『人間の度量が狭くなっている』
そう感じることがあります。人間全体が、人として器が小さくなっているような気がするのです。
もしかしたら、大幅に度量が狭くなっているのかもしれません。
しかし多くの人は気づいていないのかもしれません。
何事も、自分ひとりだけではなく、みんなが変わっている状況では、変わっていることに気づきにくいものだと思います。
また何事も、少しずつ変わっている状況では、変わっていることに気づきにくいものだと思います。
人間全体の度量が狭くなり続けているのなら、その変化は気づかれにくいような気がします。
なんとなく変化を感じている人もいるかもしれませんが、感じているよりもずっと大きな幅で狭くなっているのかもしれません。
寛容さがなくなったとか、心の許容範囲が狭くなっただけでなく、もっと深い部分、つまり人間そのものの器が小さくなっているような感があります。
あくまでも感覚的なことですので、言葉で表現することが難しいのですが、持論に固執する傾向が強まり、他者に対する攻撃性が強まり、折れることや引き下がることに対する抵抗感が強まる傾向があるような気がします。
自我を守ろうとする意識が強まっているのかもしれません。
『自我を守るために自分に反するものを叩く。それも出来るだけ強く徹底的に。相手に与える打撃が大きいほど満足感が高くなる。相手が打ちひしがれることで、誇らしく感じることさえある。誰もがそんな傾向が強まっている。しかし誰もが自分ではそれに気づいていない。自我を守るための正当な行いであり、その行いを責められるいわれはないと思っている』
そのように感じることがあります。
端的に言葉にすると、「誰もが人間としての器が小さくなっていると感じる」となるような気がします。
時に相手を貶めることで、自分のほうが優っていると感じようとすることもあるような気がします。それが国民性になっていると感じられる国もあるような気がします。それは傍から見ると、あまりいい印象を受けないような気がします。同じように張り合ったのでは、似た者同士の争いに感じられることもあるような気がします。しかし度量が狭くなっていると、思考も行動も感情に支配され、冷静に策を練ることも講じることも出来ず、感情をぶつけるばかりいなり、そうすることでさらに感情を際限なく高ぶらせているように感じられます。
インターネットの普及は、人間の度量を狭くしている一因のような気がします。僕自身インターネットを毎日利用していますし、便利な面も多いと思っています。インターネットを“悪”だと決めつけるわけではないのですが、これだけ社会に浸透しているのですから、人間そのものに対して少なからぬ影響を及ばしているような気がします。
インターネットは一人だけの空間だと感じることがあります。大勢とつながっているように言われますが、パソコンであれ、スマートフォンであれ、一つの画面を見ているのは、ひとりだけである場合がほとんどだと思います。また、一つのパソコンや一つのスマートフォンを一人で操作しているものだと思います。
それは自我を強くし、それを守ろうとする心理を強めることになっているような気がします。自我を守るために、自分に反すると思しき事柄に反応しやすく、しかも“反する”と強く感じやすくなっていると感じます。
過剰反応といえる場合も多いような気がします。しかし自分を守るためには、すばやく“敵だ”と認識しなければなりません。また、攻撃性を強めなければなりません。そのために“敵を嫌う”心理を働かせるのかもしれません。それは本能的なことかもしれません。
しかもインターネットは多様な使い方がありながらも、何かを伝えるには非常に限られた手法が使われることが多い気がします。ただでさえ過剰反応しやすい道具であるのに、意思疎通の手法が単純すぎるため、攻撃性にも過剰反応にも拍車がかかるような気がします。
多くの人はそんなことを意識することなく、自分は正当だと主張し、他者に対する攻撃性を強めているように見られる時があります。
そのなかには、知性も理性も品性も感じられないものがあると思います。そのなかには一般的に文化的な活動と目されることをしている人によるやりとりもあります。
ただ、感じ方は人それぞれです。あくまでも個人的に感じていることです。
「粗にして野だが卑ではない」という言葉があります。
言葉は粗っぽく野蛮に聞こえるかもしれないが、間違ったことはいっていないという意味合いだと思います。話の内容は正論なのだから、言葉使いの荒さは大目に見てほしいといことでもあると思います。「粗であり、野である」ことを自ら改めることは出来ないと認めたうえで、「卑ではない」のならいいだろうと言っているようにも思えます。
以前ならそれでも受け入れらたような気がします。しかし上に書いたように、インターネットが浸透した現代社会では、言葉使いが非常に大きなものを担っているような気がします。そんな中では「卑ではない」ならば「粗にして野である」ことも許されるとはいえなくなっているような気がします。現代は「粗であること」「野であること」に、人の心は強く反応する社会だと感じられます。
そうなると、「粗にして野である」ことも“よからぬ”といえるかもしれません。少なくても、開き直るべきではないような気がします。それは双方、あるいは全体にとって、よくない影響を与えるばかりだと思います。
罵倒する言葉を多用し、他を攻撃する論調で持論を展開するのは、どのような論旨であれ、知性と理性と品性を感じられないことがあります。