2014年3月7日金曜日

記録し保存し管理する媒体


歴史の教科書に載っている人物は、実在した人物だと頭では理解しているものの、なんとなく現実感がないというか、物語の登場人物に対する印象と似たような感じかたをしているような気がします。

 

歴史はあらゆる物語の題材になります。その物語の登場人物は、歴史上の人物になる場合が多いと思います。

また、歴史とは物語のように認識されることが多いような気がします。何かが起こるから歴史となるのだと思います。社会や国や世界にとって大きな出来事がなければ、年表にはなにも書かれないと思います。

何かが起こるには人間関係や利害関係が関わっているものだと思います。そのような関わりがあって、大きなが出来事が起こるのですから、人はそこに物語性を感じやすいのだろうと思います。

 

そんな歴史上の人物が自身で書いたとされる書状が見つかったという話題を耳にすると、なんとなく『本当に実在した人物なんだな』という気持ちが湧いてくることがあります。

歴史上の人物のなかには、近年の研究によって実在していなかったのではないかという説を耳にすることもあります。ただ戦国時代から江戸時代の有名な武将となると、実在していたことは確かだろうと思われます。

頭では“実在した”とわかっているものの、どこかに架空の人物のような感覚があるような気がするのです。

 

 そんな感覚に伴って『よく残っていたものだな』という考えも浮かんできます。

 戦国武将の書状となると、人物の存在が疑問視されるほど古いものではないと思います。それでも何百年の前のものです。しかも紙です。

紙が随分長い時間残っていたと思うと、そのこと自体に対して『すごいな』と感じるのです。

 

 紙は火がつけば燃えてなくなってしまします。水につかればやぶれてしまいます。破れるほどでなかったとしても、書かれたものは滲んでしまうことがあると思います。そして紙は、数枚なら重ねても、子供の力で簡単にやぶれてしまいます。

 さらに紙は、虫やカビなどによって状態が悪くなることもあります。

 最近の技術でしたら、火をつけても燃えない紙や、水に浸しても破れない紙や、水をかけても滲まないインクや、そう簡単には破れない紙や、虫やカビを防ぐ紙などがありそうな気がします。

 しかし、そんな高機能紙ではない何百年も前の紙が残っているのは、そのことだけで単純に『すごいな』と感じるのです。

 

『紙は長く残せる媒体である』 

ふとそんな気がしました。もちろん条件によると思います。しかしそれは、条件が整えば非常に長い時間残していけるということだと思います。

 それは歴史的なものばかりでなく、現在でもいえるような気がします。僕はパソコンにあるデータで、書類など印刷できるものは印刷するようにしています。パソコンを起動してファイルをひらくより、引き出しを開けて綴りをめくっていくほうが手っ取り早いと感じるためです。

 

 それは僕がパソコンにあまり詳しくないためだと思います。おかげで何度もデータをなくしています。今までに何回かパソコンに不具合が起き、初期化したり、修理に出したりしていますが、その度に何かしらデータをなくしています。

パックアップをとることの大切は聞き及んでいますので、それを行っていたつもりなのですが、いざ不具合が起きてみると『あのデータ、バックアップをとるのを忘れてた』とか『あのデータ、なくなってもいいやって思っていたけど、やっぱり残しておくべきだった』などと悔やむことが何度となくあります。

 

また、バックアップとしてCD-Rに書き込んだものの、数年後にはそのデータが消えてしまったこともあります。

CD-Rの使い方を正しく理解していなかったのか、書き込みが出来なくなったことがありますが、ちゃんと保存できていたはずなのに数年後に消えていたのです。

どうやらCD-RDVD-Rはそういうものらしいのです。考えてみれば保存しているデータは物質ではないももの、CD-RDVD-Rはモノです。時間が過ぎるほどに品質が劣化するのは当然なのかもしれません。

 

そんなこともあって、個人的に紙は保存媒体として有効だという気がします。大量の書籍などを保存する場合、紙はかさばりますし重いため大変だと思いますが、僕のパソコンにあるデータ程度なら、紙にしても大変というほどではありません。

4月になると、基本ソフトのサポート期間が終了するため、データを新しいパソコンに移しました。古いパソコンに保存しておくデータのなかで、印刷できるものは印刷しています。古いパソコンもインターネットにつなげない用途で使うつもりですが、USBメモリや外部機器に繋がないほうがいいと聞きますので、今のうちに印刷しているのです。

