2014年6月7日土曜日

鋼鉄の都市

 たまたま重なったのだろうと思いますが、ここ数日、ロボットに関する話題をいくつか見聞きしています。
数日前、人間と会話するロボットが発売されるそうで、テレビでは何度も目にしました。

その同じ日インターネットで、大手電機メーカーによる新規事業の説明会が開かれ、そのなかにロボット開発があるという記事を目にしました。
それは家の周りや玄関先の見回りをするロボットのようです。不審者と思しき人物を見つけると、その映像を室内のモニターや、外出している家人のスマートフォンに送る機能があるようです。
それを見た家人が指示すると、「おかえりください」と発することも出来るそうです。
 まだ開発中とのことですが、来年中の発売を目指しているとのことです。

その記事を見た翌日、ロボット企業に関して取り上げているニュースサイトがありました。
アメリカの企業はロボット事業に関心を示しており、ロボットなどの新技術を開発している中小規模の企業を買収することなどが盛んにおこなわれているそうです。
しかし日本では、そのような企業にはお金が集まらないと書かれていました。

人間の呼びかけに反応するロボットは、今までにも時々目にしているような気がします。少し前、宇宙に滞在したロボットが話題になりました。
 宇宙飛行士と会話している様子を何度か目にしたと思います。
 その形のロボットはCMなどに登場しています。それに、一つの事柄を取り上げる週刊誌に、人間と言葉のやり取りをするロボットを組み立てる企画があったようで、CMを見た覚えがあります。
また、おもちゃにも人間の言葉に応じるものが、色々とあるような気がします。

先日、発売が発表されたロボットは、全高が120センチほどあるそうです。映像を目にすると、人型ロボットが人間と共に生活しているアニメやSFの世界が思い浮かびます。
もしかしたらそんな世界を目指して開発を進めているのかもしれません。
今回発売されるロボットは、未来の想像を呼び起こすし、それによって企業イメージの印象をよくすることなども意図されているのかもしれません。
おもちゃという印象を薄くし、“お手伝いさん”や“執事”など、人間と同じように働くロボットのイメージを持たせていると感じます。

このロボットは、人間の感情を読み取ったうえで、それに合わせた対応をするそうです。それは世界初の技術だと聞きます。
実際に人間と言葉のやり取りしている様子を見ると、物珍しさも手伝ってか、面白いと感じます。
ただ人間同士の会話とは、随分調子が違うように見られます。それはそれで楽しめるようですし、このロボットはコミュニケーションを経験することで学習するようです。

また多くの同じロボットとネットワークでつながるようですので、次第に応じ方が多様になるのかもしれません。
それにしてもこのロボットは大きいものですし、価格も安くはないようですので、家に置くとなると、多少なりとも実用性が求められるような気がします。
 コミュニケーションを重ねることで、来客対応などに使うことが出来るかもしれません。

 そういえば、少し前にロボットに倫理を持たせようという研究が行われるという話題をインターネットで目にしました。
 つまりロボットが自分で“善し悪し”の判断を下せるようにする研究のようです。
 それには軍も関わっていて、“善し悪し”を判断する状況の想定には、戦場もあるようです。
 どのように倫理を持たせるのか、専門的なことや詳しいことはわかりませんが、「事前に用意された倫理チェックシステムで判断し、それでは判断しかねる場合、人間の倫理をモデル化したシステムに頼る」とあります。
 想定しうる様々な状況における“善し悪し”の判断を人工知能の組み込むのかもしれません。
また倫理観を系統だて、それに照らし合わせる機能を加えるのかもしれません。
 
 現在、機械に自律性を持たせることを、世界中が進めていると感じます。おそらくこれからの社会にはそれが求められると考えられているのだと思います。
世界中の多く企業が、ロボット事業に将来性があると見込んでいるように見られます。

 そしてどうやら日本は、高い技術を持ちながら事業の進み方や広がり方が小さいようです。
 携帯型音楽プレーヤー、スマートフォン、自動掃除機、3Dプリンターのように、日本が得意そうな分野でも、外国のメーカーに遅れをとることもあるかもしれません。
 また日本は後発ながら先発よりも良い製品を作りだすことが得意だったような気がしますが、スマートフォンにおいてはそれも他国のメーカーにかなわない状況にあるような印象があります。
 

