2017年2月18日土曜日

かつてないほど危険な状況にある

逮捕されること、それ自体が練りに練られた計画なのだと思われます。
 大韓航空機の時は、自決を仕損じたことで結果的に北朝鮮の重要な内部情報が韓国に渡ることになったとみられます。
 その轍を踏まないように周到に計画されたのが、金正男の暗殺だったと思います。下手に自決を命じると失敗した場合の面倒なことになりかねないという考えに基づいていると思います。
 実行犯が逮捕されても、北朝鮮が知られたくないことが漏れなければなんの問題もないからです。
それに実行犯が逮捕起訴されたとしても、死刑や終身刑になる可能性は小さいと思います。それならば暗殺の後の逃亡路を確保するより、逮捕させたほうが確実だと踏んだのだと思います。
 逮捕されることが目的ですから衆人環視と、多くの防犯カメラが設置された空港で、事前に練習までして、つまり人目にさらす形で暗殺を行ったものと思われます。
 実行犯が工作員であれ、素人をたぶらかして利用したのであれ、逮捕されても北朝鮮との関係が明らかにならなければ問題ないので、そのようにしてあるのだと思います。つまり実行犯は、漏らしてはならない北朝鮮の情報を知らない者である、ということです。逮捕され尋問されても、北朝鮮当局には痛手はないからです。
 今回、実行犯に求められたのは、暗殺を確実に成功させる能力と、北朝鮮が漏らしたくない情報を持っていないこと、その二つだったと思います。
 一つ目のために、十分な訓練や練習や説明をして暗殺を確実に実行できる状態にしていたと思います。 
 二つ目のために、素人を引きこんだり、工作員の身元を擬装したり、情報を持たない要員を選抜したり、暗殺を実行する訓練をしたりしたのだと思います。
要人暗殺は極めて周到な計画と入念な準備を経て実施されることが多いものだと思います。

 北朝鮮の最高指導者を世襲した金正恩は、それまで政治経験が全くなかったと思われます。それは金正男も同じですが、正恩が後継者に決まったということは、北朝鮮内部で彼を担ぎ上げる人たちがいたものと思われます。
 金正男もそうだったと思いますが、金正日に嫌われたため、ある程度早期に後継者候補から脱落したとみられています。
 金正日が死亡する前に金正恩を後継者と定めたことで、すみやかに権力移行が行われたものの、しばらくは混乱があったように思います。
 国として行うことがちぐはぐな印象があった気がするのです。硬軟両極端なことをやっているように見えました。遊園地を作ったり、ミサイルを発射するときは見世物的にしたり、そこでミサイル発射が失敗したり、といったことがあったと思います。
 それは北朝鮮内部で硬軟両端の勢力争いがあったものと思われます。その争いは、祭り上げた金正恩に取り入って、自分たちの側の主張する方向に最高指導者の意志を誘導することだったと思われます。
 当初、金正恩は強硬派と穏健派のどちらにもつかず、両方の顔を見せていた感があります。それがある時を境に、明確に強硬姿勢を取るようになったように見えます。
 
 一旦は強硬派についたように見えましたが、金正恩は自分自身についたといえるような気がします。
 経験がなく見識もなかったため当初は大人しく担ぎ上げられていたものの、権力を得たことで増長したのだと感じます。
 その増長ぶりはすさまじいものがあり、まさに暴君的であり、周囲では抑制が効かないほどになっていると感じます。
 気に入らない人物を容赦なく葬っているように見えます。

一方、金正男は見識と常識を有していたと思います。後継者候補から脱落したのは三世代世襲に反対するなどしたためだと伝えられていますが、それは見識と常識と的確な国際感覚があるからこそ言えることだと思います。
そして状況を冷静に認識できるからこそ、後継者になる意欲を持っていなかったのだと思います。後継者候補から脱落させられたというより、自ら降りたというほうがいいのかもしれません。
つまり常識と見識をもっていたために、野心を持たなかったということです。また野心を見せることが身を危険にすることを十分に認識していたと思います。
ただ、野心などない、北朝鮮の最高指導者になどなりたいとは思わないと、本人がいくら言っても邪推する者が必ずいることもわかっていたと思います。
そのため殊更、政治とは関係のない行動や、稚拙に見える行動をとっていた感があります。それは聡明さの表れといえるような気がします。
しかし常識と見識を備えた聡明な人物、それは一国のリーダーとしての素養を有した人物であると見る者たちもいたのではないかと思います。

