家の周りに、つくしが目立たなくなってきました。
つくしの子が恥ずかしげに顔を出していると思ったのは、つい最近のような気がします。
それがふと気づくと、随分長く伸びていました。
そしてもう、その姿は随分少なくなっています。
そういえば日差しが暖かい日が多くなってきました。
季節がめぐっていると感じます。
僕はいつも季節の一歩後ろにいるような気がします。いつも少し遅れて季節についていっているように感じるのです。
もしかしたら、季節を先取りする感覚をもったことなどないかもしれません。
それは、いつも季節にちょっとだけ置き去りにされているといえるかもしれません。
いつも季節が移り変わってから、それについていけてないことに気づき、ちょっと慌てて追いつこうとしているような気がするのです。
特に春はその感覚が強いような気がします。それと秋の終わりです。
それは冬が強い季節だからだろうと思います。
強い季節だから、体も心も身構える必要があり、実際冬には体も心も常に身構えているような気がします。
ただ秋の終わりにも、寒い日があります。冬ほど気温が下がるわけではありません。それは、体で感じとることが出来ます。
でも、僕はあの秋の終わりの寒さが苦手というか嫌いというか、抵抗感のようなものがあるというか、言葉では表現しにくい嫌な感覚を抱くのです。
『真冬ほど寒くないのに、寒さが身に染みる』
体と心がそれに納得していないような感覚があるのです。
体も心もまだ寒さに対して身構えていないのに寒くなるから、そのように感じるのかもしれません。
『まだ冬じゃないのに、寒くなるのが嫌だ』
『こんな冷たい雨より、雪のほうがずっといい』
何度かそんなことを書いているような気がします。
ただ考えてみると、それは僕が季節についていけないのだろうと思えてきます。
秋の終わりの寒さに、体と心が身構えられないということです。
そしてこの辺りの秋の終わりは短く、慌てて身構えようとしているうちに冬になっているのだろうと思います。
体と心は“秋の寒さ”に備えそびれたまま、“冬の寒さ”に身構える、毎年それを繰り返しているような気がします。
そして春になっても、体と心は寒さに身構えたままだと感じます。
それは冬という季節は存在感が強いからかもしれません。
冬の寒さが強いため、それに対する身構えも強くて、暖かくなってもなかなかその構えを解こうとしないのかもしれません。
しかしそんな僕にはお構いなしに季節は移ろっていくものです。
体と心が冬の寒さに身構えたまま、季節はすっかり春になっている、そんな状態になっているような気がします。
そして、どことなくさみしさのようなものを感じます。
この辺りの冬は存在感が強いと思います。
存在感の強いものが過ぎていくとき、それがたとえ厳しいものだったとしても、どこか名残惜しいような気持ちになることがあると思います。
冬の場合、強い寒さに体と心が身構えているのに、もうそれが必要ないのだなと感じているのだと思います。それは名残惜しさに近い感覚なのかもしれません。
春が来たことを感じることは、冬が去ったことを感じることでもあると思います。
だから、なんとなく置き去りにされたような気になるのかもしれません。
家の周りにつくしは少なくなってきました。そこで今朝、まだ残っている何本かのつくしをよく見てみました。
背が高く伸びていますが、全体に細くなっているように見えます。そして全体的にみずみずしさがなくなっていると感じます。
また、頭というか胞子を蓄えていた部分が折れているものが何本かありました。
それらを眺めていると、つくしの季節がもう終わりなのだと改めて思わされます。
そして、やっぱり僕は季節に一歩遅れてついていっているような気がしました。
そんなことを考えていると、タンポポが黄色い花を咲かせていました。
タンポポの花がいつごろ咲くのか、今まで特に気にしていたことありませんでした。この辺りではつくしと入れ替わるように、タンポポは花を咲かせるのかもしれません。
つくしの季節が過ぎて、タンポポの季節が訪れたということです。
ところで、以前書いたことがありますが、タンポポもつくしも食べられると聞いたことがあります。ただ僕はどちらも食べたことがありません。
そこでインターネットで検索してみました。どちらも検索結果の最上位には、一般の人が調理した料理の写真と、その調理法を投稿するサイトが表示されました。
開いてみると、つくしもタンポポも非常にたくさん投稿されていました。
様々な調理法があることに驚きましたし、タンポポやつくしを使って料理をつくった人が多いことも意外でした。
そのいくつか見ると、どれもとても美味しそうだと感じます。もしかしたら、季節の野草を食すると、少しは季節についていけるようになるかもしれません。