多数決は集団における意思決定手段として有効だと思います。
ただ多数決は、話し合いで決まらない時の最終的な意思決定手段であるほうが望ましいような気がします。
つまり、あまり話し合いをしないまま多数決で決めてしまうことは、社会全体にとって良い方へ向かうとは限らないと思います。
そうはいうものの、ただ議論に時間をかければいいというわけではないと思います。
質の高い議論が必要だと思います。
議論には時間や回数も必要だと思いますが、それよりも高い質が求められると思います。
しかし、人類全体の傾向として、議論の質は下がり続けているような気がします。
誰もが持論に対する固執を強めるばかりになり、誰もが他論に対して攻撃性を強めるばかりになっていると感じることがあります。
しかも多数決に従わない傾向が強まっていると感じます。
それは議論の質が低いことが一因かもしれません。
ただ、議論の質が下がり多数決にも従わない、それは民主主義の質が低下しているといえるかもしれません。
しかし多くの人に、その認識はないと思います。
持論に固執し、他論を否定し、他者を攻撃する、そういう意識が強まっているときには、自己を顧みようという意思は湧きにくいものだと思います。
民主主義の質が低下していることが、今の人間社会の大きな問題なのかもしれません。
そして誰もそれに気づいていない。それ自体も大きな問題なのかもしれません。
多数決は民主的な決定方法だと思います。
ただし議論を蔑ろにし、安易に多数決で決めようとすることは芳しくないと思います。
それは多数決に従わない傾向を強めることに繋がるような気がします。
しかし近年は、議論に多くの時間を費やしても、多くの回数を重ねても、同じことを繰り返すばかりで何も進展しない、むしろ対立を深めるばかりになっている様子ばかりが目につくような気がします。
ところで民主的な社会体制の国では、政治家は多数決で選ばれると思います。
国のことを話し合う国民の代表者を、多数決で決めるといえるかもしれません。
そこで選ばれた代表者が議論をし、多数決を採って、国のことを決定するのだと思います。
それは、多数決で選ばれた国民の代表者による多数決、といえるかもしれません。
国民から見ると、間接的な多数決といえるかもしれません。
国のことを決めるとき、すべての国民で話しあうことは難しいと思います。ただ情報技術の発展により、昔より技術的な問題は小さくなったと感じます。
このまま情報技術が進歩し続ければ、いつの日かすべての国策は、有権者が直接議論をし、有権者が直接多数決を採ることも、技術的には可能になるかもしれません。
そこで浮かんでくる疑問があります。
“直接民主主義は、間接民主主義よりも民主的なのか?”
政治家は選挙という形の多数決で選ばれるのだと思います。 多くの場合、一回の選挙で政治家は選ばれます。
その一回の多数決で代表者に選ばれたからといって、なにをしてもいいというわけではないと思います。
多くの場合、政治家による多数決で国策が決まると思います。
多くの国民は、一回の投票で決まった政治家に、任期中のすべての国策の判断をその政治家に委ねたわけではないと思います。
また選挙で多数派になったからといって、すべての国策は多数派が決めていいと、国民が認めたわけではないと思います。
少数派の意見は切り捨て、多数派の意見を全面的に通すことが、社会にとっていいことかというと、そうではないと思います。
しかし多数決を最終的な意思決定手段とすることがルールになっているのなら、その決定は厳格に守られるべきだと思います。
そうなると、やはり重要なのは多数決を行う前の議論だと思います。
政治家が議論において、少数派の意見をどのように取り入れるかが大切だと思います。
選挙によって多数派になったとしても、それは何をしてもいいというお墨付きを与えたわけではないと思います。少数派の意見を切り捨て、多数派がやりたい放題になることは、社会全体にとって“よくない”ことだと思います。
今の人間社会における直接民主主義は、すなわち直接多数決だと思います。
民主主義における多数決は、最終的な意思決定の手段として有効なやり方だと思います。
多数決を最終的な意思決定手段とするなら、結果は厳格に守られるべきだと思います。
そうなると直接民主主義による直接多数決では、少数派を切り捨てることになると思います。
“直接民主主義は間接民主主義より民主的である”
それについては色々な考え方があると思います。
“直接民主主義は間接民主主義よりも社会全体のためになる”
今の人間社会では、必ずしもそうだとは言えないような気がします。