2014年7月7日月曜日

冷麦とそうめん

 昨日、ビスケットとクッキーの違いについて書きました。
「ビスケット」は小麦粉、糖類、食用油脂、食塩などの材料を使った焼き菓子の総称のようです。
 クッキーはそのなかに含まれ「ソフトビスケット」と呼ばれることもあるようです。
 また「ビスケット」の中には、ハードビスケットもあるようです。

「ソフトビスケット」と「ハードビスケット」という呼び方には、あまり聞き覚えがありませんで、インターネットで検索してみました。
 辞書サイトを見てみると、ソフトビスケットとハードビスケットでは、読んで字のごとく、かたさが違っており、それはグルテンなどの成分の違いによるようです。
 そのサイトには「クッキー」の言葉は使われていませんでした。
 
 そこでビスケットとクッキーの違いについて、改めて検索して見ました。
 3~4つのサイトを開いてみると、共通して書かれているのは、クッキーは「ビスケット」に含まれるということです。
手作りの風合いがあり、糖類と脂肪分を合わせて40%入っているものを「クッキー」と呼ぶと、いくつかのサイトに書いてありました。

 また一つのサイトには、かつて「クッキー」はビスケットより高級なイメージがあったとあります。高級感があるクッキーを、手ごろな価格のビスケットと一緒にされないように、明確に区別するようになったと書かれています。
 
それと「ビスケット」と「クッキー」を明確に分けているのは、業界団体による自主規制とあります。
そして「クラッカー」は、別の団体によって厳格に定義づけされているようです。
クラッカーも「ビスケット」の一種で、イーストや酵母をつかったものだそうです。
ちなみにクッキーにはイーストや酵母を使わないそうです。

 こうしてみると、スーパーやコンビニでは並べて売られているお菓子も、実は明確に分類されているということに気づかされます。
 そしてこのように決められているのなら、“まるでパウンドケーキのようなクッキー”や、“まるでミルフィーユのようなクラッカー”や、“まるでドーナツのようなビスケット”などが生まれることはないのだろうと思います。

またこの分類は日本の規格とのことです。
イギリスでは、日本で言う「ビスケット」と「クッキー」の区別はなく、「ビスケット」で総称されているようです。
アメリカでも日本で言う「ビスケット」と「クッキー」の区別はないようですが、イギリスとは違って「クッキー」と呼ばれるそうです。

アメリカで「ビスケット」というと、パンのようなやわらかく焼いたものを指すようです。日本のファーストフード店でも、それを「ビスケット」と呼んでいるCMを目にした覚えがあります。
ちなみにイギリスではそれを「スコーン」というそうです。日本でもそう呼ばれることが多いような気がします。

このようなことを書いていると、『そういえば、冷麦とそうめんの違いってなんだろう?』という疑問が湧いてきました。
少し前にインターネットの記事で読んだのですが、内容は忘れてしまいました。
そこで、インターネットで検索して見ました。

「乾麺」は太さによって分類されているとあります。
冷麦が、麺の長径1.3mm以上、1.7mm未満とのことです。
そうめんは、長径1.3mm未満とあります。
相当に細かい分類だと感じます。
ただ「乾麺」は機械でつくり、手作業で作るものは「手延べ干し麺」と呼ばれるようです。
この手延べ干し麺の規格では、コンマミリ単位はそれほど厳格ではないようです。

そこでふと思いました。
“冷麦とそうめんの乾麺を手に取ったとき、0.4mmの違いがわかるだろうか?”
“冷麦とそうめんを食べくらべた時,0.4mmの違いに気づくだろうか?”
わかるような気がします。細い麺ですので、一本は0.4mmの違いでも、束になると感じ取られるような気がします。
また食べ比べてみれば、太さの違いを感じると思います。

ただそれにしても“0.4mmの規格に分ける、必要性や理由があるのだろうか?”という疑問が湧いてきます。
そこで、またいつくかのサイトを見てみました。
確かなことはわかりませんでした。