経験も見識もなく、現状を的確に認識する能力が欠けているにも関わらず、ひたすら自意識を高め、強硬性を強めるばかりの金正恩に危機感を抱く者が、北朝鮮国内外にいるはずだと思います。
そんな金正恩体制では国が危ういと考える北朝鮮国内外の者たちが担ぐのは、金正男が最有力候補だったと思います。たとえ金正男本人にその気がなくとも、です。
そうなると、いくら野心がないことや、能力がないことを行動でしてしても、金正恩にとっては、金正男の存在自体が懸念材料になると思います。
今は野心がなくても、いつ気が変わるかもしれませんし、いずれ説得されるかもしれません。
理性的で的確な見識をもつ金正男が、その気になれば金正恩は権力の座から引きずり降ろす、金正恩はそれを恐れていたのだと思います。
今はまだそのような動きが表にでていないため、金正男は特に警戒していなかったとみられます。金正恩からすれば、今のうちに最大の懸念材料を排除しようと考えたのかもしれません。

今の北朝鮮は、金正日が死んだときよりもずっと危うい状況にあるのかもしれません。
それどころか、史上最も危険な体制にあるといえるかもしれません。
経験も見識も常識もなく、自意識過剰の認識不足で、強行一辺倒で統率力がなく、思慮の浅い横暴な素人の若造が一国のリーダーとして権力を強めているからです。
しかも対処するすべが見つけられない状況だと思われます。中国にはそんな金正恩に不快感を持つ者もいれば、そうではない者もいると思われます。

それに素人であるがゆえに、玄人が使う手が通用しないことはよくあることだと思います。

2017年2月17日金曜日

テロリストの発想をもつ人物と核兵器

現時点で人類最後の戦争における核攻撃から数十年の時間が過ぎたと思います。長い時間が流れたのですから、様々な事柄が変わったと思います。
先の大戦と比べると、現在そしてこれからの戦争の様相も大きく変わったと思います。様々な技術が生み出され軍事分野で実用されていますし、国際情勢は刻々と変化しています。
現在、そしてこれからの戦争において、核兵器は戦術的にも戦略的にも有効ではないと思います。

東西が二つに割れるという対立軸が一本だけのわかりやすい冷戦時代にくらべて、現代の国際社会は遥かに複雑になっていると思います。
利害関係は国によって異なっており、同盟国であっても、すべてにおいて賛同することはなくなっていると思います。
戦争においても非人道的な行為があれば、同盟国であっても厳しい態度に出ることは十分にありうることだと思います。

情報伝達技術が発達したことで、もし今後核攻撃が実行されたら、その非人道性が世界中に知らしめられることと思います。
核攻撃によるあまりにも大きな破壊と虐殺が、過去の二度の核攻撃の時とは比較にならないほどに早く、広く、世界の人々に知れ渡ることが考えられます。
核攻撃を行った国は、広くから強い批判にさらされると思います。

それ以前に実戦で核兵器をつかうということは、核抑止力が壊れたことを意味すると思います。核攻撃には核攻撃による報復があるということです。
それは多くの破壊と犠牲をもたらし、核戦争による人類滅亡も起こり得なくはないと思います。

ところで無人攻撃機の登場は、軍人と一般人共に、戦争に対する人々の感覚を変えた感があります。
軍人は無人機に攻撃が一定の戦果を挙げていること知ることで、一般人は遠隔操作された軍用機が爆撃や攻撃を行う映像を目にすることで、それが戦争において有効な兵器であることを思考で認識し、またそれを感じたのではないかと思います。
 
“自軍の兵士の犠牲は少なければ少ないほどいいに決まっている。しかし戦争では兵士が命を落とすことはやむを得ないことだ”
 そういうものだと感じている人が多いのではないかと思います。無人機が攻撃する様子を映像で目にし、自国の兵士は安全な場所にいて、敵を攻撃することが出来うる時代になったことを感じた人が少なくないと感じます。
 ただ遠隔操作による無人機には多くの問題点が指摘されています。

 それにしても人々は自軍の兵士の犠牲者を出さずに済むという点は、戦争において有効だと感じたり、考えたりする人は多いと思います。
 そして無人機だけでなく、近年目にする爆撃の映像は標的だけを狙っているものが多いと思います。
 それを目にすることで、人々に自軍の犠牲者を最小限に抑えるだけでなく、敵軍であっても必要以上の破壊をもたらすべきではない。まして非戦闘員の犠牲は出すべきではないという観念が強まったように感じます。
 
それは人道的な観点だけでなく、戦争における有効性という視点においても、不必要な破壊は、結局無駄なだけで、戦争における無駄にはメリットは少なく、デメリットが大きいと思います。
無差別に大量の人間を殺戮するのは、戦術的にも戦略的にも極めて無駄なことであり、多くのデメリットを抱えることになると思います。