パソコンが壊れても、CDRが壊れても、紙に印刷したデータなら残っていくと思うのです。また、CD-Rが廃れてパソコンに読み取り機能がつかなくなっても、紙に印刷したデータなら、机の引き出しを開けて取り出すことが出来るだろうと思っています。

2014年3月6日木曜日

「華氏451度」 レイ・ブラッドベリ著


 先日、書店で「華氏451度」を見つけました。以前書いたのですが、僕は若いころこの作品を読みました。ただその時は借りて読んだので手元にありません。

読み返したくなったので購入しようと思ったのですが、そのときは書店にも古本チェーン店にもありませんでした。

『いずれ本屋で見かけることもあるだろう。その機会に読むことにしよう』

 その機会がありましたので購入しました。

 

 以前「火星年代記」について書いたことがありますが、そちらは寓話的な作風を感じました。「華氏451度」は文学的な表現が多いような気がします。

 そのため、この作品は時間をかけて読んだほうが堪能できるような気がします。僕は本を読む速度が遅いほうですし、今回も特に急いで読んだわけではありません。それでも読み終わったとき、次に読むときはもっと時間をかけてみたいという思いが湧いてきました。

 

 この小説はSFで、本を燃やす役人が主人公です。役人が本を燃やすということは、本をもつことを当局が禁じているからです。

それは言論を封じるためです。初めて読んだときはそう感じていました。読む前からそのような印象を強くもっていたような気がします。この本を紹介する文章や解説を先に読んでいるからだったような気がします。

 

今回感じたのは、当局が取り締まっているのは“考えることそのもの”だというものです。言論の封殺もあるのですが、“考えること”それ自体を封じているような気がしました。それと記録を残していくことです。

この作品では、“本を読むこと”は“考えること”の象徴であり、“本を持つこと”は“記録を保存し管理すること”の象徴であるような気がしました。

それを当局が禁じている社会を描いているという印象を持ちました。

 

 そして本を読むことは、当局に禁じられる前から人々が行わなくなったという書かれた部分があるように思います。

本を読むことには、“読む”という作業を行うことです。それに“考える”という労力をかける必要があると思います。

そしてまた、本を読むには時間を要するものだと思います。

この作品では、その作業や労力や時間を人々が減らそうとしたため、本が読まれなくなり、それらを要しない媒体にとって変わられたという部分があるような気がします。

その後に本が禁じられ、媒体が思想の管理に使われるようになったと描かれているような気がします。

その媒体はテレビやラジオですが、現代のそれとは違っていて、個人を対象としているものだと書かれているように思います。ただそれはそのような作り方をしているだけのようです

 

 なんとなく現代と重なる要素があるような気がします。

 今はインターネットが広く使われています。インターネットで情報や知識を得られるため、本を読むという作業も、考える労力も、それにかかる時間も、使わずに済むと多くの人が感じているような印象があります。

 しかし本当は、知識を得た気がするだけなのかもしれません。考えている気分に浸っているだけなのかもしれません。

 

 何度か書いていますが、思考は人間性が主導するものだと思います。自分では冷静に客観的に思考しているつもりでも、個人的な価値観や思想、また利害や人間関係など社会的な事柄が思考の先に立つものだと思います。

 持論に合うと思しき事柄が書かれているものは、はじめから好意的な印象をもって読むものだと思います。

 反対意見は、はじめから『どのように反論しようか』という意識をもって読むものだと思います。

 

 インターネットは多くの意見があふれているため、様々な声を取り入れて考えることが出来るし、実際に自分はそうしていると考えがちです。

しかしその実、賛同する意見にはさらに強く賛成し、反対する意見にはさらに強く反対するようになっているような気がします。

 つまり、持論に対する固執を強めるばかりになっていることが多いような気がします。

 しかも本人はそれに気づいておらず、またそれを認めようとしないように感じることがあります。

『私はインターネットで多くの情報を集め、それらを冷静に客観的に吟味している』

 

