2014年3月6日木曜日

「華氏451度」 レイ・ブラッドベリ著


 先日、書店で「華氏451度」を見つけました。以前書いたのですが、僕は若いころこの作品を読みました。ただその時は借りて読んだので手元にありません。

読み返したくなったので購入しようと思ったのですが、そのときは書店にも古本チェーン店にもありませんでした。

『いずれ本屋で見かけることもあるだろう。その機会に読むことにしよう』

 その機会がありましたので購入しました。

 

 以前「火星年代記」について書いたことがありますが、そちらは寓話的な作風を感じました。「華氏451度」は文学的な表現が多いような気がします。

 そのため、この作品は時間をかけて読んだほうが堪能できるような気がします。僕は本を読む速度が遅いほうですし、今回も特に急いで読んだわけではありません。それでも読み終わったとき、次に読むときはもっと時間をかけてみたいという思いが湧いてきました。

 

 この小説はSFで、本を燃やす役人が主人公です。役人が本を燃やすということは、本をもつことを当局が禁じているからです。

それは言論を封じるためです。初めて読んだときはそう感じていました。読む前からそのような印象を強くもっていたような気がします。この本を紹介する文章や解説を先に読んでいるからだったような気がします。

 

今回感じたのは、当局が取り締まっているのは“考えることそのもの”だというものです。言論の封殺もあるのですが、“考えること”それ自体を封じているような気がしました。それと記録を残していくことです。

この作品では、“本を読むこと”は“考えること”の象徴であり、“本を持つこと”は“記録を保存し管理すること”の象徴であるような気がしました。

それを当局が禁じている社会を描いているという印象を持ちました。

 

 そして本を読むことは、当局に禁じられる前から人々が行わなくなったという書かれた部分があるように思います。

本を読むことには、“読む”という作業を行うことです。それに“考える”という労力をかける必要があると思います。

そしてまた、本を読むには時間を要するものだと思います。

この作品では、その作業や労力や時間を人々が減らそうとしたため、本が読まれなくなり、それらを要しない媒体にとって変わられたという部分があるような気がします。

その後に本が禁じられ、媒体が思想の管理に使われるようになったと描かれているような気がします。

その媒体はテレビやラジオですが、現代のそれとは違っていて、個人を対象としているものだと書かれているように思います。ただそれはそのような作り方をしているだけのようです

 

 なんとなく現代と重なる要素があるような気がします。

 今はインターネットが広く使われています。インターネットで情報や知識を得られるため、本を読むという作業も、考える労力も、それにかかる時間も、使わずに済むと多くの人が感じているような印象があります。

 しかし本当は、知識を得た気がするだけなのかもしれません。考えている気分に浸っているだけなのかもしれません。

 

 何度か書いていますが、思考は人間性が主導するものだと思います。自分では冷静に客観的に思考しているつもりでも、個人的な価値観や思想、また利害や人間関係など社会的な事柄が思考の先に立つものだと思います。

 持論に合うと思しき事柄が書かれているものは、はじめから好意的な印象をもって読むものだと思います。

 反対意見は、はじめから『どのように反論しようか』という意識をもって読むものだと思います。

 

 インターネットは多くの意見があふれているため、様々な声を取り入れて考えることが出来るし、実際に自分はそうしていると考えがちです。

しかしその実、賛同する意見にはさらに強く賛成し、反対する意見にはさらに強く反対するようになっているような気がします。

 つまり、持論に対する固執を強めるばかりになっていることが多いような気がします。

 しかも本人はそれに気づいておらず、またそれを認めようとしないように感じることがあります。

『私はインターネットで多くの情報を集め、それらを冷静に客観的に吟味している』

 

それは“自分の頭で考える”ことを省いているように感じることがあります。そのため器量が小さくなっているように感じることもあります。

短時間で多くの情報と意見を得ることも必要だと思います。それが役立つことも多々あると思います。

しかし、“読むこと”や“考えること”の労力をかけることで得られることがあると思います。

また、そのために時間をかけることで得られることがあると思います。

それを知らないために、本が読まれなくなっているのかもしれません。