時間をかけて多くのサイトをみれば、何か見つかるかもしれませんし、他の媒体でも調べてみればなにかわかるかもしれません。
今回はそのようなことはしていませんので、勝手に想像してみます。
そうめんと冷麦が明確に分けられているのは、生産地や生産者の伝統や自負心、また消費者の“慣れ”や“親しみ”が関わっているのかもしれません。
 もしそうだとすれば、それも日本の食文化のひとつだという気がします。
 微妙な違いでも、冷麦とそうめんの両方があっていいと思います。
 
 ところで、同じ食べ物でも地方によって呼び方が違っているときがあります。それが情報技術の発展などにより、同じ呼び方になる傾向があると感じます。

また呼び方は同じでも、地方によって作り方の違う食べ物があります。コンビなど全国展開している小売店の増加で、全国的に同じ作り方になる傾向を感じます。

2014年7月6日日曜日

ビスケットとクッキー

“ドーナツにはなぜ穴が開いているのか?”
 何度も書いているような気がしますが、僕はあんことマーガリンを一緒に挟んだ菓子パンが好きです。
 マーガリンの塩味があんこの甘さを際立たせ、しかもそれでいながら、口当たりと風味をまろやかにしているような気がします。

 また、あんことホイップクリームを注入した菓子パンもよく食べます。
マーガリンと違って、ホイップクリームには塩味はなくそれ自体が甘いのですが、より甘味の強いあんことあわせても、くどくならないような気がします。
甘味は強くなっているはずなのに、その味に丸みがでるというか、甘さが増したことを感じないような気がするのです。

ふと、あんドーナツにも、マーガリンやホイップクリームを合わせているものがあってもいいのに、という思いが浮かびました。
しかし考えてみれば、あんドーナツは油で揚げるため、マーガリンやホイップクリームをいれたら、揚げているときに溶けてしまいそうな気がします。
ただドーナツには様々なものがあり、なかにはクリームを挟んでいるものもあります。その作り方なら、あんことマーガリンやホイップクリームを合わせて使うことが出来るような気がします。

 そういえば、そのようなドーナツを食べたことがあるような気がしてきました。
 ドーナツチェーン店の期間限定商品には、“和”のイメージを取り入れることがあります。その中にあんこを使ったものがあったような気がします。
 確かな記録ではないのですが、フレンチクルーラータイプのドーナツは様々なクリームを挟んだものが期間限定商品になりますので、そのなかにはあんこを挟んだものもあったような気がします。

 そのようなことを考えていると、改めてドーナツの多様性を感じます。
“ドーナツといえば穴があいているもの”、そういう観念があるから「ドーナツ化」などいう言葉が使われるようになったのだと思います。
 しかし今、ドーナツチェーン店の棚をみると、半分くらいは穴のあいていないドーナツが並んでいるときがあります。ちょっと面白いと感じます。

“なぜドーナツには穴があいているのか?”
 いくつかの説があるようです。その一つに熱が通りやすいため、という考えがあると聞きます。
 そこで、穴の開いていないオールドファッションドーナツを想像してみました。
 あくまで想像しただけですが、穴があいているほうが、ぜったいに美味しいと思います。
 穴をなくすと、体積は増えますが、表面積が小さくなります。オールドファッションドーナツの穴がなくなると、表面のさくさくした部分が少なくなってしまいます。
それでは真ん中のあたりを食べるとき、汁気のなさをより強く感じてしまいそうです。
 
 またイーストドーナツに穴がないと、揚げパンみたいだと感じるような気がします。
それに、穴がないと体積は大きくなるものの、表面積は小さくなります。イーストドーナツには、チョコやハニーディップがかかっていますので、穴がないとそれがかかる面積が小さくなります。
そのため真ん中あたりを食べるとき、味に物足りなさを感じてしまいそうです。

