2013年12月8日日曜日

誰のため



 前の選挙で、「ブレーキ役になります」という意味合いの言葉を耳にしました。
はじめて耳にしたときは少し驚いたというか、『こういうことをアピールする政党もあるんだな』と感じたものです。
選挙は、自分たちの政党に投票して欲しいものだと思います。そのため選挙中は、自分たちの政党の”よさ”を国民に訴えるものだと思います。
そうなると、その政党が国民に訴える”よさ”は「他の政党のブレーキ役になること」であると聞こえたものです。
しかも報道などで見聞きした限り、随分と強く訴えていたような気がします。
そうなると、その政党単独では存在感がないというか、存在意義が薄いと自ら認めていると感じた人がいたかもしれません。

他の政党のブレーキ役として存在意義があると自ら強く訴えているのですから、”他の政党”がなければ、政党の”よい点”もなくなってしまうということです。
他の政党にぶらさがっているという印象を持つ人もいるかもしれません。
ただあの選挙のときは、補完勢力といわれることを嫌がっていた政党もあったような気がします。
そんななかで堂々と長いものにまかれるのですから、それはそれで潔いと感じた人もいたのかもしれません。

ここでは何度か書いていますが、個人的に消費税の軽減税率は国民にとって”よい”制度ではないと思います。国にとっても”よい”制度ではないと思います。

消費税は誰であれ、同じものを同じ値段で買えば、同じお金の税金を納める制度だと思います。
そうなると、食料品など品物によって税率を低くすることは、お金を少ししかもっていないだけでなく、お金持ちも低い税率で買い物をすることになると思います。
それでは”低所得者のため”とはいいきれないと思います。低所得者のためにもなると思いますが、それは”ほんの少しだけ”だと思います

それにしても所得に関わらず国民の負担を軽くすることになると思います。
それは国民にとって”いいこと”のような印象を受けます。
しかし、それは国に入る税金が少なくなることでもあると思います。
軽減税率を導入することは、この先の国民の負担を重くする可能性を抱き込んでいると思います。

企業の事務処理が増えるとか、会計処理がわずらわしくなるなどということは、国民全体からすると、それはそれほど大きなこととはいえないかもしれません。
それよりも、消費税全体の税率が上がりやすくなることが、国民全体にとって大きな点だと思います。

軽減税率を導入することで税収が思ったほど増えないとなると、どうしてもさらなる増税をしなければならないという話になると思います。
そうなったとき、すでに軽減税率を導入していることで、さらなる増税に反対しにくくなると思います。
また国民は『軽減税率を導入したのだから仕方ないな』という観念をもちやすいと思います。

しかし消費税は、誰でも同じものを同じ価格で買えば同じ額の税金を納めるものです。
そうなると一部の品物の税率が低くても、全体の税率があがってしまうほうが、国民の税負担は重くなるような気がします。

それに軽減税率は低所得者対策としては不十分だと思います。しかし軽減税率を導入していることで、十分な対策が施されないことにもなりかねないと思います。
では、軽減税率を導入しながら、べつの低所得者対策が施されるとなると、低所得者対策としての軽減税率は意味が非常に薄いと思います。

それでも軽減税率が必要だという声を耳にします。なにかを買う場合、出来るだけ安いものを買おうとする人が多いと思います。そうなると、売り手としては、自分たちが売っているものは、税金が掛からなかったり、税金が安かったりして欲しいと考えるものだと思います。自分たちが売っているものが、消費税増税で売れなくなることを防ぎたいと考えるものだと思います。
そのため、自分たちが売っているものには、軽減税率の対称にするべきだと訴えることもあると思います。

しかし軽減税率は国民みんなの税負担を重くする可能性がある制度だと思います。そんななかで、自分たちが売っている物だけでも税率を低くするべきだというのは、自分たちの業界のため、自分たちの会社のため、自分たちを支援している業界のため、自分たちに金を出す会社のため、ひいては”自分のため”だと感じられることもあると思います。あくまでも自分のためであり、みんなのためではないと感じることがあると思います。それでも大抵は、自分のためなどとはおくびにもださず、さも国民みんなのためであるかのような言い方をしているように感じられることもあると思います。

