2013年11月28日木曜日

使うためのもの、持っているためのもの



 日本は、人類史上最初にして今のところ最後であり、今のところ唯一の核攻撃を実戦で受けた国です。この国に暮す人の多くは、核兵器の恐ろしさと非人道性が心の深い部分に沁みこんでいると感じます。
”核兵器は非常に強力な破壊力をもつ、恐ろしい兵器である”
世界中で持たれている認識だと思います。
ただ、それが現代において、あるいは未来において、軍事的に有効な兵器かと考えると、決してそうだとはいえないような気がします。

核兵器は”もっていること”それ自体が脅しになるといわれています。つまり使うための兵器ではなく、保有することに意味があるという考え方になると思います。
世界は、いくつもの国が核兵器をもつことで、互いに脅しあうような形がつくられたように見られます。
核兵器を持っていない国は、核保有国と同盟を結んでいて、”核の抑止力”に組み込まれているという感があります。

牽制しあう図式が出来ている世界で、新たに核兵器をもつことにどれだけ意味があるのか考えてみると、政治的にも軍事的にも利点は大きくないような気がします。
核兵器を持とうとすることは、外交上制裁を与える大義名分になると思います。経済活動における制裁が多いように見られますが、それは国民生活に小さからぬ影響を与えることもあるように見られます。
それに国の財政にも打撃になると思います。

そんななかで、お金と人と時間をつぎ込んで核兵器をもつことが出来ても、それを軍事的に使うことは出来ないと思います。
核兵器を実戦で使うことは、相手国やその同盟国に核攻撃をさせる大義名分を与えることになるという見方が出来ると思います。
先に使ったほうが非難は大きいと思います。

では政治的に脅しに使えるかというと、使えないことはないと思いますが、すでに牽制しあう図式が出来上がっている世界では、それほど強い手札にならないような気がします。

核兵器を先に使うことは、より大きな核攻撃を受ける理由を生み出すことになるといえるかもしれません。
それでは、『うちらだって核兵器をもってんだぜ。使ってやろうか』といっても、脅しにはならないような気がします。

それでも核兵器を持ちたがる者は、”核の脅威”がある種の先入観になっているような気がします。それはまるで信仰のように感じることがあります。
軍事的、政治的有用性を冷静に吟味されていないような感があります。

軍事的は俗にいう”ハイテク化”のほうが、新たに核をもつよりもずっと有効であるかもしれません。
何をどのように攻撃したのかは問題があると思いますが、それはともかく無人攻撃機が実戦投入された様子を見聞きして、あわてて開発を急いでいる国もあるのではないかと思います。
しかし軍備のハイテク化には相当なお金がかかるものだと聞きます。軍事大国も、高性能の戦闘機はあまりもお金がかかるため、作られないようなことがあるようです。

そんななか核兵器を開発することにお金と人と時間をつぎ込んでいると、”ハイテク化”を遅らせるかもしれません。
大義ある経済制裁を受けている中で、核兵器を持とうとしているのですから、お金のかかるハイテク化は後回しにせざるを得ないと思います。
また、核兵器を持ちたがっている人は、核兵器の軍備としての有効性を強く信じているのですから、ハイテク化に対する意識が高まりにくいという傾向があるかもしれません。
核兵器を持ちたがることで、軍事力は強まらないといえるかもしれません。

ただ自滅を前提として核兵器を使ってしまうようなことがあると、牽制しあう図式の意味がないと思います。
テロには”核の抑止力”が意味をなさないということです。
テロリストの手に核兵器が渡ってしまうことは、現代における”核の脅威”といえるかもしれません。
また、自暴自棄に陥った独裁者が、世界を道連れにしようなどと考えて核兵器を使おうとするかもしれません。

そう考えると、この世界に核兵器は増えないようにするべきだと思います。
また核兵器が厳重に管理されなければならないのですから、それに不安がある国には核兵器を持たせないように、国際社会は手を尽くす必要があると思います。

ただ現状で国によっては、決して核兵器を持たせないようにしつつ、核兵器を持ちたがらせておくことで、むしろ軍事力が高まらないこともあるかもしれませんので、そのような交渉のすすめかたもあるような気がします。