民主主義を掲げる国において、デモは否定されるべきではないと思います。
大勢の人が集まることは、それ自体が“力”になるような気がします。
人間に限らず“群”は大きいほうが“力”になると思います。
人間は集団をつくって社会を築いているといえるかもしれません。そうなると、大勢の人間が集まること、それ自体が威圧感を放つことがあると思います。
その威圧感は権力側を抑えることにつながるかもしれません。
それは民衆が数の力を用いて、一定の成果を上げたといえるかもしれません。
しかしもし、デモに集まった民衆が暴力的な行為に及んだら、それは民主的とはいえないと思います。
多くの人が血を流し、街や日常生活を破壊し、それによって主張を通そうとすることは、民主主義に則っているとは言えないと思います。
まして、暴徒化した民衆による破壊や略奪には、主張が置き去りになっていると感じるときもあります。
デモには、常にそうなる危険性を含んでいるのではないかと思うことがあります。
もちろんデモも様々ですので、一括りに論じてしまうわけにはいかないと思います。ただ、度合いに大小があるものの、民衆が集まることによる“力”には、破壊や殺傷などの“力”を呼び起こす要素を抱えているものだと感じるのです。
デモは怒りの感情を発散させることが多いからかもしれません。民衆が集まっての主張には、怒りが込められることが多いような気がします。
怒りの感情は発することで増幅することが多いと思います。
そして怒りの感情は、暴力や破壊力などの“力”を呼び起こしやすいと思います。
また集団は、暴力や破壊力を抑えるよりも、高ぶらせることのほうが多いと思います。
そこで、デモは主義主張を実現させる手段として、どの程度有効だろうか考える必要があると思います。個人的に、それほど高くはないような気がします。
殊に近年の世界を見ると、昔よりも有効性は下がっているように感じられます。
ここ数年、デモが発端で政治が変わったことが立て続けに起きたように見られます。デモの“力”は破壊や暴力を呼び起こしやすくなっており、それを恐れて政治が変わったとみられることもあると感じます。
民衆によって政治を変えたといわれることが多かったように感じます。
しかし、それがさらなる混乱をもたらした国があるような気がします。
深刻な事態になっている国もあるとみられます。
今現在、デモから“力”が発生し、政治を変えている国があると感じます。
その国は何年も政治が混乱しているような印象があります。かつて、デモから政治を変えることになったように思いますが、その後の選挙で政治家が変わったように見られます。政治家が変わったのですから、国政も変わるだろうと思います。
そしてまた、民衆が動きだしたように感じられます。
ただ今回は危うさが増しているような感があります。
破壊する力が大きくなっているような気がします。
それに統制がとれなくなっていっているような気がします。民衆を取りまとめる力があまりにも弱いような印象を受けます。
またそのためでもあると思いますが、民衆は何を求めているのか、デモの要求に具体性が薄らいでいるような気がします。
つるし上げ、排除することが目的になっていると感じることがあります。
何のためにそうするのか、それをちゃんと意識していなければならないと思います。
つまり、これからどうするのか、大きな方向性だけでなく、現実的で明確にこれから何をやるかを練る必要があると思います。
それがないと、混乱と争いを起こすことになりかねないと思います。
民衆が政治を変えたと騒がれながら、その後も混乱や争いが続いている国は、それがなかったように感じられます。
現状を否定するばかりではなく、その後について明確な方向性と進め方を計画しておく必要があると思うのです。
つまり計画性や戦略性が必要だということです。そのために統率する力が必要だと思います。
複雑で多様な現代社会では、人と人との関係も、集団と集団との関係も、地域と地域との関係も、国と国との関係も、複雑で多様だと思います。
そんな複雑で多様な社会では、計画性や戦略性がないまま政治を変えことは、混乱と争いを招くことが多いような気がします。
まして、流血や破壊を行う“力”によって政治を変えることには、様々な危うさを抱いていると思います。
この先も混乱や争いが起こるかもしれません。そうすると、また同じようなことが起こるかもしれません。
国のなかにも、別の主張あり別の勢力があるものだと思います。
次はより多くの血が流れるかもしれません。