それは“自分の頭で考える”ことを省いているように感じることがあります。そのため器量が小さくなっているように感じることもあります。

短時間で多くの情報と意見を得ることも必要だと思います。それが役立つことも多々あると思います。

しかし、“読むこと”や“考えること”の労力をかけることで得られることがあると思います。

また、そのために時間をかけることで得られることがあると思います。

それを知らないために、本が読まれなくなっているのかもしれません。

2014年3月4日火曜日

幻想


 軍隊を動かしたことは、政治的には最悪なやり方だったと思います。

 軍隊を入れてから、住民投票が行われたのでは、当事国の主権を尊重したとは見られないと思います。そのようは批判を受ける理由を作ったといえるような気がします。

 また、連合が政変を後押したのだと非難しても、大国は軍隊を入れているのですから、まるで説得力がないと思います。

 軍隊を入れずとも、半島を味方に引き寄せるやりようはあったように思います。そうすれば世界中から非難されることもなかったとも思います。

 

軍隊を入れてしまったからには、何をいっても大国の思惑を強引に進めようとしているとしか見られないと思います。

それは大国だけが悪玉に見えてしまうということになると思います。それは政治的に大失敗だったといえるような気がします。

 政治的に大失敗をするということは、政治家として無能を意味するとみられるかもしれません。

 政治家としての無能ぶりを世界中に見せてしまったといえるかもしれません。

 

 ここで挽回するには、すみやかに軍隊を引き揚げるしかないと思います。しかしそれでも挽回しきれるものではないと思います。また、ここで軍を引くには、政治家としての器量が必要だと思います。おそらくそれがないから軍隊を動かしたのだろうと思います。

 

 また、ここで軍隊を動かすということは、混乱と争いの火種を持ち込むようなものだと思います。

 軍に対抗するには軍しかないという人もいると思います。しかしここで戦いが始まってしまうと、それは長く続き、簡単には収まらず、戦いは広がるかもしれません。

 戦いが始まらなくても軍がはいることそれ自体が、混乱を長期化することにつながるかもしれません。

 そう考えると、ここは同じやり方で張り合うのではなく、政治的な戦略性が重要だと思います。

軍を動かしたことが政治的に大失敗であるとするならば、それ犯した政治家はひとりだと見えるようにすることも政治的な戦略だと思います。

 

 権力には魔力があるのかもしれません。

 有史以来、あるはそれ以前から、権力に取りつかれた人物は数え切れないほどいるような気がします。

 権力に取りつかれたものは、永遠にそれを手放さないと、したがるものかもしれません。

 存命中はもちろんですが、自分がこの世から去った後でさえ権力者であり続けようとするものかもしれません。

 それが絶対に不可能だとは言い切れないかもしれません。しかし、強大な帝国が永遠に栄えることも、ひとりの人物が永遠の権力者になることも、可能性は相当に低いような気がします。

 そして、強大な帝国が崩壊する時も、絶大な権力者がその座を追われることも、内側からの力による場合が多いと思います。

 

選挙の不正や、政敵に対する直接的な攻撃など、このところの大国からは、かつての連邦時代を思い起こさせることを見聞きします。

それらに関して、国内に批判的な声が高まっていると聞きます。しかし、かつて連邦を崩壊させるほどの勢いには達していないようです。

それにしても次第に高まっていることは確かなようで、そのため抑え込もうとすることも増えていると聞きます。

今の権力者はその座についたときから、高い支持を受けていたような気がします。その支持は下がっているものの、今すぐ権力の座から降ろされるほどではないと聞きます。

 

かつて連邦が崩壊したのは、その強権政治を国民が拒んだことが大きかったような気がします。

そんな連邦だった時代を彷彿させるようなことが度々みられ、反対する声も聞かれますが、それがかつて連邦を崩壊させたほど高まらないのは、連邦が崩壊したとき、思い描いたようによくはならなかったという観念を持っている人も少なくないのかもしれません。それを意識している人もいれば、無意識のなかにある人もいるかもしれません。

その観念が、多少強権的であっても、強いリーダーを受けいれる気持ちに繋がっているのかもしれません。

 ただその気持ちにも陰りが見えてくるころかもしれません。

 永遠の権力者など幻想に過ぎないのかもしれません。そうなりたい人物の幻想であり、そういう人物を求める大衆の幻想なのかもしれません。

しかし幻想を求めるものは、自分では幻想だと気付かないものだと思います。気づかないからこそ追い続けるのだと思います。

幻想を追い続けるため、陰りを力で押さえつけようとするかもしれません。しかし押さえつけることで、陰りが闇に変わることがあるかもしれません。

それでも幻想を追うものは、立ち止まることも、引き返すことも出来ないものかもしれません。

2014年3月3日月曜日

短絡的


大国も連合も、お互いのモノやヒトの行き来が円滑になるほうが得だと思います。大国と連合の間にある国は、橋渡しの役割を担ってもらったほうが双方の利になると思います。

 