これからの戦争は狙った目標だけを的確に破壊することが求められると思います。何事であれ無駄はないにこしたことはなく、無駄をなくそうと努めるものだと思います。
ピンポイント攻撃はまさに無駄を排した攻撃といえるかもしれません。
民間人、非戦闘員の被害は出さない方向に向かうと思います。それに自国の兵士の犠牲は極力すくなくし、敵国兵であってもむやみに殺さず、狙った艦船、狙った航空機、狙った施設など、狙いだけを的確に破壊する、それは無駄がない効率的な戦い方だと思います。

その点、核兵器は莫大な破壊をもたらすための兵器であり、ピンポイント攻撃とは対極の発想に基づいた兵器だと思います。
核兵器のあまりにも強大な破壊力は、必然的に多くの民間人を巻き込むと思います。人類史上二回行われた核攻撃は、端から非常に多くの民間人を標的にしていました。次の核攻撃は軍事関係の施設だけを狙ったとしても、核兵器の破壊力と、それに伴う放射性物質の拡散は、ほぼ間違いなく多くの民間人を犠牲にすると思います。
そして報復の核攻撃を受けたり、国際社会からの強い批判をあびたり、あらゆる制裁を受けたりすることになると思います。

これからの戦争において、核兵器は決して有効は兵器ではないと思います。しかしすでにこの世界に核兵器が存在している以上、今から核兵器を失くすことは不可能だと思います。核兵器が存在する国際社会では、核抑止力は必要だと思います。
ただ無駄に多くの核兵器を持っていても仕方ないと思います。不必要なほど多くの核兵器を抱えることは、メリットよりもデメリットのほうが大きいような気がします。

 ただし戦争ではなく、無差別のテロには十分有効になりうると思います。核兵器は無差別に多くの人間を殺戮する兵器だと思います。まさにテロの手段として核兵器の使用は有効だと思います。 
そしてテロリストが核兵器を使うとなると、脅しや抑止力として使うことよりも、実際に兵器として使うことがあり得ると思います。
 つまり、テロリストに核兵器が渡ることは、すなわち核兵器が使用されること、そうなる可能性が低くないと思われます。
 
そうなるとテロリストの手に核兵器が渡らないようにしなければならないと思います。
核兵器の管理を厳重にすることはもちろんですが、世界にある核兵器の数を減らすことも求められると思います。
数が少ない方がテロリストの手に渡りにくいからです。また数が少ない方が管理を厳重にしやすいと思います。
 
またテロリストと同じように、あるいはそれ以上に危険なのは、テロリストと同じような発想をする独裁者だと思います。
実際、テロリストのような発想をする人物が、国を支配する立場にいるように見えます。

その人物が核兵器を欲していると聞きます。そういう人物が求めているのは、戦争において有効な核兵器ではない。テロリズムの道具としての核兵器であるような気がしてなりません。危険極まりないと思います。

2017年1月15日日曜日

一体いつまで道半ばなの?

「デフレ脱却までまだ道半ばです」
もう何度も耳にしている感があります。それに随分前から耳にしているとも感じます。何度も耳にしているのは、何年間も“道半ば”であることも一因だろうと思います。
考えてみると、あまり長い間“道半ば”では“成果”とは言えないのではないかと思います。“道半ば”で止まってしまい、それ以上に進めないのでは上手く行っていないという見方をされてもしかたないと思います。
あるいは方向性を誤っているという見方もあると思います。
「アベノミクス」を名付けた政策は順調とはいえない、あるいは政策が正しくなかった、といえるかもしれません。
ただどちらも初めから想定されていた気がします。

 少し前から世界には“金融至上主義”という考え方が蔓延している感があります。
世界中で多くの人達と多くの国が、金融経済を重視し、金融経済に頼るようになったようにみえるのです。 
 そうなった要因の一つだと考えられるのは、情報技術の進歩が挙げられると思います。金融に関する作業が効率化し、即時的な対応が可能になったことで、取引が活発になったのではないかと思います。それらは新規参入のハードルを下げることになったのかもしれません。
 そんなことも相まって、金融経済の動きは速まるばかりに見えます。また極端に振られやすい傾向が強くなったと感じます。それは不透明感が強まっているということでもあると思います。即ち予測が難しく、またリスクが大きいということです。