2013年12月7日土曜日

数字が持つ力を



 数字には説得力があると感じます。
数値を示されると、それは正確な情報であり動かしがたい現実だという印象を受けるような気がします。
しかし、数字が実態を表していないことも珍しいことではないと思います。多くの人は、それを頭では理解していながら、気持ちは数字のもつ説得力に引かれていると感じます。
人間は数字が持つ説得力という”力”に、どうしても逆らえないものなのかもしれません。

『選挙のときは、まさかこんな法案が成立するとは思わなかった』
『選挙のときにこんな公約はしていなかった』
『選挙のときは経済政策に力を注ぐといっていたはずだ』
そう思っている人は大勢いるような印象を受けます。

前回の選挙の公約など、政治家のなかにも有権者のなかにも覚えていない人が少なくないような気がします。
参院選の公約は、環太平洋経済連携協定に関する話題で取りざたされることもありますが、衆院選のとき、その件についてどのような公約をしていたか、多くの人は忘れているような感があります。

しかしその件にしろ、安全保障に関する法案にしろ、今の与党に圧倒的な多数の議席を与えるということは、こうなることは予想できたという声も耳にします。
それなのに、選挙という形で多くの支持を示したのだから仕方ないという声も聞きます。

『選挙で圧勝させようとして一票を投じたわけじゃない。ただ結果がそうなっただけだ』
『与党に好き放題にやらせるために投票したわけじゃない』
『選挙結果は、何をしてもいいというお墨付きではない』
そう思っている人は大勢いるような気がします。

今の与党に票を投じた人のなかには、圧勝させたかったわけではないという人がいると思います。
また、他に入れる政党がなかったからという、消去法のような消極的選択をした人もいると思います。
それに、小選挙区制という選挙制度が圧倒的多数派政党を生み出す一因だと思います。
それは、厳密に民意を反映しているとはいえないという考え方もできると思います。

しかし圧倒的多数の議席を持つ与党は、そのような声など聞き流していればいいと思っていると感じることがあります。
『まだ国会をやらないの?』
夏の終わりごろからそのように言われていたような気がします。
『こんな短い審議で採決しちゃうの?』
今そう感じている人も少なくないと思います。
『どうせ与党が圧倒的多数なんだから、いくらでも好きなように採決できるって踏んでいるんだ。だから国会なんて時間も労力もかけることはないって思っているんだ。そうとしか見られない』

これからしばらくの間、国政選挙はないとみられています。
では、選挙がなければ国民は、圧倒的与党に反対する意思を示すことが出来ないのかということになるかもしれません。しかし、そういうわけではないと思います。
民主主義において色々なやり方があると思います。
ただ何事も、出来るだけ効果的なやり方を使うべきだと思います。

数字には説得力と言う”力”があると思います。
”力”があることを使うと、効果的な場合が多いと思います。
支持率が下がることも厭わないといいつつも、現実にそうなるとその影響は小さくないと思います。
人間の心理は、数字から受ける影響を払いのけることは難しいものだと思います。
それは政治家も有権者も違いはないと思います。

支持率などアンケート調査にすぎないと思いつつ、多くの人が心理的に影響を受けているように見られます。
そうなると、支持率が下がることは、政権に対する大きな影響になることもあると思います。
支持率が多少でも下がると、それが呼び水になることもあるかもしれません。多少下がったことがどのような影響になるか、完全に予測することは難しいと思います。
「多少支持率が下がっても構わない」その程度では済まないことも起こり得ると思います。

しかも支持率調査には「支持政党なし」という選択肢があります。
選挙では支持する政党がないために投票しない人が大勢いると、それが結果に影響を及ぼすこともあります。
選挙は、あくまでも”投票した人のなか”で、多数を得た候補者が当選します。
しかし「支持政党なし」の選択肢がある支持率調査では、たとえ野党の支持率が高まらなくても、与党の支持率が下がることもあると思います。

何事も、数字に表われることは効果的だと思います。それを見据えたやり方を選んだほうがいいような気がします。
何事も、最も効果的なやり方を使ったほうがいいような気がします。