こうして考えると、オールドファンションやイーストドーナツは穴があったほうがおいしいような気がします。
ただ、クリームを注入しているドーナツは、穴がないほうがたっぷり入ります。そのほうがおいしいような気がします。
つまりドーナツは、穴が開いている方がおいしいものと、穴がないほうがいいものがあると思います。

ところで、日本ではビスケットが細かく分類されているそうです。業界団体が決めているようですが、ハードビスケット、ソフトビスケット(クッキー)、クラッカー、パイ、プレッツェル、焼き菓子(加工品)に明確に分けられているそうです。
日本の規格では、それら小麦粉類をつかった焼き菓子を総じて「ビスケット」と呼ぶと決められているようです。
 
「ハードビスケット」と「ソフトビスケット」という呼び方があまり見聞きしませんが、日本の規格では明確に分けられているようです。
 クッキーは「ソフトビスケット」と呼ばれることがあり、「ハードビスケット」とは別の食べものということになるのだと思います。
 そして、どちらも「ビスケット」に含まれるのだろうと思います。
 
 どのような基準で分類されているのかわかりませんが、おそらく製法や成分、その含有量などだろうと思います。
そのように細かく分類しているのは、作り方や形や味などが次第に変わっていき、いつの間にか元の焼き菓子とはまったく違ったものになることを防ぐことが、理由の一つであるようです。

つまり、クッキーがいつの間にかケーキのような食べものになったり、クラッカーがパイのようなお菓子に変わったりすることがないように、明確に分けられているようです。

2014年7月5日土曜日

ドーナツの穴

“ドーナツの定義とは?”
 何度も書いていますが、僕は甘い食べ物が全般的に好きです。
 ドーナツも僕の好きな食べ物のひとつですので、それに関することを何回も書いているような気がします。
 
 僕はドーナツを購入するとき、専門店を利用することもあれば、スーパーやコンビニで袋詰めのものを買うこともあります。
 専門店でも、スーパー、コンビニでも、最近は様々なドーナツを見かけます。
 ねじった形のドーナツや、穴がなくクリームが詰まったドーナツ、揚げていない焼きドーナツ、パイ生地で作ったクロワッサンドーナツなどです。

 個人的にどれも好きです。
また、このどれかに凝っている時期があります。
 僕はドーナツに限らずクリームが好きですので、それがたっぷり詰まったドーナツばかりを選んでいた時期があります。
 そういえば、全国チェーンのドーナツ店で新商品がでるたびに、食べてみないと気が済まなかった時があります。
 
それと、少し前にも書いたような気がしますが、ドーナツ店にクッキークルーラーという商品があったときは、よく食べていました。
袋詰めドーナツのローズネットクッキーもそうですが、さくさくした歯触りのドーナツは昔から好きです。
ただここしばらくは、ドーナツ店でもスーパーやコンビニの袋詰めドーナツでも、オールドファッションタイプを食べることが多くなっています。
クリームがたっぷり入ったものや、ふんわりした食感のものなどから、慣れ親しんだドーナツに、好みが回帰した感があります。

 そんなことを考えていると、ふと冒頭に書いた疑問が湧いてきました。
“ドーナツとはどういうものか?”
 そう考えて思い浮かぶのは、“丸くて、真ん中に穴の開いていて、油で揚げた甘い食べ物”というものでした。
そのイメージですと、「丸い」「穴がある」「揚げている」この三つの要素がドーナツの定義だということになります。
しかしねじりドーナツは丸くありませんし、穴が開いていないドーナツも、揚げていないドーナツもあります。

ただそれらには「めじり」や「焼き」「クロワッサン」など「ドーナツ」の前に、一言添えられています。
そのことから、本来のドーナツとは違った点があることを表していると感じます。そう考えると、やはりドーナツは丸くて、穴がある、揚げた甘い食べ物なのだろうと思います。
そしてそれとは違っている点を“うり”にしているドーナツが多々あるということになるような気がします。
ドーナツは、「本来は、丸くて、真ん中に穴がある、揚げた甘い食べ物だが、そこから派生したものや、変形したものが数多くある」ということになりそうです。