そんな社会では“とにかく金融市場を持ち上げれば、実体経済がついてくる”という発想が通じなくなっていると感じます。その発想自体が古いといえるかもしれません。
バブルの再来を望んでいる、バブル懐古主義者の発想という印象をうけることもあります。数年まで、国民にも、政治家にも、マスコミにも“バブルの再来を望んでいる、バブル懐古主義者”が多かったような気がします。
そのためアベノミクスに対する批判的な論調が強まらなかった感があります。
“金融だけで実体経済を引き上げるには無理があるのではないか”、そういう意識を抱きながらも、“上手くいって日本の景気がよくなって欲しい”、そういう希望的観測が勝っていたように感じます。

また景気は“気”であり、たとえデマでも“良くなる”と多くの人が信じれば、実際に景気が良くなることもあり得ると思います。景気には雰囲気が非常に重要だと思います。
バブル崩壊以降、日本経済が長い間低迷していると感じるのは、そういう雰囲気が蔓延し、払拭できずにいることが、一つの要因だと思えます。
金融市場を活性化することで、景気の雰囲気をよくするということも、アベノミクスの狙いの一つではあると思います。それも必要なことであり、その点について一時、効果があったと感じます。
また「アベノミクス」という呼び名をつけて、首相がみずから積極的にアピールし、マスコミにもその語彙を多く発信させることも、景気の雰囲気をよくする手立ての一つだと思います。
アベノミクスにおいて、最も効果的だったのはこの点かもしれません。

しかしいま本当にこの国の経済発展に必要なの、成長戦略であり、金融経済ではなく、実体経済を強くすることだと思います。
そのために雇用創出と賃金水準の引き上げが求められると思います。それが個人消費を喚起し、個人消費が活性化することで、国内消費が高まり、そこで雇用が生まれ給与水準があがるという好循環が作られる可能性があるからです。
アベノミクスの初代三本の矢の一つに、成長戦略を掲げていましたが、この矢はいかにもおざなりだったと感じます。
バブル懐古者による金融至上主義的政策、それがアベノミクスであり、成長戦略は付録のような扱いだった感があります。
だからいつまで経っても「道半ばです」といわなければならないのだと思います。

 アベノミクスを発表して数年後、今から数年前になってようやく給与水準の引き上げに政府が動き出したように見えます。
 それはいいのですが、そのやり方は企業に給与を上げるように口出しすることであるように見えます。
 それでは効果は限定的になりやすいと思います。むしろ給与を上げられる企業とそうではない企業との格差、都市部と地方との格差が広がることになりかねないと思います。
構造的に給料があがるような政策が求められると思います。

今の世界経済における有効な成長戦略は、あたらしい産業を見つけることが挙げられると思います。つまりこれから発展する産業を世界に先がけて見つけ、それを世界に先だって発展させること、です。
ただしそれは極めて難しいと思います。ことに日本人には。

未来を知ることは誰にも出来ないと思います。
理論や論理的な予想が必ずしも現実になるとは限らないと思います。
これから発展する産業を見つけることは難く、また新しい産業を見つけるにはコストがかかると思います。コストがかかることは、リスクがあるということだと思います。
コストをかけて今後発展するであろうと予測し、その産業を育てるためにあらゆる資材を注ぎ込んだものの、思惑どおりにいかない可能性が常にあるものだと思います。

日本人に見られる心理的な特徴として、リスクがあることには及び腰になりやすいということがあると思います。発想が保守的になりがちで、主体性が弱い傾向がある日本人は、リスクがあると認識した瞬間、守りに入る心理が働く人が多いと感じます。
殊に一度痛い目にあった後には、それが顕著に表れることが多いと感じます。リスクを負って新しい産業を探すことに、バブル崩壊とリーマンショックを経験した今の日本人は及び腰になりがちだと感じます。

それにしても今の日本経済は「道半ば」で立ち止まっていると感じます。
経済が立ち止まって入るということは即ち停滞しているのであり、経済が停滞しているのは、政府の経済対策が効果的ではなく、手詰まり状態だという見方が出来ると思います。

そんな現状を打開するには、大胆な成長戦略が必要なのかもしれません。

雇用創出と内需拡大

トランプさんは記者会見で、アメリカ国内の雇用創出することを強く主張していたと感じます。
「最も多くの雇用を生み出す大統領になる」
ただそれは、他に実効性のある経済政策を打ち出せないことの表れだったように見えました。
選挙期間中から訴えていたことですので、初会見でも主張するのは当たり前だと思いますし、実際メキシコに新工場を建てる計画をしていた大企業が撤回をしていると聞きます。
トランプさんはすでにそれを自身の“成果”だと認識しているようです。
会見ではその“成果”を誇示するとともに、他の企業にも追従を促していたようです。

