社会には雰囲気のようなものがあると思います。そして、それは時代によって変わり続けているものだと思います。
おそらく何世紀も前と現代では、社会を包んでいる空気感は違っていると思います。
僕は50年近く生きていますが、その簡にも社会全体を覆っている雰囲気は変わりつづけていると感じます。
社会全体を包む雰囲気や空気感は、様々な要素によって作られているような気がします。時間だけでなく、地理的条件や社会体制も関わっていると感じられます。
そのため国や地域、地方や自治体などによって、空気感は違っているのだろうと思います。
町内にはその町内の雰囲気があり、それが集まった県にもその県の空気感があり、それが集まった国にもその国の雰囲気があり、それが集まった世界にもその時代の空気感があるような気がします。
インターネットは現代社会の雰囲気を作る要素の一つだと感じます。
現代社会では、世界中でインターネットが活用されています。それが空気感を作り出すのは当たり前かもしれません。
ただ空気感の“変わり方”を考えてみると、インターネットによって“増幅した”ことがあるような気がします。
言葉で言い表すのが難しいのですが、“群れが出来る過程”や“群れが動く形”、つまり“民衆”や“群衆”の“生まれ方”や、それらの“動き方”などが、インターネットによって強まったと感じられるのです。
民衆が作られる過程や、その動き方などは、昔からあまり変わっていないような気がします。
ただ昔より、群れが生まれる過程も、民衆の動き方も、速くなっていると感じます。
そして大きく、広くなっていると感じます。
それがインターネットのもたらした変化だと感じるのです。
実際に大勢の人間が集まって行動するだけでなく、インターネットのなかの、“群れ”もあると思います。
「炎上」という言葉を見聞きするようになって久しい感があります。かつては大型掲示板で見られたようですが、最近ではもっぱら短文投稿サイトで「炎上」という状況が起きているようです。
僕は短文投稿サイトを利用したことがありませんし、大型掲示板も滅多に見ません。そのため「炎上」という言葉は、耳に入ってくる情報だけで勝手に解釈しています。
特定の書きこみに対して、強く批判する書き込みが大量に投稿されたり、激しい言葉の応酬になったりすることだと認識していますが、理解不足や勘違いがあるかもしれません。
あくまでも個人的な印象ですが、「炎上」は急激に投稿が増えるものの、あまり長い時間続くものではないような気がします。またその内容の幅が広がることも少ないという印象があります。
批判は強いものの、持続性も進展性もなく、意見や論理には発展性がないような気がするのです。
それは実社会にも見られるような気がします。一つの事柄に対して多くの人が同調し、集団をつくって行動するもの、思考や論理に具体性と発展性がなく、持続しないと感じることがあります。
少し前に中東で起きた民主化運動は、独裁者を倒すという事柄にむかって急速に民衆が出来、それが速く動いたように見られます
しかし“独裁者をたおす”という一点で盛り上がっただけで、“民主的な国にする”ことに関して具体性がなかったと感じます。
“具体的な民主化”に向かって論理が発展せず、その方向に上手く進展しなかったと感じます。
結局、勢いにまかせて独裁者を倒したものの、円滑に民主化が進んでいるとはいえない国もあるとみられます。
今では民主化しようという意識が薄らいでいる人もいるかもしれません。
みんなでひとつのことに向かって盛り上がるものの、やがて冷めてしまう。それは昔からあった風潮だと思います。
ただインターネットがその風潮を増幅したような気がします。
盛り上がる速さと大きさが増幅したと感じます。冷めてしまう速さも増幅していると感じます。
一点で盛り上がるだけで、考えが深まることも広がることもなく、すぐに冷めてしまう、そういう風潮が強まっているような気がします。
しかし、インターネットが生まれる前から、盛り上がりやすく、冷めにくく、非常に長いあいだ持続する事柄もあると思います。
宗教や民族に関わる対立です。
また、国と国、地域と地域の対立もそうだと思いまです。
そしてそれらもインターネットによって増幅していると感じます。
盛り上がることが増幅するだけでなく、冷めないことも、長くつづくことも増幅されていると感じます。
現在“どうしてみようもない”とか“手の施しようがない”と感じる状況になっているように見える地域があります。
ただ振り返ってみると、外の国や地域が関わってもこの地域が安定することはなかったような気がします。
その点も、かつてより強まっていると感じます。よそ者がちょっかいを出せば出すほど、事態を悪くしてしまいそうな気がします。