 間に挟まれている国は、経済的にも政治的にも、今すぐに大国との関係を断ち切るわけにはいかないと思います。

将来的にも[連合と大国]を[100対0]にするわけにはいかないと思います。

“連合と大国”どちらかに付くという二者択一ではなく、“どちらに重きを置くか”という、あくまでも方向性の対立だったと思います。

 しかし“どちら”という二極的対立になると、民衆の意識は先鋭化しやすいものだと思います。

 

 また、連合に加わりたいというのは、“気持ち”の面が大きいように見られます。“気持ち”は反対されるほど高ぶることがあると思います。

 気持ちの高ぶりも、対立をより先鋭化させることがあると思います。実利的な見方をすれば、“どちらか”よりも“どちらも”のほうが、得られることが多いとしても、まるで片側が善玉で、対する側を悪玉だという印象をもってしまうことがあると思います。

 

仮に連合に加わったとしても、間に挟まれているのですから、経済的に大国との関係を断ち切ってしまっては、その国も連合も得はないと思います。

軍事的にも、連合に加わった途端に大きく向きをかえるわけにもいかないと思います。大国と敵対することは得策ではないと思います。 

 

それにしても対立する感情が高ぶってしまうと、なかなか収まらないものだと思います。

収まらない対立を抱えて、無理に一つの国にまとめようとしても、それはより深刻な事態を招くことがあると思います。

特に現代社会は、ちょっとした火種が一気に燃え上ってしまう危険性を常にはらんでいると感じます。

 

そして燃え上がってしまうと、鎮火することが難しく、広く延焼し、長い時間燃え続け、ようやく消えたと思いきや、ずっとくすぶり続けるようなことになるような気がします。

混乱と対立が長引くくらいなら、民主的な方法で平和裏に別れたほうがいいという考え方もあると思います。

泥沼の対立によって、多くの血を流したあげく分裂したのでは、その後の関係も険悪なものになりやすいと思います。

 血を流さず、民主的な方法で、別れたのなら、それほど険悪にならずに済むこともあると思います。そうなると別れた後も、実利のために友好的な関係を築ける余地が出来るかもしれません。

 

 意見対立が強まっている場合、多数決を採ると、別れる結果になる可能性が高いと思います。

 大国からすれば、軍隊を入れなくても、住民投票に持ち込むことが出来れば、味方を得られ可能性が高いような気がします。

 大国からすれば、当面は現状と同じ状況を続けられるなら、マイナスはないと見ていいような気がします。

 そうなると半島を大国に組み入れるよりも、今の時点では独立国家になってもらったほうがいいのではないかと思います。一つの国になると、そこにある軍はその国に移しやすいと思います。

住民投票で、平和的に独立国家が出来たなら、大国は世界から非難されることなく、確実に重要な味方を得ることが出来たかもしれません。

 

住民投票の結果となると、その国の主権を尊重したことになります。大国としては、住民投票に持ち込むように、当事国を含め世界に働きかけるやり方があったと思います。

しかし軍隊を入れたとなると、軍事的な対立の火種を持ち込むことになると思います。世界中から非難されると思います。

国民の対立意識も強まると思います。それが強まるほど、多数決という方法はとられにくくなることがあると思います。対立意識が強まりますし、感情が高ぶりますし、同じやり方で対抗する心理が強まるような気がします。

そう考えると、現状で軍の直接介入は最悪の手段だという見方があるような気がします。

政治的な戦略性がなく、洞察力も先見性もない非常に短絡的なやり方だと思います。

事態を荒らすだけで、誰も得しないやり方だと思います。

 そのようなやり方をするものは、政治家として能力が劣っているとみられるかもしれません。

 政治家として能力が劣っていることを世界中に知らしめることになるかもしれません。

 

 権力者のなかには、その座を追われることに常におびている者がいると聞いたことがあります。おびえているがゆえに強権的になると聞きます。強く出るのは“おびえ”の表れだと聞いたことがあります。それを指摘されるほど、強く出ると聞いたことがあります。隣の国の権力者が、権力の座を追われ、贅沢三昧な暮らしを晒され、逃げ出すしかなかった様子を目にして、“おびえ”が強まったのかもしれません。ただ大抵の場合、本人は“おびえている”などと思わないものだと聞きます。そしてまた強く出るものだと聞きます。