 ただ“機械に自律性を持たせる”その行為自体に倫理が問われる分野があると思います。

2014年6月6日金曜日

人は信じたいことを信じるもの

 人は誰も自分が信じたいことを信じる傾向があると思います。
 インターネットはそれを助長しているかもしれません。

 インターネットには膨大な情報があふれていると思います。
 情報の総数が多いのですから、その内容は多種多様になるものだと思います。
 確かにインターネットには実に様々な情報があると思います。
 しかし主張や意見など、個人の考え方については、その数の割には多様性に乏しいと感じることがあります。
あくまでも個人的な印象ですが、同じような主張ばかりが数多くあり、そのなかには強い言葉使いをしているものや、罵詈雑言とも取れるものがあるように感じます。

“持論には徹底的に固執し、他論は徹底的に反対する”
そんな傾向を社会全体に感じます。それは情報が急速に増えた影響だという気がします。
情報があふれているのですから、そのなかから持論に沿った主張を集めることが出来ると思います。
人は賛同者がいると心強いものだと思います。同じ意見を多く集めるほど、持論が強固になったと感じるものだと思います。

それにインターネットには膨大な情報から、持論の理由づけになりそうな事柄を集めることが出来ると思います。
それによって、さらに持論を強固にしようとすることもあると思います。
ただその中には、こじつけめいたものも少なくないような気がします。
インターネットが表れる前から、いかにも“後付け”だと感じられる根拠や、“こじつけめいている”と思われる裏付けは見られていたと思います。
ただやはり、インターネットの普及によって格段に増えた感があります。

また人は持論に反対されるほど、持論に固執する傾向があると思います。
そして、反論に対してより強く反論することがあると思います。
反論に対してさらに強く反論するために、持論に沿った事柄をインターネットで集めることがあると思います。
持論に対する固執も、他論に対する反撥も、強まり続けるような気がします。

そして固執や反撥は怒りの感情を呼び起こしやすいと思います。
 怒りの感情は、強い言葉や汚い言葉を使わせることがあると思います。
 その言葉がさらに反撥をうみ、それが怒りを増幅し、また強い言葉や汚い言葉が使われることがあると思います。
そんななか、持論に偏執し、強硬志向を強める人もいるような気がします。
そのような人物は糾弾されることもありますが、最近は持ちあげられることのほうが目につくと感じます。世界的な傾向だと感じることがあります。
 インターネットの影響かもしれません。

 何度か、思考は人間性が主導すると書いたことがあります。
人間の考え方は、性格などの人間性によって方向つけられていると思うのです。
それは先天的な志向性といえるかもしれません。
そこに後天的な社会性が付け加えられているような気がします。
人間関係や利害関係などの社会性によって、考えの方向性が決められるということです。
そう考えると、人間は真に客観的な視点で思考することは出来ないものなのかもしれません。
 
以前どこかで「“フラットな状態”で考えて検討する」というような言葉を読んだか、聞いたかした覚えがあります。
先入観をもたず、俗言う“しがらみ”にとらわれず、あくまでも客観的に状況を見極めるという意味合いだったような気がします。
 個人的にそのような姿勢はとても大切だと思います。
 しかし実践するのは難しいような気がします。
 本人はそうしているつもりでも、思考の手前に社会性や人間性があるような気がします。

 物事を判断するには、なにを判断材料とするべきか決めなければならないと思います。
そしてその判断材料の真偽や、有効性を見極める必要があると思います。
また判断材料の中から、何を優先するべきか考えなければならないと思います。
個人的な事柄に関する判断ならば、それらを主観で行って構わないことが多いと思います。
公の事柄ならば、あくまで客観的な視点に基づいて、考えたり、見極めたりして判断し、決定することが求められると思います。

人間社会では利害など、色々と対立することがあるものだと思います。だからこそ
みんなが自分の利益になることを主張しあうことが必要だと思います。
その主張には相対することが必ずあると思います。そこで決定を下すには“公”の視点に基づく判断材料が必要なのだと思います。

しかし人は“公”より“個”を優先するものかもしれません。だからこそ、意識的に“公”の視点を持とうとしなければならないような気がします。

2014年6月5日木曜日

インターネット妄信社会

世の中には不確かなことがたくさんあると思います。
 解明されていないことなども無数にあると思います。
 解明がされていなくても、人は信じることがあると思います。
 人間は自分の主観や感覚を基に信じることがあると思います。
 また自分自身の主観ではなく、他者の主観による主張を信じることもあると思います。
自分は経験していなくても、他者の経験の伝聞を信じることがあると思います。