2013年12月6日金曜日

牛乳と醤油



「牛乳でインスタントラーメンをつくるとおいしい」
ここでは何回か書いているのですが、書いた覚えはあるものの、どのような内容だったのか正確に記憶していません。
そのため、以前に書いたことと、今回書くことが違っているかも知れませんが、改めて記憶を紐解いてみます。
はじめて牛乳で作るインスタントラーメンについて耳にしたのは、数十年前に聞いていたラジオの深夜放送だったような気がします。

『本当だ。これはおいしい。スープがポタージュやシチューのようになるんだ』
 実際に作ってみてそう思ったものです。
そして、牛乳の分量をいろいろと変えて作ってみました。
牛乳の量が多いほどシチューのように、濃厚な風味と食感になります。水も加えて牛乳の量を少し減らすと、ゆるめのポタージュのようになり、どちらもそれぞれにおいしいかったと記憶しています。

それが数年前、カップ麺を牛乳でつくるとおいしいという話を耳にしました。
僕はカップ麺を牛乳で作ったことはありません。
袋入り即席ラーメンを何度となく牛乳でつくっていながら、それをカップ麺でやってみようという発想は湧かなかったのです。

そして、牛乳で作るカップ麺が発売されたと聞きました。少し前のことですので、今でも売られているのかわかりませんが、なんとなく『ここまできたか』という印象を持ちました。
何十年も前に耳にした”ちょっとかわった食べ方”が、とても長い時間を掛けて広がり、”一般的な食べ物”になりつつと感じたのです。

「アイスクリームに醤油をたらすとおいしい」
このことについても、何度か書いています。これも記憶が定かではありませんので、以前とは違っていることを書いてしまうかもしれません。
改めて記憶を辿ってみると、この話をはじめて知ったのは、小学生のころ読んだ科学マンガだったように思います。

アイスクリームにほんの一滴たらすと、コクがでておいしくなると書かれていたように思います。詳しいことは忘れてしまいましたが、醤油の成分とアイスクリームの成分による効果だったような気がします。
あの頃、僕は実践してみて、確かにおいしいと思ったものです。そしてこのときも”凝り”ました。醤油の分量を色々と変えて食べてみたのです。

『醤油の味がしないほど少量でなければならない』
色々と試してみて、そう思いました。
あくまでも醤油とアイスクリームの成分によって、コクがでておいしさが増すのです。醤油の風味を感じてしまうと、それはアイスクリームの味とは合わないと思ったのです。
つまり、本当にほんの1~2滴たらすだけということです。
それ以上の量を掛けてしまうと、おいしくないというか”変な組み合わせ”になってしまうのです。

あれから数十年が過ぎ、「アイスクリームに醤油をかけるとおいしい」など、すっかり忘えていたころ、テレビで取り上げられた様子を目にしました。
れから、数年おきに何度か見たような気がします。そのほとんどは、出演者が実際に試していたのですが、大概は不評だったと思います。
みな明らかに、醤油をかけすぎているのです。

『醤油の量が多すぎる。それではダメなんだ。醤油の味が感じられるほどかけてしまっては、変な組み合わせになってしまう。それでは本当のおいしさがわからないんだ』
僕はテレビをみながら、そう思っていたものです。

それが最近では、アイスクリームにかける専用の醤油があるそうです。
少し前に耳にしたことですので、インターネットで検索してみると、ショッピングサイトで販売されていました。どうやら、ほんの一滴たらすというものでないようです。
つまり、アイスクリームにある程度の量をかける醤油として開発されたものだと見られます。
アイスクリームがみたらし団子のような風味になるそうです。

それをみて、少し面白いことだと感じました。
『アイスクリームに醤油をたらすとおいしい』
『でも、醤油の味がするほど掛けてはいけない。つまりそれは間違っている』
僕はそう思っていたのです。
それが、アイスクリームに合う味の醤油が開発され、販売されているのです。
なんとなく、”間違い”だったことが、別の方向に広がったという印象を受けました。
それが、面白い現象だと感じたのです。

