2014年11月13日木曜日

決断することの投げ出し

「消費税は鬼門だ」
 そのような言葉を見聞きすることがあります。
過去に消費税の導入や税率引き上げを決定した政権は、大きな痛手を負ったと多くの人が感じているのだと思います。

消費税の導入や税率引き上げは、経済に大きな影響を及ぼすと思います。必然的に政治にも大きな影響があると思います。
しかし経済や政治は、消費税の他にも、色々な要素が関わるものだと思います。
消費税を導入した時も、3%から5%に税率を上げた時も、消費税以外の要素が経済には関わっていたと思います。
ただ確かに消費税導入や税率引き上げは、大きな要素だと思います。また、多くの人が実感できる要素だと思います。
それだけに、政治家も国民も“消費税のせい”という印象を強めたように感じます。
消費税に対する意識が、とても強くなった感があるのです。

国民は、消費税の増税に反対したくなる心理を強めた感があります。
国民に消費税に反対する意識が強まると、政治家は消費税の増税を避ける心理を強めると思います。
“消費税の増税を決めた政治家は、政治的に損をする”
国民にも政治家にも、そのような印象を根付かせたと感じます。
それでは政治家は、消費税の増税をやりたがらないと思います。
そして日本は、消費税を重くすることが非常に難しい国になったと感じます。

しかし、出来るだけ印象や感情に引かれないように思考すれば、この国では消費税の税率引き上げは避けられないことだと思います。
“消費税の増税はやらなければならない”
それは多くの人が考えていることだと思います。
そうなると、“いつ、どのようにやるか”、それを考えなければならないと思います。

上に書いたように、この国では政治家が消費税の増税を決めること、それが非常に難しいと思います。消費税の増税に関しては、多くの意見があり、考え方が対立すると思います。
 そんな意見対立を経て、少し前に当時5%だった消費税の税率を、二段階で10%に引き上げることが決まったのだと思います。

しかし、決めることが難しいことを決めたのに、事実上それを帳消しにする形になったと感じます。
首相が決断するという形になっているからです。
一回でも決めることが難しいことなのに、改めて二回も決めなければならない形にしたと感じます。
そうなると、決める難しさは回を重ねるほどに増幅すると思います。
その都度、賛成、反対、意見の対立を掻き立てることになり、それが消費税の増税というただでさえ難しい政策の実行を、より難しくした感があります。
また決めた者の“責任”も増幅すると思います。
しかし増幅する責任を負う必要はなかったと思います。別の進め方があったと思います。

しかも経済などの状況によっては、意見対立が激化すると思います。
そして意見が対立することで、決めることがさらに格段に難しくなると思います。
今まさにそのようになっていると感じます。
それは首相が招いた事態だと思います。
首相は、決めることが難しいことを他の人が決めたのに、それをわざわざ帳消しにして、「私が決断する」という形にした感があります。

首相は国民に“いいこと”を言いたかったように見られます。
消費税の増税は、国民の抵抗感が強い政策ですので、それはまだ決定したわけではないと言っておきたかったような気がします。
また“決断する”という権限を首相自身にもってくることで、権力者であることを感じたい心理が働いたように感じられます。
それによって、消費税の増税は議会で決定しているのに、事実上まだ決まっていないという形になったと見られます。
またそういう形になったことで、決断が難しくなったように見えます。
つまり首相は、わざわざ自分を苦しめる状況を、自分自身で作ったといえるかもしれません。
消費税は5%から8%に引き上げることは決まり、実行されました。
10%への引き上げは、まだ決まっていないと思います。

首相自身の政治家としての戦略から見ても、大失敗だったと思います。
消費税の税率をあげるという、日本にとって非常に難しい政策の進め方としても、大失敗だと思います。
それは先見性のなさや、洞察力の乏しさの表れともいえるような気がします。

 ここ数日、「消費税の増税を先送りして衆議院を解散し、選挙で国民の信を問う」という言葉を見聞きします。
 消費税の増税は国会で決まったことです。
それを「決断は私がする」という形にしたのは、首相自身だと思います。
その決断をしておいて“国民に信を問う”というのは、成り立たないというか、おかしいというか、すんなりとは受け入れられないものがあるような気がします。
それは首相が“決断すること”を投げだすことだと感じます。
あるいは首相が“決断した責任”を投げ出すことだと感じます。

そういえば前回首相をやめたときは、病気が理由だったにも関わらず、多くの人が“投げ出した”という印象を受けていたように感じます。