世の中には多くの情報があふれていると思います。
不確かな情報も無数にあると思います。
不確かであっても、人はその情報を信じることがあると思います。
そうはいうもの、その情報が事実であるとする理由が示されているほうが、人は信じやすいものだと思います。
ただ、その情報が事実であるとする理由の真偽を疑うことは少ないような印象あります。

あまり関心のない事柄の場合、情報の真偽や、情報源など気にすることもなく、信じていることもあると思います。
テレビや雑誌やインターネットなどで、何気なく見聞きしたことを事実であると信じていることがあると思います。
あまり関心のない情報は、興味ないがゆえに、ただそのまま受け入れてしまうのかもしれません。
情報を疑うことなくそのまま受け入れ、事実だと信じていると感じることがあると思います。

深く関心がある事柄の場合、情報の真偽や、情報権などを気にすることもあると思います。しかし気にしながらも、自分が信じたいことを信じていることがあると思います。
持論に沿った情報を信じるということです。
また持論に反する情報は信じないこともあると思います。
自分にとって好ましい情報は、端から信じようという意識があるような気がします。
自分にとって好ましくない情報は、端から疑った意識をもっているような気がします。
あまり関心のない情報の場合、無意識に自分にとって好ましいのか、好ましくないかを選り分けているような気がします。
それは“信じる情報”か“疑う情報”か、意識しないで決めているのかもしれません。

そして人は一度信じると、それをなかなか覆さないと感じることがあります。
特に他者が間違いを正そうとすると、大変な時があるような気がします。
本人は関心のない事柄でも、人間は一度信じると、それを否定する気持ちになりにくいような気がします。
その事柄について強い思い入れがあるわけではないのに、他者から間違いを正そうとされると、嘘だと受け取る傾向があると感じるのです。
まずは信じていたことを優先するというか、先に否定論を疑うものだと感じます。
それだけに、間違った情報を他者が正そうとすることは難しいと感じます。
 もちろん人それぞれですし、その時々だと思います。自分で間違った情報だと気づくこともあると思います。

ここでは、インターネットで検索して、検索結果上位に表示されたその百科事典を見て、そこに書かれていたことを取り上げることがあります。
 ただその際に、それが事実だという扱いはしないように心がけて書いています。
以前、この百科事典は自由に書き込みができるもので、それゆえに間違っていることもあると聞いたことがあるのです。
 実際に、明らかに事実ではないことが書かれているのを見たことがあります。

個人的にインターネットには“事実だとは限らない”という意識をもつようにしています。
意識しておかないと、自分でも気づかないうちに、無条件に信じてしまいそうになるのです。
 インターネットで検索するとこの自由書き込み式百科事典が検索結果の上位に表示されることが多いと感じます。多くの人が利用しているのだと思います。
 それだけに『嘘や間違いが書かれていることは滅多にないだろう』いう観念を抱きやすいような気がします。
 それがいつの間にか『ここに書かれていることに間違はいない』という意識に変わっている人もいるような気がします。

そうなると、もし間違ったこと書かれていても強く信じてしまうこともあると思います。
他者が間違いを正そうと本当のことを話しても、むしろ疑われることがあるかもしれません。
間違いを正すには、丁寧に説明するなり確かな証拠を見せるなりしなければならないこともあると思います。
そうして間違いだと納得されることもあると思います。

しかし丁寧に説明するにしても、証拠を見せるにしても時間も手間もかかります。
証拠などは手元になく、示すことが出来ない場合もあると思います。
説明するということにも得手不得手があると思いますので、どれだけ話しても理解されないこともあると思います。

そのようなことはインターネットがない時代からあったと思います。
しかしインターネットによって情報が多くなったのですから、間違った情報や偽りの情報に接することも、以前とはくらべものにならないほど増えたと感じます。

思い込みや思い違いも増えているような気がします。

2014年6月3日火曜日

「3分間待つのだぞ」

 いつだったか、レトルト食品は日本で生まれと耳にしたことがあります。
 日本の食品メーカーがつくったカレーが、世界初のレトルト食品だということだったと思います。
そのレトルトカレーは、子供のころからテレビCMを見ていますし、今までに数え切れないほど食べています。