2013年12月5日木曜日

インスタントラーメン正規調理法



 僕が通っていた小学校では、給食の時間に校内放送が流れていました。
 どちらにも放送クラブや放送部などはなく、放送委員や放送係に就いた児童がその役を担っていたのだと思います。

どのような内容の放送だったか、今思い出そうとしてもなかなか引き出せません。
ただおそらく、小学校では主な運営は先生が行っていて、児童は「おしらせ」を読み上げるようなことをしていたような気がします。
それにしても記憶も相当に薄らいでいます。そのなかから、思い出したことがあります。

それは、若い男性の先生が、おいしいインスタントラーメンの作り方について話をしたことです。
ただ、微かな記憶を呼び起こしたので、忘れている部分を無意識に補っていたり、別の出来事が混ざっていたりするかもしれません。

その曖昧な記憶からすると、当時の給食時校内放送は、先生が持ち回りで何か話をしていたような気がします。
他の先生が何を話したのか、全く思い出せないのですが、おそらく”真面目”なことが多かったのではないかと思います。
だからこそ、”おいしいラーメンの作り方”が印象深く、記憶にも残っているような気がします。

また小学生のころ、僕もよく袋詰めのインスタントラーメンを作っていました。だから、先生のラーメンの作り方に関心があったのだと思います。
しかし、先生がどんな作り方を話したのかよく覚えていません。
『ゆで上がる直前に水を足すことで麺がしまっておいしくなる』
そんなことを言ったような気もするのですが、別のところで耳にした記憶だったようにも思います。

それにしても、目新しいことはなかったというか、特段変わった作り方ではなかったような気がします。
”なんだ、普通じゃないか”という印象を受けた覚えがあります。
水を加えることは、自分でもすでにやっていたと思うのです。

ただこうして書いていると、インスタントラーメンの作り方は、特段変わったやり方など、そうそうあるものではないような気がします。
水の代わりに牛乳を使うとか、油であげるとか、やきそばにするなど、”普通のインスタントラーメン”ではないものを作るのでしたら、色々と特別なことが必要だと思います。
しかし、”普通のインスタントラーメン”を作るときに、”ちょっと変わったこと”をするとなると、水を足すくらいのことしかないような気がします。

僕がはじめて袋詰めインスタントラーメンを作ったのがいつごろだったのか、よく覚えていません。漠然と子供のころとしかいえないのです。
それでも、はじめは袋に書かれている「作り方」を忠実に守っていたような気がします。そして慣れてくると、少し変わったことをしてみたくなり、茹で上がる直前に水を足してみたのだったと思います。
それでどのような違いがあるのかは別として、”自分なりに変わったことをしてみた”ということで、”おいしくなった”と思い込んでいたのだと思います。

ところで、インスタントラーメンの袋に書かれている「作り方」は、僕の子供のころと変わっている点があるようです。記憶と個人の印象だけで書きますので、思い違いや勘違いがあるかもしれませんが、僕が子供のころは麺が茹で上がったら、そこに粉末スープをいれると書かれていたように思います。

それがいつごろからだったか、麺をゆでている間に、器に粉末スープをお湯で溶いておくというやり方になっているような気がします。
麺をゆでたお湯を、スープには使わないということです。そのほうがおいしいという話を聞いたような気がします。

僕は子供のころからその作り方をしていました。”そのほうがおいしい”という意識はなかったのですが、麺をゆでるお湯の量を正確にしなくても済むからです。
お湯の量を計らずに麺をゆで、そこに粉末スープを入れると、濃すぎたり、薄すぎたりしてしまいます。
あらかじめ器にスープを溶いておくのであれば、お湯の適量はわかりやすいものです。
麺をゆでるお湯の量は、正確にする必要がありません。

それと、ポットが普及したことも、作り方が変わった理由の一つのような気がします。それがない時代、麺をゆでるお湯とスープのお湯を別にするには、鍋で麺をゆでながらやかんでスープ用のお湯を沸かさなければならないと思います。
それが、麺をゆでながらポットのお湯でスープを用意しておけるようになったことも、「作り方」が変わった一因なのかもしれません。

