2014年4月5日土曜日

失敗の質


今の日本では、消費税の増税について「やっぱりやめます」という選択肢をとることは非常に難しいと思います。

ここで「やっぱりやめます」となった場合、次に増税することが相当に難しくなると思います。

増税しなくても日本という国がやっていけるのならば、何も問題はないと思います。一納税者として、税金が上がらないのは大歓迎です。

しかし、「どう考えても、とてもじゃないが、ここままでは、この国はやっていけなくなる」と考えられたから、消費税を上げることが決まったのだと思います。

 

景気が良くなれば、消費税を上げなくてもやっていけるかもしれません。しかし確実に景気がよくなるという保証はありません。景気が悪くなる可能性が0%になることもあり得ないことだと思います。

景気がよくなることを前提とした政策を打つことは、移ろいやすい今の世界において、あまりにも楽観的であり、危険性が高いと思います。

 

日本は政治的にみると、消費税の導入や増税がとてもやりにくい風潮があると思います。

それでもなんとか消費税の税率をあげることが決まったのは、そうしなければ国はやっていけないという危機意識が広がってきたからだと思います。

また、与党の支持率が低かったため、政権政党に泥をかぶせること形にすることが出来たことも理由の一つだと思います。与党の人気が高い時は、それが落ちることにおびえて、消費税の税率をあげるなど、なかなかやりたがらないと思います。

 

そう考えると、せっかく消費税を上げることが決まったのですから、それを蒸し返すことは政治的戦略性からみると、賢明とはいえないと思います。

景気動向をみて増税見送りの余地を残すのは、法として真っ当なことだと思います。ただこの法では、[原則的に実施するが、“余程のこと”があった場合、見送ることもあり得る]という扱いにするべきだったと思います。

“余程のこと”は、リーマンショックや巨大災害など、事前に予測することが難しく、経済に対して大きな影響が避けられない事態です。

 

 そのような“余程のこと”がない限り、増税を実施すると決めて、それに向けて準備していくべきだったと思います。

 増税は決定しているのだから、どのような経済状況であれ、『いかにして増税を乗り切るか』、政治家も企業も消費者も、そういう意識をもつようにするべきだったような気がします。

上に書いたように、今の日本で本当に増税を見送る選択肢をとることは難しいと思われるからです。

 

それなのに『もしかしたら増税はしないかもしれない』という意識を国民に持たせるような進め方は、政治的にみると失敗だと感じます。

『“私”が最終的に判断する』ということは、政治的に失敗したのは“私”だということになるかもしれません。

 

 増税しなくても済むのならいいのですが、今回8%に増税しても、持続的な社会保障の仕組みつくりが出来たとはいえないような気がします。それに国の財政が健全化に向かっているとも感じられません。

それには、能天気だという印象を受ける政治家が大勢いるからかもしれません。

10%に消費税の税率をあげても、足りないという意見も多く耳にします。

少子高齢化や人口減少など、かつては考えられていなかった状況になっているのですから、色々と変えていかなければならないと思います。

 

次に10%にあげる決断をすることは、8%にあげる決断をするより、ずっと難しいと思います。

8%に増税したことで、一旦景気は落ち込むでしょうから、もしそれが長引いてしまうと、次の増税を決断するわけにはいかなくなるかもしれません。しかし「やっぱりやめます」という選択肢をとることは、日本の先行きを危うくするかもしれません。

せめて8%に増税することを確定したときに、10%まで二段階の増税を決めてしまったほうがよかったような気がします。二段階を一連の増税として対応するよう働きかけていたほうがよかったような気がします。

そうしておけば、より難しい二段階目の決断をせずに済んだものを、という気がします。

 

最近、大臣任命権を使って、党内をまとめようとしているなどという声を耳にします。それは“私”がもっている“力”を使うやり方だと思います。それも政治のやり方だと思います。ただ、その“力”を使った後で、不満や反感をもつ者が出るものだと思います。仲良しばかりを集めると、不満や反感が強まるかもしれません。いくらバランスを取ろうとしても、“あぶれた”と感じる者はいるものだと思います。ただ日本の政治家は人気者にはいくらでもすり寄り、ぶらさがろうとする印象があります。“私”の人気が高ければ、不満を抑える者もいるかもしれません。しかし大臣任命権を使った後で、消費税をさらにあげる難しい決断をしなければないような気がします。上げるにしても、上げないにしても、反対意見があがるかもしれません。場合によっては人気に陰りが出るかもしれません。そこで不満が爆発するかもしれません。

そのような視点においても『“私”が最終的に決断する』というやり方は政治的に失敗だったと思います。その“失敗の質”が、いかにも“おぼっちゃんらしい”と感じることがあります。