 それが“世界初”だと聞くとなんとなくうれしいような気がするのですが、詳しいことは忘れてしまいした。なにか勘違いをしているかもしれないので、そのレトルトカレーを製造販売している食品メーカーのウェブサイトを見てみました。
 それによるとそのレトルトカレーは、昨年、発売45周年だったそうです。
 それが話題になったとき“世界初のレトルト食品”ということも取り上げられたのかもしれません。
 
 今年で46年目ということになりますが、味や賞味期限などは改良されつづけ、商品の種類も増えているようです。
 子供のころからテレビCMで見聞きしているためか、その商品名には親しみのようなものを感じます。
レトルトカレーの代名詞として、この商品名が広く使われていた時代があったような気がします。

小学生のころ、学校の給食にこのレトルトカレーが出されたことがあります。もう何十年も前のことですので、記憶が薄らいでいるのですが、他のおかずはなく、ごはんとレトルトカレーだけの給食があったのです。
 児童はみな、明らかにいつもの給食とは違うと感じながらも、だれも苦情をいうこともなかったと記憶しています。
おそらくあの日の給食は、何かの手違いや不意の出来事があったのか、なんらかの問題が発生したのだろうと思います。今だったらそれなりに騒がれたかもしれませんが、あの時はそうはならなかったような気がします。

翌日からは普段通りの給食でしたし、子供たちはあのレトルトカレーが出たことを喜んでいたような気がします。
僕自身、子供のころはレトルトカレーを“ごちそう”だと感じていました。発売された当初、一食分のレトルトカレーは、大きな鍋で作り置きして何日か掛けて食べるカレーよりも割高だと感じられた気がします。

今ではレトルトカレーには手ごろで手軽な食べ物というイメージがありますが、僕が子供のころは、3分間あたためるだけで食べられるという利便性が付加価値になっている高価な食べ物という印象があったのです。

「3分間待つのだぞ」
 これはレトルトカレーのCMで使われていた言葉です。レトルトカレーという商品自体に関心がありましたが、CMも人気時代劇を面白く模したもので、とても印象的だったように思います。
 なかでもこの言葉は頭の中に残りやすく、流行語になっていたような気がします。
そしてレトルトカレーを食べるときは、この言いつけどおり3分間じっと待っていたものです。
その時、時計と湯の中のレトルトパックを交互に見ながら、なんとなくわくわくしていたような気がします。

そういえば子供のころは、カップ麺を食べるとき、ちゃんと時計をみていた覚えがあります。秒単位まで正確に計っていたわけではありませんが、3分間、待ってから食べていました。
しかしいつごろからか、時間は一切気にしなくなりました。大抵はカップ麺に表示されている時間より、大分短い時間しか待たないと思います。
時計を全く見ないので確かではありませんが、おそらくお湯を注いでから1分以内にふたを開けているような気がします。
まだ麺がかたくて、かき混ぜてもほぐれにくいのですが、個人的にそのくらいのかたさが好きなのです。

元々カップ麺はかためが好きなのです。それに食べているうちに、どんどん麺が柔らかくなっています。
“大盛り”と謳われたサイズのカップ麺ですと、食べ始めたときの麺はかたくても、残りが半分を切るころには、随分とやわらかくなっているものです。
そのため“かたすぎる”と感じるころから食べ始めるようになったのかもしれません。自覚しないまま、どんどん待つ時間が短くなったような気がします。
 
 そういえば以前、職場の後輩が、カップ麺にお湯を注いでから10分以上待って食べ始めていました。麺が伸びきっているように見えるのですが、本人曰くそのくらいが一番おいしいそうです。
 彼も時計は一切見ていなかったと思います。
 食べ物の好き嫌いは人それぞれです。
 
 カップ麺が世に出たころは麺のかたさの好みなど自分でもわかりませんし、「3分待ってから」と表示してあるからには、その通りにしないと本来の状態にならないと受け止めていたような気がします。
 そのため、いつもしっかり3分間まっていたと思うのです。

 それが慣れてくるに従って、『そんなにきっちり守らなくてもいいのかな』と思うようになり、『かための麺が好きだから、待ち時間は短い方がいいや』となったのだと思います。

2014年6月2日月曜日

集団的自衛権行使容認について

 アメリカに向かって弾道弾ミサイルが発射されたとします。
 日本には、それがアメリカに届く前に撃ち落とすことが出来たとします。
 そしてそれを撃ち落としたとします。
 ミサイルを発射した国は、日本のその行為を敵対行為と判断したとします。日本を敵国とみなすということです。