「ドーナツの穴を残して食べる方法があるのか?」
 数か月前にそんな文章をインターネットで目にしました。
 言葉の表現で考えると、「ドーナツには穴がある」しかしこの「穴」はドーナツが“ない”空間を指しているのだと思います。
“ない”空間のことを「ある」という言葉で表現するのは、ドーナツがあるからと思います。
“ない”空間が存在するのは、ドーナツが存在しているからだということになると思います。
 ドーナツが存在しなければ、ドーナツの穴は存在しえないと思います。
 ドーナツが“ある”から、ドーナツの穴が“ある”のだと思います。
 ドーナツがなくなれば、ドーナツの穴はありようがないと思います。
「ドーナツの穴を残して食べる方法があるのか?」
「ない。以上」

 それでは面白くないのだろうと思います。
 常識や物理法則にとらわれずに考えを広げていくことが、この問いの狙いというか、目的というか、面白ところなのだろうと思います。
 そのような問いは、時々見たり聞いたりします。物理法則で片づけてしまえばすぐに結論が出ることを、わざわざ考えを広げていくというか、ある意味こねまわしていると感じることがあります。
しかしそう感じながら自分でも考えてみると、終わらなくなくことがあります。まったく無関係だと思われるようなことに広がり、着地点のない思考を続けているような感じになることがあるのです。

数日前、再びインターネットで「ドーナツを穴だけ残して食べる方法があるか」という話題を目にしました。
これをテーマにした書籍があるそうで、それを取り上げていました。
その内容は様々な分野の大学教授が、この問いに真剣に取り組んでいるようです。

「ドーナツの穴だけを残して食べる方法はあるか?」個人的な印象ですが、この問いは哲学的な思考の広がりはそれほど大きくはないような気がします。

だからこそ、様々な学問で考えることが出来るかもしれません。

2014年7月4日金曜日

入り込み損ねた映画

もう随分前のことですが、「ダイ・ハード」を劇場で観ました。
この作品は、公開前から評判が耳に入ってきていました。公開されると、映画館には大勢の人が入っていたのだったと思います。
評判になっていた映画ですので、上映期間も長かったと思います。僕は公開してから数週間後に観に行ったと記憶しています。

何度か書いていますが、僕は娯楽性が高い活劇的な内容の映画が好きです。特に刑事やそれに類する主人公が活躍するポリスアクションが好きです。
前評判が高く、先に観た友人が絶賛していたこともあって、「ダイ・ハード」には期待していました。
しかし実際に観たときの僕の感想は、それほどいいものではありませんでした。とても面白い活劇的映画だと思ったのですが、いろいろと細かい粗が気になったのです。

ここでは「ダーティーハリー」や「フレンチコネクション」「ブリット」などについて書いたことがあると思いますが、どれもとても気に入っているポリスアクション映画です。これらの作品に比べて「ダイ・ハード」は“少し派手すぎるかな”という印象を受けました。
ただ「ダイ・ハード」の感想があまり良くなかったのは、映画に集中できなかったためだと思います。

公開から数週間後に観に行ったので、映画館は満席ではありませんでした。それにしても人気を博した作品ですので“がらがら”だったわけでもなく、ある程度の人が入っていました。
僕のななめ後ろに、中年と思しき年代の女性が二人いたのですが、映画が始まってからも、ずっと話をしていました。
それが気になって、映画の導入部で入り込むことが出来なかったのです。
このことは以前書いたような気がしますが、あの頃そのようなことは時々ありました。映画上映中の話し声は、とても気になる時があるものです。

そして映画は、導入部で入り込むことが出来ないと、作品全体の評価が低くなってしまうことがあると思います。
映画は観るときの集中の度合いが、作品の印象に影響を及ぼすと思うのです。
上映中の話し声など、些細なことが気になりだすと、どんなに意識しないようにしようと思っても、スクリーンに集中できないときがあります。