2013年12月3日火曜日

『なくてもいい』と『ないほうがいい』



『こんなものいらない』といわれるには、何かしらの理由があるものだと思います。
ただ人間社会は本来多様なものだと思います。『いらない』という人もいれば、『絶対にいる』という人もいれば、『なくてもいい』という人もいれば、『あってもいい』という人もいると思います。
それは『自分にとって都合がいい』とか『自分が得する』という理由もあると思います。また『全体のため』とか『国にとって』と考えている人もいると思います。

『参議院なんて衆議院と同じことをやってるだけじゃないか』
ずっと前から、そんな声を聞いていた感があります。
『参議院が反対するから決まらないんじゃないか』
数年前から、そんな声を聞いていた感があります。
『参議院なんていらない』
そんな声も耳にします。

『与党が過半数をしていれば、参院なんて意味がないって言いやがるし、野党が多数を占めていれば決められない政治の元凶みたいに言いやがる』
『賛成しても、反対しても、参議院なんていらないと言うじゃねえか』
そのような雰囲気を感じさせる発言を耳にすることがあるような気がします。
参議院議員にとっては自分の存在を否定されているように感じることもあるでしょうから、『いらない』といわれれば、反撥するのは当たり前のような気がします。

しかしそれらの声を聞いていると、ごく自然に行きつく考えがあるような気がします。
『どっちにしろいらないって言われるんだろ。そりゃ本当にいらないってことじゃねえか』
『なんで、どっちにしろいらないって言われんのに、なくさねえんだよ』
『何かしらないけど、とにかく”いる”んじゃないの』
なんとなくそのような印象をもつ人もいると思います。

『政治家が”なくす”ことを決めるんだから、自分たちを無くすわけないじゃん』
そう考える人もいると思います。
『つうことはさ、国民にとっては”ないほうがいい”けど、政治家にとっては”あったほうがいい”ってことになるんじゃねえの。だから、なくならねえってことになるよな』

今の参議院のあり方では、『なくてもいい』と感じる人がいると思います。『ないほうがいい』と見る人もいると思います。
取り急ぎ改革しなければならないことすら、その取り組みが進んでいるようには見られないと思うひともいるような気がします。

”改革などやる気がない”
理屈ではなく、そんな印象をうけている人がいると思います。

”やる気がない”という印象を受けるのに、『ちゅんとやっているんだ』といわれても、口先だけだとしか感じられない人もいると思います。
そうなると、政治ではないところから厳しい言葉を向けられるのは仕方ないと思います。
それに対して『黙ってろ』という雰囲気の言葉をむけるようでは、やはり真摯に改革に取り組んでいるようには感じられない人もいると思います。
本当のことを指摘されると、人は腹立たしく感じることがあると思います。

『政党間で思惑がぶつかるため、議論が進まない』
今では、それは言い訳にならないと思います。すでにわかりきっていることだと思います。しかもずっと前からわかりきっていることだと思います。わかりきっていることなら、対処するべきだと思います。対処すべきことを、対処していないのは言い訳にならないという見方があると思います。
そのような言い訳は、民間の会社の業務や、なにかしらの団体や組織なら、通用しないこともあると思います。
厳しい叱責を受けることもあると思います。
『理由なんてわかりきってんだろ。しかもずっと前からだ。わかりきっているのだから、さっさと手を打って進めるべきだろうが! 意見がぶつかってますだあ! 当たり前だ。そうなることくらい、誰だって目に見えてんだろうが。じゃあどうするかってことからはじめるもんだ。それが今までいったいなにをしていたんだ! 話がまとまらないから何もしませんでしたってか? いつまでそれで通ると思ってんだ! お前には結構いい給料払ってんだぞ。わかりきっている理由を言い訳にして結果を見せられないなんて、怠慢だといわれても仕方ないだろ! 怠慢でしかも無能だ! そういわれても仕方ないだろうが! そんなんだから、”お前なんていらない”っていう目でみられるだ!』
最近の民間企業では、このような言い方は少なくなっているかもしれません。ただかつては、このような言葉を耳にすることは、それほどめずらしいことではなかったと感じます。
それに、昨今は競争が激化している業界もありますので、そのような言葉が発せられることもあるかもしれません。
政治家は厳しい言葉を向けられても、聞いていないのかもしれません。聞く気がないのかもしれません。

