2014年6月2日月曜日

集団的自衛権行使容認について

 アメリカに向かって弾道弾ミサイルが発射されたとします。
 日本には、それがアメリカに届く前に撃ち落とすことが出来たとします。
 そしてそれを撃ち落としたとします。
 ミサイルを発射した国は、日本のその行為を敵対行為と判断したとします。日本を敵国とみなすということです。

 日本は敵国であり、アメリカにミサイル攻撃をするには、まず日本のミサイル防衛能力を潰さなければなりません。
 そうなると、軍事作戦としてアメリカより先に日本に対してミサイル攻撃をしてくるかもしれません。
 日本は軍事攻撃を受けることになります。自衛のため、武力を使うことになると思います。同盟国であるアメリカも協力すると思います。
 それに日本のミサイル防衛力が失われると、アメリカの危険度が高まります。
 
 日本は戦争当事国になります。
 ミサイルを撃った国は、日本に対して空爆や上陸作戦をするかもしれません。日本は自衛のため武力を行使することになると思います。アメリカも協力すると思います。
 この状況は紛れもない戦争ですので、日本は向かってくる攻撃を受けるだけでは自衛が出来ないこともあり得ると思います。
日本は相手国に空爆や上陸作戦をすることもあり得ると思います。
日本が外国で戦争をすることになります。
アメリカに向かったミサイルを撃ち落としたことで、日本が外国で戦争をすることになるかもしれません。

では、アメリカに向かったミサイルを撃ち落とさなかったとします。そしてアメリカにミサイルが着弾し、大きな被害があったとします。
ミサイルを撃った国は、日本が手出しをしないとわかれば、その分アメリカに対する攻撃が楽になります。何発もアメリカにミサイルを撃ったとします。
そうしてアメリカに大きな打撃を与えた後で、日本に対して攻撃してくるかもしれません。

アメリカは日本の同盟国であるものの、ミサイルを防いでくれなかったとなると、米国民は日本のためにアメリカ軍が動くことに強く反対するかもしれません。
アメリカに敵対する国は、それを見越して日本に攻撃を仕掛けたのかもしれません。
“アメリカに向かったミサイルを日本は防がなかった。そうなるとアメリカは日本の防衛に協力しないだろう。日本を叩くなら今だ”というわけです。

 日本は戦争当事国になります。
 向かってくる攻撃を防ぐだけでは、自衛にならない状況もあるかもしれません。相手国に対して空爆や上陸作戦を行わなければならないかもしれません。
日本が外国で戦争をすることになります。
アメリカに向かったミサイルを撃ち落とさなかったことで、日本が外国で戦争をすることになるかもしれません。

 それにどれほどの現実性があるのか、示すことは出来ないと思います。世界の状況はめまぐるしく変わっているものだと思います。ただ絶対にあり得ないことだと言い切ることは出来ないと思います。
 起こり得る状況なら、実際に起こるまえに制度を作っておくべきだと思います。いざとなってから、“さてどうするか”となったのでは、大きくもめるだろうと思います。ただでさえ混乱しているでしょうから、行動が起こせないまま事態を悪化させるばかりになるかもしれません。

 集団的自衛権の行使を容認しようがしまいが、日本が外国で戦争をする状況は起こり得ると思います。
 そこから目を背けた議論をしているので、わざとらしくなり説得力を欠いたり、理想論だと感じられ現実性を欠いたりしているような印象を受けるのではないかと感じます。
 
 日本が外国で戦争をする状況があり得ることを認めなければ、それを抑える議論が空虚になってしまうような気がします。
 日本が外国で戦争をする状況があり得るのならば、それは“自衛”のためでなければならないと、しっかりと抑えなければならないと思います。
 現行憲法はしっかりと抑える重さがあると思います。

 今の憲法の重さによって、日本の武力行使にブレーキをかける働きをすることが出来るような気がするのです。
 憲法を改正すると、抑えが軽くなるかもしれません。ブレーキを取り外して、アクセルを付け加えるような改正になるかもしれません。
 日本が外国で戦争をする状況があり得るからこそ、今の憲法は変えるべきではないような気がします。

それにしても「本来なら憲法を改正するべきだが、それをやるには時間がかかりすぎる。だから、解釈変更でやればいい」というのは、憲法を軽んじているような印象を受けます。
“憲法に反しているけど、憲法を変えるのは面倒だ。だから、憲法違反をしてしまえばいい”
 そんな意味合いを感じます。
 
 ただ集団的自衛権の行使容認は、それ自体、内外に政治的な影響が大きいと思います。
 その内容よりも、イメージによる影響が大きくなることもあると思います。
 タイミングなど、冷静に状況を見極めなければならないと思います。

 その見極めには、信念だの悲願だの個人の思い入れなど、一切介在させてはならないと思います。