「政策が政争の道具になっている」
何度となく見聞きしている言葉ですし、ここでも何度となく書いているような気がします。
そしてそれはこの国だけではないような気がします。ずっと前から、議会が二大政党制になっている大国でも、政策は政治家の争いの道具にされていると感じることがあります。
大国ですので、その政治対立は世界中に影響を及ぼす場合もあると思います。それなのに、政策を道具にして政治家が争っているようでは、世界中から批判する声があがることもあると思います。
それでも政治家は争いをやめられないこともあったような気がします。あのような混乱を何度も繰り返してしまうようでは、世界中から呆れられ、大国として存在感を薄くする要因になりかねないような気がします。
そうなると“世界中から批判の声があがる”ということも政治家の争いに使われ、混乱を回避したことそれ自体、政治家の争いだと感じることもあります。
政治家の対立が深まる背景に、二大政党制が時代にそぐわなくなっていることがあるような気がします。
二大政党制は、大きな二つの政党による一対一の対立構造が基本だと思います。
一対一ですので、対立軸は一本が基本だと思います。それはとても単純な構図だと感じられます。
かつてはその“単純な構図”が必要だったような気がします。単純な対立構造で、勢力が拮抗していれば、競う合うことでお互いに“よくなる”ことが期待出来ると思います。
しかし現在は社会そのものが多様になっていると感じます。利害関係、人間関係、あらゆる要素で、様々な対立があるものもだと思います。当然ですが、対立の数だけ、対立軸があることになると思います。
それを一本の対立軸にまとめるには無理があると思います。
しかし、数多くの対立軸を一本にまとめてしまうことが、二大政党制だといえるような気がします。
また今の社会は情報技術の発展もあり、誰もが自分の権利や利益や主張を守ろうとする意識を強めるばかりになっていると感じます。誰もが、半歩たりとも引き気にならず、ひたすら争いを続け、お互いに疲弊しているにも関わらず、それに気づくことすら出来なくなっているように見られます。絶対に引かないことが正しいことだと認識しているように感じられます。
そんな社会で二大政党制を固持すると、どこかで歪みが出てくるような気がします。
多様な対立軸を無理やり一本にするのですから、歪みが出るのはむしろ当然かもしれません。
“ねじれ”や、政党内対立、政党分裂、などは歪みの表れといえるかもしれません。
多様な社会では、主張が対立する政策が多いものだと思います。
主張が対立する政策は、政治家にとっては、“争いのネタ”にもってこいだと思います。
つまり現代社会は、政治家にとって“争いのネタ”に事欠かないといえるかもしれません。
“ネタ”があふれているのですから、政治家は政策を軽んじ、政争に明け暮れているのかもしれません。
そんな不毛な政治家の争いは、国力を落とすと感じられます。
それは大国でも、ここ数年のこの国にも感じられることだと思います。
そうなると、現在の社会では政策を重んじる政治が必要だと思います。
しかし多様化し続ける社会で、政治家の数を集めるには、政策を棚上げせざるを得ないと思います。
この国では、政権交代可能な野党を作るために、政策を軽んじて数だけを集めたために、政党内に権力争いの“ネタ”を抱えこんだように見られます。
多くの“ネタ”を抱えているのですから、政治家はいくらでも争いを起こしてしまうように見られます。
それが最悪のタイミングで、この国の政治を混乱させ、停滞させたと感じます。その中心にいた人物が、今もなお「政権交代可能な野党を作る」といっているのでは、懲りないというか、過去に学んでいないというか、現在も未来も見えていないと感じてしまいます。
社会の多様化は加速しながら進行していると感じます。
それでは、何度“再編”しても顔ぶれが変わるだけで、“やっていることは同じ”になってしまうような気がします。
実際、与党になろうが、再び野党になろうが、どれほど批判されようが、意思統一出来ない政党があるように見られます。
“政策を軽んじて数を集めても、結局こうなるだけだ”という見本として役に立つかもしれません。
多様化する社会で政策を重要視するには、対立軸を無理やり単純化しないことが必要だと思います。
政党の細分化というか、明確に政策を打ち出し意思統一された中小の政党が多くなるべきだと思います。
しかし、政治では数が即ち勢力であるという面がありますので、多党化を実践するのは難しいと思います。
そんななかで、政策を重んじるには、与野党に関わらず党議拘束をなくすべきだと思います。
今の政治において党議拘束は、政争のために政策を軽んじることだといえるかもしれません。今の政治において、それは批判されるべきことかもしれません。