ただ最近の映画館は音響機器やそれに関する設備がよくなっているようです。そのため非常に音が大きいものの、耳が痛くなるような響きではないと感じます。
そしてあの音の大きさでは、とても話など出来ないと感じます。

また最近の映画館は、上映時間のまえ、観客が席に着こうとしている時から、ずっと予告編が流れています。
本編上映前の予告編がはじまると、会場が暗くなり、音量が大きくなります。段階的に場内の証明が暗くなり、音量が大きくなることは、スクリーンに集中させる効果があると思います。
また“映画泥棒”を注意する映像も、『いよいよ本編がはじめる』という意識を喚起することにもなっているような気がします。

 そのようなことからか、最近は映画館で上映中に話し声を聞くことは少なくなったと感じます。
 ただそれでも、映画に入り込むことが出来ないこともあると思います。映画館の環境ではなく、作品自体というか、観るときの意識の流れなどによって、集中出来ない場合もあると思うのです。

 少し前に「第三の男」について書きました。この映画は導入部に戦後のウィーンについて説明する場面があります。その歴史的背景について、予備知識がないと映画に張り込めないこともあるかもしれません。
 思い出したのですが、はじめてこの「第三の男」を見たのはビデオだったような気がします。あの時は歴史的背景に対する知識がないことなど気にせずに、映画に入り込めたように思います。

 ただ「カサブランカ」を初めて見た時、時代背景が気になって、少し入り込めなかった覚えがあります。
 しかし二度目にみたときは、一度目にみたことが予備知識になっていますし、それほど気にしなくても映画を楽しめることがわかっているので、すぐに入り込むことができたと思います。

 また以前、「炎のランナー」についても書いたことがありますが、この作品も導入部で入り込み損ねたと感じます。
 僕は、この映画を初めて見たとき、登場人物を見分けられず、そこに意識がいってしまいました。
また、舞台となる英国の社会や、そこの学校の風習などに関する知識のなさも、映画に入り込み損ねた理由だったと思います。
 
それに「アラビアのロレンス」も、若い時にはじめて見たときは、全く入り込めませんでした。歴史や時代や、舞台となった地域に関する知識がなかったことは理由の一つだったと思います。
それが昨年、何十年ぶりに映画館で観たときは、作品に集中できました。やはり映画史にのこる名画だと思います。


前にも書きましがが、初めて見た時に入り込めなかった映画は、時間をおいてから見直すと堪能できることがあると思います。

2014年7月3日木曜日

一瞬



 いかようにも判断できるということは、その時の政治によって変わることがあり得ると思います。

 そうなると、集団的自衛権の行使を容認することが決まっていても、実際に行使するかどうかの判断は、時の政権によって変わってくるかもしれません。

集団的自衛権の行使を容認しているものの、政権の判断によっては行使しないこともあり得るということになると思います。

 

しかし、自衛隊を動かしたくて仕方ないと考えている人や、武力を背景にして強硬的な姿勢をとるべきだと考えている人ばかりが政治家になれば、すぐに集団的自衛権を行使しようとするかもしれません。

 

またこの件は、憲法の解釈変更を閣議決定したという前例を作ったことになると思います。

それは再び閣議決定で変更されることがあり得るというになると思います。

憲法解釈を元にもどすべきだと訴える政党が政権をとったら、それもあり得るということになると思います。

元に戻さないまでも、集団的自衛権の行使を認めながらも、より慎重な内容に改められることもあり得ると思います。

 

それにこの件は、与党が衆参両院で圧倒的な議席を持っていると、どのようなことになるかを表していると感じます。

そうみると、これからの選挙は非常に重要だと思います。

これからの選挙は、今までより遙かに重みが増したといえるような気がします。

集団的自衛権を実際に行使することは、これからの選挙にかかってくると思います。それを意識して投票しなければならないと思います。

選挙演説で重要な政策に触れない候補者に投票している場合ではなくなると思います。

政策に対する見識がないことがはっきりと感じられるような有名人候補者に投票している場合ではなくなると思います。

 