 日本は敵国であり、アメリカにミサイル攻撃をするには、まず日本のミサイル防衛能力を潰さなければなりません。
 そうなると、軍事作戦としてアメリカより先に日本に対してミサイル攻撃をしてくるかもしれません。
 日本は軍事攻撃を受けることになります。自衛のため、武力を使うことになると思います。同盟国であるアメリカも協力すると思います。
 それに日本のミサイル防衛力が失われると、アメリカの危険度が高まります。
 
 日本は戦争当事国になります。
 ミサイルを撃った国は、日本に対して空爆や上陸作戦をするかもしれません。日本は自衛のため武力を行使することになると思います。アメリカも協力すると思います。
 この状況は紛れもない戦争ですので、日本は向かってくる攻撃を受けるだけでは自衛が出来ないこともあり得ると思います。
日本は相手国に空爆や上陸作戦をすることもあり得ると思います。
日本が外国で戦争をすることになります。
アメリカに向かったミサイルを撃ち落としたことで、日本が外国で戦争をすることになるかもしれません。

では、アメリカに向かったミサイルを撃ち落とさなかったとします。そしてアメリカにミサイルが着弾し、大きな被害があったとします。
ミサイルを撃った国は、日本が手出しをしないとわかれば、その分アメリカに対する攻撃が楽になります。何発もアメリカにミサイルを撃ったとします。
そうしてアメリカに大きな打撃を与えた後で、日本に対して攻撃してくるかもしれません。

アメリカは日本の同盟国であるものの、ミサイルを防いでくれなかったとなると、米国民は日本のためにアメリカ軍が動くことに強く反対するかもしれません。
アメリカに敵対する国は、それを見越して日本に攻撃を仕掛けたのかもしれません。
“アメリカに向かったミサイルを日本は防がなかった。そうなるとアメリカは日本の防衛に協力しないだろう。日本を叩くなら今だ”というわけです。

 日本は戦争当事国になります。
 向かってくる攻撃を防ぐだけでは、自衛にならない状況もあるかもしれません。相手国に対して空爆や上陸作戦を行わなければならないかもしれません。
日本が外国で戦争をすることになります。
アメリカに向かったミサイルを撃ち落とさなかったことで、日本が外国で戦争をすることになるかもしれません。

 それにどれほどの現実性があるのか、示すことは出来ないと思います。世界の状況はめまぐるしく変わっているものだと思います。ただ絶対にあり得ないことだと言い切ることは出来ないと思います。
 起こり得る状況なら、実際に起こるまえに制度を作っておくべきだと思います。いざとなってから、“さてどうするか”となったのでは、大きくもめるだろうと思います。ただでさえ混乱しているでしょうから、行動が起こせないまま事態を悪化させるばかりになるかもしれません。

 集団的自衛権の行使を容認しようがしまいが、日本が外国で戦争をする状況は起こり得ると思います。
 そこから目を背けた議論をしているので、わざとらしくなり説得力を欠いたり、理想論だと感じられ現実性を欠いたりしているような印象を受けるのではないかと感じます。
 
 日本が外国で戦争をする状況があり得ることを認めなければ、それを抑える議論が空虚になってしまうような気がします。
 日本が外国で戦争をする状況があり得るのならば、それは“自衛”のためでなければならないと、しっかりと抑えなければならないと思います。
 現行憲法はしっかりと抑える重さがあると思います。

 今の憲法の重さによって、日本の武力行使にブレーキをかける働きをすることが出来るような気がするのです。
 憲法を改正すると、抑えが軽くなるかもしれません。ブレーキを取り外して、アクセルを付け加えるような改正になるかもしれません。
 日本が外国で戦争をする状況があり得るからこそ、今の憲法は変えるべきではないような気がします。

それにしても「本来なら憲法を改正するべきだが、それをやるには時間がかかりすぎる。だから、解釈変更でやればいい」というのは、憲法を軽んじているような印象を受けます。
“憲法に反しているけど、憲法を変えるのは面倒だ。だから、憲法違反をしてしまえばいい”
 そんな意味合いを感じます。
 
 ただ集団的自衛権の行使容認は、それ自体、内外に政治的な影響が大きいと思います。
 その内容よりも、イメージによる影響が大きくなることもあると思います。
 タイミングなど、冷静に状況を見極めなければならないと思います。

 その見極めには、信念だの悲願だの個人の思い入れなど、一切介在させてはならないと思います。

2014年6月1日日曜日

やとう? なにそれ? おいしいの?