トランプさんが今までに打ち出している政策の多くには、具体性と現実性に乏しいことは明らかだと思います。
経済政策に関してもしかりです。そんななか雇用に関してだけは、“大企業によるメキシコ新工場建計画を撤回した”という具体的な現実を示すことが出来たのだと思います。

トランプさんの経済政策への期待からアメリカや日本の株価が上がりました。しかし具体性と現実性に乏しい経済政策であることは多く人が認識していると思います。
 “トランプさんの経済政策に期待する人が多いだろう。だからとりあえず今は買いだ”そういう投資家も少なからずいたはずだと思います。
 そうなると本番はこれからだと思います。トランプさんがこれから本当にどんな政策を打ち出し実行するのか、それが問われると思います。ただ、トランプさんの今までの言動から、どんな政策であっても、これからの株式市場は荒れやすいと思います。

トランプさんは不動産業で財を成したと聞きます。その道は順風満帆ではなかったかもしれません。それでも今のトランプさんが事業における成功者であることは間違いないと思います。そして事業で成功者になるには才覚が必要だと思います。しかし、企業活動で儲けることと、一国の経済とは大きく違っていると思います。
お金を動かす感覚は企業活動も国の経済も共通するかもしれません。しかし国の経済を動かすには、それに関する見識を有していることが不可欠だと思います。
トランプさんの一連の発言からは、彼が国や世界の経済に関して大統領として必要な見識を備えているとは思えないのです。

そうはいうものの、トランプさんが訴える国内雇用の拡充は、どの国でも求められることだと思います。
ところで中国は人件費の高騰などから輸出が頭打ちになっていると聞きます。そこで内需拡大に本腰を入れようとしているようです。
中国には国内消費がまだまだ潜在しており、それを掘り起こすことで経済成長を維持できるという考え方があるのだろうと思います。
『内需拡大が必要だ』それは、かつての日本でもよく耳にした言葉だと思います。輸出が経済を主導する国は、いずれ内需拡大が求められるようになる、それが自然な流れであるような気がします。

アメリカも依然として国内消費は多く、またまだまだ潜在していると思います。そして雇用を創出することで、国内消費は活性化する可能性があると思います。
アメリカ次期大統領が国内雇用の拡充を訴えること、それ自体は至極真っ当なことだと思えます。
しかしトランプさんの場合、一国の経済を見るには視野がせまいと思います。狭い視野ために状況認識が出来ていないように感じます。
視線が狭いため主張が単純になりがちなのだろうと思うのですが、単純な主張は大衆にはわかりやすく、選挙戦では支持者を引きつけたという側面があったのかもしれません。
しかし経済の実態は決して単純ではなく、またトランプさんの主張が通るほど浅くもないと思います。

 日本に目を向けると、やはり雇用の拡充は経済に有効だと思います。日本の場合、雇用創出、拡大が内需の掘り起こしにつながる可能性が高いと思います。
ただ日本の状況はアメリカや中国と違って国内消費は縮小しており、それはこれからも続くものと思われます。しかも加速していくと考えられます。
少子高齢化は消費者の減少に直接的につながるからです。そんななかで給与水準がさがれば、国内消費は確実に冷え込むと思われます。
給与水準が下がらなくても、上がらなければ国内消費は高まらないと思います。人口減少、少子高齢化の社会ですので、個人消費が横ばいならば国内消費は下がることになるからです。

そう考えると日本の場合、内需拡大には給与水準を高めることが不可欠だと思います。それと、いかに人口減少少子高齢化といっても人がいなくなるわけではないのだから内需はあると思います。
そうなるとその内需の掘り起こしが絶対に必要だと思います。日本人が欲しがるものを見つけること、日本人が欲しているサービスを見つけること、それが今の日本経済には非常に重要だと思います。
そしてそれらを日本で作って提供することは、給与水準の押し上げに繋ぎ得ると思います。ものを作ること、サービスを提供すること、それらが増えると雇用が生まれたり給与水準が高まったりする可能性があると思わるからです。
ものであれサービスであれ、多くの日本人が欲しがるほど、その過程で付加価値が生まれやすいと思います。
給与水準が高まることで個人消費が活性化すれば、国内消費も高まると思います。まさに好循環です。
“日本人が欲しがるものを日本で作って日本で売る”