2013年12月2日月曜日

一票の格差



 多数決は、とてもわかりやすい民主的な決め方だと思います。
人間社会は本質的に多様なものだと思います。それでは意見の対立があるのが当たり前だと思います。
色々な意見の人が集まって社会を作っているのですから、全体として決めなければならないことはたくさんあると思います。
全体の決まりごとや、全体として何をやるか、などです。
そのようなことを決める際、多数決は民主的な決定方法だと思います。

ただその『全体』を『国』という大きさにで見ると、国民全員で多数決をとることは難しいと思います。
そこで国民全員ではなく、年齢などで多数決に参加できる人をある意味で少し絞り込んでいるのだと思います。
絞り込むということで、多数決に参加することが『権利』になったといえるかもしれません。

その『権利』を持つもので多数決をとるのですが、国全体で決めなければならないことは、非常にたくさんあると感じます。
そのすべてにおいて、権利を持つもの全員で多数決をとることは現実的に見ると、出来ないような気がします。

そこで全員ではなく、国民の代表者が国全体のことを決める仕組みがあると思います。
直接多数決をとるのではなく、多数決で代表者を決める仕組みだと思います。
『権利』は、代表者を決める際に使われるということです。
つまり、まず国民は選挙という多数決で代表者を選び、その代表者同士が話し合い最終的に多数決で決定を下す仕組みだと思います。
『多数決で選んだ人たちによる多数決で決める』のですから、間接的な多数決といえるかもしれません。
その仕組みは多くの国で取り入れられているように見られます。

多数決を重ねることで、間接的ではありますが多くの人の意思を反映させることにはなると思います。
しかし『間接的な多数決』では、代表者の選び方によって『全員よる多数決』と同じ結果にならない可能性があると思います。

ある人は、選挙という多数決の結果、5千人の人から票を得て代表者になれたとします。
別の人は、別の地域での選挙の結果、5万人の人から票を得ても代表者になれなかったとします。
そうなると、5千人の意思が反映されて、5万人の意思が反映されないことになる、という見方もあるように思います。
多数決とは、多い人の意見が採用されるものだと思います。
しかしそうなっていないように感じます。
それでは民主主義に反しているという声もあると思います。

では、なぜそのようになるのか考えて見ます。
5万人のなかから1人を選ぶ地域では、立候補者の人数など場合によっては、5千票を得て当選することがあると思います。
100万人の中から3人を選ぶ地域では、立候補者の人数など場合によっては、5万票を得ても落選することがあると思います。

5千票を得た代表者も、10万票を得た代表者も、国会では一票を持つ一人の議員ということになるのだと思います。
それでは、選挙という国民全員の多数決が、国の意思決定に反映されていないこともあり得ると思います。

もし地域から代表者を選ぶのではなく、国全体を一つとして代表者を選んだら、結果は違ってくると思います。
ただ国は都道府県単位で行われていることや、定められていることが色々とあると思います。
また国は都道府県を束ねることもあると思います。国が都道府県に振り分けるような事柄もあると思います。
ある地域によっては利する国策が、別の地域ではそうではない場合もあると思います。

そうなると、国のことを決めるには、地域の代表者が必要だと思います。
そうなると、政治家には『国民の代表者』でありながら『地域の代表者』でもあることが求められるのだと思います。
そうなると、地域ごとに代表者を選ぶことになると思います。

ただ、地域によって暮らしている人数が違っています。そんななかで、地域ごとに代表者を選ぶのですから、地域によって集まった票の数が違わざるを得ないと思います。
しかしそのために、国民全体による多数決が、国の意思決定に反映されないこともあると思います。

こうしてみると、国会議員とは『国民の代表者』であるべきなのか、『地域の代表者』であるべきなのか、考えなければならないような気がします。
その両方が必要だと思いますが、それにしてもどちらに重きを置くべきか考えなければならない時が来ているような気がします。