ところで、人は一つの事柄で盛り上がり、大勢が集まるものの、短時間で冷めてしまうことがあると思います。

この件も、一瞬だけ“反対”と大騒ぎをするもの、すぐに尻つぼみになるかもしれません。“盛り上がり”は、あまり長く続くものでないと思います。

一瞬だけでも盛り上がれば、国民の意思を表すことになると思います。しかしそれだけでは何もかわらない場合が多いと思います。

 

盛り上がるだけではなく、現実的な方法に思考を広げなければならないと思います。

国民の声が届いていないと感じているのなら、どうすればいいのか、具体的で現実的な方法を考えるべきだと思います。

そして現実的な方法は、多くの場合、時間を要するものだと思います。

 

これから、集団的自衛権の行使するための法律を整備すると聞きます。

与党が安定した議席を有している状況では、どのような法案でも通りやすいと思います。

しかしいくら議席数が多い与党でも、支持率が低いときは法案が決まりにくいと思います。

大きな政党には反対意見も潜在しているものだと思います。支持率が高い時は反対意見を表に出にくいと感じます。

支持率が下がれば、それが出てくると思います。与党内から反対意見が多く発せられると、議席が多くても法案は通りにくくなると思います。

 

大臣をやりたがっている政治家が大勢いるようですので、内閣改造をやらなければならないと思います。

支持率が低くなると、大臣の座に着かせてもらえない政治家の不満が高ぶるかもしれません。それは法案の成立にも影響を与えるかもしれません。

 

支持率は単なるアンケート結果に過ぎないと思います。しかし、なんであれ数字には影響力があると思います。

先日の閣議決定後、与党の支持率は下がったようです。しかし大騒ぎするほどではなく、またすぐに戻るのではないかという見方が強いような気がします。 

 

一瞬だけ盛り上がるのではなく、数字で表れるようにするにはどうすればいいのか、現実的で具体的に思考を広げることが必要だと思います。

かといって数字を操作するのは論外だと思います。そのようなことは告発され、糾弾されるべきだと思います。そうすれば逆効果になることは明らかだと思います。

 

集団的自衛権の行使容認については、「難しくてわからない」「どちらともいえない」など、自分の意見を決めかねている人も少なくないようです。

それを引き寄せれば、数字にも表れると思います。

自分の意見を決めかねている人を引き寄せるには、わかりやすさだけでなく、説得力が必要だと思います。

 

この件では、賛成する政治家からも、反対する側からも「命」という言葉が頻繁に発せられていると感じます。個人的に、情緒に訴えようという意図を感じます。あざとく、わざとらしいという印象を抱き、説得力がなくなるばかりだと感じます。

 

反対するのであれば、一瞬だけ大騒ぎするのではなく、効果的な方法を考えるべきだと思います。

支持率がしっかり下がること、これから行われる地方の選挙で与党の得票数が下がること、それは“反対”にとって有効だと思います。

そうするには、迷っている人や判断を決めかねている人を、引き寄せることが必要だと思います。

そのためには、真正面から説得力のある説明をすることが必要だと思います。

押し付けや雰囲気に流されているのではなく、しっかりとした意見を持つ人を増やすことが必要だと思います。
 
 
 

2014年7月1日火曜日

増幅


 社会には雰囲気のようなものがあると思います。そして、それは時代によって変わり続けているものだと思います。

 おそらく何世紀も前と現代では、社会を包んでいる空気感は違っていると思います。

 僕は50年近く生きていますが、その簡にも社会全体を覆っている雰囲気は変わりつづけていると感じます。

 

 社会全体を包む雰囲気や空気感は、様々な要素によって作られているような気がします。時間だけでなく、地理的条件や社会体制も関わっていると感じられます。

 そのため国や地域、地方や自治体などによって、空気感は違っているのだろうと思います。

 町内にはその町内の雰囲気があり、それが集まった県にもその県の空気感があり、それが集まった国にもその国の雰囲気があり、それが集まった世界にもその時代の空気感があるような気がします。

