2013年11月26日火曜日

民主主義は独裁者を生み出すことがある



 しかし民主主義で独裁者を滅ぼすことは難しいと思います。
そうなると肝心なことは、民主主義によって独裁者を生みだしてしまわないことだと思います。
そして、民主主義の力で独裁者が生まれることを防ぐことだと思います。

一言に独裁者といっても、それぞれだと思います。
有史以来この世界には、「独裁者」と呼ばれていた人物、「独裁者」と呼ばれている人物、「独裁者」だと目されている人物が何人もいると思います。
その人たちの主張や言動、権力につくまでの過程などは、その人物によってそれぞれだと思うのです。

また、一般の人が「独裁者」という言葉を聞いて思い浮かべる人物も、人それぞれだと思います。
「独裁者」という言葉の受け止め方も人それぞれだと思います。
それにしても、独裁者とされる人物に対しても、「独裁者」という言葉に対しても、あまりいい印象を持っていない人のほうが圧倒的に多いと感じられます。
ただ、独裁者に対して好意的な考えを耳にすることもあります。国の統治のあり方として、独裁的なやり方を肯定的に捉えている主張を聞くこともあります。

独裁者が生まれる過程に、まず軍事力など目に見える”力”を得て、それを使って人びとを抑えつけることで独裁者になった人物もいると思います。
はじめから力で抑えつけるやり方といえるかもしれません。

それに対して、まず権威を得るやり方もあるように思います。
民主主義は、多くの人から支持を得られれば、権威ある地位につくことが出来る仕組みだといえるかもしれません。
そうして手にした権威を存分に振りかざすことで、より権力を強め、いずれ誰も逆らえないような状況を作りだし、独裁者が生まれるというやり方があると思います。
大勢の人から賛同され、多くの支持を受け、権威を手にし、権力を強め、独裁者になっていく、それは民主主義によって独裁者が生まれるといえるかもしれません。

その場合、当初はその人物の主張に賛同し、その人物を支持した多くの人たちも、後にその独裁者に苦しめられることもあるような気がします。
しかしどのような形であれ独裁者が生まれてしまうと、民主主義によってその人物を権力の座から降ろすことは難しいものだと思います。

そのように考えると、民主主義の仕組みにおける大きすぎる支持や、多すぎる賛同は、国にとって”よくない”ことになる可能性を潜めているといえるかもしれません。

それは、歴史のなかのことでも、外国のことでもないような気がします。そう遠くない過去、また近年のこの国にも、思い起こされることがあるような気がします。
「独裁者」は生まれなかったとしても、80%をこえる内閣支持率は、国として”異常だ”といえるかもしれません。
人間社会は多様であり、そこに対立があるものだと思います。8割の人が同じ考えに賛同することは、不自然だと感じられます。

そんな不自然な状況を作り出したのは、雰囲気だったように感じられます。
その雰囲気が広まった理由は、一人の人物の存在感によるものだと思います。
そうなると、それはある意味”非常に危険だった”といえるかもしれません。
見方によれば、「独裁的だった」といえるかもしれません。

そして近年、また少し違った流れで、少し違った雰囲気であるものの、少しきな臭い空気が漂っているような感があります。
多くの人が議会に失望し、その結果強い一人の人物が表われることを望んだ、無自覚の人もいるかもしれませんが、そんな匂いを感じることがあります。

民主的なやり方である議会では、身勝手な争いが繰り広げられるだけで意思決定が出来なくなっている、それは世界的な傾向といえるかもしれません。
そこで”強いリーダーシップ”をもつ人物を求める心理が芽生え、それがどんどん大きくなったような印象があります。

そこに自分が”強さ”をもつことを好む人物が前面に出てきたので、多くの人たちはその人物を好ましく感じ、そしてさらに持ち上げようとし、そしてその人物に”ケチ”がつかないようにしていると感じられるときがあります。
大衆は誰でもよかったのかもしれません。”強いリーダーシップを連想させられること”、それ自体を求めていたのかもしれません。
「強さ」という言葉やイメージは「力」に結びつくものだと思います。
”強い力”を志向する人物は、自分でいうほど冷静ではない傾向が見られるような気がします。
そのような傾向が見られる一人の人物に、民主主義によって権力を与えることは、国としてあまり芳しいことでなかったと、現在が歴史になったころに言われるかもしれません。