2013年12月1日日曜日

あまりにも遠く、あまりにも大きい



 宇宙は、人間にとってあまりにも遠く、あまりにも大きいと感じることがあります。
宇宙について、人間が知っているのは4%だけだといいます。専門的なことはわかりませんが、宇宙の質量を成す96%は、いまだ解明できていないそうです。
改めて、人間にとって宇宙は手が届かないものだと感じます。

そのわかっていない96%を言い表すのに、「暗黒」という言葉が用いられるそうです。「暗黒物質」と「暗黒エネルギー」です。
「暗黒」というと、なんとなく”よからぬ”印象を受けます。科学的、数学的な用語ではなく、あくまでイメージなのですが、”負のちから”を漠然と感じます。
”存在を吸い込んでしまう”とか”なにもかも無にしてしまう”というイメージです。

英語では「ダークマター」と「ダークエネルギー」と表すようです。
これもまたあまりいい印象を受けないような気がします。これらのことはインターネットで読んだのですが、その記事にも「まるで特撮ヒーローの悪役に使われるようだ」と書かれています。
僕もまさにそう感じました。
「ダークマター」は、いかにも悪の組織やその幹部の呼び名で使われそうな気がします。
「ダークエネルギー」は、文字通りその悪の組織の活動の源や、悪の怪物のエネルギーのようだと感じます。

しかし、ここで使われる「暗黒」や「ダーク」に、『邪悪』という意味合いはなく『正体不明』を表すのだといいます。また『目に見えない』という意味もあるそうです。電波や光に反応しない物質は、人間の目では見られませんので、「ダーク」という言葉が使われているようです。

人間が情報を得る際、その多くを視覚に頼っていると聞いたことがあります。
そうなると、”見えないもの”や”見えない力”や”見えない場所”には本能的に、怖さを感じるのかもしれません。
意識せずとも”闇”を恐れるものかもしれません。
そして人間は、恐れる対称に”悪”という印象を持たせるものかもしれません。

それにしても宇宙の96%が人間にとって『正体不明』なのだと思うと、人間には手も足も届かないという印象が強くなります。
考えてみれば、地球で生まれ地球で暮す生き物にとって、宇宙はあまりにもかけ離れた環境という気がします。
以前書いたような気がしますが、地球で暮らしている限り、無重力の空間に遭遇することは、ほぼないと思われます。

自由落下する物体の内部は無重力になるそうですので、それを利用した無重力を体験する企画があると聞きます。航空機を自由落下のように飛ばすことで、その内部が短い時間無重力状態になるそうです。
実際に宇宙飛行士の訓練に使われていると聞いたことがありますし、テレビのバラエティー番組などでも目にしたことがあります。
それによると、一般の人が体験する企画もあるそうです。

確か、一回の体験飛行で七回ほど無重力を体験出来るのだったと思いますが、”無重力酔い”や”飛行酔い”になることもあるようです。
このように人間によって無重力の状態を作り出して体験することは出来るようですが、自然のなかで、偶然に無重力の状況に出くわすことは、まずないといえるような気がします。
また真空状態も、自然環境のなかで偶然に遭遇する可能性は極めて低いだろうと思います。

ところで、人間は地球上の生物のなかでも、自然環境に対する対応力が強いのではないかと思うことがあります。
人類はアフリカで生まれた一つの種が、世界中に広がっていったと聞きます。世界中といっても、地域によって自然環境は随分と違っています。
その地の環境で生まれて、その地の環境に適した種が、その地の人類に進化したのではなく、アフリカで生まれた種が別の地の環境に適応して生き延びてきたのだと思います。
それどころか、その地で生まれた種を滅ぼしたとも聞きます。

そのことから現生人類の祖先は、他の猿人に比べて、ずば抜けて高い環境適応力を持っていたのではないかと思います。
しかし宇宙空間の環境は、人間にとって自然に遭遇することは、”まずあり得ない”と思われます。
そう思うと理屈ではなく”とにかくすごい”と感じます。
理屈を考えると、宇宙空間における様々な研究は、決して地球では出来ないことであり、それはとても貴重だと思います。
その研究から”すごいこと”が導き出される日がくるかもしれません。