率を導入してしまうと、やめることは出来ないと思います。

「所得に応じた給付金を支給しますので、消費税の軽減税率を廃止します」

 それは相当に難しいと思います。

 軽減税率ははじめから導入しないほうがいいと思います。

 

 世界に目を向けると、軽減税率を導入している国が多いと聞きます。

 国によって事情は様々だと思いますが、安易な発想は、安易であるがゆえに大衆に受けいれられやすかったのかもしれません。

 また、“他の国もやっている”ということで、思考が硬直したのかもしれません。

 あまり深く考えずに、真似すればいいということだったのかもしれません。

 新聞や書籍を軽減税率の対象にすることで、マスコミによる消費税に対する批判を抑えようとしたのかもしれません。

 

 軽減税率は対象とする品目の選定が難しいと思います。それには、業界や企業の思惑が大きく関わると思います。政治的影響力が関わることもあるかもしれません。

それらによって選定は複雑になり、対立や混乱が起こりやすいような気がします。

消費税はあくまでも単一税率で行い、それに国民が耐えられないほどには上げないようにするべきだと思います。

 

それに、軽減税率を導入すると、どうしても税収が下がってしまいます。その分の財源を別の方法で確保する必要があると思います。

しかし消費税のように景気に左右されにくく、安定した財源を見つけるのは大変だと思います。

そうなると、さらに増税するということになりそうな気がします。

軽減税率の導入が、さらなる増税の理由になるということです。

 

『軽減税率で税負担を軽くしているのだから』という意識が政治家にも国民にもあるため、消費税の税率が上がりやすくなると思います。

今まで日本は、消費税をあげることが難しい国だったと思います。

消費税は国民にとって重い税制度だと思いますので、あまり簡単にあげられないほうがいいような気がします。

 

軽減税率の導入に積極的な政治家が『国民から理解が得られるように、丁寧な説明しなければならない』という趣旨のことを言っていたと思います。

この言い方ですと、丁寧に説明すれば理解が得られるような論理があるのだと思います。

それがあるのなら、政治家はちゃんと丁寧に説明しなければならないと思います。

一国民として、ぜひ聞かせてもらいたいと思います。

軽減税率の導入が、国民にとって“いいこと”だと思える意見を、今までに聞きたことがないからです。

それを聞いてから、改めて自分の意見を考えたいと思います。

 

もし、丁寧に説明すれば理解が得られるような論理がないのに軽減税率の導入を進めているのであれば、政治家であれ、政党であれ、マスコミであれ、その他の企業であれ、業界団体であれ、糾弾されても仕方ないと思います。

2014年7月21日月曜日

消費税の逆進性と軽減税率


 人間は大勢で集まって社会を作っているのだと思います。

 それは人間一人一人にとって“良いこと”がたくさんあるからだといえるような気がします。

 社会とは、ただ単に大勢の人間が集めっているのではなく、一人と一人、一人と集団、集団と集団、それがつながる仕組みといえるかもしれません。

 

 社会を作って、維持していくには、いろいろなものが必要だと思います。

 お金はそのなかでも、もっとも重要なものの一つだと思います。

“社会”そのものを続けていくためにもお金が必要だと思います。それは全員のためのお金といえるかもしれません。

 また、必ずしも全員にとって必要ではないモノやコトのためにも、お金を使っていると思います。

 支え合うことも、社会を作る意義だと思います。

 

社会の中の誰かを支えるためのお金も、“みんなのためのお金”といえるかもしれません。 

 そのお金はみんなで出し合うことになると思います。

 税金は、“みんなのために必要なお金”を、“みんなで出しあったお金”といえるような気がします。

 

 それは、みんなが同じように出し合うべきだと思います。

ただ“みんな”の中には、じつに様々な人がいます。

 お金をたくさん持っている人もいれば、少ししか持っていない人もいます。

 お金をたくさん稼いでいる人もいれば、少ししか稼いでいない人もいます。

 様々な人がいるのですから、同じ金額を出し合うわけにはいかないと思います。

 それぞれの人が、稼いだ金額や持っている資産に応じたお金を出し合うことになると思います。

 

 社会には色々な税金がありますが、稼ぎが多い人の方が、少ない人より、高い金額を収めるものが多いと思います。

 また、お金や価値の高いものを、多くもっている人の方が、少ししか持っていない人より、多くのお金を納める税金もあると思います。

 それは、税金の基本的な考え方といえるような気がします。

 お金を少しし持っていない人や、少ししか稼いでいない人が、多くの税金を納めていたのでは、生活が苦しくなると思います。

 

 しかし消費税は、大金持ちも貧しい人も、同じものを同じ数だけ同じ値段で買えば、同じ税金を払います。

 そうなると、“税金の重さ”は貧しい人ほど重くなると思います。社会で生活していくためには、どうしても必要なものがあると思います。

 食料品などの生活必需品です。多くの場合、それは“買う”ことで手に入れなければならないと思います。

 お金持ちは、生活必需品を買っても、まだ多くのお金が残ります。貧しい人は生活必需品を買うと、少しのお金しか残らないと思います。

 生活必需品を買うにも、お金が足りなくなる人もいると思います。

 

 それは貧しい人ほど、税金が重くなるといえると思います。税金の基本にある考え方に、沿っていないと思います。

 そこで生活必需品の税率を低くするのが軽減税率だと思います。

 所得の低い人ほど、生活必需品にかけるお金の割合が大きいのだから、生活必需品の税金を安くすれば、低所得者の税負担が軽くなるという考え方だと思います。

 

 しかし、同じものを同じ数だけ同じ値段で買えば、大金持ちも貧しい人も同じ金額の税金を納めることに変わりはありません。

お金持ちは、生活必需品でも値段の高いものを買う傾向が見られます。

 また、お金持ちは生活必需品を、多く消費する傾向があると思います。そのため、貧しい人より、多くの生活必需品を買う傾向が強いと感じます。

 つまり、お金持ちは生活必需品にかけるお金が多くなる傾向があるということです。

生活必需品の税率が下がると、お金持ちも税金の負担が軽くなると思います。

 

 生活必需品の税率を下げても、貧しい人だけの税負担が軽減されるわけではないと思います。

 むしろお金持ちのほうが、軽減される割合が高くなる場合もあると思います。

 それでは逆進性の解消にはならないと思います。少なくても、低所得者対策としては、あまり有効ではなく、不十分だと思います。

 

 そもそも消費税は逆進性があるからこそ、安定した財源になるのだと思います。

 逆進性があることを前提としている税制度であるといえるかもしれません。

 逆進性を受けいれなければならない税制度であるような気がします。

 所得は景気に左右されるものだと思います。所得にかける税金も、景気に左右されることになると思います。

 消費も景気に左右されるものだと思います。しかし消費税は、景気に左右されにくいといわれています。

だから安定した財源になると聞きます。

 

消費活動は景気が良ければ増えて、景気が悪くなれば減ると思います。

それでも消費税が安定した財源になるのは、景気が悪くても買わなければならないものに税金が掛っているからだと思います。

つまり生活必需品です。

消費税は生活必需品にこそ、かけるべき税制度であるといえるかもしれません。

それだけに、低所得者にはちゃんとした効果がある対策が必要だと思います。