 輸出業を軽視するわけではありませんが、今後は世界の経済が難しくなるばかりだと思われますので、改めて内需に目を向ける必要があるような気がします。

2017年1月9日月曜日

議員連合政党という考え方

今の国会の勢力分布を鑑みると、野党間で国家像の違いうんぬんを言っている状況ではないように思えます。
“多数決は究極の民主主義だ”そうは思いませんし、“民主主義とはすなわち多数決である”とも思いません。しかし今の日本の国会は一つの政党だけで過半数となっており、自民党はその数にものをいわせていると感じます。
 それは議会のあり方としてみると、芳しいことではないと思います。
 議会のあり方として芳しいことでないのならば、改善する必要があると思います。
 ではどうすれば改善できるのか? 野党が議席を増やすしかないと思います。
 ではどうすれば野党の議席が増えるのか? 選挙で野党の候補者が当選するしかないと思います。
 そうなると今のすべての野党は「与党の議席を減らすこと」当面そこに目標を定める必要があると思います。
「与党の議席を減らす」、それは今のすべての野党に共通する目標だと思うのです。
 自民党一党が両院で過半をもっているのですから、この状況では野党間における国家像の違いなど、あろうとなかろうと、なにも変わらないと思います。
 違いがあろうとなかろうとなにも変わらないということは、そんな違いにかまけている場合ではないということになると思います。

 民主主義は数ではないと思います。しかし数がものいうのが今の時代の民主主義の実情だと思います。
 ただ人数を集めるには必然的に意見の相違があると思います。政党でいえば、人数が多ければ多いほど、属する議員の主義主張に違いがみられるものだと思います。
 このところ「かつての自民党には様々な意見があった」などと耳にすることがあります。大抵は肯定的な意味合いを帯びています。
今の自民党には様々な意見がないのかというと、そうではないと思います。所属議員の間には主義主張に相違があると思います。あるべきだと思います。しかし今の自民党ではそれが表れないのだと思います。
今の日本の政治は俗に“安倍一強”といわれることがあります。そんななかで“かつて自民党”を肯定的に捉えているということは、今の自民党の状況、すなわち“安倍一強”を否定的に捉えているのだと思います。

 政党政治の原則に照らせば、与党内で政策に隔たりがあるのは好ましいことではないと思います。原則として、主義主張が一致する者の集まりが政党であるべきだと思います。
また政党の中に派閥があることも政党政治の原則には沿っていないと思います。実際、かつては派閥政治を批判する声が少なからずあり、それは派閥の力を弱める要因の一つになったと思います。
しかし派閥の力が弱まっていたことが、“安倍一強”体制を作りやすくしたとみられます。
“安倍一強体制は国にとっていいことではない”という考えが、“派閥の弱体化は国にとっていいことではなかった”という意識に繋がっている人もいるようにみえます。

大きな政党には内部で政策の対立があるのはやむを得ないという側面は確かにあると思います。そしてその側面をなくすことは出来ないと思います。今の自民党も内部での主義主張の相違や対立があると思います。しかし“抑えつけている”ように見えます。
また、大きな政党には内部で意見の相違や主張の対立があるのは、与党だろうと野党だろうと変わらないと思います。今の国会で二番目に議席数がある民進党も、例外ではないと思います。
実際、民主党という名だった時には、野党の時も、与党の時も、内部の対立はあったと思います。殊に与党だった時は、国民がうんざりするほどだったと思います。
それは、意見の相違や主張の対立が党内の権力争いの道具にされていたことが大きいと思います。国民の目には“国益や国民そっちのけで、権力争いに明け暮れている”ようにしかみえなかったと思います。だから国民は“こんな政党など相手にしていられない”という意識を深めたのだと思います。

自民党も過去には内部闘争が表面化したことがあったと思います。それによって国民の目が厳しくなったこともあったと思います。
自民党はその経験が蓄積されているのだろうと思います。それが、今の“安倍一強”の一因なのかもしれません。
今の自民党内には、政党内で権力争いをしても、それが批判されて自民党のイメージが低下したのでは、党所属議員みなにとってマイナスなるという共通認識があるため、“安倍一強”に皆が従っているようにみえます。

民主党は、野党時代も与党時代も、そういう共通認識がゼロだったような気がします。
何度も書きますが、与党時代は内部の権力争いによって政党のイメージが悪くなっても、そのなかで自分だけはよく見られようとする議員が少なかった気がします。そういう浅はかさな考えによってさらに政争がはげしくなり、政党のイメージはさらに悪化したように思います。