2014年3月2日日曜日

間に挟まれている


高校の運動部で、顧問のやり方に部員から批判が高まっているときの部長や、企業や団体の内部で勢力を争っている上役の間に挟まれている中間職や、政策で住民の賛否が分かれる地域で、どちら側とも商売上の付き合いがある商店など、“間に挟まれている”という状況は、社会にいくらでもあるような気がします。

 

“間に挟まれている”人は、『難しい立場におかれている』といわれることがあると思います。

実際“間に挟まれている”人は、気を使い、頭を使い、ときに時間やお金を使わなければならないこともあると思います。

ただ難しいだけに、上手く捌くことが出来る者は、周囲から高く評価されることがあるように見られます。

単に双方にいい顔をするのではなく、反目する者同士を結び付けるため骨を折り、工夫し、説得し、手を組ませることが出来たなら、それを成した人物は当事者だけでなく多くの人たちから認められると思います。

反目する者が協調することで、色々な方面で利することがあるものだと思います。

周囲にも小さからぬ益をもたらすこともあると思います。

 

ただ“間に挟まれている”のが個人ではなく国だと、状況はさらに難しくなるような気がします。国民の間でも対立が起こるのは必至といえるかもしれません。

 現在、大国と連合の間に挟まれている国が、難しい状況になっているように見られます。

 

 間にあるのですから、大国と連合の橋渡しになれる位置にある国だと思います。

 大国と連合を繋ぐため、様々な役割を果たせる位置にあると思います。

 役割を上手く果たし、大国と連合を繋ぐことが出来れば、その国は多くのものを得ることが出来ると思います。

 しかし実際に橋渡しをすることは、とても難しいことだと思います。

 まして以前は大国に加わっており、その後も関係が深いとなると、出発点が中間点ではないようにも見られます。

 

つまりはじめから大国に寄っているというか、そこから始まっているといえるような気がします。政治や経済では、大国とのつながりが深く、またそれだけに諍いもあるように見られます。

 そんななか、連合に寄りたいという声が強まるのは、実利面もあるでしょうが、心理的な面も小さくないような気がします。

 

 しかし現実的な面をみると、少し前、連合は加盟国の信用不安があり、大国との間に挟まれている国を支援する余裕はなかったように見られます。その時に、大国側に寄ったのは財政や経済を考えればもっともだったような気がします。

 そして連合の信用不安が収まったように見られると、また連合に近寄りたくなるのは心理的な動きのような気がします。

しかしそうなると大国は、色々と手を尽くして、引き寄せようとしたように見られます。

間に挟まれた国には、それに応じた人物がいたように見られます。

 それが大きな反発を招いた感があります。

 

 それにしても、今のこの国の状況で、経済にしろ、軍事を含めた政治にしろ、連合か大国かのどちらかを選ぶことは出来ないような気がします。

 実際“どちらを選ぶか”というより、“どちらに重きを置くか”という方向性の争いだったと思います。

 しかし世にあるあらゆる対立は、激しくなることで、その理由が先鋭化することがあると思います。

 国民のなかに“大国か連合か、どちらを選ぶか”という意識が強まっている印象を受けます。

“どちらか”という二極的対立意識は、強まりだすとなかなか収まらないものだと思います。そうなると、国民間での対立も強まるばかりになることがあると思います。

 

人間は、仲が悪い者同士が無理やり組むよりは、別々になったほうが上手くいくこともあるような気がします。

 今の国民の意識では、なんとしても一つの国にしておくよりも、平和的に分かれたほうが上手くいくかもしれません。

『喧嘩して傷だらけになるくらいなら、多数決で決めよう。それで袂を分かつことになるかもしれない。だがもし別々になっても、隣同士になるのだし、平和的に分かれたのだから、いがみ合うことなく、事柄によっては協力していこうじゃないか』

 

 砕かれてしまう前に、きれいに切り分けることも一つの“手”だと思います。対立感情が高ぶっているときは、無理にまとめようとすると、強い反発があり、ときに火花が発し、それが爆発を誘うこともあると思います。

 

 このように考えると、現時点で大国が軍事力を公然と行使することは、最悪の手段を講じているように見えます。ちょっとした摩擦で火花が発するかもしれません。多くの血が流れることになるかもしれません。それは大国にとっても得にならないと思います。

