実在しないが存在する支配
インターネットは”空間”や”場”という概念で捉えられることがあると思います。
専門的なことはわかりませんし、「空間」や「場」という語句の定義も厳格に決まっているわけではないのかもしれませんが、インターネットには物理的な”空間”はないと思います。
”現実”ではなく”仮想”の”空間”
インターネットを用いた事柄のなかには、「仮想空間」という言葉が使われることがあるように見られます。
その”空間”は物理的に存在していないから、”仮想”なのだと思います。
物理的に存在していないのですから、決して触れることはできず、パソコンやスマートフォンやインターネット回線がなければ、目にすることも耳にすることもない世界といえるかもしれません。
”実在はしていない。しかし存在している”
インターネットでは、ゲームのようにディスプレーを通してみえる”空間”を作り出している事柄があるように見られます。
また言葉を発する”場”もあると思います。
インターネットを用いて意見を発する”場”や、インターネットによるつながりによって、多くの人が意見をやりとりする”場”があるような気がします。
そんな”場”では対立が起こりやすいと感じます。
その対立は激化しやすいと思います。
また、そんな”場”では、糾弾も起こりやすいと感じます。
その糾弾は激化しやすいと思います。
それは、物理的に存在しない”場”であるがゆえかもしれません。
そして、物理的に存在しない”場”での糾弾や攻撃が、実在する社会に大きな影響を及ぼすことがあるような気がします。
そうなると、人はそれを避けようとするものだと思います。インターネットの”場”で行われる糾弾や攻撃は、到底太刀打ち出来ず、耐えられものではないほど大きくなることがあると思います。
あまりにも大きなダメージを受けることが予見されることも多々あると思います。
それでは避けなければならない、多くの人はそう考えるような気もします。
日本人の気質はその傾向が強いようにも感じられます。
大きなダメージを与えられるからこそ、インターネットの”場”で糾弾し攻撃しようとする人もいるように見られます。
”他者を徹底的に叩くことを求めている”
”徹底的に叩き、打ちひしがれた相手を目にすることに、ある種の快感を得ている”
そんな心理が、インターネットの”場”に漂っていると感じることがあります。
それは自覚できないことも多いような気がします。
インターネットの”場”は、人びとからそんな心理を引き出す磁力を持っているような印象があります。
そんな社会は”成熟した社会”といえるのだろうか、そんな考えが浮かぶことがあります。
しかし、インターネットは規制が追いつかないほど、急速に広がり、深まっていると感じられます。
インターネットを生み出している人たち本人でさえ、その速さによって置き去りにされていると感じることさえあります。
インターネットの”場”で糾弾や攻撃が強まると、避けることも防ぐことも難しいような気がします。
糾弾や攻撃されたなら、それが激化しないうちに全面降伏するしかない、そう感じることがあります。
そうなると、はじめから糾弾や攻撃の標的にされないように、神経を使わざるを得ないと思います。
”何か問題がおこるかもしれない、それが予見できる事柄にははじめから手を出さない
”責任を負うことをはじめからさける”
日本人は昔からその傾向が強いと聞くことがあります。
インターネットによる糾弾と攻撃による影響の強まりによって、俗にいう「事なかれ主義」も強まる傾向があると感じることがあります。
今の社会は、インターネットによって表現も行動も、幾重にも縛られている感があります。
そしてときに善意を萎縮させることもあるような気がします。
しかし、インターネットの拡大は、もはや人間の力では止められないと感じられます。
しかもその進化や拡大はあまりにも急速で、人間に過渡期を与えてくれない印象があります。 人間はそのことに気付く暇さえ与えられていないような気がします。
人間は、インターネットという実在しない存在に支配されているのかもしれません。
その支配は強まり続けているのかもしれません。
しかし人間はそのことに気付いてさえいないのかもしれません。