2014年4月14日月曜日

最後の手段


“多数決は少数派を切り捨てるやり方だ”

その側面はあると思います。むしろその通りだという気がします。

“少数派を切り捨てるのは、社会全体のためになるとはいえない”

 そういう場合も少なくないと思います。むしろそういう場合のほうがずっと多いような気がします。

“では多数決は社会全体のためにならないのか?”

 そうとは言い切れないと思います。むしろ社会全体のためになる場合のほうがずっと多いような気がします。

また多くの人が、多数決は民主的な決め方だと思っていると感じます。

 

社会には、複雑で多様な利害関係や人間関係などがあふれていると思います。

その関係のなかには対立することも多いと思います。社会には無数の対立があふれているといえるかもしれません。

無数の対立があるということは、すべての人の意見を取り入れることは出来ないということになると思います。

誰かの意見が採用され、誰かの意見は取り入れなれない、社会にはどうしてもそういうことが起こり得ると思います。

実際そのようなことは、日常的に起きているものだと思います。

 

では誰の意見を採用するのか、決める方法が必要だと思います。

その方法の一つが多数決だと思います。そして多数決は民主的な決め方だと思います。

だから人類は長い間、多数決を集団における意思決定手段として使ってきたと思います。

ただ多数決は、原則的に多数派の意見が採用され、少数派の意見は取り入れなれないものだと思います。

民主主義は、すべての意見が取り入れられる仕組みではないといえるかもしれません。

 

しかし少数派の意見を問答無用で切り捨てることは、社会全体にとってよくない場合が多いと思います。

少数派の意見であっても取り入れることや汲み取ることが、社会には必要だと思います。

ただそうはいうものの、多数決ではそうはなりません。

 民主主義には、多数決ではないやり方が必要なのだと思います。

 

 多数決はあくまでも、最終的な集団における意思決定手段だと思います。

 多数決をしなくても、決定できればそれに越したことはないと思います。

 多数決ではない決定手段も色々とあると思いますが、民主的なやり方は“話し合い”だと思います。

 議論によって集団の意思決定が出来るのならば、多数決をとる必要はないと思います。

 しかしそうなることは少ないと思います。

 いくら議論しても、決まらない場合のほうが多いと思います。

 それが全体にとってよくないことを招くことが多いと思います。

前政権政党は、同じ内容の言い争いを何回も繰り返し、何時間も同じ内容の議論を続け、それでも決定出来ず、いい争いを繰り返すことそれ自体と、いつまでも決定出来ないことそれ自体が、党内対立を深める要因となり、それが国の停滞の一因になっていたと感じます。

 

社会では、どれだけ議論しても話し合いだけでは決まらないことはあると思います。

議論だけで決定できるほうが稀だと思います。

そうなると、議論を尽くし最後に決定する手段が必要だと思います。

それが多数決だと思います。

議論をつくし、最終的に多数決で決定する、それをルールとしている集団において、多数決の決定に従わないというのは、まるで幼児が駄々をこねているように見えますし、集団のルールに従わないというのであれば、その集団から出ていくべきだと感じられます。

 

ただ、多数決はあくまでも最終的意思決定手段だと思います。

少数派の意見をいかにして反映させるか、それは多数決を採る前、議論の段階でなされるべきだと思います。

そこでなければ、少数派の意見を汲み取ることは出来ないと思います。

多数決は多数派の意見を採用し、少数派の意見は採用しない決め方だと思うからです。

 

少数派の意見をすべて切り捨てる、それは社会全体のためにはならないと思います。

 議論の段階で、多数派は少数派の意見をいかにして、まだどのように取りいれるかが重要だと思います。

 そう考えると、多数決も大事ですが、それ以上に議論が大切だという気がします。

議論の質を高めることが、社会をよくすることに大きく貢献するような気がします。

しかし近年、議論の質は、どんどん落ちていくばかりのような気がします。

利害関係も人間関係もどんどん複雑になっているのに、人は誰も自分の意見に固執するようになり、他論や他者に対して攻撃性を強める傾向があるような気がします。

 

多数決はとても単純なやり方だと思います。

それだけに最終的な決定手段として有効だと思います。

ただ多数決は単純なやり方であるがゆえに、議論の質を高める必要があると思います。