2014年6月6日金曜日

人は信じたいことを信じるもの

 人は誰も自分が信じたいことを信じる傾向があると思います。
 インターネットはそれを助長しているかもしれません。

 インターネットには膨大な情報があふれていると思います。
 情報の総数が多いのですから、その内容は多種多様になるものだと思います。
 確かにインターネットには実に様々な情報があると思います。
 しかし主張や意見など、個人の考え方については、その数の割には多様性に乏しいと感じることがあります。
あくまでも個人的な印象ですが、同じような主張ばかりが数多くあり、そのなかには強い言葉使いをしているものや、罵詈雑言とも取れるものがあるように感じます。

“持論には徹底的に固執し、他論は徹底的に反対する”
そんな傾向を社会全体に感じます。それは情報が急速に増えた影響だという気がします。
情報があふれているのですから、そのなかから持論に沿った主張を集めることが出来ると思います。
人は賛同者がいると心強いものだと思います。同じ意見を多く集めるほど、持論が強固になったと感じるものだと思います。

それにインターネットには膨大な情報から、持論の理由づけになりそうな事柄を集めることが出来ると思います。
それによって、さらに持論を強固にしようとすることもあると思います。
ただその中には、こじつけめいたものも少なくないような気がします。
インターネットが表れる前から、いかにも“後付け”だと感じられる根拠や、“こじつけめいている”と思われる裏付けは見られていたと思います。
ただやはり、インターネットの普及によって格段に増えた感があります。

また人は持論に反対されるほど、持論に固執する傾向があると思います。
そして、反論に対してより強く反論することがあると思います。
反論に対してさらに強く反論するために、持論に沿った事柄をインターネットで集めることがあると思います。
持論に対する固執も、他論に対する反撥も、強まり続けるような気がします。

そして固執や反撥は怒りの感情を呼び起こしやすいと思います。
 怒りの感情は、強い言葉や汚い言葉を使わせることがあると思います。
 その言葉がさらに反撥をうみ、それが怒りを増幅し、また強い言葉や汚い言葉が使われることがあると思います。
そんななか、持論に偏執し、強硬志向を強める人もいるような気がします。
そのような人物は糾弾されることもありますが、最近は持ちあげられることのほうが目につくと感じます。世界的な傾向だと感じることがあります。
 インターネットの影響かもしれません。

 何度か、思考は人間性が主導すると書いたことがあります。
人間の考え方は、性格などの人間性によって方向つけられていると思うのです。
それは先天的な志向性といえるかもしれません。
そこに後天的な社会性が付け加えられているような気がします。
人間関係や利害関係などの社会性によって、考えの方向性が決められるということです。
そう考えると、人間は真に客観的な視点で思考することは出来ないものなのかもしれません。
 
以前どこかで「“フラットな状態”で考えて検討する」というような言葉を読んだか、聞いたかした覚えがあります。
先入観をもたず、俗言う“しがらみ”にとらわれず、あくまでも客観的に状況を見極めるという意味合いだったような気がします。
 個人的にそのような姿勢はとても大切だと思います。
 しかし実践するのは難しいような気がします。
 本人はそうしているつもりでも、思考の手前に社会性や人間性があるような気がします。

 物事を判断するには、なにを判断材料とするべきか決めなければならないと思います。
そしてその判断材料の真偽や、有効性を見極める必要があると思います。
また判断材料の中から、何を優先するべきか考えなければならないと思います。
個人的な事柄に関する判断ならば、それらを主観で行って構わないことが多いと思います。
公の事柄ならば、あくまで客観的な視点に基づいて、考えたり、見極めたりして判断し、決定することが求められると思います。

人間社会では利害など、色々と対立することがあるものだと思います。だからこそ
みんなが自分の利益になることを主張しあうことが必要だと思います。
その主張には相対することが必ずあると思います。そこで決定を下すには“公”の視点に基づく判断材料が必要なのだと思います。

しかし人は“公”より“個”を優先するものかもしれません。だからこそ、意識的に“公”の視点を持とうとしなければならないような気がします。