個人的に、政策が一致する議員だけで構成された少数政党による多党制が、これからの民主主義体制には適していると思います。
しかしそんな多党制の議会にするには、選挙制度を含めていくつかの事柄を大きく変えなければならないと思います。それは容易ではないことは確かだと思います。
当面、現在の体制で“安倍一強”という“国にとって決していいとはいえない状況”を改善する手立てを考える必要があると思います。
そうなると野党の政党を大きくすることと、次の国政選挙で野党が議席を増やすことの二つが挙げられると思います。
一つ目は、政党が意見や主張に隔たりがある者を受けいれることと、そのための規律つくりが必要だと思います。
二つ目は、選挙における野党共闘と、それを国民に受け入れてもらうための取り組みが必要だと思います。

最大野党である民進党は、所属議員間の主張の相違を最大限受けいれる必要があると思います。そしてそれを権力闘争の道具にしないための規律や雰囲気作りが必要だと思います。
“寄せ集め”になりますが、自民党も、昔も今もそういう政党だと感じます。“寄せ集め”でも党運営が上手くいけばいいのだと思います。
自民党の場合、大きな政党としての経験が豊富であることと、“与党であることのうまみ”があるため党運営が上手くいきやすいのかもしれません。
民進党はその両方がないため、党運営が上手くいかないのかもしれません。
 
民進党が政党を大きくするために、もうひとつ求められるのは、国民に“寄せ集め”であることの理解を得ることだと思います。
 主義主張に隔たりがあるものの、大局的な方向性は同じであり、それを実現するために“寄せ集め”が必要なのだと堂々と説明し、国民に納得してもらうことが必要だと思うのです。
 また“寄せ集め”であるからには、党議拘束はなるべくかけないほうがいいと思います。今の国会は自民だけで過半数を占めていますので、反対票が多少多くても議決結果は変わりにくいと思います。

“寄せ集め政党”は“大局的見地のためにある程度の主義主張の隔たりを受け入れる政党”であるべきだと思います。
“議員連合政党”というようなイメージです。
 規律と雰囲気作りが上手くいけば、政党の多様性が高まり、それは国政にとってプラスになり得ると思います。プラスになれば、“寄せ集め”を受け入れる国民も増えてくるのではないかと思います。
 
 また野党間における選挙協力は、“野党連合体制で選挙に臨む”ことだと思います。
 今の国会にはそれが必要だと思います。

2017年1月8日日曜日

第二次安倍政権の外交に対する評価

 日本と韓国の間にはいくつかの問題があると思います。そのすべてが最終的かつ不可逆的に決着することは“あり得ない”といえるほど、相当に難しいと思います。
『最終的かつ不可逆的な決着』とは『この問題はこれっきりにしましょうね』『これで後腐れなしにしましょうね』『これからこの問題は蒸し返すことのないようにしましょうね』、双方がそれを受け入れることだと思います。
 そのような取り決めは、過去に何度か日本と韓国の間で交わされたと思います。しかしいくつかは後に蒸し返されているように見えます。“これっきり”にならなかったということです。
 それは両国の経済状況や国民の意識の変化など、様々な背景があると思います。ただ、むしかえされることで問題は大きくなり、時間が経過することで問題は根深くなっているように見えます。

従軍慰安婦に関する日韓合意は、最終的かつ不可逆的に決着させることだったと思います。
つまり『従軍慰安婦問題はこれっきりにしましょうね』『これで後腐れなしにしましょうね』『これからこの問題は蒸し返すことのないようにしましょうね』そういう取り決めを、日本と韓国が合意したということだと思います。
合意したということは、“国と国”の視線でみれば双方が納得したということになると思います。
 しかし実際は“これっきり”にはならなかったと思います。蒸し返される以前の状況に見えます。“後腐れがある”という以前の話だと思います。
 
 韓国世論では、この合意に賛成する声よりも、破棄するべきだという意見のほうが多いようです。そんななか慰安婦を象徴するという少女像が新たに設置されています。
いくら“国と国”が納得の上で合意したとしても、国民がそれを拒否しているとなると、政治が強引に合意を履行することは難しいと思います。
韓国はそういう風潮が強いのかもしれません。従軍慰安問題や竹島などに関するデモや、セウォル号沈没に関する世論や、このところの朴槿恵大統領の退陣を求めるデモをみると、大衆があまりも感情的になっているように見えることがたびたびあります。

ただ、大衆は国に関わらず本来的に感情に左右されるものかもしれません。感情が大衆を大きくし、また感情が大衆を一方に流していくものかもしれません。俗に言うアラブの春ではそのような傾向が強く現れていたように思います。感情を高ぶらせた大衆を、政治で収めることも相当に難しいと思います。そのため中東諸国では政権が倒れたのだと思います。
それにしても韓国の大衆は、感情的になる傾向が強いような印象を受けます。そして韓国の政府も、感情を高ぶらせた大衆を政治で収めることは相当に難しいと思います。