2014年3月1日土曜日

引き分け


「引き分け」の意味を国語辞典で引いてみました。「勝負がつかないとき、そのまま中止すること」とあります。

 競技や遊戯には勝敗をつけるものが多いと思います。しかしときに、なかなか勝敗が決しない場合があると思います。

力が拮抗しており、いつまでも決着がつかない場合、ルールに則ったり当事者同士が話し合ったりして勝敗をつけないことを「引き分け」というのだと思います。

 

そう考えると“引き分け”は、競った末にあることだと思います。

「引き分け」は、結果の一つといえるかもしれません。双方が勝ちでもなければ負けでもない。そういう結果といえるかもしれません。

 競技や遊戯だけでなく、争いや戦いも勝敗を決するために行われるものだと思います。

 そして争いや戦いにも、なかなか勝負がつかないことがあると思います。

 そうなると、争いや戦いにも“引き分け”があり得ると思います。

ただ争いや戦いを回避できたなら“引き分け”はないということになると思います。

 

争いや戦いは双方が多くのものを失うものだと思います。

だからこそ、双方が勝たなければならないのだと思います。『勝たなければならない』という思いを強めるのだと思います。

『我々は多くの犠牲を払ったのだ。いまさら引き下がるわけにはいかない。失ったものが無駄になってしまう。勝つまでやめるわけにいかないのだ』

 双方がそういう思いを募らせるものだと思います。

そうなると争いは、なかなか終わらないと思います。

争いが終わらないために、失い続けることになることがあると思います。

 失い続け、失ったものが大きくなるほど、争いを終わらせることが難しくなると思います。

 

 争いが続くほど、どちらも“引き分け”などしたくないものだと思います。

『今さら引き分けなど出来るものか。いったい今までどれだけの犠牲を払ってきたと思っているんだ。最後の最期まで徹底抗戦だ』

 そしてまた失い続けるものかもしれません。

 誰もが失うばかりで得ていないにも関わらず、それを続けるかもしれません。

誰もがなにを得てなにを失うか考えることが出来なくなるかもしれません。

争いは続き、より激しくなっていくのかもしれません。

 

“引き分け”は争いの末にあるものだと思います。

 対して“手打ち”は、争いや戦いのどの時点でも出来ることだと思います。

どの時点でも出来るのならば、“手打ち”は傷が浅いうちにやるべきことだと思います。

『もう後へはひけない』そうなってからでは“手打ち”は難しいと思います。

“手打ち”は出来るだけ早くやることが効果的だと思います。それだけ失うものが少なくて済むと思います。流れる血も少なくて済むと思います。

 

 人間社会では、誰かが“総取り”することは少ないものだと思います。

 その傾向は時代が流れるにつれて強まっていると思います。現代社会は複雑になる一方で、多様化する一方だと感じます。それは対立する要素が増え続けているといえるような気がします。

 対立する要素があふれている現代社会では、勝者がすべてを得るということにはなりにくいと思います。

そうなると、“あくまでも総取りをめざす”と言って争っても、いつまでも決着がつかず、互いに疲弊するだけになることがあると思います。

“総取り”ではなく、得る量を減らしても、確実に得ることを目指したほうがいいような気がします。

“得る量を減らす”それはつまり相手にも与えるということになります。

 

 歴史を振り返ると、どれだけ強大な帝国も永遠に栄え続けたことはないような気がします。そして、強大な帝国は内側から崩壊するものだという印象があります。

 それは、なかなか避けられないことなのかもしれません。

 強大な帝国に限らす、国が裂けることはあると思います。

 それは、色々な事情や理由があると思います。ただやはり国が分裂するとなると、余程のことだと思います。

 

 砕けることを防ぐ方法を考える必要あるのかもしれません。

 その方法の一つに、“砕ける前に割る”ということがあるような気がします。

 砕けるとその断面は、ギザギザになることが多いと思います。多くの破片が飛び散ることもあると思います。多くの粉がこぼれることもあると思います。

 

そうなるくらいなら、砕ける前に自ら丁寧に割ることも一つの方法かもしれません。

 割り方にもよりますが、砕けてしまうより、断面はきれいになることもあるような気がします。破片が飛び散ることも抑えられることもあるような気がします。

 

諍いの果ての分裂では、敵対意識が残ることが多いと思います。平和的に袂を分かつことで、今後の協力関係を築くほうが、当事国も周辺国も得るものがあるかもしれません。

“総取り”が難しい今の世界では、お互いが得る道を探るほうが、結局は利益になるような気がします。