2014年4月8日火曜日

敵を設定する


自分の国を愛するということは、自分自身を愛することなのかもしれません。

“自分に対する愛”は“自我を守ろうとする感情”といえるかもしれません。

「自我」を国語辞典で調べてみました。いつくかの意味が書かれていますが、最初にあるのは「自分に執着する気持ち」です。

 最後に書かれているのが、「自分に対する認識」です。

 

自我とは、自分が存在していることに執着ことであり、自分が自分であると認識すること、といえるかもしれません。

 そのような気持ちには、自己肯定や自己弁護が含まれているような気がします。それらが即ち自分を守る気持ちといえるかもしれません。

“自我を守る”とは、“自分を守ろうとする意識を持ち続けようとすること”といえるかもしれません。

 それが、自分の国を愛することなのかもしれません。

 

 何かを守ろうとするには、それを冒すものや、それを奪うもの、がいるからだと思います。

 またそれらがいなくても、冒されるかもしれない、奪われるかもしれない、という不安から、守ろうとする意識が芽生えることもあると思います。

 ただ人は、存在を認知できないものに不安を感じるものだと思います。

 冒されるかもしれない、奪われるかもしれない、という漠とした不安は、それが漠としているがゆえに大きくなることがあると思います。

 不安が大きくなると、守ろうとする意識が強まることもあると思います。

 

 それにしても守ろうとする意識が強まるばかりでは、どことなく気持ちに収まりの悪さのようなものを感じるかもしれません。

 敵が必要だと思います。

 守ろうとする意識は、敵がいたほうが“収まりがいい”そんな気がします。

 そこで人は、敵を設定しようとすることがあるのかもしれません。

“漠とした不安から自我を守る”というどこか収まりの悪い意識に、明確な敵を設定することで、自分で自分の意識をよりわかりやすくしようとするのかもしれません。

 インターネットの中で諍いがおこり、それが大勢を巻き込んでどんどん膨らんでいくのは、多くの人が敵を設定することで起きるのかもしれません。

 

 インターネットは自分ひとりの世界だと感じることがあります。時に、多くの人とつながっているからこそ、自我が強くなるのではないかと感じることもあります。

 自我が強くなるから、それを守る意識が強くなるのかもしれません。

 自我を守る意識が強くなることで、敵を設定しようとするのかもしれません。

 多くの人はそんな自覚はないと思います。

 あくまでも自分は正当であり、向こうが間違っており、だから自分にとって敵であると認識しているものだと思います。

 そして自我を守るために、敵を徹底的に叩こうとするのかもしれません。

 

 ただ“敵を設定する”心理は、インターネットがこの世に現れるずっとまえから人間の内面にあったと思います。

ずっと昔から人間はいろいろな状況で、敵を見つけたり、敵を作り出したり、敵に決めつけたりしてきたと思います。

 そしてそれは、国が行うことも少なくなかったと思います。今現在でも、それを行う国があると感じることがあります。

 そして教育をその手段の一つにしている国があるかもしれません。

 国が、教育という手段を用いて、他の国を敵とみなすよう、国民に対して働きかけているということです。

 国民ひとりひとりの内面に“敵を設定する”心理があり、それを他国に向けさせることで国民の意識をまとめようという思惑があるのかもしれません。

また、他国を敵に設定することで、その国の体制や政治家に対する反発が起きないようにしようという思惑もあるのかもしれません。

 

 しかしそのようなやり方をよく思わない人は、世界中に大勢いると思います。そのようなやり方は、国民の意識を操っていると感じる人もいると思います。 

また、他国に対する敵愾心を植え付けるということは、争いの種を植え付けていると感じる人もいると思います。

社会が成熟した国ほど、そのようなやり方を快く感じない人が多い印象があります。民主主義が根付いている国ほど、そのようなやり方に反対する人が多いと感じます。

しかし、そのようなやり方をしている国があると知らない人もいるような気がします。知らないまま、その国の主張を耳にしている人もいるかもしれません。

 もしそうなら、長い間教育という手段を用いて他国を敵視することを国が進めてきたことを、世界中に知らしめるというやり方もあるかもしれません。

 

しかし、同じようなやり方で対抗したがっている人がいるような気がします。

 同じようなやり方で対抗しよういうのは子供っぽい発想だと感じます。

 子供っぽい発想は、子供っぽい争いを生むものだと思います。子供っぽい争いなど誰も関わりたくないものだと思います。

 

 人間は自我を守ろうとするものだと思います。生きていくために自己弁護や自己肯定は必要だと思います。

生物は先天的に自分を愛するものなのかもしれません。

後天的に学び身に着けなければならないのは、客観的なものの見方や考え方、冷静に状況を認識する能力などかもしれません。