2014年11月8日土曜日

自我とインターネット

インターネットは、数十年前には市民の手には無かったものだと思います。
改めて、非常に急速に普及したものだと感じます。
かつて無かったものが、短期間で非常に広く使われるようになった。そうなるとそれは、人間の心理に何かしらの影響を及ぼしていると思います。
人間の心理が変化しているということです。
しかし心理の変化は、自覚されないことが多いと思います。

人間は様々な意思疎通の方法を持っていると思います。
パソコンやスマートフォンの画面に表示された文字のみを使う意思疎通も、その一つだと思います。
しかしそれは、様々な意思疎通法の、ごく一部だけを使っているように思います。
それでは十分な意思疎通は難しいと思います。
しかしそれにも関わらず、相当に普及していると思います。
そうなると、人間はあえて不十分な意思疎通法を使っているのだと考えられます。
“現代人は不十分な意思疎通法を好んでいる”
そうなのかしれません。

そしてそれは、人間はかねてから、他者との付き合いに負担を感じていたり、煩わしいと思っていたりしていた、からかもしれません。
他者と深いコミュニケーションを取るには、どうしても自我の抑制が求められると思います。
もちろん個人差がありますが、一般的な社会生活を送っている人は、他者を一切顧みず、何もかも自分の好き放題、やりたい放題に出来ることなど、まずないと思います。
誰もが何かしら自我を抑制して、社会生活を送っていると思います。
ただそれが窮屈であり、煩わしいと感じることもあるような気がします。

しかし、負担であり煩わしくもありながらも、『一人は嫌だ。誰かと常に繋がっていなければ不安だ』と感じているような気がします。
人間は、パソコンや携帯電話に表示した文字だけによるコミュニケーションを手にしたことで、他者と常に繋がることが出来るようになったと思います。
そして繋がりながらも、深いコミュニケーションをとる必要がなくなったような気がします。
それはまさに、現代人が望んでいた“他者との繋がり方”だったのかもしれません。

ただ、文字だけによる意思疎通法を手にしたことで、人間は他者との深い繋がりを求める意識が薄らいだよう感じられます。
また、深い繋がりを求めないことが、文字のみによるコミュニケーションを、さらに普及させたような気がします。

 ところで、パソコンやスマートフォンの画面を見ている人は、非常に集中していることが多いと思います。
 傍目には、周囲の状況に全く意識が向けられていないと見えることが多いと思います。
“周囲に意識が向けられていない”それは、自分一人の空間にいるような認識に似ていると思います。
 人間はパソコンやスマートフォンの画面に集中しているとき、意識は自分だけの空間にいるような状態になっているような気がします。

 液晶画面には、集中させること、また集中しなければならないことが表示されているのだと思います。
 それは、人間関係など社会性において重要なことがあると思います。
 また画面それ自体に、人を集中させる要素があるような気がします。
小さな画面を通じて、大きな情報を得ようとしているからかもしれません。
また小さな画面を通じて、他者との関係を保とうとしているからかもしれません。
また小さな画面を通じて、他者との関係を築こうとしているからかもしれません。

“人間は自分一人の空間で、他者と関わっている”
 自覚は出来ないものの、意識はそのようになっているような気がします。
そしてそれは、“自分一人で他者と対峙している”という感覚に通ずると思います。
そして画面の向こうには、複数の他者がいる場合も多いと思います。
“自分一人の空間で、複数の他者に対峙している”
 それは、自我を強めさせる心理に繋がると思います。
 
 自我が強まれば、自然にそれを守ろうという意識が強まると思います。
 そして自我を守るには、“敵”と戦わなければならないという意識が強まると思います。
 そうなると、まず出来るだけ早く“敵”を見つけなければならないという意識が強まると思います。
 また出来るだけ早く、『こいつは敵だ』と認識しなければならないという心理を持つようになると思います。
 そして“敵”を認識したら、最大限の攻撃を加えようという心理を抱くと思います。
 そして“敵”は徹底的に叩き潰さなければならないという意識が芽生えると思います。
 しかし、そのような意識は、ほとんどの人は自覚できないものだと思います。

“自我を守るために、すばやく敵を捉え、徹底的に叩かなければならならない”
考えてみると、液晶画面の文字だけで行う意思疎通は、不十分なコミュニケーション方法だと思います。
そのため、齟齬が生まれやすいような気がします。
その齟齬によって“敵”だと認識することも多いと思います。自我を守るために、早く”敵”だと決めつけようとするからです。

そして人は、誰かの“敵”になることを強く恐れるようになったと感じます。
誰かに“敵”だと見なされた途端、総攻撃を受ける、インターネットのなかでは、それが日常的に起きるようになったように見られます。
それは、いじめの構図に近いと思います。

誰かの“敵”にならないように意識しながら、自分の“敵”を素早く認識し、徹底的に叩く、現代人に見られる心理的な傾向だと感じます。