 大きな与党に対抗しうる野党勢力を作ることは、今の政治では難しいと思います。
 社会は複雑化し多様化していると思います。そんな社会では、政策も多様になるものだと思います。
 政策が多様になるということは、政党の人数が多いほど、党内で統一することが難しくなると思います。
 
 しかし議席と支持率が安定している与党ならば、総裁や執行部の政策に賛同できなくても、反対の声は上がりにくいと思います。
安定した議席数と支持率をもつ与党に所属属している議員は、持論や政策よりも“与党議員”を重要視するものかもしれません。

そうなると野党のほうが、党内での統一が難しいような気がします。人数が多い政党ほど、その難しさが大きくなると思います。
現在の最大野党は、党内に与党案に賛同する意見もあるため、政党として反対することが出来ないように見られます。

またかつての野党の仕事は、何でもかんでもただ単に与党の政策に反対していればよかったかもしれませんが、今そんなことをしても存在感が薄らぐばかりだと感じます。
それに昔と違って政権交代があり得るとなると、野党時代になんでもかんでも反対するわけにもいかないと思います。
大きな野党が意思統一出来ないことが、党運営にも国会にも少なからぬ影響を与えているように見られます。

そのようなことからも、二大政党制は今の日本に適していないと思います。
これからの日本にはさらに適さなくなると思います。
実際、巨大与党に対抗しうる野党勢力を作るべきだという声があるものの、野党がやっているのは分裂ばかりに見えます。
複雑化し多様化する社会で、大きな政党をつくるには政策を軽んじるしかないような気がします。
 “いよかん”だったか“はっさく”だったか大仰に掲げたものの、肝心の選挙の時にはうやむやになっていた印象があります。
 それが結局“政策の不一致からお別れします”ということになっているように見られます。

 政策を棚上げしなければ人数が集まらず、政策をうやむやにして人数を集めれば、政策が内部対立の種になったり道具になったりしているような気がします。
考えてみればそのようなことをずっと前から何度も繰り返しているような気がします。これらも同じようなことが起こるかもしれません。
政治家は懲りないものなのかもしれません。学ばないものかもしれません。
 
 いっそあくまでも政策にこだわったほうがいいような気がします。ただ、多様化し複雑化する社会で政策にこだわると、大きな政党にはならないと思います。
 しかし政策が明確ならば、政党ごとに一致する政策と、異にする政策がはっきりすると思います。政策ごとに連携することが出来ると思います。
政策によっては、大きな勢力になることもあるような気がします。
何度も書いていますが、政策ごとに連携する多党制ということです。

しかし安定した議席数と支持率がある与党には、“与党議員”にしがみつき、政策を軽んじる政治家がいると思います。
それは政治家が政策を棚上げしているということになるような気がします。

ただそうはいっても、大きな政党が与党になるのですから、数を優先する政治家がいなくなることはないと思います。
それならば、政党は党議拘束を原則的になくすべきだと思います。
そうしなければ、国会は純粋な政策論争にならないような気がします。
今の与党だけでなく、これから大きな野党を作るのであれば、原則的に党議拘束をなくすべきだと思います。

複雑化し多様化する社会では政策を重視しなければ、政治は対立と混乱を繰り返すばかりになるような気がします。
政策を重んじる政治体制を目指すべきだと思います。
政策を明確にした多党制。党議拘束の一切ない一強多弱制。与野党ともに党議拘束がない二大政党制、などが考えられると思います。

また、いくら大きな与党でも、安定した議席数と支持率がないと、内部で政策対立がおこるかもしれません。
今の与党も前政権政党も、支持率が低いと、内部で争うばかりだったと感じます。身内を引きずり下ろして自分が這い上がろうとか、身内を叩いて自分を目立たせようとし、その道具に政策が使われていた気がします。
それだけに今の与党は支持率が下がらないように必死になっていると感じることがあります。

そんななか“歴史的なことをやるのだ。支持率がさがることもいとわない”といっている政治家がいるようです。
 その志は政治家に必要だと思います。今の世界には国内で支持率が上がったものの、他国から非難される政治家もいると思います。支持率は政治を安定させるためにも重要だと思いますが、支持率の高い政治家のやることが必ずしも国にとっていいことだとは限らないと思います。
 支持率に媚びない姿勢も政治家には必要だと思います。

それにお望み通り支持率が下がれば、それから先は好き放題にやることが難しくなるような気がします。