先日、釜山に従軍慰安婦の象徴とする少女像が設置され、日韓関係が冷却化するだろうという見方が広がっているようです。
韓国内では従軍慰安婦に関する日韓合意を破棄すべきだという世論が大きく、韓国政府が日韓合意を履行することが難しいと思います。
これから、だれが大統領になろうが、どの政党が与党になろうが、韓国政府が日韓合意を履行することは、当分の間出来ないと思います。
今の状況は、合意が履行される前ですので、“蒸し返した”とか“後腐れ”、それ以前だと思います。

ただこうなることは、合意をする前から十分以上に予想できたと思います。これまでの経緯からしても、従軍慰安婦問題が“最終的かつ不可逆的に決着”することなど“あり得ない”のではないか、それはわかりきっていた感があります。
それでも合意したのは、日本が10億円の拠出という合意を履行してれば、合意を履行しない韓国に対して強い立場になれるという思惑があったのかもしれません。
確かに短期的にはそうかもしれません。しかし両国の関係が悪化し、冷却することは避けられないと思います。
しかもこれから年単位の時間がいくらか流れれば、今回の10億年の拠出も韓国国民は知らないことになると思います。そうなるとなかったと同じことであり、韓国の大衆は従軍慰安婦問題で日本を強く批判するだろうと思います。

このように考えると一昨年の従軍慰安婦に関する日韓合意は、後世の判断では“結果的に火種をまいただけだった”となるような気がします。
現在、韓国の国民とメディアは従軍慰安婦問題で日本をさらに強く非難するようになったと感じます。“日韓関係は、この日韓合意によって悪化した”という見方もあると思います。
日本側から長期的にみた外交として、失策となりかねないと思います。
冒頭に書いたように、従軍慰安婦問題に限らず日韓間の問題が最終的かつ不可逆的に決着することは“あり得ない”といえるほど相当に難しいと思います。ならば、たなざらしにしておいたほうがいい、そうするより外にないような気がします。
完全決着などあり得ないのならば、下手に手を出さず放置しておくということです。それでも韓国では日本を批判するでしょうが、それは日韓合意をしても行われると思います。
先日の少女像設置のような事態がおこると、反日感情が高まるだろうと思います。
“後腐れなしの完全決着”、それは端から出来ないであろうと思われます。それなのに無理やり、最終的かつ不可逆的に決着をつけようとしたため、関係が悪化したように見えるのです。それならば、問題は放置して国家間の連携が必要な事柄は、現場サイドで場合によっては非公式に行ったほうが、日本と韓国双方の利益になりそうな気がします。

 北朝鮮に関わる問題は、日韓で利害が一致することもあると思います。そういう事柄に関しては従軍慰安婦問題に関わらず連携するべきだと思います。従軍慰安婦問題と北朝鮮問題はまったく別問題です。もし日韓のどちらかが従軍慰安婦問題によるわだかまりで、北朝鮮問題で連携を拒むようなら、それがお互いに不利益をもたらすと説得し理解を得て、連携をしなければならないと思います。
 
それにしても日本にとって一昨年の従軍慰安婦日韓合意は、10億円という大金を拠出したうえに、韓国国内の反日感情をあおることになったようにも見えます。日本のメリットは小さいように見えます。

 この日韓合意は、安倍首相が力を入れていた外交上の取り組みだったように見えます。
 しかし日本にとって有益な成果があったとはいえないと思います。むしろマイナス面のほうが大きいという見方が出来ると思います。

 そのようなことを考えながら第二次安倍政権の外交を振り返ってみると、鳴り物入りというか大仰に取りかかりながら、目立った成果がないということが多いと感じます。
 北朝鮮拉致問題に関して、大々的に行動を起こしておきながら、結局一ミリたりとも進展しなかったように感じます。
 昨年のプーチン露大統領の来日も、事前の安倍首相の意気込みの割には、成果が大きかったとは言えないように見えます。
 そして一昨年の従軍慰安婦に関する日韓合意も、前途したように日本にとっても韓国にとっても、むしろマイナス面のほうが大きくなりかねないのではないかと思います。
 こうして振り返ってみると、安倍外交に点数をつけるとすれば、決していい点数はつけられないと思います。
 しかし日本国内では、安倍外交に対する評価はそれほど厳しくないように見えます。
 それはここに挙げた三つの事柄は、非常に難しく、安倍首相が力を入れてもどうせ解決や進展はないだろうと、多くの国民が感じているからかもしれません。

 安倍外交に対する評価は、日本国内では甘いようにも見えます。外国ではもっと厳しい点数がつけられているかもしれません。