2014年4月7日月曜日

めでたしめでたし


 何年か前に「二年間のバカンス」を読み返しました。

「十五少年漂流記」という題名のほうが知られているような気がしますが、ジュール・ヴェルヌの小説です。

 その本は小学生のころの大人からもらったものです。その大人が子供だったころに読んだ本でした。

そのため、現在からみると随分古い本です。字体からも挿絵からも装丁からも匂いからも、時代が感じられます。

 

 子供のころ、図書館には子供向けの書籍に「十五少年漂流記」があったような気がします。でも読んだことはありませんし、記憶も定かではありません。

 僕がもっている本は挿絵がありますし、児童向け文学と銘打たれていますが、文字の大きさや、文字数、本の厚さなどから、小学生高学年以上を対象にしていると感じます。

 数年前、数十年ぶりに、この作品を読んでみました。

“本”という“もの”自体もそうですが、物語の内容からも時代を感じました。

 

 そして、『今だったらこのような描写は出来ないじゃないのかな』とか『今書店にならんでいるには、この場面はないんじゃないかな』とか『新しい本は、設定を変えているのかもしれないな』などと思いました。

 また、『図書館にあるような子供向けの書籍も、文章が読みやすくなっているだけじゃなくて、設定や展開が変わっているじゃないかな』と思いました。

 

 どのような媒体で表現されていようと、物語は時代とともに変わっていくものだと思います。表現の仕方、描写の仕方、物語の展開などには、時代背景が関わっているものだと思います。

 その時代における倫理観や社会通念などは、“つくり手”と“受け手”の感性にも影響を及ぼすものだと思います。

 その時代によって、社会が受け入れる範囲なども変わるものだと思います。

 

 テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が放送されたのは、僕が子供のころでした。

それから何度も再放送されていますが、20歳代のころにそれをVHSビデオで録画しました。

 今そのビデオを見ると、ところどころ台詞が途切れるのです。文脈から途切れている部分の語彙を察すると、おそらく放送禁止用語なのだろうと思われます。

 つまり本放送の時には、子供向けアニメ「アルプスの少女ハイジ」でも当たり前のように使われていた言葉が、再放送時には放送禁止用語になったため、その部分だけ台詞が途切れるのだろうと思います。

 

 話を戻しますが、先日書店で「十五少年漂流記」の文庫本が目に入りました。ふと『そういえば、僕がもっている本と内容が変わっているのだろうか』と思って手に取ってみました。

 ざっとめくってみた程度ですが、文章や文体も、物語の内容や描写も、僕の本と変わっていないように感じました。

違っているのは、字体と挿絵と装丁と匂いだけで、書かれている内容は同じだと感じたのです。

『今の時代では、この場面は受け入れられいのではないだろうか』と思った部分も、そのままありました。なんとなくほっとしました。

 

 もしかしたら、現代の社会に受け入れられやすいように内容を変えたほうが、初めて読んだ人の印象や評価がよくなるかもしれません。

 個人的に、そのような作品があってもいいと思います。しかしその前提条件として、元のままの作品も、残し続けて欲しいと思います。

 

 少し前から、昔ばなしの内容が変えられることがあるということが、時々耳に入ってきます。

「さるかに合戦」には、残酷な部分があるので、幼稚園で読み聞かせるときや、お遊戯では、物語の内容を変えているなどと、聞いたことがあります。

 その話を聞いたとき、抵抗感のようなものを覚えました。綺麗であたりさわりのないものばかりを与えることが、子供の成長にとっていいことなのだろうかという思いが、その抵抗感になったような気がします。

 ただ今考えてみると、自分が親しんできた物語に対する愛着のような気持ちもあるような気がします。それが変えられることに対する抵抗感が混じっていたように感じるのです。

 

 作者が作った物語は、たとえ時代が変わってもそのまま残していくべきだと思います。ただ、時代にあわせて内容を変えたものが併在してもいいような気がします。

 それに対して昔話や民話などは、もともと時代背景に合わせて変わり続けているものかもしれません。

 昔ばなしのなかには、もとの形を明確にしめすことが出来ないものも少なくないような気がします。原典と思しきものがいくつかある昔ばなしや、複数の民話が組み合わさったと考えられるもの童話もあるかもしれません。

 そういえば、同じ年齢の友人と昔ばなしについて話すと、細かい点が違っていることがあります。

 

さらに現代ではメディアが多様化し、昔ばなしとの接しかたも、色々とあるような気がします。同じ昔ばなしでも、メディアによって表現の仕方は違うものだと思います。

このように考えていると、多様性があるのが、昔ばなしの本来の姿かもしれません。