 

 インターネットは現代社会の雰囲気を作る要素の一つだと感じます。

 現代社会では、世界中でインターネットが活用されています。それが空気感を作り出すのは当たり前かもしれません。

 ただ空気感の“変わり方”を考えてみると、インターネットによって“増幅した”ことがあるような気がします。

 

 言葉で言い表すのが難しいのですが、“群れが出来る過程”や“群れが動く形”、つまり“民衆”や“群衆”の“生まれ方”や、それらの“動き方”などが、インターネットによって強まったと感じられるのです。

 民衆が作られる過程や、その動き方などは、昔からあまり変わっていないような気がします。

 ただ昔より、群れが生まれる過程も、民衆の動き方も、速くなっていると感じます。

 そして大きく、広くなっていると感じます。

 それがインターネットのもたらした変化だと感じるのです。

 

実際に大勢の人間が集まって行動するだけでなく、インターネットのなかの、“群れ”もあると思います。

「炎上」という言葉を見聞きするようになって久しい感があります。かつては大型掲示板で見られたようですが、最近ではもっぱら短文投稿サイトで「炎上」という状況が起きているようです。

 僕は短文投稿サイトを利用したことがありませんし、大型掲示板も滅多に見ません。そのため「炎上」という言葉は、耳に入ってくる情報だけで勝手に解釈しています。

特定の書きこみに対して、強く批判する書き込みが大量に投稿されたり、激しい言葉の応酬になったりすることだと認識していますが、理解不足や勘違いがあるかもしれません。

 

あくまでも個人的な印象ですが、「炎上」は急激に投稿が増えるものの、あまり長い時間続くものではないような気がします。またその内容の幅が広がることも少ないという印象があります。

批判は強いものの、持続性も進展性もなく、意見や論理には発展性がないような気がするのです。

 

それは実社会にも見られるような気がします。一つの事柄に対して多くの人が同調し、集団をつくって行動するもの、思考や論理に具体性と発展性がなく、持続しないと感じることがあります。

 

少し前に中東で起きた民主化運動は、独裁者を倒すという事柄にむかって急速に民衆が出来、それが速く動いたように見られます

しかし“独裁者をたおす”という一点で盛り上がっただけで、“民主的な国にする”ことに関して具体性がなかったと感じます。

“具体的な民主化”に向かって論理が発展せず、その方向に上手く進展しなかったと感じます。

結局、勢いにまかせて独裁者を倒したものの、円滑に民主化が進んでいるとはいえない国もあるとみられます。

今では民主化しようという意識が薄らいでいる人もいるかもしれません。

 

みんなでひとつのことに向かって盛り上がるものの、やがて冷めてしまう。それは昔からあった風潮だと思います。

ただインターネットがその風潮を増幅したような気がします。

盛り上がる速さと大きさが増幅したと感じます。冷めてしまう速さも増幅していると感じます。

一点で盛り上がるだけで、考えが深まることも広がることもなく、すぐに冷めてしまう、そういう風潮が強まっているような気がします。

 

しかし、インターネットが生まれる前から、盛り上がりやすく、冷めにくく、非常に長いあいだ持続する事柄もあると思います。

宗教や民族に関わる対立です。

また、国と国、地域と地域の対立もそうだと思いまです。

そしてそれらもインターネットによって増幅していると感じます。

盛り上がることが増幅するだけでなく、冷めないことも、長くつづくことも増幅されていると感じます。

 

現在“どうしてみようもない”とか“手の施しようがない”と感じる状況になっているように見える地域があります。

 ただ振り返ってみると、外の国や地域が関わってもこの地域が安定することはなかったような気がします。

 その点も、かつてより強まっていると感じます。よそ者がちょっかいを出せば出すほど、事態を悪くしてしまいそうな気がします。